/0.

 果たして、今日の放課後、綾に何があったのか。

「今日から私が兄さんに魔法を教えます」
 夕食後、俺の部屋に乗り込んできた妹は、兄に向かってそう宣告したのだった。


/************************************************/ 

  魔法使いたちの憂鬱

       第十九話 それは私の役目ですっ!

/************************************************/

/1.放課後の生徒会(神崎綾)

 会長さんと一緒に登校したおかげで、騒々しかった一日の終わり。篠宮先輩が淹れてくれた紅茶の香気を挟む形で、私は会長さんとソファーに腰掛けて向き合っていた。それぞれの隣には篠宮先輩と鏡花ちゃんが腰を下ろしている。ここ最近、私にとって当たり前になった放課後の風景。だけど会長さんと対面している私は心持ち緊張していた。

「今朝はごめんなさいね、綾さん。変な騒ぎになったみたいで」
「あ、いえ。会長さんの所為じゃありませんから」
 謝ってくれる会長さんに返した言葉は本心だったけれど、私の胸の中には晴れない感情がグルグルと渦巻いている。それは勿論、今会長さんが謝ってくれた今朝の騒動のことが原因だった。アレは本当に、会長さんの謝意から来た行動なんだろうか……?
 そんな疑念が頭の隅っこに引っかかったまま離れない。そんな思い悟られないように紅茶に口をつけていると、隣から鏡花ちゃんが羨む声を上げた。

「いいなあ、綾ちゃん。会長と一緒にあんな車で登校できるなんて。私のクラス、今日一日、その話で持ちきりだったよ」
「あら、そうなの?」
「はい! それは勿論、会長のことですから!」
「目立つ時間帯に目立つ車で乗り付けてしまいましたからね。本当に申し訳ありません、綾さん」
「あ、いえ。私は気にしてませんから」
 自分の責任のように表情を曇らせて、篠宮先輩は丁寧に頭を下げてくれる。その篠宮先輩に、私は慌てて手を振って口を開いた。

「あんな車に乗せて頂いたのは初めてでしたから。戸惑いましたけれど、楽しかったです」
「そうですか」
「そう言ってくれると嬉しいわ。ありがとう、綾さん」
「いえ。こちらこそ」
 あらためてお礼を言われて、私もまた小さく頭を下げる。会長さんに「楽しかった」と返した言葉は、少しの社交辞令は混ざっていたけれど、私の本音でもあった。浮遊車、と呼ばれる高級車に乗ったことは生まれて初めてだったし、後の騒動のことさえなければ、楽しい経験だったから。
 でも、やっぱり私の言葉に気遣いを感じたのだろう。篠宮先輩が咎める視線を会長さんに向けて息をついた。

「セリア。やはり、今後は車を使うのは控えた方が良いと思います」
「そうね。しばらくは控えましょうか。ふふ、でも鏡花さんが残念そうな顔をしているから、その内にまた使うかもしれないけれど」
「わ、私、顔に出てましたかっ?!」
 会長さんの悪戯っぽい声に、鏡花ちゃんが顔を赤くして狼狽える。そんな彼女に、残りの三人は口元を緩めて、ほぼ同時に頷いた。

「ええ。『綾ちゃんが羨ましいなー。私も乗りたいなー』って大きく書いてあるもの」
「卯月さんは隠し事ができない人なんですね」
「素直なのは良いことだよね。うん」
「うう。そんな一斉に攻撃しなくても……」
 呻くように呟いて、鏡花ちゃんは耳を赤くしたまま顔を伏せる。その鏡花ちゃんに、会長さんは「冗談よ」と軽く笑いながら、ふと考えるように唇に軽く手を当てた。

「でも、今まで鈴とあの車を使ったことはあったけれど、ここまで騒ぎにはならなかったわよね」
「それは、その……会長が神崎先輩とご登校されたからだと思います」
「あら、やっぱり、そうなの?」
「はい。私だって、その……気になっちゃいましたから」
 そう。鏡花ちゃんの言葉の通り、今朝の出来事が一日中噂になったのは、会長さんが兄さんと……つまりは男の人と一緒に登校したことが理由だったと思う。魔法院の中で会長さんが生徒会の男の人と一緒に歩いている風景は珍しくはないらしいけれど、一緒に登校する男子生徒はいなかったらいい。
 だから、みんなが好奇心を刺激されるのは分かるのだけれど……会長さんの噂の相手が兄さんだというのは、私としては非常に面白くないわけで。思わず引きつりそうな表情を誤魔化すように私はまた紅茶に口をつけて、ちらりと会長さんの表情を伺う。当の会長さんは、鏡花ちゃんの台詞に頷くと、少し考え込むように口元に手を当てた。 

「あまり騒ぎが続くのは困るわね……でも、まあ、見慣れてしまえば、飽きるわよね」
「え?」
「はい?」
 呟くような会長の言葉。それを耳にして私と鏡花ちゃんは同時に声を上げて、そして目を見合わせた。思わず反応してしまったのは会長さんの台詞に混じっていた『見慣れる』、『飽きる』という言葉に不吉な事を想像してしまったから。

「あ、あの、会長?」
「何かしら?」
「ひょっとして、兄さんとの登校を今後も続けるつもりなんですか……?」
「ええ。そのつもりだけれど」
「え、ええっ?!」
「か、会長?!」
 恐る恐ると問い掛けた私に、会長さんは平然とした表情で答える。その返事に、鏡花ちゃんが悲鳴のような声を上げていた。

「あ、あの、会長! その、どうしてそういう事になるんでしょう?」
「あら、鏡花さんには言ってなかったかしら? 今回の件はお詫びだから、きちんと謝意が伝わるまでは続けないといけないのよ」
「い、いえいえ! あの、お詫びならもう十分にして頂いていますからっ!」
 何を言い出すのか、この人はっ!
 その思いに、私は慌てて会長さんの言葉に割り込んで、その申し出を辞退する。ありがた迷惑―――とまで言ってしまうと、失礼だとは思うけれど。朝の貴重な私と兄さんの時間を、奪って欲しくはないし、噂を増長するような真似は止めて欲しい。
 その思いに慌てる私に、会長さんはややわざとらしく息をつき、そして視線を伏せて哀しげに呟いた。

「そう……やっぱり、綾さんにはご迷惑なのね。そう、そうよね。あんな騒動に巻き込まれて不快に思わない訳はないわよね」
「いえ、そういうことじゃないんですけれど……」
 私が巻き込まれるのが迷惑なんじゃなくて、兄さんが会長さんと噂になるのが嫌なんです。
 なんて台詞は流石に言えずに一瞬口籠もっていると、会長さんはしおらしい表情で私を見つめて、頷いた。

「わかりました。残念ですけれど、綾さんとご一緒するのは諦めます」
「え? そ、そうですか?」
「ですから、明日からは、お兄さんだけお迎えに行きます」
「だ、ダメですっ! だから、なんでそうなるんですかっ!」
 私を除いて、兄さんだけが会長さんたちと登校なんて……そっちの方が何倍も性質が悪い。そんな会長さんの提案に私が目眩すら感じていると横からせっぱ詰まった声で鏡花ちゃんも反対の声を上げてくれた。

「わ、私も反対ですっ!」
「あら、どうして?」
「ど、どうして……って、その、あの……」
 まさに蛇に睨まれた蛙、とでも言えばいいのか。会長さんが真っ直ぐに視線を向けて微笑むと、鏡花ちゃんは途端に狼狽えて言葉を失ってしまった。でも、そこは中等部生徒会長経験者とでも言うべきか、ただ俯いて黙り込む、なんてことはせずに、鏡花ちゃんは赤い顔のままなんとか反対の理由を口に乗せる。

「ですから、その、会長と男の人が、その、あの……し、篠宮先輩も反対ですよね?!」
 ……結局は、会長さんに押し負けてしまった鏡花ちゃんは、さながら泣きつくように会長さんの傍で静かに紅茶をすする篠宮先輩に声かけた。確かに、この場で会長さんに意見できるのは篠宮先輩ぐらいしかいないので、すがる相手としては適任なのだけれど……しかし、その結果は残酷だった。鏡花ちゃんの言葉に、篠宮先輩は申し訳なさそうに首を横に振ったのだった。
 
「神崎さんの事に関しては、セリアが決めた事ですから、私には反対は出来ません。妬けないといえば、嘘になりますけど」
「そ、そんなぁ」
 頼りの綱、だったはずの篠宮先輩の賛同を得られなくて、ますます鏡花ちゃんは泣き声を上げる。そんな彼女を慰めるように、篠宮先輩は優しく微笑んで見せた。

「大丈夫ですよ、鏡花さん。今回のことはちゃんと理由があってのことですから。そうですね、セリア」
「ええ。だから、そんなに慌てなくて大丈夫よ」
 篠宮先輩に促されるように、会長さんは鏡花ちゃんにそう言って微笑みかけてから、私の方に向き直る。

「あのね、綾さん。今回のことはお詫びの意味合いもあるわ。だけど、それ以上に仲直りの意図があるの。去年のことは聞いているんでしょう?」
「あ……はい」
 去年のこと、とはつまり速水先輩の勧誘を巡っての兄さんと会長さんのトラブルのことだろう。

「あれ以降、神崎さんとの関係は良好とは言えなかったけれど、いつまでも引きずるのは良くないと思ったの。綾さんも生徒会に入ってくれたことですしね。なら、上級生の方から歩み寄るのが当たり前でしょう?」
「それは……そうですけれど」
 確かに理由としては十分だ。
 兄さんだって会長さんと仲直りしたい、みたいなことは言っていたし、妹として、そして生徒会の一員として、会長さんの「仲直り」の申し出を否定理由はない。
 ない、はずなんだけど……。

 『会長さんは、兄さんに興味を持っている』

 この前、会長さんを待つ間に篠宮先輩が私に話してくれたそんな台詞が脳裏に浮かぶ。会長さんが兄さんに抱いている興味。それがいったい何なのか、まだ私には分かっていなくて。だから、それが胸の中の不安に拍車をかけてしまう。
 ただ単に、喧嘩相手に対する興味だったら良いんだけれど。もし、そうじゃなかったら……?

「だから、少しの間ご一緒させてもらえないかしら?」
「……っ」
 躊躇う私に向かって、会長さんは優しい声のまま言葉を続ける。穏やかな口調のその声に、しかし、私は息が詰まるのを感じて言葉を返せない。

 なんだろう、この感覚。いつもの会長さんの態度より、むしろ高圧さは感じないのに。さっき鏡花ちゃんのことを「蛇に睨まれた蛙」なんて言ったけれど、多分、今の私も同じようなもので―――。

「勿論、嫌でなければ綾さんもご一緒してくれると嬉しいのだけれど」
「…………そういうことなら。わかりました」
 押し負けた、とは思いたくないけれど、私はしばしの逡巡を挟んで、頷いてしまった。ここで妥協しないと、なんだか本当に兄さんだけを拉致して登校してしまうんじゃないのかって不安があったから。
 それに……まあ。兄さんにとっても会長さんとの関係は改善した方がいいのだろうから……今は、私の我が儘で、邪魔、しちゃいけないって思う。兄さんと他の人が噂になんかなって欲しくないっていう気持ちはあるけれど。

「そう、ありがとう。綾さん」
「でも、あまり兄をからかわないでくださいね。ただでさえ、いじられやすい人ですから」
「あら、お兄さんをからかうのは妹の特権なのかしら」
「そうです」
 答えながら、私は少し気持ちが楽になるのを感じていた。それは私を揶揄する会長さんの声に、私が危惧している感情は感じ取れなかったからなのかもしれない。
 まあ、正直、考え過ぎなのかもしれない。だって会長さんと、兄さん。正直に言って釣り合いがとれていないと思う。勿論、才能とか容姿とかそういう事じゃなくて、性格とか考え方とか……合っていないような気がする。うん、だから大丈夫。
 そう自分に言い聞かせるように私が頷いていると、会長さんは一度紅茶で唇をしめらせてから、再度、私に対する「お願い」を口にした。

「ところで、綾さん。もう少し、お願いがあるのだけれど、いいかしら」
「あ、はい。なんでしょう」
「お兄さんの事、教えて欲しいの」
「兄のこと、ですか?」
「ええ。何でも良いのよ。お兄さんの好き嫌いとか、趣味とか。普段何をして過ごしているのか、とか」
「……」
 何、これ。何なんだろう、この台詞は。
 先ほど安堵した気持ちが一転、凛々、と心の中で再び警戒音が鳴り響き始める。果たしてどういう意図か、と会長さんではなく横目で篠宮先輩の顔を伺うと、篠宮先輩は小さく頷いてから優しい声で意図を説明してくれた。

「セリア本人は、お兄さんと仲直りをしたいと思っているのですが……セリアの場合、そのための歩み寄り方に問題があるのです」
「歩み寄り方、ですか?」
「ええ。これ以上、セリアが好き勝手に行動するよりも、お兄さんの趣味趣向を考慮して行動の選択肢を絞り込んだ方が、また騒動になることを避けることができると思いませんか?」
「……なるほど」
 確かに会長さんの思うがままに行動されてしまうと、意外な行動に出られてしまうかも知れない。今朝だって現にあんな高級車を引っ張り出してきたりしたわけだし。会長さんに全く常識がない、とまでは思ってはいないけれど……不安の原因は少ないに越したことはない、かな。

「……なんだか、随分な言われようね、私」
「セリアは少し黙って。反省していてください」
 篠宮先輩の言葉に、警戒心が少しだけほつれた。正直、「兄さんのことを他の女の人に教える」なんて抵抗があるけれど……考え過ぎ。考えすぎだよね?
 そう再び自分に言い聞かせながら、そして「兄さんのため、兄さんのため」と頭の中で繰り返しながら、私はゆっくりと言葉を口に乗せていった。

「そうですね。部屋ではよく漫画とか読んでます。放送とか、映画とかはあまり見ないですね」
「ふーん、漫画、ね」
「会長は漫画とか読まないイメージですけど」
「そうね。あまり読まないわ」
 頷きながら会長さんは困ったように眉根を寄せる。

「他には? 演劇とか演奏とかダンスとか、そういった趣味はないかしら」
「……えーと。多分ありません」
 どれだけお嬢様な趣味なのか、それは。
 私にだってそんな趣味はない。まあ、演奏といえばちっちゃな時は少しだけピアノを習っていた事もあるのだけれど、お稽古の時間には兄さんと一緒にいられなかったのがつまらなくて直ぐに止めてしまったのだった。閑話休題。

「あとは、やっぱり魔法の練習を良くしてます」
「あら、意外と努力家なのね」
「はい」
 意外、は余計ですけど、と心の中だけで呟いて、私は言葉を続ける。

「本人は「やりたくてやっていないんだけどな」って良くぼやいてますけど」
「どういう事?」
「プレッシャーが凄いらしいです」
「……なるほど」
 母さんや、速水先輩、ついでに言えば私も魔法の成績は上位だ。だから、兄の威厳にかけて、多少はあがいて見せないと、というのが兄さんの弁。

「先生に、綾さんに、速水君に囲まれてるんですものね。それは確かに大変でしょうね」
 私の説明にそう頷いてから、会長さんは一瞬考え込んでから、やがて軽い頷きと共に手を打った。

「……それ、使えるかもしれないわね」
「え?」
「だから、仲直りのことよ。うん。それなら……」
 うん、と一人納得して頷いている会長さんに、いい知れない不吉な思いが胸を突く。そして、篠宮先輩もその不吉を感じたのか、私の言葉を先取りするように、会長さんに向かって問い掛けた。

「セリア。まさかと思いますけれど、神崎君の勉強を見るとか言い出すんじゃないでしょうね?」
「流石、察しが良いわね、鈴。その通りよ」
 篠宮先輩の台詞に、しかし会長さんは晴れやかな笑みのまま頷いて、

「神崎さんには、私が勉強を教えてあげることにします」
 それがまるで決定事項であるように、断言口調で、会長さんはそうのたまったのだった。

「って、ちょ、ちょっと待って下さい!」
 突拍子もない会長さんの提案に、私は驚きを押さえられずに声を上げる。

「あの、勉強を教えるって、会長さんが、兄さんに、直々に、ですか?」
「ええ。良い考えでしょう?」
「ど、どうしてそうなるんですか?!」
 慌てて声を上ずらせる私に、会長さんは不思議そうに小首を傾げた。

「良い考えだと思うのだけれど……いけないかしら?」
「いけないもなにも、その、そんなの必要ないです!」
「どうして?」
「どうしてって……」
「伸び悩んでいる下級生に手をさしのべるのは上級生の役目でしょう。そんなにおかしな事じゃないと思うのだけれど」
「そ、それはそうですけれど」
 世間一般ではそうなのかもしれませんけれど! 兄さんに魔法を教えるなんていう美味しい役目は私の役割であるべきであって、そこに他人の介在する余地はあって欲しくない。

「会長に、そんなご迷惑は掛けられません。それに魔法を教えるんだったら、母さんだっていますから」
 何より私だっているんだし。
 言葉と内心でそう告げる私に、しかし会長さんは平然と答えを返す。

「そうね。普通に考えれば差し出がましいとは思うけれど……でも、現にお兄さんは伸び悩んでいるのでしょう?」
「うっ」
 痛いところをつかれて私は思わず口籠もった。
 別に兄さんの成績は悪い訳ではない。でも、「良い」かと言われるとそうとも答えられないわけで。そしてそれは今まで母さんや私が傍にいた上での結果でもある。

「ずっと傍にいるから見落としている事って、意外とあるんじゃないかしら」
「……そんなことないです」
 会長さんの台詞は、多分、正論だって思うけれど。でも、それに私の声は、思わず否定の声を返してしまっていた。
 だって、少し、カチン、と来たから。
 兄さんの何もかも知っているって思えるほど、傲慢じゃないけれど。それでも、兄さんの何もかもを知りたいって、ずっと思ってる。それなのに、「見落としていることがある」なんて指摘されて、素直にうなずけるほど、私は素直なんかじゃないんだから。

 そんな想いに我ながら尖った声。でも、それを受けて会長さんは怒るどころか、どこか優しげな微笑みを浮かべて、言った。

「お兄さんのこと、よっぽと好きなのね、綾さんは」
「え?」
「私は兄と仲が良いわけじゃないから、そういうの羨ましいわ」
「あ、え、はい。そうですか……?」
 不意打ち気味に放たれた台詞。その言葉の意味が掴めずに戸惑う私に、会長さんはくすり、と笑みを零して小さく手を振った。

「いずれにせよ、選ぶのは神崎さんですものね。ここで私と綾さんが喧嘩をしても仕方ないわね。そうでしょう?」
「それは……そうですけど」
 会長さんの正論に思わず頷いてしまってから、私は内心で悲鳴を上げた。選択権が兄さんだけにあることを認めてしまっては、私がいくら反対しても意味がない。

 そう。もし、兄さんが会長さんに是が非でも教えて欲しい、なんて言ってしまったら……?
 
(……そんなの、絶対)
 絶対駄目。

 だから、兄さんに釘を刺さないと。
 できるだけおっきな釘を……五寸釘の十倍は大きな釘を、深く、ふかーく、刺しておかなきゃ、とそう心に決めて、私は生徒会室を辞したのだった。


/2.夜の神崎家(神崎良)。

「ということで、会長さんの代わりに私が兄さんの勉強を見ることにしました」
「……何が「ということ」なのか、さっぱりなんだが」
 会長さんとの出来事を説明して、改めて「俺の勉強を見る」と宣言する綾に、俺は溜息混じりにそう答えた。

「今の話だと、会長さんが俺に魔法を教えてくれることになったんじゃないのか?」
「なってませんっ! そもそも、そんなこと出来るわけ無いでしょっ?!」
「だから、なんで? 会長さんが俺に勉強を教えると何か拙いのか?」
「マズイに決まってるじゃない!」
 ばし、と俺のベッドを殴打して綾が声を張り上げる。一体どういう訳か、この妹は会長さんが俺に魔法を教えるのがひどくお気に召さないらしい。

「ていうか、何? 兄さんはどうしても会長さんに勉強を教えて貰いたい訳……?」
「いや、そこまでは言わないけど。まあ、確かに会長さんと一対一で勉強なんて教わったら普通に死にそうだしな」
 何せ、俺の資質を試すためだけに束縛の魔法を使うような人だ。魔法の教えを受けるような事になったらどんな過酷な教育方針が掲げられるのか想像するだけで血の気が引く……のだけど。
 その俺の返事に、綾は「そうでしょう、そうでしょう」となんだか満足げに頷きながら言葉を続けた。

「そうでしょう。そうでしょう。困るよね、そういう事になったら。だから、会長には私からちゃんと断って―――」
「いや、それはしなくていい」
「どうして!?」
「うおう?!」
 俺の返事に綾はばしーん、と壁を叩いて憤慨する。

「さっき、『会長さんに教えて貰うのは嫌だ』って言ったじゃない!」
「言ってないだろ!」
 コロコロと表情を変える妹に、正直戸惑いながらも俺は理由を口にした。
 さっきのは「会長さんにどうしても教えて欲しいのか」という問いに対する返事だ。確かに会長さんに対する苦手意識は消えてなんか居ないけれど、でも、彼女に対する苦手意識よりも、魔法使いの端くれとして、紅坂の魔法使いの手ほどきを受けてみたい、という欲求は抑えるのは難しいわけで。会長さんがどんな風に魔法を他人に教えるのか、興味がないって言ったら嘘になる。

「大体、綾だって興味あるだろ? 会長さんがどんな風に他人に魔法を教えるのか、とか」
「う。それは、まあ……あるけど」
 俺の問いに、綾は、しぶしぶ、といった態度で頷いた。

「そもそも、せっかくの会長さんの好意なんだし断るのも悪いだろ?」
 さっきの綾の話によれば、今朝のことだって会長さんから差しのばされた和解の手だった訳だし。それならなおのこと、好意を無碍にすることは出来ない。
 そう言う俺に、綾は少し拗ねたように唇を小さく尖らせる。

「うー。そうだけど。そうだけどっ。でも、限度ってものがあるじゃない」
「限度?」
「そうよ! その「好意」がどんどん過激になっていったらどうするの? まさか、兄さん、会長さんにあんなこととか、そんなこととか要求つもりなの?!」
「落ち着け。頼むから」
 こいつは兄をどんな人間だと思ってるんだ。っていうか、あんなことって何なんだ。

「なんか勘違いしてないか、綾」
「勘違いって何よ」
「だから、会長さんだって別に家庭教師のようなことをやるつもりなんてないだろ? あの人、いろいろと忙しそうだし」
「それは……多分、そうだと思うけど」
「だったら、教わるのなんてせいぜい一回や二回ぐらいだろ? だったらそんなに大げさな話じゃないんじゃないのか?」
「うー。そうかも、だけど……だけどっ」
 なんだか不満そうな表情で、しかし、綾は直ぐには反論を返してこない。「理解はしているが、納得はしかねている」という表情だろうか。
 しかし、こいつはなんだってそんなに会長さんが俺に魔法を教えるのを嫌がるんだ? まさか本当に俺が会長さんの謝意につけこんで、不埒な要求をすると思ってる訳じゃないだろうけれど……。

「なあ、綾。お前こそどうしてそんなに嫌がるんだ?」
「それはっ……」
「それは?」
「だって、私だって兄さんに魔法教えて上げる事なんてそんなにないのに」
「え? そうか?」
 予想していなかった指摘に俺が首をかしげると、綾はますます不満げに頬をふくらませる。

「そうだよ。兄さん、魔法のことだったらレンさんとか速水先輩に訊いちゃうじゃない」
「ああ、そう言えばそうだよな」
 綾の指摘に俺は「確かに」と頷いた。綾の魔法の実力が俺より上、というのは周知の事実なわけだけど、実際の所、綾に魔法を教わる、ということはあまりなかったかもしれない。
 きちんと魔法を教わるのなら母親にして教師のレンさんがいるわけだし、それ以上に龍也や霧子と一緒に勉強している方が、なにかと気兼ねが無くて良い。……あと流石に妹に頻繁に教えを請う、というのは抵抗があったりするわけで……。

「私だって……兄さんに魔法教えてあげたいのに。兄さんに魔法を教えるのは私の役目だって決まってるのにっ」
「いやいや、待て。いつからそんなのがお前の役目になった」
「だから、私の役目なのに、今まで私の役目になってないことが変なの! おかしいの! 不満なの! もう、そんなことぐらいわかってよ、兄さん」
「わかるか!」
「大体、お礼だったら私もしないといけないでしょ? いくら会長さんでもそこは譲るわけにはいかないの!」
「お礼?」
「そうだよ。会長さんは遊園地の件のお礼、って言ってくれてるけれど、それだったら、私の方が、ずっとずーっと大きなお礼を兄さんにしないといけないのに」
「あのな」
 綾の言っている「お礼」とは、要するに例の遊園地の一件のことだろう。でも、あの件については正直、俺は何も出来ていなかったわけだから、綾から「お礼」なんて貰うのは筋違いだ。とはいえ、綾の様子を見ている限りは、そんな事を言っても聞き入れるようには思えない。
 
「えーとだな。いいか、綾。兄が妹を助けるのなんて当たり前なんだから、そんなこと気にするんじゃない」
「じゃあ、妹が兄に魔法を教えるのも当たり前だから、今日から私が兄さんの魔法を教える役になるね」
「いや、それは当たり前じゃないから」
 普通は妹や弟は、兄や姉に魔法を教えません。そんな俺の指摘に、なおも綾は不満そうに頬をふくらませた。

「……そんなに、私じゃ駄目なの?」
「え?」
「兄さん。そんなに、私より会長さんの方がいいの……?
「そこはかとなく誤解を招く物言いは止めなさい」
 なんだってこの妹は、そんなに兄に魔法を教えたがるのか。まあ、好きなことを人に教えるのは楽しい、っていうことなのかもしれないけれど。そんなことを考えながら、俺は「さて」と内心で呟いて腕を組んだ。なんだか今日の綾はひどく感情的に見える。さっきの綾の話を聞いていると生徒会では会長さんに良いように言いくるめられたみたいだから、その辺も関係しているのかも知れないけれど……どうしたものか。
 と、そこまで考えた所で、別の考えが頭に浮かんだ。そもそも、これは、あまりややこしい話じゃないかも知れない。

「わかった。じゃあ、こうしないか。綾も俺に魔法を教えてくれ」
「え? いいの?」
「うん。まあ、そろそろ中間試験の時期でもあるし、教えてくれるのなら正直ありがたいしな」
「本当?!」
 俺の提案に、綾の表情に喜色があふれる。そこまで喜ばれるとは思っていなかったので、ちょっと驚きながらも俺は言葉を続けた。

「でも、条件が二つある」
「条件って、何? その……いけないこと?」
「ち・が・う。会長さんにも教えて貰うけど、それに文句を付けないこと」
「えーっ! なんで? 私が教えるのに?」
「それはそれ、これはこれ」
「そんな……っ! 兄さんは、自分の彼女に堂々と浮気を見逃せっていうの?!」
「なんで魔法を教えて貰うのが浮気になるんだ」
 何故か悲鳴のような声を上げる綾に、俺はため息混じりに首を横に振った。複数人から魔法を教わることが浮気になるのなら、魔法院は大変なことになってるだろうが。
 ……あと今、なにげに彼女とか変なこと言うんじゃありません。

「ともかく、別に会長さんに教えて貰うのと、綾に教えて貰うのって同時に出来ない訳じゃないだろ? 単に時間ずらせばいいだけだしさ」
 そうなのだ。さっきも言ったように、会長さんだって忙しいだろうし、そんな毎日、ずーっと俺なんかに構っている暇はないだろう。つまり教えて貰えるとしても時間にすれば僅かな時間。そのほかの時間に、綾に魔法を教えて貰うことに何ら支障はないはずだ。

「そうだろ?」
「それは、まあ……そうだけど」
「あともう一つ、自分の勉強の方を疎かにしないこと」
 これは兄としての最低限のけじめ。流石に、自分の成績のために妹の成績を落とすような真似は出来ない。そう言うと、こちらの方の条件には綾は「わかった」と素直に首を縦に振ってくれた。

「よし、じゃあ、そういう事でお願いできるか?」
「うー。でも、なんだか兄さんは私に積極的に教わる気がないような気がします……」
「そんなことはないぞ? 多分」
「多分、ってなによ! その辺から既にやる気なさげなんだけど」
「そう言われてもなあ……」
 話は付いた……と思ったのもつかの間、今度は俺のやる気についてご不満な様子だった。とはいえ、いきなり兄の部屋に押しかけてきて、魔法を教えさせなさい、と宣う妹に対して、「是非お願いいたします」と誠意とやる気に満ちあふれた返事を返せ、というのはいささか酷なように思うのだけれど、どうだろう。というか、未だに、何で綾がそんなに会長さんに対抗心を燃やしているのか掴めていない訳で、こちらとしてはやる気よりも、困惑の方が先立ってしまう。
 そんな俺の内心を知って知らずか、俺の顔を「じー」と不満げに見つめていた綾だったが、不意に目を開くと「ぽん」と両手を胸の前で打ち合わせた。

「そうだ! じゃあ、私に魔法を教えさせてくれたら……ご褒美を上げる」
「ご褒美?」
「うん。何でも一つ言うこと聞いてあげる」
「それはまた豪気な」
 確かにやる気を出させるのにご褒美っていうのは有効だけど……、しかし、こういう場合は、教えて貰う方がそういう台詞を吐くものじゃないんだろうか。なんで教える方がご褒美を与える側になるんだろうか。

「それでも、駄目? やる気でない?」
「いや、やる気というか、なんというか」
「私にして欲しい事って無い?……何でもするよ?」
「何でも、ってお前な」
 妹に言われたんじゃなければ、酷く意味深な台詞なんだろうけれども。でも、教えてくれる側の人間にここまで言わせておいて、断るなんて言うのも流石にできない。
 なんで綾がここまで必死なのか分からないけれど―――その理由が分かるまでは、綾のペースに付き合っても良いか、と思う。まあ、魔法を教わることは別に悪い事じゃないし。

「わかった。じゃあ、ご褒美を楽しみに頑張る事にするよ」
「ホント?!」
「本当」
「ほ、ホントに何でも良いからね?! この際、倫理的な問題も無視しても良いから」
「あのな」
「……寧ろ無視して欲しいし」
「何?」
 今、なんかおかしなことを言われた気がするけれど……まあ、いいか。

「でも、普通は逆だよな」
「逆?」
「お礼なら俺もしないといけないんじゃないのか?」
「え? じゃあ、兄さんが何でも言うこと聞いてくれるの?!」
「そんな危険な約束はしません」
 もの凄い勢いで目を輝かせる綾の言葉を、俺は冷たく切って捨てる。

「えー!」
「えー、じゃない」
 何を要求するつもりだったんだ、こいつは。なんだか悲痛な声をあげた妹は、しばし考え込むような表情を見せてから、すぐにまた名案を思いついたとばかりに目を輝かせて俺の顔をのぞき込んだ。

「じゃ、じゃあ、こうしない? お互い相手の言うことを何でも一つだけ聞くっていうのは……どうかな?」
「……ふむ」
 そう言われて、俺は暫し考え込んだ。正直なところ「何でも」という辺りに、そこはかとない不安を感じなくはない。さっきの綾の様子から見て、俺に対して何か要求したいこともありそうだし。
 でも、「互いに」ということなら綾もそこまで無茶な要求はしてこないんじゃないだろうか。俺に対する要求が高ければ、自分にも跳ね返ってくる訳だし。

「いいよ。それでいこう」
「ほ、本当?!」
「まあ、お兄さんは妹さんの良識に期待します」
 まあ多少の品ならアルバイト入れれば何とかなるだろうし、とそんな気持ちで頷いた瞬間、綾が勢いよく立ちあがると、大あわてでドアの方へと向かっていった。

「綾?」
「待っててね! 今、勉強道具用意してくるから!」
「今からするのか?」
「勿論! 今夜は寝かせないからね、兄さん」
 そう言って、綾は元気いっぱいに、自分の部屋へと戻っていったのだった。

「……いや、ホントになんなんだろうな?」
 思わず呆然と呟いてしまった、こんな兄を残して。


/3.朝の神崎家(神崎良)

「……眠い」
 翌朝。玄関に向かいながら欠伸混じりに呟くと、後ろから綾が少し怒ったような調子でため息をついた。

「もう。兄さんは気合いが足りません。ちゃんと睡眠時間は確保してあげたのに」
「確保って……3時間だろ」
「無いよりマシでしょ?」
「まあ、それはそうだけどな。無茶して倒れたら意味がないだろ」
「そのときは私が看病してあげるし、枕元で魔法も教えてあげるから大丈夫」
「魘されるから止めてくれ」
 呻くような俺の言葉に、しかし、綾は悪びれた様子もない。というか、綾も睡眠不足の筈なんだけど、その瞳は眠気どころか生気に満ちあふれていた。
 そう言えば俺に魔法を教えてくれているときも、もの凄く生き生きとしていたけれど……

「なんで、そんなに元気なんだよ。お前」
「え? だって、そんなの勿論―――」
「勿論」
「えへへ……内緒」
 俺の問い掛けを小さく笑って受け流すと、綾は「えい」とばかりに俺の腕を両手で抱え込んだ。

「……おい」
「何?」
 俺の腕に抱きついたまま、綾は問い掛ける俺を不思議そうに見上げる。

「いや、「何?」じゃないだろ。なんで腕なんて組んでるんだ?」
「えーと……愛情表現、かな」
「暑苦しいから離れてくれ」
「照れなくても」
「照れてないから離れてくれ」
「嫌です」
 ため息混じりの俺の言葉に、綾は小さく唇をとがらせる。

「嫌って、お前」
「嫌ったら嫌なの。今日は学校までこのまま行きます」
「はい?」
「だから、学校まではこのままなの。いいでしょ?」
「いい訳あるか!」
 一体、何を言い出すのか、この妹は。
 そりゃ昔から、綾はこうやって抱きついてきたりしているいけれど、それはあくまで家の中での話だ。流石に、この格好で登校、なんて真似ができるほど俺は度胸は据わっていない。しかもシスコン疑惑が、周囲から、そして自分の中からも沸き上がってきている昨今なのだ。こういう態度は非常によろしくない。

「あのな、綾」
「……ごめんね」
「え?」
「でも……、お願い」
 なんとか諭そうとした矢先、俺の言葉に被せられたのは予想していなかった謝罪の言葉だった。腕に込める力を少し弱めて、綾はすがるような感情を目に込めて、俺の顔を見つめる。

「魔法院までじゃなくて、途中までで良いから……こうさせて欲しいの」
「……理由があるのか?」
「……うん」
 俺の問いかけに頷きを返すと、綾は軽く目を伏せ、そして独り言のように呟いた。

「兄さんへの優先権とか、所有権とかが誰にあるのか、はっきりと示すべきだって思ったの」
「……優先権?」
「あ、ごめん。今の気にしないで?」
「気にするなって、お前」
 今、なにかもの凄く不吉な単語を口にしなかったか。優先権だの所有権だの、そういうおかしな単語を。
 
「いいから! 気にしないでったら」
「何が良いんだ、何が」
「いいのっ! お願いだから、今日は私の言うことを聞きなさい」
「いや、だからな?」
「お願い……駄目?」
 勿論、駄目に決まっているのだけれど……綾の顔をみてしまうと否定の言葉が出てこなかった。そのせっぱ詰まった表情を見ると、無碍にできないって思ってしまう。
 まあ……いいか。
 シスコン・ブラコン呼ばわりされたとしても、あくまでそれは兄妹の範疇の訳であって、そこまで気に病むことではないのかも知れない。いや、霧子と龍也にまた怒られてしまうそうなんだけど……昨日おそくまで熱心に魔法を教えてくれたわけだし、多少の我が儘ぐらいは聞いてやらないと罰があたりそうだ。

「……今日だけだからな」
「うん! ありがとう」
 そう言って喜色に顔を輝かせる綾に観念して、腕を組みながら玄関の扉をあける。と、その瞬間、綾がぽつり、と呟くように言葉を零す。

「……ところで兄さんは、何も思わない?」
「何が」
「だから……その、ドキドキしたりしない?」
「ドキドキ?」
「あ、うん。ほら、こうして女の子が腕を組んでるわけだし」
「妹相手に、どきどきはしない」
「うー、そんなに断言しなくても良いじゃないっ」
「いや、普通はしないだろ?」
「世の中には、そういう背徳感に酔いしれる人もいるんだよ?」
「残念ながら、俺は普通なの。そういう歪んだ価値観はもってません」
 いや、最近ちょっと危なかったけど。でも、妹は妹だし、腕を組むこと自体にそこまで抵抗は感じない。素直にそう告げると、我が妹さんはひどく不機嫌そうに眉をしかめた。

「うー、なによ、それ」
「なんで怒ってるんだよ。でも、それよりいいのか?」
「え? 何が?」
 俺の問いかけの意図がわかっていないのか、綾は小首を傾げる。

「だから、こういう所を誰かに見られてもいいのかって。お前、好きな人いるんだろう?」
「…………」
 そう。今のところ、その相手が誰なのか、教えて貰っては居ないけれど、遊園地で確かにこいつは「好きな人がいる」と言ったのだった。だから、それを気遣う言葉を口にしたのだけれど……何故か、綾が目に見えて不機嫌になった。

「綾?
「……っ」
「痛い痛い痛いっ」
 無言になったかと思うと、綾はいきなり二の腕をつねる。

「って、痛いだろ! いきなり、何を怒ってるんだよ」
「別に」
「いや、怒ってるだろ」
「いいえ。怒って、なんか、いません」
「……怒ってないのに、人の腕をつねるのか。お前は」
「今のは教育だから良いの」
 憮然とした表情で呟きながら、綾は更に強く俺の腕に抱きついた。

「……まったく。昨日からちょっと変だぞ、お前」
「どーせ、私は変ですよーだ。良いもん、変で」
「いや、変なのは良くないだろ」
「いいの。兄さんに責任取って貰うんだから」
「兄におかしな責任を背負わせるな……」
 果たして機嫌は直ったのか、直っていないのか。よく分からないままに、それでも二人腕を組みながら俺たちは玄関を抜け、そして家の外に出た。
 そして、その瞬間。

「ごきげんよう。朝から兄弟で仲がよいのね、神崎さん?」
「―――うっ。おはようございます」
「会長。お、おはようございます」
 昨日と同じように、門の前に佇んでいた会長さんが、にこやかな表情で朝の挨拶をしてくれた。半分、予想していたことではあったが、それでも会長さんが迎えに来てくれているような状況に慣れなくて、俺の口からは小さな呻きのような声が漏れた。そして、それはどうやらきちんと会長さんの耳に届いていたようで、会長さんは笑顔のまま、ぴくり、と僅かに米神のあたりを引きつらせる。

「……神崎さん。なにかしら、今の嫌そうな「うっ」っていう声は」
「いえ、癖です。あまり気にしないでください」
「あらそう? そんな奇怪な癖はお困りでしょう? 直してあげましょう」
「何故、そこで笑顔で手を振り上げますか、あなたは」
「あら、知らない? 女性の顔をみて「うっ」なんて呻く癖は、思いっきり殴打すれば治るんです」
「満面の笑顔で嘘をつかないでください」
「最初に嘘をついたのはあなたじゃないですか」
 いつものようにいつもの如く……と言ってしまうのはもの悲しいものがあるのだけれど、それでもいつものように口論になりそうな雰囲気は、今朝は篠宮先輩が打ち消してくれた。

「……セリア」
「あ」
 横合いから篠宮先輩に呼び掛けられて、会長さんは「コホン」と咳払いをひとつする。そんな会長さんの横目に、篠宮先輩は折り目正しく折り目正しくお辞儀を俺と綾に向けてくれた。

「おはようございます、神崎さん。綾さん。今日も朝からご迷惑を」
「おはようございます、篠宮先輩。いえ、こちらこそ済みません」
「鈴。今日「も」ってどういう意味かしら」
「そのままの意味です」
「……鈴のいじわる」
 篠宮先輩の台詞に、会長さんは少し拗ねたように眉を寄せたが、すぐに気を取り直したのか、俺と綾の方に向かって小首をかしげた。

「ところで、いつもそうして歩いているの? あなた達」
「いや、いつもは―――」
「ええ。いつもこうしてるんです。私たち」
 否定する俺の声を、素早く遮るのは当然のことながら俺にしがみついている綾だ。っていうか、なんでそこで平然と嘘をつくかな、お前は。
 俺がそんな妹の嘘を指摘するより前に、会長さんはなんだかひどく感心したような面持ちで首を縦に振っていた。

「なるほど。神崎さんと綾さんの兄妹仲が良い、というのは聞いていたけれど、本当だったのね」
「ええ。とっても仲良しですから、私と兄さんは」
 そう言いながら、綾は更に強く、俺の腕を抱きしめる。……ってか、胸が思いっきり押しつけられてるんだけどな、綾。いくら兄相手でも、そこまで無防備なのはどうかと思うぞ。
 内心でそう呟きつつ、かつ、腕に押しつけられる感触を極力意識しないように努めながら、俺は会長さんに言葉を向けた。

「まあ、仲は良いですよ。いつもじゃないですけど」
「いつもです」
「……だそうです」
「ふーん。そうなの」
 俺の投げやりな返事に、頷きながら会長さんは、何故か、じー、と俺の腕を凝視する。

「会長?」
「こうかしら」
 その視線の意図を計りかねて、俺が呼びかけるのとほぼ同時、会長さんはいきなり腕を絡めてきた。開いている方の俺の腕に、綾と同じように、しがみつくような形で。

「え?」
「エスコートされる感じじゃないわね。流石に少し恥ずかしいかな」
 なにやら会長さんが右側でぶつぶつと感想を述べておられるが、予想もしていなかった行動に、俺は完全に不意をつかれて、意識が白くなる。
 っていうか、腕に当たる柔らかな感触は、ようするに、つまり、会長さんのアレな訳で、会長さんって、綾に負けず劣らずというか、綾よりもあるんだな―――って、いや、違う?!

「か、会長?!」
「セリア?!」
「ちょ、ちょっと兄さんに何をしてるんですかっ?!」
「何って、綾さんの真似をしてみたのだけど」
 裏返った声をあげる面々に、会長さんは「何か問題があるのか」と不思議そうに小首をかしげた。

「……いけないの?」
「いけません!」
「駄目です!」
 訝しむ会長さんに、篠宮先輩と綾が声をそろえて首を横に振る。そんな二人の勢いに押された……のかどうかは分からないが、会長さんは「そう」と素直に頷くと、すっと俺から体を離してくれた。

「神崎さんとの友好を深めようと思ったのだけど……少し、勇み足だったかしら。ご免なさいね、綾さん。神崎さん」
「は、はあ」
「じゃ、いきましょう。生徒会のメンバーが遅刻しては示しがつかないものね」
「え、あ……はい」
 そういって何事もなかったかのような涼しげな顔で会長さんは、一歩前に踏み出した。その背中を見送りながら、俺はバクバクとなったままの心臓に手を当てる。

「び、びっくりした……」
「………………兄さん?」
「え? あ、どうした?」
「どうしたじゃないわよ…………っ」
「? 何が?」
「なんで、会長さん相手だとそんなにドキドキするのよ……っ!」
 小声で怒鳴りながら、綾が思いっきり俺の腕をつねったのだった。

 /

「セリア。やりすぎですよ」
「ふふ。少し綾さんに意地悪したくなっただけよ」

「例の件は言い出さなくて良いのですか?」
「今言うと、綾さんが怒っちゃいそうだしね。休み時間に教習するのも面白そうじゃない? ふふ、速水君と桐島さんにも久しぶりだしね」

続く

前のページへ

小説メニューへ

サイトトップへ



ご意見・ご感想などありましたら、下記メールフォームなどで頂けると嬉しいです。


お名前(省略可)
メールアドレス(省略可)
作品への評価(5段階)



ご感想など(省略可)
inserted by FC2 system