「汝の隣人を愛せ」

 遠い遠い昔。遠い遠い世界で、そんな言葉が教えとしてあったらしい。
 その言葉が残されてから、果たしてどのくらいの時間が流れてしまったのか。かつて未曾有の混乱を経験したこの世界においては、それは明確ではなかった。しかし、それでも、この世界の人々はその言葉がとても大切な言葉だと理解している。あるいは、かつての世界の人々よりも深く、その言葉に切実な共感を抱いているのかも知れない。

 まあ、「この世界の人々」と「かつての世界の人々」とでは、その言葉に対する理解には、多大な隔たりがある可能性は否定できず、それ故に比較は簡単ではないのだが。
 それをふまえてなお、誤解を恐れずに言うのなら、この世界の人々のその言葉に対する理解は、多分に切実であり、そして……即物的であるのかも知れない。

 なにしろ。

「ハーレムって、大変そうだよね」

 そんな言葉が朝の食卓で何気なく口にされるぐらいには、この世界は、かつての世界からは、おかしな方向に変ってしまっていたのだから。


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  魔法使いたちの憂鬱


       第一話 ある兄妹の朝の光景。

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1.

「ハーレムって、大変そうだよね」
「……そりゃまあ、大変だろうけど」
 唐突な問い掛けに曖昧に応えながら、俺はトーストにバターを塗る手を止めた。パンとサラダと卵焼きというオーソドックスな朝食が並べられたテーブル。そこに俺と向かいあって座る妹は、まだ眠気がとれないのか、トーストを手に取ったまま、ふらりふらり、と左右に船を漕いでいる。

「綾。ちゃんと起きろ。パン、落としそうだぞ、お前」
「んー。大変なんだよー。世知辛いよねー」
 果たして俺の声が届いているのか、居ないのか。我が妹は、兄の注意を無視したまま、ゆらゆらと揺れながらハーレムの苦労を訴え続ける。どうやら ハーレムが大変そう、なんていう唐突な発言は俺の聞き間違いでは無かったらしい。兄として妹の思考過程に軽い目眩を覚えつつ、俺は綾に言葉を返す。

「……まあ、ハーレムが世知辛いのとは違う気がするけどな。というか、人の話を聞けって。ああ、ほら、ジャムが制服に付くだろ。起きろって」
 妹の揺れの方角が左右から前後に変化してきたので、俺は慌てて椅子を立ち、手を伸ばして綾の頭を軽くはたいた。

「痛」
「起きたか?」
「眠いー」
「もう一回、顔洗ってこいよ」
「んー、大丈夫。ということで、ハーレムは大変です」
 大丈夫な人は、朝っぱらからハーレムの話なんてしない。内心でそう突っ込んでから、俺はまだ眠りの園に片足を突っ込んでいるらしい妹の頭をもう一度ゆする。

「うー。もう、起きてるってばー」
「そう言う台詞は、ちゃんと目を開けてから言えよ」
 神崎綾。我が妹ながら歴とした優等生なのだが、寝起きの悪さだけはどうにもならないらしい。普段の涼やかな表情とはうって変わって、目は半分閉じたままのその姿には爽やかさの欠片もなかった。

「それより、ハーレムは大変だよね?」
「……何がお前をその単語にかき立てるのか、兄はとても心配なんだけど……大体、『大変、大変』って、お前に実感なんてないだろう?」
 別にハーレムという言葉は珍しいわけでもなく、日常的に冗談半分に使われることは多い。だけど実際の所、「本当のハーレム」をなんてものを形作っている人なんて稀なのだ。一夫多妻もしくは多夫一妻は制度として認められてはいるけれど、正式に認可されるにはクリアしなくてはならない条件が多すぎる。その一つが年齢制約。俺も綾も、まだ高等部の学生なんだから、ハーレムなんか持てるはずもない。
 当然の事ながら、妹がハーレムの主であるという事実はなくて、ついでに言えば誰かのハーレムの構成員ということもない。というか、ハーレム云々以前に、綾には彼氏もいなかったハズだ。そんな俺の指摘に、「そうなんだけどね」とあっさりと頷きながら、綾はトーストにかじりつく。

「うーん」
 はもはも、とでも描写すればいいのだろうか。もの凄く気だるげに、かつ、もの凄く眠たげに食パンの端を囓っていたかと思うと、綾は、ぱたりと机に突っ伏した。

「あふ。むにゃ」
「ああ、こら。だから、喰いながら寝るな」
 あまりの行儀の悪さに再度目眩を覚えつつ、俺は再び腰を上げて綾の頭をはたく。

「うー。ひどい」
「ひどくない。何度も言っても聞き分けのないお前のが悪いの。ほら、顔あげろ」
 とそこまで言って、ようやく俺は違和感に気付いた。綾の寝起きが悪いことは、いつものことではあるけれど、ここまで眠そうなのは珍しい。あげく食事中に机に突っ伏すなんてこと、やったことは無かった……もとい、滅多になかった。そこまで思い当たって、俺は迂闊さに舌打ちしながら、椅子から立ち上がり綾の隣に歩み寄る。

「綾」
「んー?」
「調子、悪いのか?」
「んー……どうだろ」
 問い掛けに応える声は、さっきまでの呆けた様子から少し真摯さが混じった響きに変る。どうやら本当に調子が悪いらしい。そう判断して、俺は綾の傍で腰をかがめて、その顔を覗き込んだ。

「綾。眼、見せて」
「ん……」
 俺の呼び掛けに顔をあげた綾の瞳。その眼差しは、僅かに期待が籠もったような光と、そして赤い熱を帯びていた。
 瞳が仄かに朱に染まる。それは綾の場合においては、『体内魔力』の軽い欠乏を示す兆候(サイン)だ。

「やっぱり、もう足んないのか?」
「……足んない。成長期だもん、わたし」
 僅かな逡巡の後、綾は拗ねたような照れたような返事を返す。それに、「それは結構なことです」と小さくわらって、俺は妹の額に軽く手を当てた。熱い……とはっきりとわかるほど、ではないが、平熱と比べると僅かに熱がある気もする。

 なら、『交換』はしておくべきだろう。そう俺が頷いたのと同時、綾が遠慮がちに俺に呼び掛けた。

「兄さん」
「ん?」
「いい?」
「今更遠慮するなって」
「……うん。ありがと」
 詫びる声に、ほんの少しの喜色を滲ませて、んー、とのびをするように大きく腕を広げる妹を、俺は抱きかかえる。互いの肩に顔を埋めるような抱擁の形。その体勢のまま俺は綾の長い髪にそっと手を載せ、

 そして綾は、その唇を俺の首に、口づけた。

「……っ」
 刹那に生じた、くすぐったいような、しびれるような感覚に、思わず漏れそうになった声を、俺はすんでの所でかみ殺す。肌をくすぐるようなその感触は一瞬で薄れ、綾の触れている部分を中心にして薄い虚脱感が全身に広がっていった。
 水面に落とされた小石が波紋を広げるように広がる喪失感めいた感覚。同時に、その虚脱を補うかのように軽い酩酊感めいた感覚が体の内側で蠢く。眼の奥に感じる小さな熱。それが血管を伝って脳の方へ広がっていくにつれて、俺は自分の思考が焦点を失っていくのを自覚した。

 奪われると同時に、与えられるような、感覚。
 それは『魔力交換』―――誰かに体の魔力を交換する際に生じる典型的な感覚だった。
 気持ちいいのか、悪いのか。それすら判然としない感覚のなか、曖昧な意識で綾の頭に手を添えていると、

「……うん。ありがと、兄さん。もう大丈夫」
 そんな妹の声が、曖昧に霞んでいた俺の意識をカタチを戻してくれた。目の前には、穏やかに笑う妹の顔。そして、その眼には熱も気だるさもなく、澄み渡った光があった。いつもの綾。それを確認して、俺はほっと息をつく。

「うん、まあ……眠かったのもあるけどね」
 ハンカチで、俺の首元を拭いながら、綾はくすりと小さく笑った。

「それより、兄さんは平気?」
「あー、うん。全然平気だ」
 正直にいうのなら、特有の軽い倦怠感と違和感は多少、残ってはいる。それは魔力を抜かれた後、特有の感覚だった。10歳の頃から……つまり、7年ほど前から何度となく繰り返している行為だけど、未だに綾との行為の後には、この種の倦怠感と違和感がぬぐえない。
 まあ、だからとこの行為に嫌悪感や抵抗感を覚えている訳でもない。なにせ、世の中には、これが病みつきになる、という人も実際に存在する訳だし。……いや、決して病みつきになりたいと思ってるわけではないのだけれど。

「お前こそ平気か?」
「うん、私は平気。なんならもう一回しても良いくらいだよ?」
「いや、それは勘弁してくれ」
 軽い冗談を交わしながら俺と綾は、互いの調子を確認する。と、そのとき、ギイ、と居間のドアが開く音がした。

「朝から仲睦まじいな。お前達は」
 開かれたドアから聞こえたのは聞き慣れた声。その声に俺と綾が振り向いた先に居たのは、腰まで伸ばした長髪が印象的な、ワイシャツ一枚の女性だ。
 神崎蓮香。通称レンさん。俺と綾の叔母であり、育ての親だ。ついでに言えば、髪の毛の色が僅かに銀色を帯びていることを除けば、姉妹といっても通じるほどに綾と容姿が似ている人だった。もっとも醸し出す雰囲気にはかなりの差があるけれど。

「レンさん。おはようございます」
「おはよう、綾」
「おはようございます」
「ああ、おはよう。良」
 俺と綾の挨拶に、欠伸混じりに頷きながらレンさんは素足のまま、食卓の方へと歩み寄ってくる。そして、そのまま俺の隣の席へと彼女が腰を降ろそうとした瞬間に、

「―――って、こら」
「きゃう?!」
 俺は、その頭を軽くはたいた。

「……良。挨拶代わりに、親の頭をはたく奴があるか」
 頭をさすりながら、レンさんは恨めしげな眼差しで息子を―――つまりは、俺、神崎良を見上げる。対して俺はそんな非難の視線に、溜息をつきながら首を横に振った。

「だったら、きちんとした格好をしてください。ワイシャツ一枚で居間をうろつくのは禁止です」
 せめて下着はつけてくれ。下着は。そう告げる俺に、レンさんは「やれやれ」と息をついてから大げさに肩をすくめて、にやりと笑う。

「まったく何を照れてるのかね、この子は。親の体に滾るほど、もてあましてるのか?」
「息子相手にセクハラ発言するほどにはもてあましてないですよ。というか、礼儀の問題です、礼儀の」
「むしろ常識の問題だと思います」
 俺の言葉に、綾もうなずきながらレンさんにあきれた視線を向けている。が、当のレンさんはと言えば、

「細かいことを言うな。家でくらいくつろがせてくれ」
 と、息子と娘の非難をあっさりと聞き流し、俺の隣の席に腰を降ろしたのだった。

 ……この人は。
 女手一つで、俺と綾を育ててくれたことには感謝のしようもないが、趣味は「息子と娘をいぢること」と言ってはばからないあたり、正直どうにかしてほしい。あと歴とした教職なんだから、その辺りの配慮もして欲しい。本気で。

「レンさん、今朝はご飯食べますか?」
 そんな俺の内心をわかっているのか、いないのか。綾は笑いをかみ殺すような表情で、レンさんに問い掛けていた。いつもコーヒーだけで済ますことが多いレンさんだけど、「一応パンでも焼きましょうか」、と綾が尋ねると、レンさんは首を横に振りながら、俺の肩とつついた。

「あー。こら、良」
「はい?」
「はぐ」
 そう言いながら、レンさんはさっきの綾と同じように両手を広げて見せた。……そこから見てたのか、この人は。

「というか、レンさんもですか?」
「はぐー」
「……今朝は綾と既に魔力交換したんですけど、俺。見てましたよね?」
「ああ、見てた」
「それでもしろと?」
「綾と出来て私と出来ない理由を簡潔に述べてみてくれ」
「ああ、はい。わかりました。わかったから、髪の毛ひっぱるの禁止」
 どこの子供だ、あんたは。だだっ子のように、人の髪の毛をひっぱるレンさんの手を振り払いながら、俺は溜息混じりの言葉を返す。

「頼むから年相応の振る舞いをしてください」
「たまにはこういう態度も愛嬌があっていいだろう?」
 良くないから抗議してるんだけど、さっぱりレンさんには通じていないらしい。まあ見かけが若いからそういう振る舞いも愛嬌があるといえば事実だけど。
 と、俺が内心で思わず納得しかけてしまった時に、がたん、と椅子を揺らして綾が立ち上がった。

「あー、レンさんずるい。兄さんとは、この間、したばっかじゃないですか」
「ずるくない。お前だってこの間したとこじゃないか」
「私は成長期だからいいんです」
「私も成長期だから良いんだ」
「大嘘を言わないでください」
「嘘とは心外だな。大まじめなのに」
「なおさら質が悪いです」
「そもそも私のが魔力の燃費が悪いのだよ。だから仕方ないだろ?」
「そんなの胸を張って言わないでください。大体、それも大嘘じゃないですか」
 明らかに綾をからかっているレンさんの台詞は、確かに大嘘だった。
 なにせレンさんは、こう見えて最上級の魔術師だ。聞いた話では、数年間は他人との魔力交換なしでもやっていけるほどの体内魔力の貯蔵と変換効率を誇っているらしい。俺や綾みたいに定期的に誰かと魔力の交換をしなくちゃいけない魔術師とは次元が違う。
 だが、やはりレンさんはそんな綾の指摘にはびくともせずに、俺の耳をひっぱりながら綾に向かって笑いかける。

「細かいことを気にしていると成長できないぞ、綾」
「人並みには育ってます。少なくともレンさんのご心配は、いりませんよーだ」
 そう言いながら、綾はちらりとレンさんの胸元に視線を向けた。
 確かに、そういう場所を比較するのなら確かに綾の方が育っているような気がしないでもないが……正直、大差ないような気がするんだけど。まあ、それを口にすると殴られるので止めておく。

「わかっていないな」
 当のレンさんはと言えば、綾の指摘に、やれやれ、と余裕ありげに笑いながら、肩をすくめて。

「これは成長云々の問題じゃなくて、良の好みに合わせて、こういうサイズにしてるんだぞ?」
 そんな余計な発言をしてくれていた。

「そうなのっ?!」
「俺に振るな。というか嘘に決まってるだろうが」
「嫌いなのか?」
「だから、そういう問題じゃないでしょう」
 思わず額を抑えながら、俺はまたまた盛大に溜息をつく。朝の朝からなんて話題を振るんだ、この人は。大体、俺がレンさん相手に欲情するの前提で話を進めるのは、本当に勘弁して欲しい。いくらなんでも家族に興奮するほど無節操でもないんだから。

「こら、男がうじうじと悩むんじゃない。と言うわけで、ほらこっちに来なさい」
「うわっと」
 最早、問答無用とばかりにレンさんは俺を力づくでひっぱると、ぽすん、と俺の頭を胸の中へと抱きかかえた。そう。さっきの綾と俺みたいに「抱き合う」形ではなく、完全に俺を抱きかかえる姿勢。文字通り、母親が子供を胸に抱き示す体勢だった。

「……うう、この格好はどうにかならないものですか?」
「贅沢な。これ以上過激な場所を求めるのなら下の方しか残っていないぞ?」
「……」
 だから朝からそっち方面のネタを振るなと言うのに。本当に教職なんだろうな。この人。多少陰鬱な気持ちでそう呟きながらも、俺はおとなしく魔力を受け入れるために意識を整える。

「ほら、準備は良いか?」
「……はい、大丈夫です」
「よし、行くぞ」
 その言葉と同時、レンさんの指先は、俺の首筋ではなく、俺の首の後ろ、背中との付け根の辺りに触れる。その瞬間、首筋から全身へ再び、熱が波を打つように揺れながら広がっていった。

「……っ」
「少しだけ、我慢だよ」
 ほんの少しだけ声を溢した俺に、レンさんは耳元でそっと囁く。そして子供をあやすように、抱え込んだ俺の頭をやさしく撫でつけてくれた。

 ……いや、だからそういうのは恥ずかしいと言ってるんだけど。

 そう内心で溢す声は、しかし、レンさんの手の温もりと、安堵めいた感覚にかき消されて言葉にはならなかった。……我ながら、なんというか、子供っぽすぎて嫌になる。
 と、おれが軽い自己嫌悪に陥りかけた瞬間に、レンさんは大きく俺の背中を叩いてから、抱きしめる腕を解いてくれた。

「……よし、お仕舞い。おつとめご苦労さん」
「もう良いんですか?」
「ああ、充分だよ。それに―――」
 いつもより短い交換時間。それに驚いて俺が顔を見返すと、レンさんは軽く苦笑しながら、俺の背後を指さした。

「朝から親娘喧嘩は、やめておいた方が良いだろう?」
 と、彼女が指し示す指の先には、

「……私も、もう一回、する」
 なんて、理不尽な台詞を、確固たる意志を込めた口調で宣う妹が居たりした。

2.登校

魔法。そして、それを行使するための源となる魔力。

かつて御伽噺の中でしか登場しなかった言葉が、現実のものとして扱われ始めたのか、いつからなのか。そして、何故、それは現実のものとして存在するようになったのか。

それらの問いに対する答は、いまだ導かれていない。過去から現在にいたる人間達の歴史。その中に、厳然と横たわる歴史の空白期にその解があることは誰もがわかってはいるが、それ故に誰もが答を得る術を持っていなかった。
一部の学者たちは今も賢明にその答を導こうとしている。だが、大部分の人間達にとっては、正直なところどうでも良い答でもある。遥かな過去、歴史の真相を探る行為に誰もがロマンを抱くが、ほとんどの人にとって、言ってみればそれはそれ以上の感慨を抱くものでもない。

いつから生まれ。どのように生まれたのか。その答を知り得なくても「魔法」という力は、今を生きる彼らの手の中に厳然と存在しているのだから。
故に、ほとんどの人たちは魔法なんていう新しい力とどうやって付き合っていくか。そして、どうやれば上手く自分の役に立てることができるか。それを学ぶことの方に、重きを置く傾向がある。

国立東ユグドラシル魔法院。
今に残された数少ない太古の神話。その中に登場する世界樹の名を冠した学校も、そんな人々の願いを叶えるべく実現された施設の一つであり―――今日もまた、魔法という力をその体に抱えた少年少女が、その学院へと続く坂を上っていく。


$****$

「なんで、お前はレンさんと張り合おうとするんだ」
 朝食後。俺は綾と並んで学院に向かいながら、我ながら軽く疲れが滲んだ声で、俺は妹に言葉を向ける。あの後、「もう一回、私がしないとバランスが取れない」などとおかしな理屈を振りかざす綾を宥めるのに、一苦労だったのだ。苦言の一つも呈しなければ、やってられない。
 そんな俺の言葉に、妹はと言えば、

「だって、兄さんが悪いんじゃない。レンさんばっかり、贔屓して」
 と、まるで俺が悪いと言わんばかり―――いや、実際に俺が悪いと、不満を口にした。

「あのなあ」
「もう良いよ。私だって兄さんが倒れたら困るもん」
「倒れるまで『吸う』つもりだったのか?」
「…………」
「何故、黙る」
「…………」
 妹の沈黙に、妙に怖いものを感じて、俺は追求を続けることをしばし躊躇い、そして。

「まあ……あれだな。お互い、もっと上手く魔力を仕えるようにがんばろうな」
 などと無難にまとめに入ってしまう俺だった。

 ……いやだって。怒らせると怖いのだ、ウチの妹は。
 そんな俺の露骨な方針転換に、綾は満足したのかしていないのか。綾は、くすり、と小さな笑いを溢しながら、悪戯っぽい眼で俺の顔を見上げてきた。

「そうだね。特に兄さんはもっと勉強しないと落第しちゃうかもしれないし」
「落ちません。多分」
 いくらなんでも、そこまで成績は悪くない。多分。
 多少、弱気が滲んだ俺の返事を、しかし、あっさりと綾は無視して言葉を続ける。

「でも、それもいいんじゃないかな」
「何が良いんだよ」
「だって、落第しても。私と一緒のクラスになれるよ?」
「だから落ちないし、一緒のクラスにはならないの」
「えー」
 なって欲しいのか、こいつは。落第して妹と同じクラスになって、あげく成績で妹に負けるなんて言う屈辱のフルコースを兄に味あわせたいいうのか。
 そんな思いに陰鬱に翳る俺の表情を見て取ってか、綾は「冗談だよ」と軽く笑って手を振った。小さく微笑む、その表情からは、ようやく機嫌が直ったのだと読み取れて、俺はこっそりと安堵の息をつく。

「朝から、絡んでごめんね。兄さん」
「以後、気をつけてくれ」
「うん……あ、でも、朝から女の子二人と魔力交換なんて、ちょっとしたハーレムだよね。兄さん」
「身内との行為を指して、ハーレムとは言わないだろ」
 綾の頭の中では母親の他に姉か妹が1人でもいればハーレムが完成するのだろうか。

「でも、家族相手のハーレムって背徳感があっていいじゃない」
「よくありません」
「ちえ」
「というか、朝からやけにハーレムにこだわるな。なんか思うところでもあるのか?」
 短時間に何度も連呼する類の言葉じゃない。流石に聞きとがめて綾に確認すると、妹は少し表情を改めてから口をひらいた。

「うん。お隣さんのことなんだけど」
「お隣さんって、小坂さん?」
「うん」
 綾の言葉を聞きながら、俺は優男という表現がぴったりに似合うお隣さんを脳裏に描く。魔法院の研究員であるお隣さんは、確か一月ほど前に、五人目の奥さんをもらったはずだった。男女の構成比が、1対他、という意味合いにおいて、本当にハーレムを構築して行っている人だったりする。

「兄さん、小坂さんに最近あったこと無いでしょ?」
「ああ、そういえば……でも、もう新婚旅行からは帰ってきてるよな?」
 確か、旅行のおみやげをレンさんがもらっていたはずだった。新婚休暇も終わる頃だろうし、そろそろ姿を見かけたっておかしくはないハズだった。

「私ね、昨日、会ったんだけど」
「へえ」
「それがね―――」
「はは、相変わらず、仲がいいね。二人とも!」
 意味ありげに声を潜めた綾。その言葉を遮って、突如、聞き覚えのある声が耳に届く。
 聞き覚えのあるその声は、噂をすれば何とやら、その小坂さんのモノだった。

「おはようございます、小坂さ―――うわあっ?!」
「お、おはようございます」
 声に振り向いた俺たちの視線の先。そこで微笑んでいた人物の姿に俺は思わず悲鳴を上げ、綾は「見てしまった」と言わんばかりに気まずげに目を逸らしながら挨拶をする。

「おはよう。はは、良君は朝から元気が良いね」
 悲鳴を上げた俺に気を悪くした風でもなく、いつものように温厚そうに微笑むのは小坂卓さん。その笑みの形はいつも通りだが、その容姿は俺達の知る彼のものとは激変していた。
 背が高い割には、ほっそりとしている人で、元々「やせ気味」の印象がある人だけど、今の小坂さんははっきりと「窶れて」いた。というか、眼鏡越しに見える眼が思いっきりくぼんでいるのは俺の気のせいではないだろう。あげく、血色の良かった肌は、見事なまでの土気色。俺が医者ならばまず間違いなく、病床に放り込むであろう容貌となりはてていた。

「『やあ』って、そんなさわやかに挨拶してる場合じゃないでしょう? だ、大丈夫なんですか?!」
 我に返った俺は慌てて、どこの病院から脱走してきた病人だ、という風貌であるの彼の下へと駆け寄った。だが、そんな俺の態度に、「心配イラナイよ」と妙に片言のアクセントで笑いながら、小坂さんは手を振る。

「平気平気。ちょっと痩せたけれどね。このぐらい大丈夫だよ」
「そ、そうですか……」
 それで「ちょっと痩せた」というのなら、世の中でダイエットに励む人たちは、どれだけ過酷な減量を強いられることになるのだろうか。

「へ、平気そうに見えないですけど……?」
「だから、大丈夫だって。なにせ、まだ生きてるからね」
「ま、『まだ』生きてるって?!」
 どういう健康の判断基準なのか、この人は。その苛烈な基準に俺が戦いているのにも構わずに、何故か小坂さんは嬉しげに口元を歪める。

「いやいや、妻達が寝かせてくれなくてねー。あはは。って、あ、ごめん。青少年に朝からする話じゃなかったね」
「いや、この期に及んでそんな気遣いはいいです」
 セクハラ云々より、あなたの命が気になって仕方がないですから。

「な、なんにせよ、少し加減して貰ってくださいよ。その、顔色悪いですよ?」
「それはちょっと難しいなあ。なにせ、彼女たち、サドだから」
「へ、平然と怖いこと言わないでください。何故そこで胸を張りますか」
「だって、何も問題じゃないじゃないか。だって僕もマゾだからね」
 死んでしまえ。干からびて。

 平然と笑みのまま、そう答える小坂さんに、俺は血の気が引くのを自覚しながら、ちょっと物騒なことを思ったのだった。

$****$

「つまり」
 じゃあ、先に行くね、と病人にしか見えないのに、恐ろしく軽快な足取りで学院へと駆けていく小坂さんの背中を呆然と眺めつつ、俺は傍らの綾に呼び掛ける。

「あの小坂さんを昨日見た訳だな? お前」
「……そう」
 見たくはなかった、というように、未だ小坂さんからは視線を外しつつ、綾はこくりと首を縦に振った。

「……干からびてたでしょ?」
「……干からびてたな」
「ハーレムって、大変だよね?」
「………………大変だな。すごく」
 なるほど、アレの惨状を見たのなら、「大変、大変」と綾が言いたくなった理由はわかった。いくら美人とはいえ、奥さんを五人も抱えるのは大変だろうなー、とは思っていたのだが……現実は、俺みたいな若造が考えるより遥かに過酷なようだった。

「奥さんが多すぎると、小坂さんでも、ああ、なっちゃうんだね」
「うーん。魔法院研究員でも、厳しいんだなあ」
 魔力交換に関しては『吸われて干からびる』なんて揶揄の言葉があるんだけど、加減を間違えると本当にそうなりかねない行為でもあったりするのだ。特に深い関係の人間との魔力交換は、一歩間違えると、根こそぎ魔力を抜かれてしまう、なんて言われている。それこそ―――今の小坂さんみたいに。

「小坂さんの魔力量でも、四人までが限界だったのか」
「でも、四人までなら平気だったよね。小坂さん」
「そう考えると、やっぱり凄いんだな。研究員って」

「そう考えると、二人で限界の兄さんって甲斐性なしなの?」
「……失礼な。俺だって何人かと交換してるじゃないか」
 妹の指摘に、俺は心外だ、と眉をしかめて見せた。
 綾にレンさん。そして友人の何人かと魔力交換をしているのだ、これでも。まあ、深いレベルで交換している相手は居ないわけだから、小坂さんとは比べるべくもないんだけど。

「そもそもお前だって人のこと言えないだろ。彼氏の一人ぐらいさっさと見繕えよ」
「……むー。兄さんに言われたくないよ」
 隣人は奥さんが一杯で大変、という話をした直後に、兄妹二人して、寂しい現実に直面して、俺と綾はほぼ同時に溜息をついた。

「……行くか、学校」
「……そうだね。行こ」
 再び溢れそうになったため息をかみ殺して、俺は歩きながら、横目で妹を視界に捉える。普段から眠たげな眼差しをしていることが多いが、優しい眼差しだと言われることも多い綾の眼は、兄としてはどうかと思うが、一瞬見蕩れそうになることがある。恐らく母親ゆずりの柔らかい顔立ちは、兄のひいき目を抜きにしても、うちの学院でも可愛い方だと思う。

 外見だけじゃなく、魔法の実力もある。今はまだ魔法院高等部の1年生だけど、将来的に研究院にまで席を勧めるのは確実とさえの言われている。大げさに言えば「天才児」の1人なのだ。正直、兄である俺より、よっぽどハーレムに近い位置にいる。いや、ハーレムとは言わないまでも彼氏の一人や二人はいたっておかしくないとは思う、のだけど……

 まあ、こればっかりは、本人の問題か。

 そんな思いに、しばし綾の横顔に向けた視線が固まっていたのかもしれない。俺の視線に気づいたのか、綾はなんだか妙に嬉しそうに口元をゆるませた。

「……ふふ」
「? 何かおかしいことがあったか?」
 疑問符を向ける俺に、ますます楽しげに綾は笑みを浮かべて俺の顔を覗き込む。

「今、私に見とれてなかった?」
「妹に見とれる兄はいません」
「います」
「断言するな」
「います」
「指さすな」
「近親相姦なんて、マニアックすぎるよ」
「勝手に人におかしな性癖を付け足すな」
「……む」
 綾の言いがかりを軽く手を振りながらあしらうと、なんだか不満そうに綾は眉を曇らせた。が、不機嫌さが表情に漂っていたのはほんの僅か、何を思いついたのか、綾は一人納得したように頷いた。

「……何を一人で納得してるんだ」
「別に。ただ兄さんは照れ屋さんだったのを思い出しただけ」
「どういう納得の仕方だ、それは。お前は自分の兄に近親相姦者なんて十字架を背負わせたいのか」
「だから、もう背負ってるじゃない」
「だから、何故断言する」
「はいはい、そうだね。兄さんは近親相姦なんてしないよね」
「お前な……まったく、そういう所―――」
 そういう所はどんどんとレンさんに似ていくな。
 そう言いかけて、俺は慌てて言葉を飲み込んだ。またレンさんの事を持ち出して、妙な攻撃スイッチが入ったらたまったものじゃない。

「? そういう所は……なに?」
「別に。なんでもない」
「もー。露骨に誤魔化さないでよー。気になるじゃない」
「誤魔化してないって」
「誤魔化してます」
「ません」
「ます」
「ません―――?」
 そんな他愛のない言葉を、言い合いながら、しばし綾と並んで歩を進めた時、

 ざあ……。
 吹きすさぶ風に、木の葉が重なりさざめく―――そんな幻聴に、俺は思わず足を止めた。

「うわ」
 遠く。そう本当に彼方から届いた音に、綾も気づいたのか、俺たちはそろって視線を空へと投げて、一瞬、息をのんだ。
 見上げた目に映るのは青々とした空に、浮かぶ白雲。そして天高く、薄くたなびく雲よりなお彼方にそびえる天を貫く「大樹」の影がそこにはあった。

 世界樹。
 晴れた日に目をこらせば、その偉容は、世界のどこからでも見えるといわれている大樹。だというのに、どれだけ近づいても、決して近づくことはできない蜃気楼のような存在。
 かつては本当に、蜃気楼のような自然現象だと信じられていたらしいその大樹だけど、今現在、その存在を幻として扱うような人間は少数だろう。それは魔法と同じように……きっと魔法と同じ時期に、同じ理由に、この世界に生まれた「新しい力」だと、誰もがそう思っている。

 それに、それは幻というには、少しばかり俺たちの生活に近すぎて。

 ざあ……。
 ここにない場所にある大樹が奏でる音が、まるで近くにある大木が奏でているように、頭の上から降り注ぐ。そして、その音にさらに頭上を振り仰いだ先に、広がるのは―――。

「うおぉ……」
 見慣れているハズなのに、それでも眼前に広がっている異景に、俺は再び息を呑む。
 澄み渡った空に数え切れないほどの緑の葉が、陽光にきらめきながら揺れていた。翡翠の輝きにも例えられる「世界樹の葉」。決して人の手が届かない場所にあるはずの大樹からはがれ落ちた大樹の欠片は、こうして時折、俺達の目の届く場所で舞い踊り、そして、その内の何枚かは、実際に地上に届く。

 世界樹。それが奏でる音と、はがれ落ちた葉。
 それらは俺達に世界樹が蜃気楼などではなく、何処かにある神秘ということを雄弁に語っている。

 年に数えるほどしか降ることは無い「世界樹の葉」の雨。
 その光景を眼にした人の多くは、その存在に畏怖と畏敬を抱いて、しばし、俺みたいに立ちつくすのだ。

 でも―――。

「……今日は、よく見えるね」
 その光景に、そのあまりの異景に……隠しきれない不安を抱く人がいるのも事実だった。
 立ちつくす俺の隣で、おびえを含んだ声を溢した綾。その声に意識を引き戻されて、俺は不安げに空を見上げる綾の頭に手を置いた。

「ひゃっ?!……に、兄さん?」
「大丈夫だよ。そんな顔しなくてもさ」
「……うん」
 くしゃくしゃと、柔らかな髪をなで回してやると、綾の表情から不安の影が溶けて、柔らかい笑顔が顔を覗かせた。穏やかな、妹の笑顔。
 それが再び不安に曇らないように、俺は努めて明るく笑いながら、俺は視線を前に戻した。

「さ、行こう。あんまり見物してると遅刻しかねないからな」
「……ぼー、と呆けてたのは兄さんじゃない」
 ぶー、と軽い悪態を付きながらも、綾は表情を和らげたまま俺の隣に駆け寄った。

 ……やれやれ。まだまだ気遣いが足りないよな、俺って。
 軽い自戒に、臍をかみながら、俺は世界を支えると言われる大樹に、胸中で一礼した。妹は、苦手意識を持っているけれど、それでも何となく俺はあの神秘に敬意めいた感情を抑えきれなくて。
 だから、言葉にせずに、ただ、祈る。
 せめて妹ぐらいには苦労をかけずにすむ力をちゃんと身につけられますように、と。

「良、綾!」
「え?」
「あ……レンさん!」
 その祈りを遮るような、頭上からの声。その声に顔を上げれば、箒に腰掛けたスーツ姿のレンさんが、俺達の頭上を旋回していた。

「あまり遊んでいると、遅刻するぞー」
「あー、レンさん、箒はずるいです」
「ずるくない。教師特権だから問題ないのだよ」
「うー」
 確かに空を飛んでの通勤は、魔法院の職員にのみ認められた特権だ。それを承知してなお、綾はなんだか悔しそうに、かつ羨ましそうに空を舞うレンさんを見上げる。

「わたしだって、飛びたいのにー」
「残念ながら10年早い。というか、いいのかお前達。言っておくが私より先に家を出て、私より遅れて学校に入るなんて怠慢は認められないからな」
「認められないって……」
「わたしより遅かったら、今週の晩ご飯の当番は、良だ」
「なっ」
「加えて洗濯当番は、来週も綾だ」
「ええっ!?」
「じゃあな。急げよー」
 そう言いたいことだけ言い捨てて、レンさんは笑いながら学院の方角へと鮮やかに跳び去った。傍若無人とはまさにことのことか、と半場呆然としかけたが、俺は慌てて意識を引き戻すと、

「綾、走るぞ!」
 まだ不満げにその背中を見つめていた綾の背中を軽く叩いて駆け出した。

「は、走るって……、追いつけるわけないじゃない!」
「なせばなる、というか、走らずにいたら、また難癖付けられるだろ?!」
 今朝のレンさんのテンションを見る限り、10分遅れるごとに1日分の当番交代、とか言い出しかねない。その可能性に綾も思い当たったのか、思いっきり不満に顔を膨らませながら、それでも前へと駆け出した。

「うー、もう! なんで遅刻でもないのに、朝から走らないといけないのよー!」
「文句を言っている暇があったら、走れ! 何事もなせばなる! きっと!」
「兄さんまでレンさんみたいな適当言わないでー!」
 その声には、さっきまでの不安の影は微塵もなく、そのことに安堵しながら俺は勢いよく学院へと続く坂を駆け上がる。

 世界樹の影の下。揺らぎさざめく音の中。空舞い踊る緑の光の奥。
 いつか、誰かが、それらの神秘へとたどり着けるように願い名付けられたという学舎―――国立東ユグドラシル魔法院。その門へと、妹と、二人並んで。


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 かつての歴史が途絶えた時代に。
 かつての法則がゆがんだ世界で。
 人々は、いまだ試行錯誤しながら、生まれた力との付き合い方を模索している。

 魔法。世界樹。
 その存在が、どんな意味を持ち、どんな恩恵をもたらし、どんな災厄を刻み、どんな悲劇と喜劇を紡ぐのか。
 誰もが、その問いに解答ができないままに、それでも、おおむね、世界は平穏の内に、流れる時を刻んでいた。

 ここは「世界樹の国」
 世界樹の守護の下、人と精霊が住まう世界。

 これはそんな世界で、ある少年が紡ぐ、ある一つの物語。


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