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  魔法使いたちの憂鬱

       第二十三話 気遣う人たち

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/1.龍也さんの場合(神崎良)

「それで会長さんを押し倒しちゃったの?!」
「あ、バカ、声が大きい!」
 大きな声を出しかけた龍也を制して、俺は急いでドアの方へと意識を向けた。一秒、二秒と時間が立っても、ドアが勢いよく開いたり、けたたましい足音が迫ってくる気配もない。どうやら「押し倒した」なんていう危険きわまりない台詞は、綾やレンさんの部屋にまでは届かなかったらしい。その事を確認してから俺は小さく安堵の息をつく。

「……ふう。大丈夫だったか」
「ご、ご免。つい、びっくりしちゃって」
「いや、いいよ。その気持ちは分かるから」
 声を潜めて謝る龍也に俺はそう言って首を横に振った。俺だって龍也の口から「会長さんを押し倒した」なんて台詞を聞いたら、思わず大声を出してしまうだろうから。
 そう告げる俺に小さく頷くと、龍也は声の調子を抑えたまま、どこか感慨ぶかげに口を開く。

「でも……良って本当、行動が大胆になるよね。時々」
 会長さんから魔法の講義を受けた翌日(つまり会長さんを押し倒してしまった翌日)。魔法を教える当番として俺の家に来てくれた龍也は、俺が話した昨日の出来事への感想としてそう言った。
 
「大胆かな」
「大胆だと思うよ」
 呆れているのか、それとも感心しているのか。龍也は複雑そうな面持ちで俺を見つめると、軽くため息をつく。

「あのね、良。普通は会長さんに挑発されても、本当に襲いかかろうなんて気は起こさないよ」
「そ、そうかな」
「そうだよ」
「いや、でもさ。あそこまであからさまに挑発されたら、ちょっとぐらいは挑発に乗ろうって気にならないか? 普通」
「だから普通はならないの。少なくとも僕は会長さん相手にそんなことする度胸はないよ。去年のこと、忘れてないよね?」
「う」
 龍也の指摘に、俺は反論の言葉に詰まる。確かに去年、龍也は会長さんに対して反抗しなかった。確かにそれは事実なわけだけど、でも……なあ。

「いや、でもなあ」
「『でもなあ』じゃないの。そもそも、そういう挑発に乗るのは色んな意味で駄目だよ」
 今ひとつ納得しがたい、と態度で告げる俺に、龍也は諫めるように少しだけ声の調子を強めた。

「色んな意味で、って。どういうことだよ」
「一つは、怪我するかも知れないって事。いくら会長さんだって威力の加減に失敗することぐらいはあるんだから。わざと護身用の魔法を受けてみよう、なんて考えちゃ駄目だよ。もし怪我でもして病院に運ばれたらなんて事情を説明するの? 襲いかかって撃退されました、なんて言える?」
「た、確かに」
 確かに万が一怪我でもした場合、そんな理由は言いづらい。そもそもそんな事態になったら、俺だけじゃなくて会長さんにも迷惑がかかる。

「もう一つは、ある意味、もっと深刻な問題だよ」
「もっと深刻?!」
「そう」
 龍也は抑えた声で頷きながら、確認するように俺の目を覗きながら、言った。

「良。ちょっとでもその気にならなかった?」
「その気……って、え、それって」
「うん。会長さんを押し倒したりして、ドキってしたりしなかった?」
「う」
「ぜーったいに間違いなんて起こりえなかったって誓える?」
「ううっ」
 会長さんに対して恋愛感情を抱いているかと聞かれれば、そんな事はないと答えられる。あの時だって断じて会長さんを「そういう目的」で襲おうと思った訳じゃない。でも、確かに会長さんは美人で、その顔を間近に顔を見つめて、緊張しなかったと言えば嘘になる。本当に「絶対に」龍也の言うような間違いが怒らなかったという保証は……無いのかもしれない。

「そういうこと。わかった?」
「……わかった」
 龍也の指摘に自分の行動の迂闊さと軽率さを自覚して、俺は素直に龍也に頭を垂れた。

「反省してる?」
「してます」
「本当に?」
「以後、軽挙妄動は厳に慎みたいと思う所存です」
「よろしい」
 俺の返事に、ようやく龍也は表情を緩めてくれた。確かに龍也の言うとおり、何がきっかけで間違いが起こるかなんて分からない。実際に、「押し倒せるはずがない」と思っていた会長さんを、何の間違いか「押し倒せてしまった」訳だし。今後はもう少し考えて行動しよう。そう反省しつつ頷く俺に、龍也も安堵したように微笑んで言葉を続けた。

「でも、それで納得したよ。会長さんの様子がおかしかったのは、その所為なんだね」
「へ?」
「だから、今朝の会長さんの様子、いつもと違ったでしょ?」
「いつもと違ったって……そんなに変だったのか?」
 今朝の光景を思い出しながら、俺は首を傾げた。少なくとも俺の目から見て、会長さんはいつも通りに見えた。そう答える俺に龍也は小さく苦笑して肩をすくめる。

「気付いてなかったの? まあ、そういうのは良にはわからないかな」
「俺は、鈍くて人の心が分からない男だよ。どうせ」
 軽くからかう口調の龍也に、俺は肩をすくめて応じた。まあ、自分が鋭いとは思っていないし、そもそも龍也がそういう事に鋭すぎるだけだろうから、実際はあまり気にしていないけど。

「それよりも話を戻すけどさ。会長さんを押し倒せたのは何でだと思う?」
「うーん」
 それこそが、今日の本題だった。昨日の事態は一体何が原因で引き起こされたのか。その問い掛けに龍也は腕を組み、考え込みながら中空に視線を投げた。

「素直に考えると……会長さんが魔法を失敗したんじゃないのかなあ」
「失敗って、あの会長さんが、か?」
「誰にだってミスはあるよ。猿も木から落ちるって言うでしょ?」
「お前や会長さんはミスしないっていうイメージがあるんだけど」
「それは買いかぶりすぎだよ」
 首を横に振りながら、龍也は小さく苦笑した。確かに龍也も会長さんも人間だから、失敗することぐらいはあるだろう。でも、俄には納得できなくて、俺はなおも言葉を重ねた。

「でも、会長さんが使おうとしたのは単純な束縛の魔法だぞ? 本当にあの人が失敗すると思うか?」
「それは……確かに変かも知れない。あ、でも、単文節詠唱だったんでしょ?」
「ああ、うん。多分」
 あの時、会長さんが口にした呪文は、一つの文節だけだった。そして、それだけで確かに魔法は発動しようとしていたので、単文節の魔法と思って間違いはないと思う。そう答えると、龍也は納得したように頷いた。

「なら、失敗してもおかしくないんじゃないかな。内容が単純でも、方法が難しいなら失敗しても不思議はないでしょ?」
「魔法の文節を省略したから失敗したって事か」
「うーん。それは……そう思うんだけど」
 単文節の詠唱は魔法院の高等部でも習わない上級技術だ。だから、会長さんといえども失敗してもおかしくはない。そういう龍也の説明は別段、間違ってはいないと思う。寧ろ、そう考えることの方が自然だろう。でも、俺は素直にその考えに納得できなかった。

「納得、できてないみたいだね」
「いや、なんというか、そうだな。あの時の会長さんは「しくじった」みたいな態度じゃなかった気がするんだ。なんとなく」
 記憶の中によみがえる、あの時の会長さんの顔。あの時、彼女の顔に浮かんでいた驚きは、自身の魔法が失敗した事に対する驚きだったんだろうか。そして、最近、会長さんから聞かされていた「俺に特別な力がある」という話。アレは今回のことに本当に関係していないのだろうか。その想いが俺に素直に首を縦に振らせてくれなかった。

「なるほど。良の直感は魔法の失敗は会長さん自身が原因じゃないって、そう告げているってことだね」
「当てにならない直感だけどな。多分、龍也の考えであってると思うんだけど」
「そうとも限らないよ」
 呟くようにそう答えると、龍也はしばし思考に沈むようにして腕を組んだ。でも、それは長くは続かず、直ぐに龍也は腕をほどいて、俺に向かって口を開く。

「ねえ、良。それって例の会長さんが言っていた話が関係してると思う? 良に隠された力があるって話」
「……正直、わからない」
 最初は、そんなことはあり得ないって笑い飛ばしていた話。でも、あの時起きた出来事が、その話にほんの少しの信憑性……というより、期待感を与えてしまった気がする。「ひょっとしたら」なんていう縋るような淡い期待。

「そっか。だったら、再現してみない?」
「再現?」
「うん。実際に、どういう体勢だったのか、どれぐらい詠唱のための時間があったのかがわかると、もう少し考えが纏まると思うんだ」
「なるほど」
 確かにそうかもしれない。龍也なら会長さんに匹敵する実力を持つわけで、具体的にあの時の状況が分かれば原因は分かるのかもしれない。龍也なら怪我をするような魔法を使うことは無いだろうし、もう一つの方の「間違い」が起こる可能性もないわけだし。だから、俺は龍也の提案に頷いて、腰を浮かせた。

「よし。じゃあ、そっちに座ってくれ」
「ここ?」
「そう、その辺。で、おれはこの辺り」
 昨晩の事を思い起こしながら、俺は龍也にベッドを指さして、俺は机の方に向かった。龍也の方は俺の指し示した辺りに素直に腰を下ろしてから、確認するように俺を見た。

「ここで良いのかな。姿勢はこんな感じ?」
「そうそう。位置関係はこんな感じだったよ」
 昨日の状況を脳裏に思い浮かべながら、俺は龍也に頷く。うん、こんな風に向かい合っていたし、こうやって相手の出方を探るようにじっと見つめ合っていた……って。おい。

「龍也?」
「え? なに?」
「いや、何故に赤くなる」
「あ、赤くなんてなんか無いよ?!」
 俺の指摘に、大慌てで龍也は首を横に振って、俺の目をのぞき込んでいた視線を外した。
 ……いや、なんというか、龍也。そういう反応は止めた方が良いのじゃないだろうか。俺にそちらの気があったら、それこそ「間違い」が置きかねないような態度だから。と、閑話休題。

「えーと、じゃあ、今からお前を押し倒すから」
「よ、よろしく」
「一応、言っておくけど、わかってるよな? お前はそうならないように抵抗するんだぞ?」
「あ、そうか。そうだよね、あはは……」
「……」
「じょ、冗談だよ?! 冗談に決まってるじゃないか。やだな。勿論わかってるってば」
 あはは、と誤魔化すように笑う龍也に、一瞬、あらぬ疑惑が胸に浮かびかけたけれど、それを小さく頭を振って追い出す。
 これは俺の疑問に答えを出すように、龍也がやってくれていること。なのに、そんな疑惑を抱くのは、友人相手とはいえ失礼だ。そう自戒して、俺は小さく咳を合図に気持ちを切り替える。そんな気持ちが伝わったのだろう。龍也の方も、俄に表情を引き締めて頷いた。

「じゃあ、行くぞ」
「うん。いいよ」
 その頷きと同時、俺は行動を起こす。やることは至極単純。身を起こして、床を蹴り、まっすぐに龍也に向かって押し倒すように両手を伸ばすだけ。昨晩をなぞる俺の行動に、龍也の行動も、自然と昨晩の会長さんの行動と重なっていた。慌てることなく迫っていく俺の姿をその目で捉え、その唇から短い魔法の言葉を紡いでいく。

「その身に束縛を」
 知ってか、知らずか。その呪文の言葉は、昨晩、会長さんが口にしたのと恐らく同じ呪文。ただ昨日は、その呪文が魔法として形を成すことがなかったのに……今日はそれが違っていた。放たれたごく短い言葉と同時、しびれるような感覚が俺の体を突き抜けたかと思うと、次の瞬間にはその魔法は形を成していた。

「うわっ?!」
 耳に届いた「しゅるり」という衣擦れの音。それと共に、ベッドのシーツが長く伸び、瞬く間にぐるぐると俺の体に巻き付いていた。

「く、このっ!」
 まるで蛇のように体に絡みつく白いシーツの縄。それを振り解こうと両手を振りかざしたものの、そんな抵抗は焼け石に水だった。白い蛇は俺の抵抗をモノともせずに、俺の両手両足を縛り上げ、結果、俺の体は目標としていた龍也の体に届くことはなく、その傍らに倒れ伏す。

「うう、分かっていたとはいえ、全く手も足も出ないとは……」
「よし。こんな所かな」
 小さく呻く俺に対して、龍也は魔法が成功したことに少しだけ満足げに呟いた。そして身動きが取れずにベッドに倒れ伏した俺を見下ろして微笑んだ。

「うん、結構ギリギリだったよね。この状況だったら、少しでも動揺があったら、失敗してもおかしくはない、かな」
「そうなのか?」
「会長さんなら失敗する方が少ないだろうけど……うん。やっぱり、距離が短いよ。焦っちゃうのも仕方ないんじゃないかな」
 見上げる俺に頷きながら、龍也はそう答えた。

「ちなみに良、手を抜いたりしなかった?」
「してないよ」
「女の子相手じゃないと本気になれないとかはないよね?」
「お前な」
「そうだね、ごめん。こういう時、良はそんなことしないよね。じゃあ……やっぱり会長さんが気にしている「良の特別な力」とかもやっぱり働いている訳じゃなさそうだね」
「そっか」
「うん」
 どうやら、龍也の見解では、やっぱり原因は俺の方にあるわけでなくて、会長さんの魔法の失敗にあるようだった。

「納得した?」
「うん、ありがとな」
「……残念、だった?」
「いや、そうでもない、かな?」
 全く残念じゃないって言えば嘘かも知れないけれど、それほどショックを受けている訳じゃなかった。最近、会長さんに「特別な力がある」ということを仄めかされていたから、期待していた部分があったけれど、そうそう甘い話はないって事ぐらいはわかってるつもりだから。
 やっぱりアレは会長さんの単純な失敗。なら、俺はやっぱり地道に頑張っていくしかない。そう納得して、俺は龍也に向かって頭を下げてから、シーツで縛られたままの体を揺すった。

「じゃあ、昨日の原因が分かったところで、これ、ほどいてくれるか?」
「うん。それは駄目」
「……へ? 駄目?」
 当然のように「うん」という返事を龍也に期待していた俺は、一瞬何を言われたのか理解できず、間の抜けた声を口から零す。そんな俺を尻目に、龍也は俺の肩に両手をかけると、「よいしょ」と強く力を込めた。

「ちょっとごめんね、良」
「おい? ちょっと待て、こら、うお?!」
 抵抗する言葉も空しく、俺の体は龍也に押されるまま、ごろん、と半回転し、その結果、俺は仰向けになって天を仰ぐ。視界にうつる天井の光景。でもその光景は、直ぐに龍也によって遮られてしまった。戸惑うまもなく、体にのしかかるのは龍也の重み。要するに龍也は、俺を仰向きにして、その上に馬乗りになった、という事……なんだけど。

「りゅ、龍也? お前、一体―――」
「今までのところで、会長さんと何があったのは分かったんだけどね」
 いきなりの成り行きに戸惑う俺を尻目に、龍也は落ち着いた様子で俺の肩に両手を置く。そして、ゆっくりと穏やかに、でも、はっきりとした口調で、その問いを口にした。

「じゃあ、霧子とは?」
「え?」
「だから、霧子とは、何があったの? 良」
「……っ」
 予想もしていなかった問いかけに、俺は組み敷かれたまま絶句した。その俺とは対照的に、龍也の表情は笑顔のまま。だけど、天井からの明かりに逆光になって、いつも優しげに笑っているその目が、今も笑ってくれているのかは、よく分からない。

「何か、あったんだよね?」
 問い掛けの形だったけれど、その口ぶりはきっともう「何かあった」ことを確信している。だから、俺は問いを重ねる龍也に、逆に質問を投げ返していた。

「どうして、そう思う?」
「霧子がね、浮かれてるから。今の霧子、もの凄く機嫌が良いからだよ」
「その言い方は、あいつが年中機嫌が悪いように聞こえるぞ?」
「良。はぐらかさないで欲しいんだ」
「……わかった」
 穏やかな笑顔の奥、妙な迫力を感じて俺は頷きながら唾を飲む。というか、やっぱり目が笑ってないんじゃないだろうか。こいつ。

「それで何があったの?」
「何があったというか、何もなかったというか」
「なんだか、煮え切らないね」
「いや、そう言われても。なんというか、未遂だからな」
「未遂?」
 その言葉の意味を反芻するように一拍の間を挟んでから、龍也が驚いたように目を開いた。

「ま、まさか霧子まで押し倒そうとしたの?! もしくは押し倒したの?!」
「してない! だから、そういう危険きわまりない発言を大声でいうなって!」
 人聞きの悪い龍也の台詞を、俺は大慌てでかき消した。そんな危険きわまりない台詞が、龍也の口からレンさんや綾の耳に届いたらどんな事態になるのか、想像するだに恐ろしい。その思いに思わず声を荒げた俺に、龍也は素直に謝ってくれた。

「ご、ごめんっ。じゃあ、こっそり聞くけど……良は、霧子に何をしようとしたの?」
「う」
 耳に落ちる龍也の声は、囁くような響きで耳に優しい。けれど、その問いかけの内容は、少し厳しかった。その内容が「何があった」から「何をした」に変わっているし、肩に置かれた手に少し力が籠っているから。だからきっと、ここではぐらかそうとしても龍也はそれを許してはくれないだろう。
 でも……果たして、龍也に言うべきだろうか。その迷いが胸を巡る。龍也と霧子の付き合いは、俺より長い。だから、龍也が霧子のことを好きかも知れないって言う疑問は常に抱いていて。だから、今までずっと、霧子に思いを伝えることに怯えてしまっていたのに。

「良? ……教えてくれないの?」
「……いや、言うよ」
 促す声に覚悟を決めて、俺は短く答えて頷きを返した。例え龍也が霧子のことを好きだったとしても、いや、龍也が霧子を好きだったらなおのこと……これは言わないといけないことだから。隠して、逃げても仕方ないことだし、逃げてはいけないことだろう。

「実はさ」
「うん」
「告白しようとしたんだ」
「……」
 短く告げた言葉。その内容に、僅かに龍也が息をのむのが分かった。

「それ……良が、霧子に?」
「そうだよ」
「……そっか」
 呟くような声に、感情は見えない。落とされる視線は逆光の影の中、僅かに揺らいだ気がしたけれど、その理由も、まだ俺には分からなかった。
 だから、俺はゆっくりと俺はあの時のことを龍也に話した。尤も、実際は告白にまで至って居ないわけで、話す内容なんてあまりないけれど。でも、伝えようと決めたあの時の気持ちは、龍也に話しておかないといけないと思ったから。だから、思い出せる限りの状況を、言葉に代えて龍也に伝えた。
 霧子との会話。好き、って偶然に零れた言葉とそれに対する俺たちの反応。俺がしようとしたこと。そして、まあ、最後には綾が乱入してきて未遂に終わったこと。それらを聞き終わると、黙って聞いてくれていた龍也は、一度、深く息をついてから、そして頷いた。

「なるほど。そういうことだったんだ」
「まあ、そういうこと」
「それで納得できたよ。うん、良の方から告白しようとしてたんなら、そりゃ霧子の機嫌は良くなるよね」
 その声は、なんだかとても優しくて、両肩にかかる手の力はいつの間にか緩んでいる。少なくとも、俺が霧子に告白しようとしたことに、怒っているようには思えないし、もう動揺しているようにも見えなかった。

「……なあ、龍也」
「何?」
「いや、あんまり驚かないんだな?」
「そりゃあね」
 訝しむ俺に、龍也は少し困ったような笑みを浮かべて頬を掻く。

「良が霧子を好きなのはわかってたから」
「え?! そ、そうなのかっ?!」
「割と見え見えだったよ?」
「……マジで?」
「マジです」
「そんなバカな」
 さらりと告げる龍也に、俺は絶句するしかなかった。龍也と、霧子との関係を壊さないように、霧子への感情は隠していたつもりだったのに。まさか……まさか、そんなにわかりやすい態度だったのか? 俺って。そんな思いに慄然とする傍ら、より重大な事に気付いて俺は、思わず声を引きつらせた。

「え? じゃあ、何か? 霧子にも、その、俺の気持ちって見え見えだったってことか?」
「うーん。それはどうかな。薄々は感じてたかもしれないけど、確信は持って無かったんじゃないかな」
「そ、そうか」
「うん。その点では良と同じだって思う」
「同じ?」
「そう。良だって、霧子が自分のこと好きでいてくれているかもしれないって思うことはあったでしょ?」
「……なんでお前はそこまで分かるんだよ」
「それは勿論、ずっと二人のことを見てたから。かな」
「そっか」
「うん。そうだよ」
 そう言って笑う龍也の口調は、さっきから穏やかなまま変わらない。俺が霧子のことを好きで告白しようとしたと聞いても。そして、俺たちのことをずっと見てきたと言ったときも。優しく微笑むようなその口調と表情は、あまりにいつも通りに龍也のままで。だから却って、龍也が霧子のことをどう思っているのか、その気持ちは俺にはよく見えないままだった。

「なあ、龍也」
「なに?」
「お前は……霧子のことどう思ってるんだ?」
「勿論、好きだよ」
「えっ?!」
 覚悟して投げた問いにあっさりと頷かれて、また俺は言葉に詰まる。そんな俺の反応に、龍也は小さく微笑んでから言葉を繋げた。

「うん、好きだよ。あくまで友達としてね。恋愛感情とはちょっと違うかな」
「そ、そうなのか」
「まあね。霧子とは付き合いが長すぎるからかな。勿論、霧子のことは大事だけど……そういう関係になりたいとは思ったことはないよ。安心した?」
「すごく。でも、本当か?」
「本当。これでも、ちゃんと好きな人は他にいるから」
「そうなのか?」
「うん」
「ちなみに誰なんだ?」
「それは、内緒」
「俺の話は聞いたのに、お前が言わないのは不公平じゃないか?」
「僕は良が誰を好きなのかは、言われなくてもわかってたもん。だから、不公平じゃありません」
「う……」
 確かにそう言われると一言もない。だから「降参」と告げて肩をすくめると、龍也は「分かればよろしい」と軽く笑って、俺の体を縛るシーツを解いてくれた。

「体、大丈夫? 一応、ちゃんと加減はしたんだけど、痛いところはない?」
「ん。大丈夫だよ。というか、寧ろ、お前が心配になった」
「え?」
「のしかかられても、全然苦しくなかったからな。お前、軽すぎる。今、体重いくつだよ……って、痛て」
 体をほぐしながらそんな台詞を零すと、龍也がコツリと俺の頭を軽く叩いた、

「あのね、良。人の体重を聞くなんてちょっと無神経だよ」
「いや、男に体重を聞いたって別に……」
「男でも体重を気にしている人はいるの。だから、聞いちゃ駄目です」
「わかったよ。悪かった」
「うん。分かればよろしい」
 そう言って冗談っぽく微笑む龍也の表情に、陰のようなものは見られない。いつもの龍也の穏やか笑顔。その事に安堵して……安堵しようとして、でも、俺は心に引っかかりを覚えてしまう。龍也は俺の心に気付いてくれていたけれど、でも、俺は龍也の心に気付いていなかったし、気付けていないから。だから、本当に龍也が霧子のことを友達としてしか見ていないのか、まだ分からない。俺に気を遣って、そう言ってくれているだけなのかもしれない。でも、そんな俺の心の引っかかりも龍也は見抜いていてくれていた。

「あのさ、龍也」
「良。霧子のことは、本当だよ。嘘なんかついてないってば」
「へ?」
「『俺に気を遣って無理をしてるんじゃないか』って聞こうとしたでしょ。今」
「……本当に、なんでお前は人の心をそこまで読めるんだ」
「理由は二つかな。良が単純なのと、僕がちゃんと良のことを見てるって事」
「そっか」
「うん。そうです。だから、心配しないでいいよ。少なくとも霧子とのこと邪魔したりなんかしないから」
「うん……そっか。わかった。ありがとうな」
 そう言って笑ってくれた龍也に、更に問いかけを重ねることは出来なくて。だから、俺は素直に礼を言って、軽く手を振った。

「ほんとに安心したよ。こういうこと相談できるの龍也しか居ないからさ」
「え?」
「だから、ここまでいろいろ相談できるのってお前ぐらいしか居ないから。だから、お前と霧子を取り合って険悪になるのなんて考えたくなかったんだよ」
「そっか。僕だけなんだ。ふーん。そうなんだ」
「なんだよ。そのニヤニヤ笑いは」
「別に。なんでもないよ」
 そう言いながら、龍也の顔からは笑顔が消えない。さっきまでの気遣うような優しい笑みじゃなくて、本当に嬉しそうな笑みに見えるのは……考えすぎだろうか。そんな風にしばし龍也の顔を眺めていると、不意に龍也が何かを思い出したように目を開いて手を打った。

「あ、そうだ、良。さっきの話だと、告白のこと、綾ちゃんに見られちゃったんだよね?」
「え? あー……それは微妙なところだな。見られたかもしれないし、見られてないかもしれない」
「ふーん。そっか」
「それがどうかしたのか?」
「いや、うん。なんでもないよ」
「何でもないって事はないだろ」
「うん、まあ、ね」
 追求する俺に、龍也は困ったように頬を掻きながら、やがて呟くようにでこう言った。

「でも、あまり良は心配しない方がいいよ。ただ……」
「ただ?」
「綾ちゃんが焦って頑張りすぎないと良いなあって思っただけだから」


/2.佐奈さんの場合(神崎綾)。

「これ以上、霧子さんに後れを取る訳にはいかないの」
 お昼休みの屋上。周囲に人がいないことを確認すると、私は拳を握りつつ佐奈に向かってそう告げる。そんな私の言葉を受けて、佐奈の方も首を縦に振ってくれた。

「確かに、由々しき事態だね」
「そうなのよ」
 佐奈の返事に、私は大きく頷いて同意を示す。由々しき事態、というのは他でもない。兄さんと霧子さんの関係だ。先日、私が兄さんの部屋の様子を盗み聞き……もとい、監視、じゃない、ともかく様子を伺っているときに兄さんが何をしようとしていたのか。そして、あのまま乱入しなかったらどうなっていたのか……考えるだに恐ろしい。
 そんな危機感で胸を一杯にして、今後の事に思案を巡らせる私に、佐奈は落ち着いた声で呼びかけた。

「でも、綾。ちゃんとわかってる?」
「勿論。だから、霧子さんに負けないように……」
「それはそうだけど、それだけじゃないよ」
「え?」
「だから、桐島先輩のことだけじゃないの」
「どういうこと?」
 いつも通りの淡々とした口調。だけど、その視線に真摯な光が灯っているように思えて、私は心持ち姿勢を正す。そんな私の態度を確認するように一度小さく頷いてから、佐奈はゆっくりと言葉を紡いだ。

「あのね、会長さんと良先輩の空気も少し変」
「変?」
「うん。ここ二日ぐらいなんだけど……会長さんの良先輩に向ける視線が少しだけ違う気がする」
「そ、そうなの?」
 戸惑う私に、佐奈は「気付いてなかったんだね」と呟くように零してから、諭すように少しだけ声を強くする。

「綾。桐島先輩ばっかりで、会長さんのことまで気が回らなかったんでしょう」
「……う、うん。そうかも」
 指摘されて私は素直に首を縦に振った。確かにここ数日は兄さんと霧子さんの方ばかりが気がかりで、会長さんの様子に気を配れていなかったかもしれない。……というか、間違いなく気を配ってなんか居なかった。いや、だって仕方ないと思う。あんな光景に出くわしたら、兄さんと霧子さんから目を離すわけにはいかないから。そんな私の内心の言い訳を見透かしたのか、佐奈は再度、諭すような口調で言った。

「気持ちはわかるけど、会長さんにも油断しちゃ駄目なんだよ?」
「うん……そうだね。ありがと。気をつけるね」
「うん」
「でも、佐奈。会長さんの様子が少し違うってどんな風に違うの?」
「なんとなく酸っぱい感じ」
「酸っぱい?」
 耳慣れない形容に私が首を傾げると、佐奈は真顔のままで恐ろしいことを言い出した。

「どことなく、らぶの香りがします」
「ら、らぶ?!」
 佐奈の口から出た言葉が一瞬信じられずに、私は思わずオウム返しにその言葉を繰り返す。

「ら、ラブって、あれ? 愛ってこと? 好きだって事? カグラザメ目ラブカ科の海水魚のこととかじゃなくて?!」
「綾って予想外の方向から知識を引っ張ってくるよね……」
 狼狽する私に、何故かひどく感動したような表情を一瞬浮かべてから、佐奈はそれを打ち消すように小さく首を左右に振ってから続けた。

「残念ながら深海魚のことじゃないの。普通に「好き」の方、だよ。なんとなく会長さんが良先輩を見る目がそんな感じ。綾みたいにねっとりとしてないから分かりづらいけど」
「わ、私はねっとりなんかしてないよ?!」
「してます。綾の愛は重いから」
「さーなーっ!」
「冗談だよ?」
「わかってるけど! 爆弾発言の後に冗談を混ぜたりするのは、止めてよぅ」
「そっか。ごめんね」
 泣きそうな私の声に、あまり悪びれていない様子で小さく謝ってから、佐奈は「でも」と呟いてから表情を改める。

「会長さんが良先輩を好きになった、って考えるのは気が早すぎるかもしれないけど……でも、少なくとも昨日今日の会長さんの良先輩を見る目は、今までと、やっぱりどこか違ったよ? 優しいような、ちょっと熱いような、そんな感じが少しだけしたから」
「うそ……」
 それは佐奈の勘違い。そう言って捨てられれば、どれだけいいだろうか。でも、佐奈の観察眼はかなり鋭い。誰にも言っていなかった私の兄さんへの思いを見抜いたのは佐奈だけだったから。そんな佐奈のいうことだから、わたしは「そんなはずはない」と否定することが出来ないで、ただ困惑に弱々しい言葉を零してしまう。

「どうして……?」
 ここ最近、会長さんが兄さんに興味を持っていたのは分かっていた。篠宮先輩からそれらしいことを聞いていたし、実際に家にまで押しかけてきて魔法を教える、なんて言い出したのを目の当たりにしていたから。でも、会長さんが兄さんに向けているのはあくまで「好奇」であって、「好意」ではなかったはずなのに。そして、好奇と好意の間には大きな隔たりがあるはずなのに。
 それなのに、佐奈は会長さんが兄さんに向ける感情に変化を感じ取ってしまった。それは、つまり会長さんが兄さんに対する「興味」を強くした、ということだから……、一体、何があったんだろう?

「会長さんが兄さんに魔法を教えたときに何かあったのかな」
「うん。可能性としては、それが一番高いかも」
「まさか会長さんの手ほどきで兄さんの魔法の才能が物凄く向上した、とか……?」
「どうかな? もしそうだったら、綾なら気付くんじゃない?」
「そっか、そうだよね」
 確かに、もしそうなら見逃してはいない。毎朝毎晩、兄さんのことはじっと見てるし、なによりもほぼ毎日、魔力交換もしてる。魔法の才能がいきなり上がったようなことがあれば、互いの魔力を交換する時に直ぐに気付くはず。そして少なくとも、私には兄さんの魔力にそんな変化は見つけられなかった。
 私がそのことを告げると、佐奈も不思議そうに少しだけ眉をしかめて、こくり、と小首を傾げる。

「だったら何があったのかな?……」
「うーん。わからない」
 わからないけど、きっと何かあったのだろう。

「うう、兄さんめ……会長さんに一体何をしたのよっ!」
 家に帰って問いつめようと固く決意しながら、私は佐奈に視線を戻す。

「あ、そうだ。じゃあ、兄さんの方は? やっぱり会長さんを意識してるの?」
「良先輩の方も……いつもとは違う雰囲気だったけど……、ううん、でも、そこまでじゃないって思う。少なくとも好きって感じはしなかった、かな」
「そう」
 佐奈の言葉にほっと安堵するのも束の間、彼女は淡々とした口調でさらなる警句を口にする。

「それに良先輩の意識は今、桐島先輩の方に向いちゃってるから」
「……そっか。そうよね」
 佐奈の意見に、安堵とも落胆ともつかない息を零して私は頷いた。確かに、兄さんは同時に複数の女の人に「そういう意識」を向けられるような器用な人じゃない。だから、霧子さんの事が気になって仕方ないっていうのなら、会長さんにまで同時に「そういう意識」を向けることはあんまり無いと思う。
 でも……それでも、安心する訳にはいかないだろう。会長さんが兄さんのことを気にし始めている、というのは問題だし、やがてそんな会長さんの態度に兄さんが気付いてしまう可能性は零じゃないのだ。それを自覚して、私は事態の深刻さに深々とした溜息を繰り返す。

「もう……霧子さんの事だけでも大変なのに。これからは会長さんに対しても油断しちゃいけないんだね」
「うん、そうだね。まだ好奇心みたいなものだって思うけど……、会長さんが本気になったら大変だから」
「そう、だよね」
 会長さんは、女の私から見ても、嫌になるぐらいにくらいに綺麗な人だ。とても強引で我が儘なところがある人だけど、同時に何故か人を惹きつけるものがあったりする。兄さんとは過去の諍いから相性が良くなさそうだって分かってるけど、最近は、二人とも互いの関係を改善しようとしているし。こう考えてみると会長さんの危険指数はかなり高いと考えるべきだろう。

「やっぱり、もう、ぐずぐずしてられないね」
「うん。とにかく良先輩の意識を綾に振り向かせないと駄目だと思う」
「そうだよね。うん」
 それはわかってる。けど、でも、どうやって? 
 その問いかけに、しかし、私の心は明確な答えを返せない。スキンシップを図ってみたり、距離を置こうと生徒会入りしてみたり、色々してみたけれど反応はどれも芳しくなかった。唯一、兄さんが私を意識してくれるようになった事と言えば……

「やっぱり……もう一回、しないと駄目かな」
 そう口にした途端、私はあの時のことを思い起こして、少し頬が熱くなるのを自覚した。
 あの時のこと……とは言わずと知れた「キス」のこと。そう、遊園地での出来事の後、兄さんは確かに私のことをちゃんと意識してくれていた。あれからしばらくは、ただ抱きつくだけでもいつもと違う反応を返してくれたし、その効果は絶大だったと言って良いんじゃないだろうか。
 そう。きっと、キスは効果があるのだ。うん。だったら……躊躇う必要なんか無いんじゃないだろうか。そりゃ、私だって恥ずかしいけど、その、嫌じゃないし。というか寧ろ、私だってしたいわけで。あの時みたいに、兄さんに近づいて、そっと……

「綾。妄想は授業まで我慢してね」
「……妄想って言わないでよぅ。切なくなるから」
 冷静な佐奈の声で、思考の底から引き戻された私は現実を直視して溜息をつきそうになりながら、それでも思いついた考えを佐奈に向かって告げる。

「だからね。今のを妄想じゃなくするように頑張れば良いと思うんだけど、どうかな?」
「積極的になるのは良いことだけど……一つ聞いても良い?」
「うん。何?」
「良先輩とキスしたのって一度だけ?」
「……うん。ここ最近では」
 問いかけに答える声は、我ながら少し小さかった。そりゃ、小さいときには何度かしてたけど、それは親愛の証であって異性を意識したものじゃない。そう答えると、佐奈は少し目を細めて考えを纏めるような素振りを見せてから言葉を続ける。

「でも、抱きついたりは、いっぱいしてるんだよね?」
「うん。隙あらば」
 自慢じゃないけれど、スキンシップに関しては積極的に頑張っているという自負はある。かなりきわどい事もやってきている自覚はあったりするのだ。その、お風呂上がりに抱きついたりとか、胸を押しつけてみたりとか。

「……いいなあ」
「あの、佐奈? 相談の最中に、意識を飛ばさないでね?」
「あ、うん。ごめんね」
 一瞬、惚けるような(といっても他の人には硬直しているようにしか見えなかっただろうけれど)表情を見せて固まっていた佐奈は、私の声に眼が覚めたような反応を返しつつ言葉を続けた。

「えーとね。キスじゃなくて、抱きついたりしても先輩はどきどきしてくれる?」
「……してくれてない」
「でも、霧子さんや会長さんが同じ事をしたら……どうなると思う?」
「う」
 佐奈の言葉に、その光景を想像して、私は思わず眉をしかめた。霧子さんや会長さんに、もし、あんなことされたら……多分、どきどきするんだろうなあ、兄さん。陰鬱になるその想像に、私が堪えきれない溜息を零すと、佐奈はゆっくりとした口調で確認するように言った。

「それって、どうしてだと思う?」
「どうして……って」
 それは勿論、兄さんが私のことを「妹」としか見てくれてないから。そう答えかけた私の言葉を遮るように、佐奈が先に言葉を続けた。

「じゃあ、もう一つ質問」
「うん」
「もし私が良先輩に綾と同じ事をしたら、どうなるかな?」
「それは……うーん」
 どうなるんだろう。
 そりゃ、勿論、佐奈がいきなり「あんな事」とか「そんな事」とかしたら、兄さんだって慌てるだろう。きっと「さ、佐奈ちゃん?!」なんて言いなが狼狽すると思う。思うんだけど……でも、それはあまり持続しないんじゃないだろうか。どきどきはするんだろうけれど……直ぐに和んでしまうんじゃないか。そんな風に考える私に、佐奈はほんの少し唇を尖らせて拗ねるような声で呟いた。

「……どうせ、私じゃ良先輩をどきどきさせられないです。綾みたいにおっぱい大きくないから」
「ち、違うよ? そういう事じゃないの。えーと、佐奈の所為じゃなくて、ええと、兄さんと佐奈だとなんだかほのぼのとした構図しか思いつかなくて」
「おっぱい、小さいから?」
「そこからは離れなさい」
 珍しく絡みモードに入り始めた佐奈を宥めて、私は急いで考えを口にした。

「佐奈がそういう事しても、兄さんは慌てると思うけど……最終的には私の時と同じような反応に落ち着くような気がするの」
 結局は微笑みながら頭を撫でてくれたり、そんな感じ。まあ、私に対しては問答無用で振り払う場合もあったりするので、それに比べると佐奈の方が扱いが良いのかもしれない。……考えてて、ちょっと泣きそうになってきたけど。

「うん。誠に遺憾ながら私も、綾のその想像は外れていないような気がするの。だから、一つの仮説が浮かびます」
「仮説?」
「綾。今からとても大事なことを言うからよく聞いてね」
 いつもの淡々とした口調に、佐奈は僅かの重さを混ぜながら言った。

「良先輩の守備範囲は思ってたよりも狭いかもしれない」
「しゅ、守備範囲……?」
「うん。ひょっとしたら、先輩って「年下」に興味がないんじゃないのかな?」
「ええ?!」
 いきなりの発言に、驚きの声が口をつく。が、対する佐奈は真剣な表情を崩していない。ということは冗談じゃなくて、彼女は本気で言っていると訳なんだけれど……

「な、なんでそうなるの?」
「私や綾じゃ、良先輩の気を引けないから」
「でも、それは私や佐奈が兄さんに近すぎるから、じゃないの?」
「だったら、霧子さん相手にどきどきするのは変」
「でも、霧子さん相手にどきどきするって決まった訳じゃ……」
「無いって思う?」
「……思わないけど」
 誠に遺憾ながら。私相手みたいに和んだりせず、ずっと慌てたまんまに違いない。うう、兄さんめ。兄さんめっ。

「あ、でも、遊園地の後は、ずっと私のこと、意識してくれてたよ?」
「それは良先輩がそういうことに慣れてないからじゃないかな」
「う」
 冷静な指摘に、思わず声に詰まる。確かに、そういう一面が全くないとは……言えないかも知れない。

「それって、つまり、あんまり頻繁に兄さんにキスしちゃうと、それすら兄さんは慣れてしまって、反応が薄くなるっていうこと?」
「うん。そういう可能性はあると思う」
「な、なんてことなの……っ」
 佐奈の仮説に、戦慄を禁じ得ない私だった。キスの後、しばらくはちゃんと兄さんは意識してくれていたのに、それすら無くなるかもしれないなんて……っ!

「ともかく、これは由々しき問題なの。今まで、良先輩が綾に振り向いてくれないのは「家族だから」だと思ってたけど、もし「年下」という時点で先輩の恋愛対象から外れるのだとしたら、綾は本気で先輩の好みから外れることになるの」
「……そんな」
 死刑宣告にも似た佐奈の言葉に、私は声が震えるのを抑えられなかった。

「ど、どうしよう?!」
「うん。綾はともかく、私としても、これはなんとかしないと……」
「私はともかく?!」
「冗談だよ?」
「わかってるけどっ」
 それはわかってるけど、くれぐれも、こういうときに冗談は止めて欲しい。

「やっぱり、ちゃんと確かめないと駄目かな」
「本当に年下に興味がないのかどうか?」
「うん」
「でも、確かめるってどうやって?」
「……」
「……佐奈?」
「内緒」
「……うーん」
 見た目はおとなしい佐奈だけど、その実、いざとなれば大胆な行動に及ぶことがあることを知っている。だから私としては、軽々しく頷くことは出来ないのだった。だけど、当の佐奈は「大丈夫」と繰り返して、そっと私の頭を撫でつけてくれた。まるで子供をあやすように。

「大丈夫。私、綾が大好きだから。ね? だから、少しで良いから、信じて?」
 そう言って微笑んでくれる親友に、私は否定の言葉を返すことなんか出来なかったのだった。

続く

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