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  魔法使いたちの憂鬱

       第二十五話 佐奈ちゃん試行錯誤。

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 紅坂研究所で神崎蓮香と紅坂カウルが、良とセリアについての意見を交わしていたその頃。良の部屋には、泉佐奈が訪れていた。

/1.お勉強フェーズ(泉佐奈)

「今日は、よろしくお願いします。良先輩」
「ええと……うん。よろしく。佐奈ちゃん」
「はい。綾の代わりに頑張ります」
 先輩にとっては既にお馴染みになっているはずの勉強会の時間。綾、桐島先輩、会長、速水先輩と「良先輩に勉強を教える」と手を挙げた人達の当番は一巡して、今日はまた綾の当番の日。でも、今、先輩の部屋にお邪魔しているのは、綾じゃなくて私なのだった。綾と私が交代している理由は勿論、私が「あること」を確かめるための時間を作るため。そう「良先輩ってば、実は年下に興味ないよ疑惑」を確認すべく、私は、この場所にいるのだ。せっかくの綾と良先輩の時間をつぶしてまで作った機会。だから今日は頑張らないと。

「ごめんね、佐奈ちゃん」
「え?」
 内心で意気込む私に、向かい合う良先輩は何故か申し訳なさそうに、ぺこり、と頭を下げた。

「ごめんって、どうしてですか?」
「いや、ほら、変なことに巻き込んじゃって」
「そんなことないです」
 先輩の言葉に、私は急いで首をフルフルと横に振る。綾と私が交代した理由は『綾が生徒会の用事で遅くなから』だと説明したのだけれど、どうやら良先輩は、綾が無理を言って私に面倒を押しつけたのだと勘違いしてしまっているようだった。

「実は、私が綾にお願いしたんです。今日、生徒会があるんだったら変わって欲しい、って」
「佐奈ちゃんが?」
「はい」
 これは嘘じゃない。綾にお願いして順番を譲って貰ったのは事実だし、綾が生徒会で遅くなる、というのも本当のこと。だから返事に嘘は無いんだけれど、でも先輩はまだちょっと不思議そうな表情を浮かべている。

「佐奈ちゃんが綾にお願いしたって、どうして?」
「それはですね」
 それは先輩にしてみれば当然の疑問だと思う。でも、予想できた質問だから、私は用意しておいた理由を口にした。

「最近、先輩に構って貰える時間が無かったからです」
 実際に、良先輩と二人でお話しする機会は減っていたから、これも嘘じゃない。……というか、ちょっとだけ、いやかなりの部分で本音だったりもする。だから……なのかどうかは分からないけれど、その理由に先輩は納得してくれたみたいだった。

「そっか。そういえば、そうだね」
「はい。ですから、綾にお願いしたんですけれど……ご迷惑でしたか?」
「まさか。佐奈ちゃんと二人で話すのって久しぶりだから、俺も嬉しいよ」
「……はい」
 何気ない口調で「嬉しい」って言ってくれた良先輩。先輩の優しい言葉が嬉しくて、ちょっと口元が緩んでしまう。そんな私の表情に気付いたのか、良先輩もまた嬉しそうに微笑んでくれた。その笑顔に、胸が温かくなる。よく表情が薄いって言われる私だけど、綾と良先輩はそんな私の心を見つけてくれるから、そういうのは、やっぱり、嬉しくて。

「佐奈ちゃん?」
「あ、いえ、なんでもないです」
 ……いけない。ちょっと浮かれて、ぼーっとしてしまったみたいだった。その事に気付いて、私は小さく頭を振って気を引き締める。今日は先輩に優しくして貰うことが目的じゃないんだから、しっかりしないと。そう自分に言い聞かせながら、私は少し話の矛先を変えてみる。
 
「でも、先輩は大人気です。最近」
「いや、大人気って訳じゃ……」
「いえ、大人気です」
 小さく苦笑して否定しようとする良先輩。その言葉を、えいや、と遮って私は指折り数えて見せた。

「綾に、会長さんに、桐島先輩に、速水先輩に、篠宮先輩に、神崎先生に、私。ここまでいくと立派なハーレムです」
「いやいや、違うから。というか、妹と母親と男友達を含めないで」
「……ダメなんですか?」
「なんで、そんなに残念そうなのかな。佐奈ちゃんは」
「だって、憧れませんか? ハーレム」
「憧れません」
 にべもなく言い切って、先輩は視線を窓の外に投げた。先輩の視線の先にあるのは、小坂さんという人のお宅。確か、東ユグドラシルの研究員にして奥さんがたくさん……多分、五人ぐらい居る人だ。私はその小坂さんとの直接の面識はないけれど、久遠おばさん、じゃない、久遠おねーさんの同僚でもある人のハズだった。その人のお宅を視界に入れながら、先輩は苦笑混じりに肩をすくめた。

「隣の家の小坂さんが、ミイラ化しているのを見ると、おいそれとは憧れなんて抱けないってば」
「そうなんですか……」
 先輩の台詞を聞いて、私は顔も知らない小坂さんに憤りを感じてしまう。だって、私としては、良先輩には是非ともハーレム構築に励んで欲しいんだから。なので、そういうだらしない姿を見せて良先輩の意欲を削がないで欲しい。私の将来設計に非常に差し障りが出てしまうんだから。

「あ、でも、先輩。私の親戚の久遠おねーさんは、全然、平気な顔していますよ?」
「久遠お姉さん?」
「はい。お母さんの妹さんなんですけれど」
 だから、正確には叔母さんと呼ぶべきなんだけれど、迂闊に本人の前で「おばさん」なんて呼ぶと、一晩中からまれる、もとい、お説教されるので常日頃から「おねーさん」と呼ぶように心がけている。そんな少し我が儘な久遠おねーさんは、一人で多くの魔法使いの人と恋人同然の付き合いをしていながら、少しも枯れたりする様子を見せていない。というか、いつ見ても生き生きとつやつやしている気がする。その事を告げると、良先輩は「凄いね」と感心したように目を見開いた。

「その人は、えーと……ハーレムを作ってるの?」
「はい。結婚してはいませんけども。確か、男女問わず、というか男女それぞれ10人は愛し合っている人がいるとか」
「男女問わず?」
「はい。ちなみに老若も問わないそうです」
「す、凄い人だね」
「はい」
 ハーレム、というか実際に家庭を持ってしまうと、自由に恋愛ができなくなるから嫌だ、と結婚しない久遠おねーさんは、色んな意味で確かに凄いと思う。私が、お母さんと綾の次ぐらいに凄いと思っている女の人だ。あ、でも、私としては先輩にはちゃんと家庭を持って貰って、その中に私と綾をちゃんと入れて欲しいです。って、それはさておき。

「だから、大丈夫です。先輩」
「大丈夫って……ハーレムが?」
「はい。勿論です」
「無理です」
「そうですか。残念です」
 苦笑しながら首を横に振る先輩に、私はそれ以上は詰め寄ることはしないで、この話題を止めることにした。先輩は優しい人だけど、あまりしつこいと嫌な気分にさせてしまうかも知れないから。そう思って言葉を止めた私だけれど……でも、どうして先輩はこうも頑なにハーレムを拒むのだろうか。ちょっとは憧れてくれたっていいのに。お母さんたちは「ハーレムに憧れない人はいません」と断言しているぐらいなのに。
 ひょっとしたら、先輩は魔力交換の効率が低いことを気にしてしまっていたりするのだろうか。でも、そんなのみんなで頑張ったらいい話なんだから、先輩は気にしないで欲しい。あ、でも、やっぱり「男は甲斐性がないと駄目だ」って思ったりしてるんだろうか。それは勿論、甲斐性は無いよりあった方が良いけれど、でも、そんなの無くたっていいって思う。
 そんな私の内心の想いを知って知らずか、良先輩は仕切り直しと言うように心持ち姿勢を正した。

「じゃあ、佐奈ちゃん。そろそろ始めようか」
「はい。よろしくお願いします」
「はい、お願いします」
 そう言って私たちは改めてお互いに深々と頭を下げて……そしてそのまま二人、顔を見合わせたまま少し沈黙した。元々、この時間は「良先輩に魔法を教えましょう」という時間なのだけど、私の成績は平均より少し上、といったぐらい。だから一学年が上の先輩の教えることなんて正直できない。そのことは先輩も分かっているのか、しばしの沈黙の後、先輩の方から提案をしてくれた。

「えーと、じゃあ、俺が教えるって形でいいかな」
「いいんですか?」
「うん。佐奈ちゃんがよければ」
「はい。是非、お願いします」
 先輩の言葉に、私は内心で胸をなで下ろした。多分、先輩が教えてくれることになるって思ってたけど、万が一「佐奈ちゃんが教えて」なんて言われたら流石にどうしたらいいか分からなかったから。

「先輩にお勉強を見て貰うのって、初めてです」
「そうだっけ。じゃあ、俺も、ちゃんとたまには先輩らしい所も見せないとね」
「先輩は、いつも先輩らしいことをして下さってると思います」
「そうかな」
「はい」
 断言する私に、良先輩はちょっと気恥ずかしそうに頬を掻いた。ひょっとしたらお世辞って思われているかも知れないけど、でも、これはお世辞じゃなくて、本音。もっとも先輩に自覚はないんだろうけど……そう言うところが、良先輩の良いところだって思う。

「じゃあ、やろうか」
「はい。手取り足取りお願いします」
「うん。なるべく丁寧に教えるね」
「はい。手取り足取りお願いします」
「じゃあ、始めます」
「……はい」
 流石、先輩。こうも、あっさりと流してしまわれるなんて、流石です。
 でも、私もいきなり挫ける訳にはいかない。教科書を鞄から取り出しながら、私はこれからの行動を頭の中で整理する。今日の目標は二つ。一つは先輩の意識を綾に向け直して貰うこと。もう一つは本当に先輩が年下の女の子に興味がないのかどうかを確認すること。
 だから、今日はまず、先輩がちゃんと私のことを意識してくれるような行動を取ってみるつもりだった。本当は綾がちゃんと先輩と結ばれるまで、積極的な行動をとるつもりは無かったんだけど、最近の桐島先輩や会長さんの行動を見ていると、そんな悠長なことを言ってられない。だから、綾、少しだけ先輩に触れても良いよね? って、まるで言い訳するように、胸中で呟いてから、私は意を決して先輩に声をかけた。

「先輩。お隣、いいでしょうか」
「隣? いいけど……どうかしたの?」
「あの、最近、少し眼が見えづらくて。向かい合う形だと、先輩の方の教科書がちょっと見えにくいなあって」
「あ、そうなんだ」
「はい」
「じゃあ、はい。こっちにどうぞ」
 唐突な提案に、それでも先輩は快く頷いて少し席を横に詰めてくれて、先輩の隣に、私一人なら何とか座れるだけの空間ができる。

「でも佐奈ちゃんって、目が悪かったっけ?」
「ちょっと悪くなっちゃいました」
「そっか。気をつけないとね」
「はい」
 心配そうに言ってくれる先輩に、ちょっと胸がうずいた。「目が悪くなった」なんていうのは勿論嘘だから、先輩に嘘をついたのが心苦しい。でも、今は悩むより行動あるのみ。だから沸き上がる罪悪感を押さえつけて、私はお母さんの言葉を頭の中で繰り返してみた。お母さん曰く、「案ずるより産むが易し。要するに悩むよりやっちゃいなさいよ。だから、頑張りなさいね、佐奈」。

「はい。頑張ります」
「え? なにが?」
「いえ。私の覚悟の話です」
「覚悟って、勉強の? 気合い入ってるね」
「はい。頑張ります」
 勉強のことではないですけれど、今の私には勉強よりも大切なことです。内心でそう呟いてから、私はクッションを良先輩の隣に置いた。そして「失礼します」と頭を下げて、ぽすん、と隣に腰を下ろす。これで私は先輩と、文字通り肩を並べて机に向かう体勢になった。

「えーと、じゃあ、はじめようか」
「はい。お願いします」
 努めて平静に会釈しながら、これからの具体的な行動に思いを巡らせる。やることはもう決めていた。隣に座る、偶然を装って手に触れる、先輩の腕に寄り添って見る、抱きついてみる。つまり、少しでも意識して貰えるように、まずは綾を見習ってスキンシップを試みるのが私の方針なのだった。まずは隣に座る、という第一段階はクリアーしたことになる。でも、私と良先輩の間には、頭一つ分ぐらいの距離がある。
 良先輩と二人で歩いたりするときも、魔力交換で手をつなぐとき以外には、決して縮まらない距離と多分、同じぐらいの空白。それはいつもなら心地よいって思ってしまう距離だけど……今日は、この距離を縮めないといけない。
 ……うん、頑張ろう。落ち着いて、冷静にやれば、ちゃんと考えたとおりに出来るはず。

「ん?」
「……どうかしましたか?」
 不意に先輩が小さく声を漏らす。先輩との距離をちょっとずつ詰めていこうとする気配を気取られたのかも、と私は慌てて先輩の顔を見上げて……そして、先輩と眼があった。

「……っ」
 先輩の目。知り合ってから何度も見つめて、見慣れているはずの瞳。だから、眼があったからってびっくりしたりするハズなんて無いのに。でも、その瞳を正面から見つめた瞬間、とくん、って体の奥が鳴って、私の頭の中は、真っ白に染まってしまった。

「佐奈ちゃん?」
「……あ」
 きっとそれは、ほんの刹那の空白。先輩の呼びかける声で、止まっていた思考はすぐにまた動きだした。だけど……今のは何だったんだろう。突然の自分の反応が理解できなくて、私は何度か瞬きをしてから、先輩に向かって右手を挙げた。

「あの、良先輩」
「うん」
「ちょっとタイムをお願いします」
「タイム?」
「はい。ちょっと待ってくださいね」
「いいけど……?」
 不思議そうな先輩の声を耳にしながら、私は鞄の中を漁る振りをして先輩から顔を背けた。そして、こっそりと左手を自分の胸に押し当てる。
 トクトク、って胸の中で刻まれている心臓のリズム。そのリズムはいつも通りの筈で、ううん、いつも通りじゃないといけないのに。……でも、いつも通りじゃなかった。いつもより、ちょっとだけ心臓の鼓動が早くて、その所為か、ちょっと胸が苦しくて。だから、私は自分が、自分自身が思っているよりも緊張しちゃってる事に気付いてしまった。

 ……落ち着け。落ち着かないと。緊張しているって自覚した私は、何度も自分に「落ち付け」って言い聞かせながら、先輩に気取られない程度に息を大きめに吸って、呼吸を整える。
 大丈夫。先輩と二人っきりになったのは初めての事じゃない。綾がたまたま留守の時には、二人でお話しているし、遊園地の時だって二人っきりで観覧車に乗った。だから、今更緊張なんてする理由はないはず。うん。それにこれからすることは、綾がいつも先輩にしているようなことだから。だから……だから、大丈夫。大丈夫ったら、大丈夫。頭の中で、何度もそう繰り返してから私は、小さく息を吐いて、そして先輩に向き直った。

「大丈夫?」
「済みません。もう、大丈夫です」
「もし具合悪かったら、無理しちゃ駄目だよ?」
「いえ、あの、先輩と一緒に勉強できるので、ちょっと緊張したみたいです。具合が悪いとか、そんなのじゃありません」
「そっか……じゃあ、同じだね」
「同じ?」
 私の言葉に返された先輩の言葉。その内容がちょっと意外で、私は小首を傾げてしまった。そんな私に、先輩はちょっと照れくさそうに笑って頬を掻いた。

「やっぱり、ちょっと緊張するよ。あんまり、変なところ見せられないから」
「変なところ、ですか?」
「うん。ほら、佐奈ちゃんって綾の魔法を見慣れてるだろ? それと比較されるとなるとね」
「あれは綾が凄すぎて、変なんです」
「そうだね。綾は凄いって分かってるんだけどね。それでも兄としては気になる所なんです」
「そうなんですか」
「うん。まあ、無理に格好つけなくてもいいって言われたらそれまでなんだけどね」
 先輩はそう言って少し困ったように笑う。その笑みから私の緊張をほぐそうとしてくれているのが分かって、私は少し体から強ばりが抜けるのを感じた。そして、同時に安堵の想いが胸に沸いてくるのを自覚する。だって、先輩は私に「良いところ」を見せようとして緊張してくれているから。だったら、やっぱり、そういう対象としてすこしは意識してくれているのかも知れない。
 その考えに思わず頬が緩みそうになって、私は慌ててそんな自分を戒めた。まだ判断するには早すぎるし、先輩に優しくして貰って幸せに浸るのが今日の目的じゃないんだから。そう自分を叱咤して、私は改めてクッションの位置を整えて、先輩の隣で姿勢を正した。

「じゃあ、始めようか。まずは教科書の問題から」
「はい」
 何度目かの開始を促す先輩の言葉に頷いて、私たちは、お互いの教科書と向き合い始めた。勉強の方針としては、お互いに理論の教科書の問題を解いていって、私が分からない部分を先輩に聞いたり、問題の答を確かめて貰ったりする、というのが今日のお勉強会の内容になる。

 そして、しばし無言のまま、ただ静かに時間が流れていった。
 さらさらと鉛筆がノートの上を走る音。僅かに聞こえる息づかい。ひりひりと腕に伝わってくる先輩の気配。真横にいる先輩からの伝わってくる色んなモノを感じ取りながら、それでも私は、おとなしく勉強に集中することにしてみた。だって、さっきの動揺は、きっと急ぎ過ぎてしまったからだと思う。勉強時間は限られているけれど、焦りすぎては元も子もない。だから、まずは先輩と一緒に勉強して、先輩との距離に慣れていってから行動に移ればいいと思う。焦りは禁物なのだ。多分。
 お母さんが聞いたら「言い訳するんじゃありません」と怒ってしまう考えなのかも知れない。でも、私はいつもの自分の調子を取り戻せるまでは、穏やかに先輩との時間を過ごしていく。

「と、ここの理論は、こういう事なんだけど……この説明でわかるかな?」
「はい。わかりました」
 何度目かの質問と回答のやりとり。それを終えてから、私はお世辞ではなくて本心から感動しつつ先輩の顔を見た。

「先輩、凄いです」
「凄い?」
「はい。とってもわかりやすいです。綾にもよく教えて貰うんですけれど、綾の説明は難しすぎることがありますから」
「ああ、そう言うところはあるかもしれないね、あいつ」
 私の言葉に、先輩は苦笑いを浮かべて同意してくれた。
 
「まあ、綾とか龍也とかは普通の人が出来ないことを当たり前に出来てしまうからさ。他の人が何故それを出来ないのかが理解できない時があるんだよ」
「そうですか。……そう言われれば、そんな時がある気がします」
「うん。あ、でも、佐奈ちゃんは飲み込み早いと思うよ」
「そうですか?」
「うん。素直に聞いてくれるしね」
 そう言って先輩が向けてくれる笑顔に、また少しどきっとしてしまった。そんな自分の動揺から目をそらすように、ちらり、と目の端で時計を捉えると、勉強の時間は残り半分になってしまっている。……そろそろ、次の行動を起さないと、綾に無理を言って変わって貰ったことが無駄になってしまうかも知れない。そんなことになったら、綾に顔向けができなくなってしまう。
 なら、これからどうするべきか、それは分かってる。お母さんや、久遠おばさんに助言を受けつつ練っていた計画があるから、大丈夫。だから、頑張ろう。うん、頑張らないとダメ。そんなの分かっている、そのハズなのに。
 
「……」
 先輩の事を意識すれば意識するほど、どうしたらいいのか、分からなくなるのは、どうしてなんだろう。やることは、いつもは綾が先輩にやっている事なのに。いつも綾に「頑張れ」って投げかけている言葉なのに。それなのに―――そういうことを、綾じゃなくて、私がやるんだって思ったら、胸がどきどきして上手く考えが纏まらなくなってしまう。いつもより、ほんの少し近くに先輩を意識する。ただそれだけなのに、心はトクトクっていう鼓動に揺れ始めて、治まってくれない。落ち着こうとして握った手は、暑くないはずなのに汗ばむんでしまっていて、小さく震えている。
 落ち着かなきゃ。「冷静を常とすること」。それは大好きなお母さんが教えてくれたことだし、私自身も冷静な人間だって思ってた。先輩と二人っきりになったことだって何回もあるし、魔力交換だって何回もしている。その時だってこんなに、狼狽しなかったのに。

「佐奈ちゃん?」
 でも、それはやっぱりこんなに近い距離じゃなかったから。二人っきりになっても、楽しくお話するだけで。手を握ったことだって、それは魔力を交換するためのことで。私自身を女の子として意識して貰おうって、してたこと、あんまりない。いつも「綾のために」って言いながら、なるべく綾を挟んでの形でしか良先輩と向き合っていなかったから。
 でも、それは……私が弱かったから、逃げていただけ、なのかな……?

「佐奈ちゃん? 大丈夫?」
 どうしよう。どうしたらいいのかな。先輩の好みを確かめる前に、私の方がおかしくなってしまうかも知れない。頑張らないといけないのに。綾のために。私のために。私たちのために。
 いつも綾に「頑張れ」って言っているのに、私が頑張れないんじゃあ、綾の友達の資格なんて―――っ。

「佐奈ちゃん!」
「え……、あ、はい」
 不意に同時に体を揺すられて、そして叫ばれた声に振り向くと、先輩が真剣な表情で私の顔をのぞき込んでいる。

「……先輩」
「大丈夫? やっぱり、具合悪い?」
「いえ、その、そういう訳じゃないです」
 具合が悪いんじゃなくて、ただ、勇気がでないだけ。今だって、先輩が私の肩を掴んでくれているんだから、出来ることなんていくらでもあるのに。でも、何ができるのか、やっぱりわからなくて。ただ、「頑張らないと」っていう言葉だけが、頭の中をぐるぐるって回って前に足を踏み出せない。
 そんな私の姿は、今、目の前にいる先輩にどう映っているんだろう。凄くおかしな娘に見えているのかな。そんな不安が頭を掠めた、その刹那。
 
「佐奈ちゃん、ちょっと良いかな」
「え?」
 不意に、先輩に手を握られた。

「せ、先輩……?」
 突然のことに、狼狽が押さえられなくて、私はただ戸惑うままに声を漏らして先輩を見る。そこには、真っ直ぐに私を映す良先輩の瞳。先輩はその瞳に、優しい笑みを湛えて、少しだけ悪戯っぽい響きの言葉を口にした。

「いまから、実技をします」
「え? 実技、ですか?」
「はい、集中して。魔力交換するよ」
「え、あの?」
「だから、目をつぶって、掌に集中」
「え、え、え」
「合図したら一緒に目を閉じてね」
「あ、あの」
「よーい、始めっ」
「っ、はい」
 戸惑う私にお構いなしに、先輩の声と同時、触れあう掌から魔力が流れ込んでくる。掌に生まれた私と先輩をつなぐ点。その点を起点にして生まれてくる波紋が、たゆたいながら、私の中へと流れを作る。そんな魔力の動きに私は大慌てて、魔力を受け入れて、そして流し返すために意識を集中した。
 水面をさざめく波のように揺れながら流れ込んでくる魔力は、ほんのりと熱を持って私の中を満たしながら、その水位を上げていく。魔力を奪い、奪われながら感じる酩酊感のような感覚は、魔力交換特有のモノだけれど、何故か、今の感覚はいつもとちょっとだけ違う。そんな感じがした。具体的に何が違うのかは、分からない。だけど、先輩から流れ込んでくる魔力の流れは、いつもよりゆっくりと流れ込んできて、少しだけ量も多くて。そして何より……とても優しい、そんな気がした。

「……」
「……」
 無言のまま、お互いの力を満たし、退いていく。そのペースは、やっぱりいつもより穏やかで。そのゆったりとした感覚に、泡立っていた心が、少しずつ穏やかに、落ち着きを取り戻していく。まるで、私の心の混乱を先輩の魔力がすくい取ってしまったような、そんな錯覚を覚えながら、やがて私達は静かに魔力の受け入れを止めて、集中のために閉じていた目を見開いた。

「……先輩」
「大丈夫? 佐奈ちゃん」
「はい。大丈夫です……けど」
 気遣うような先輩の笑み。だけど、そこには疲労の色が滲んで見える。そこで、私は初めて気付いた。先輩は元々、魔力交換の効率が低い人だから、あまり先輩から魔力を多く貰ってはいけないのに……今日、先輩が私に渡してくれた魔力は、いつもより全然、多かった。

「あの、先輩……、大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫。それより、佐奈ちゃんは平気? 少しは落ち着いたかな」
「あ……はい」
 そう言われて気付く。私はまだ先輩と手をつないだままで、きっとさっきまでの私なら、どうしようもなく狼狽えていたと思う。なのに、今はびっくりするぐらい、落ち着いたまま、先輩の手を握っていられる。そんな私の様子に先輩は安堵したように小さく息をついて微笑んでくれた。

「綾もね、こういう風に魔力交換すると落ち着いてくれるんだよ」
「そう、なんですか」
 じゃあ、やっぱり偶然じゃなくて、先輩は私を落ち着かせるために、魔力交換をしてくれたんだ。その想いに、握られたままの手に、視線を落とす。さっきの先輩との交換。思えば、いつも先輩は凄く慎重に魔力交換をする人だ。ミスをしないように、大切に大事に、零れないようにって、繊細に。でも、さっきは、そんなことを無視して、ただ優しく、ゆっくりと魔力を流してくれていたような、そんな気がする。それはきっと……先輩にとって、物凄く疲れるやり方のはずなのに。

「綾はね、小さいときはよく泣いてたんだけど、こうしているとすぐ落ち着いてくれた。って、内緒だけどね」
「……小さいとき」
「あ、いや、別に佐奈ちゃんが小さいって言っている訳じゃないんだけどね」
「…………むぅ」
「佐奈ちゃん?」
 穏やかな声で、私を気遣ってくれる先輩だけど……ちょっとずるいな、って思ってしまった。先輩は「佐奈ちゃんが小さいって言っている訳じゃない」って口にしたけど、それって嘘だと思う。やっぱり、物凄く子供扱いしてると思う。
 だって、私はあんなにどきどきしてしまって。綾が居ない場所で、綾を間に挟まないで、先輩に私を意識して貰おうって、意気込んだだけで、あんなにどきどきしてしまったのに。今だって、落ち着いてはいるけれど、こんなに―――。

「…………ずるいです」
「佐奈ちゃん?」
 なのに、先輩は小さな子供を見守るように、とても優しい目をしたままなんだから。それは、とっても理不尽な想いだってわかってるけれど、やっぱりちょっと納得がいかない。だって、私にも、少しは意地があるんだから。

「良先輩」
「うん?」
「ちょっとよろしいでしょうか。脚を崩していただけますか?」
「崩すって……こう?」
「はい」
 私に言われるがままに、良先輩は、正座していた足を崩してあぐらをかいた。その瞬間を狙って、私はそっと腰を浮かせて、そのまま、えいやっ、と良先輩の胸の中に飛び込んでみた。

「さ、佐奈ちゃん?!」
「……っ」
 驚きながら、それでも私を抱き留めてくれた先輩。その驚きの声を耳に聞きながら、私は先輩の胸に顔を当てた。
 ……男の人の胸って、こんなに堅いんだ。おっきくなってからはお父さん達に抱きつく事ってしなくなってたから、わからなかった。ふわり、と日向の薫りが鼻腔をくすぐるのは先輩の臭いなのかな。うん、だったら、覚えておかないと。

「……」
「……」
 トクトクトクって。聞こえてくる鼓動の音は、私のものなのか、先輩のものなのか、どっちなんだろう。少しおっきくて、暖かな胸を打つリズムは、先輩のものだったらいいな、って思いながら私は、少し目を閉じた。これが……先輩の心の音なのかな。だったら、これも覚えておかないと。
 恋人が恋人に寄りかかるような姿勢、あるいは、無邪気な子供が、大人に甘えるような姿勢。今の私たちの体勢は、先輩にとってどっちの姿勢なんだろう。そんな想いを胸に抱く私の頭に、ぽん、と大きな手が置かれるのが分かった。

「先輩?」
「そういえば昔は綾もこうやって甘えてきてたよ」
「……そうですか」
 つまり今の私は、先輩にとっては子供が大人に抱きついているのと同じって事なのかなもしれない。……やっぱり、そっちの方なのかな。そんな落胆に沈み掛けた心を、私は慌てて引き留めた。さっきからまたドキドキしている私の心臓のリズムに混じる早鐘のような律動。それはきっと先輩のもので、それはやっぱり乱れたまま、落ち着いていないから。だから……先輩も、少しは私を意識してくれているんだって。そう思って私は少しだけ安堵する。

「先輩」
「うん」
「……」
「……」
 呼びかけて、でも、そのまま黙ってしまった私の頭を、やさしく先輩の手がなで続けてくれる。きっと私の行動に何か理由があるって感づいているから、拒絶せずになすがままにされてくれてるんだろう。それは、とても心地よくて、満たされてしまうような気持ち。

「先輩」
「うん」
「心臓がどきどきしてます」
「あのね」
 呟く私に、先輩は小さく溜息を零して、ぽん、と私の頭を軽く叩いた。

「女の子にこんなことされたら、誰だってどきどきします」
「そうなんですか」
「そうなんです」
「……えへ」
 ……ちょっと、嬉しい。冗談混じりの口調だけれど、それって照れ隠しなのかなって思えて。だから、うん、まだ見込みがない訳じゃないんだ。きっと。
 その思いに胸が暖かくなるのを感じながら、でも、これはまだ綾が求めているものに、そして私が向けて欲しいものに、届いていないって分かってる。私たちが欲しいのは、この温もりじゃなくて、その先にあるもの。その先に進むためにはどうしたらいいんだろう。そう考えて私は、内心で溜息をついた。その先に進むために、今日、先輩と二人っきりになったはずなのに。どうやら今の私だと、これで一杯いっぱい。まさか、自分がこんなに弱いだなんて、思っても見なかった。まさか、ほとんど何もできないままに、一人で舞い上がって自爆しちゃうなんて。
 でも……でも、今日は、綾がせっかく譲ってくれた機会。だから、このまま終わるわけにはいかないと思う。だから、私は。

「……先輩」
「うん」
 せめて、もう一つの目的を果たそうって、そう決めて先輩の胸から顔を上げて、口を開いた。

「先輩にご相談があります」
 少しでも、先輩の意識を綾に向けて貰えるように、頑張ってみようって、そう思いながら。


/2.ご相談フェーズ。(神崎良)

 慌てたり、動揺したり、抱きついてきたり。
 佐奈ちゃんはどうしてしまったのだろうと、心配で仕方なかったけれど、俺はできるだけ平静を装って俺は胸に抱きついたままの佐奈ちゃんの頭を撫でていた。
 思えば今日の佐奈ちゃんは、部屋に入ったときから落ち着きがなくて、いつもと少し様子が違っていたような気もする。何か心配事でもあるのか、と俺が考えを巡らせていると、佐奈ちゃんは少し落ち着きを取り戻した様子で顔をあげてくれた。

「……先輩」
「うん」
「先輩にご相談があります」
「相談?」
「アドバイスを頂けたらなって」
「うん、いいよ」
 心配している矢先に、佐奈ちゃんの口から「相談」という言葉。なら、今日の佐奈ちゃんの様子がいつもと違ったのは、やっぱり悩みがあったからなのか。そう納得して、俺は努めて優しく笑って佐奈ちゃんに頷いて見せた。どんな相談事で、果たして俺が役に立てるのかは分からないけど、相談する相手が居るだけで、少しは気が楽になったりするだろう。そう思いながら、俺は彼女に言葉の続きを促した。

「聞かせてくれるかな」
「はい、友達の話なんですけれど……」
 そう前置いてから佐奈ちゃんが口を開いた。

「実は恋愛相談です」
「れ、恋愛相談?」
「はい」
 佐奈ちゃんの口から切り出された内容に、内心で一歩後ずさってしまった。いや、そういうのは苦手分野というか、なんというか。なんたって、自分自身のことで一杯一杯なわけで、そういう相談は、龍也の方が適任なんじゃないだろうか。
 頭を過ぎったそんな不安。それが顔に出てしまっていたのだろうか、俺を見上げる佐奈ちゃんの顔に、一瞬、不安が影を差した。

「だめ、でしょうか」
「いや、駄目なことはないよ。うん」
 沈みかけた佐奈ちゃんの声に、俺は慌てて首を振った。
 まあ、恋愛相談に向いていないのは確かだけど、今日は先輩らしいところを見せる、と言ったじゃないか。頑張れ、俺。例え経験がなくても、こう言うのは一緒に悩んで、一生懸命考える誠意が大切なはずだ。……多分。少なくとも佐奈ちゃんにこれ以上沈んだ顔をさせたくない。

「俺で良かったら、相談してくれると嬉しいよ」
「姉弟のことも関係してるんです。ですから、先輩に相談したくて」
「なるほど」
 そういうことなら、少しは役に立てるかも知れない。

「その友達って言うのは……えーと、親戚でもあるんですけど、一つだけ年の離れたお姉さんがいる男の子なんです」
「うんうん」
「それで、まず質問なんですけど」
「うん。何かな」
「兄妹で一緒にお風呂に入るのは何歳までなんでしょうか」
「……え?」
「ですから、兄妹で一緒にお風呂に入るのは何歳までなんでしょうか」
「えーと」
 予想外の質問に戸惑って、彼女の顔を伺う。真顔で冗談を言うこともある佐奈ちゃんだけど、真剣なときはなんとなく分かる。だから、巫山戯ている様子はないってわかったのだけれど。それが、今日の佐奈ちゃんの変調の原因になるほどの悩みなんだろうか。いや、というか、そもそもそれは恋愛相談なのか……?

「佐奈ちゃん」
「はい」
「それが質問?」
「はい。その親戚の男の子は、自分がシスコンなんかじゃないかって悩んでて」
「ちなみにその男の子はいくつなの?」
「11歳です」
「あ、まだ初等部なんだね」
「はい。お姉さんは中等部の一年生です」
「うーん。なるほど」
 それは、なかなかに微妙な所かも知れない。尤も、その男の子自身も微妙と思っているからこそ、佐奈ちゃんに相談しているんだろう。軽く首をひねて「うーん」とうなりを零す俺の顔を、佐奈ちゃんがなんだか不安そうに見つめる。

「やっぱり、中等部になってしまうと、姉弟一緒にお風呂というのは変なんでしょうか」
「いや、変とは思わないよ。こういうのって、個人差というか、家庭差みたいなものはあるだろうから」
 初等部低学年の内から、そういうことをしなくなる家庭もあれば、大人になるまで一緒に入るような兄妹だっているだろう。まあ、後者はかなり少数派だろうけれど、でも、お互いが特に異性を意識していなければ、あくまで家族間のコミュニケーションの一環なわけだし、問題ない言えば問題ない筈だ。

「ちなみに先輩は、いつ頃まで綾と一緒にお風呂に入ってたんですか?」
「俺?」
「はい。あ、ひょっとして現在進行形だったりしていますか?」
「していません」
「残念です」
「あのね」
 苦笑しつつも、いつもの佐奈ちゃんの調子が出てきたな、と軽い安堵を抱きながら、自分の時はどうだっただろうと記憶を手繰る。あれは確か……。

「えーと……うん。ちょうど俺が中等部に上がった頃に、一緒に入るのは止めにしたんじゃなかったっけ」
「中等部ですか」
「うん」
「切っ掛けは、なんだったんでしょう。やっぱり中等部に入ったことですか?」
「うん。そんな感じだったと思う」
 それは切っ掛けの一つにはなっていた。まあ、他には理由はあると言えばあったけど。いやほら、その頃から周りからシスコン疑惑をかけられていたり。気恥ずかしくなってきたりとか、まあ、そんな感じ。『別々に入る』、と言ったときには綾は随分と駄々をこねたっけ。それこそ宥め賺すために、大変な思いを……って、今は佐奈ちゃんの事に集中しよう。
 俺が一瞬、そんな余計な思考に意識を逸らしていた時、佐奈ちゃんもなんだか顔を伏せて、なにやら考え事を呟いていたようだった。

「中等部まで、か……なるほど。それで年下の子に免疫が付きすぎたんですね。あ、ひょっとしたら私に反応してくれないのは、私が中等部程度の体型だからでしょうか……」」
「佐奈ちゃん?」
「済みません。ちょっと独り言です」
 良くは聞き取れなかったけれど、なんだかぶつぶつと淡々とした声で、でもちょっと怒っていたような感じがしたのは気のせいなんだろうか。気のせいだよな? 少なくともまた顔を上げた佐奈ちゃんの表情に、怒りの感情が覗いているようには思えなかった。

「えっと、じゃあ、先輩個人のご意見としては、中等部でも高等部でも、別に問題はない訳ですね?」
「うん。まあ、お互いが嫌がってないんだったら別に気にすることはないと思う。けど、悩み始めたんなら止めた方が良いのかもしれないね」
「そうですか」
「うん」
 色々と悩みながらお風呂に入るのは精神衛生上も宜しくない気がするし、誰かに相談するほどに悩んでいるのなら止めた方が気も楽だろう。そう告げる俺に、佐奈ちゃんは少し困ったように眉根を潜めて溜息をついた。

「でも、先輩。その子は出来ればお姉さんとお風呂に入りたいんです」
「そっか。仲が良いんだね」
「はい。その子は、お姉さんのことが好きなんです」
「うん」
「家族としてじゃなくて、異性として好きなんです」
「え、ええ?!」
 衝撃的な発言に、俺は思わず声を上げてしまう。そんな俺を見上げて佐奈ちゃんは少しだけ眼を細めた。

「そんなに驚かないでください」
「普通は驚くよ?!」
「いえ、普通は驚きません。兄弟の恋愛なんてありふれた出来事なんですから」
「いや、ありふれてなんか無いよ?!」
「いえ、ありふれています。とてもありふれています。至極ありふれているんです。私の友達の二割は兄妹間の恋愛をしています」
「に、二割……っ?!」
 なんだろう、その高確率は。いくらなんでも、冗談だろう。いや、しかし、この佐奈ちゃん平静っぷりと、断言っぷりはどうだろう。ひょっとして、俺が世間知らずなだけなのか……っ?! 実はそういう兄妹は世の中にありふれているのかっ?! いや。いやいや。いやいやいや、そんなハズはないだろう。落ち着け。落ち着け、俺。

「あの、佐奈ちゃん。二割って、本当?」
「それで、ここからが本題なんですけれど……」
「いやいや、さらりと流さないでっ」
「数字なんて些細なことです」
「さ、些細じゃないと思うんだけど」
「些細です」
 狼狽する俺に向かって、佐奈ちゃんは冗談めかして、くすり、と小さく微笑んでから、口調を改めて言葉を続けた。

「でも、そんなに驚かれるのなら、やっぱりお聞きしたいです。先輩はどう思いますか? 弟君の思い」
「そ、それは……難しいね」
 どう思う、とは勿論、お風呂の事じゃなくて、男の子がお姉さんのことを好きだ、という事についてだろう。微笑ましい話題から生々しい話題に変わってきた。やっぱり龍也か霧子を呼び出した方がいいのだろうか。そんな逃げるような感情を頭を振って追い出して、俺は答えを探して思考を巡らせる。

「うーん。俺個人か」
「はい」
「……やっぱり、止めないとダメじゃないかなって思う。年下の弟妹からの思いなら尚更」
「でもっ」
 俺の言葉と同時、佐奈ちゃんが僅かに語気を強めて、ぎゅっ、と俺の胸を掴んだ。

「でも、その子はきっともう覚悟が出来てるんです」
「それは傷つく事への覚悟?」
「はい。それから傷つけることの覚悟も、きっと」
「……そっか」
 真剣な表情で、佐奈ちゃんが告げた言葉。それを飲み込んで、俺は再び思考を綴る。
 今の答えに、佐奈ちゃんは一瞬、震えた。なら、俺の口にした言葉は彼女が望んでいる言葉じゃなかったのか。それとも、俺の考えが浅すぎたから、佐奈ちゃんにちゃんと届かなかったのか。
 なら、状況の想定そのものを改めるべきなのかも知れない。わざわざ佐奈ちゃんが俺に聞いてくれた、ということは、異性の兄弟がいる俺の考えを聞かせて欲しいということなんだろう。だから、きっと求められているのは、世間一般の常識論じゃなくて、俺個人の思いだと思う。一般論じゃなくて、自分のこととして、考えて、悩んで、答えを出すのなら―――それは。

「佐奈ちゃん」
「はい」
「要するに、綾が俺を好きになったらどうするかってことだよね? あるいは、その逆かもしれないけど」
「は、はいっ」
 俺の言葉が予想外だったのか、佐奈ちゃんは驚いたように目を開いたけれど、すぐに力強く首を縦に振った。

「はい、もし、万が一、ですけれど……そういう事になったとき、先輩はどうしますか?」
「もしそうなったら」
 もし仮に……綾が俺のことを兄妹じゃなくて、異性として好きになって。そして、お互いに傷ついてしまうことも覚悟して、それでも想いを捨てられないっていう気持ちになっているとしたら。
 ……正直に言えば、そんな想像、恐ろしすぎてしたくない。でも、佐奈ちゃんはやっぱり少し、震えている。親戚の男の子と佐奈ちゃんの関係は分からないけれど、きっと佐奈ちゃんはその子の力になってあげたいって、心の底から思ってる。それが伝わってきたら、必死で思考を回して、出せない答を無理矢理形にしていく。

「俺は……」
「はい」
「俺だったら、やっぱり妹からの想いは……受け入れちゃダメだって思う」
「……そう、ですか」
 改めて紡ぎ出した答に、佐奈ちゃんが落胆したのが、なんとなく分かった。佐奈ちゃんに相談した男の子に、恋路を諦めろ、と言っているようなものだから、仕方ないのかも知れない。そんな佐奈ちゃんの失望を見るのは辛かったけれど、でも、大切なことだと思うから、隠さずに思いを伝えようって決めて、俺は彼女に言葉を渡す。

「もし、受け入れてしまったら、結局は、どっちも傷ついちゃうから。違うな、受け入れたら、その事が一番、結果的に傷つけると思う。だから、やっぱりできないよ」
「……でも」
「うん。弟さんは傷ついて、傷つける覚悟をしてるんだよね?」
「……はい」
「じゃあ、同じだけの覚悟をお姉さんもしないといけないのかもしれない」
「同じだけの覚悟?」
「うん」
 頷いて、言葉を探す。上手く言えるかどうか分からないけれど、なんとか精一杯の言葉を探しながら、思いを言葉の形に変えながら、佐奈ちゃんに伝えていく。

「例え受け入れられなくて、嫌われても、それでも綾を……じゃない。弟さんを守るっていう覚悟」
「……そう、ですか」
「それにね、佐奈ちゃん。弟さんは好きだから、お姉さんと恋人になりたいって思ってるんだよね?」
「はい」
 好きだから結ばれたい。好きだからつながりたい。その気持ちはきっと本当なんだと思う。
 漫画の中のお話で。映画の中のお話で。あるいは実際に生きている人たちで、兄妹なのにそういう関係になりたくて、一線を越えた人たちはいるんだろう。

「でも、さ」
 これが正しいかどうかわからないし、佐奈ちゃんが期待している回答じゃないかも知れない。でも、なるべく素直な気持ちを彼女に告げる。

「兄妹っていう関係って、恋人って言う関係より、軽いのかな?」
「……それは」
 それこそ兄妹のあり方なんて、星の数ほどあって嫌いあっているような関係もあるんだろうけれど。それに何かの「関係」に優劣をつけるって考え自体がおかしいのかも知れないけれど。
 でも、自分にとっての兄妹のあり方を聞かれたんなら、それが何かの関係に劣るなんて答えは出せそうにない。そう考えてから、少し俺は頭をひねってしまった。

「って、御免ね」
「え?」
 突然謝られて、きょとんとする佐奈ちゃんに、俺は苦笑しながら少し肩をすくめた。

「自分でも言ってて混乱してきた。ちょっと論点がずれてるかも知れないね。考えすぎて、却って混乱しちゃった」
「いえ、先輩が真剣に悩んでくれて、嬉しいです」
 そう答える佐奈ちゃんは、少しだけ寂しそうだったけれど。

「それに混乱しているってことは、まだ脈ありですから」
 その笑みは、いつもと同じ、淡々としているけれどとても優しい、佐奈ちゃんの笑顔のような気がした。

「じゃあ、もう一つだけ質問です」
「うん」
「そんな風に弟さんのことを大切に思って、例え嫌われたって、守り抜くって言う覚悟を決めているお姉さんがいるとします」
「うん」
「そんな風に覚悟してしまっているお姉さんを、更に攻略するにはどうすればいいでしょうか」
「ええええ! あ、諦めないの?!」
「当たり前です」
 にこり、と笑って佐奈ちゃんは頷いた。

「傷ついて、傷つける覚悟を決めている弟君に対して、お姉さんが嫌われても、守り抜く覚悟を決めているというのなら、弟君には更にその守り抜く覚悟を打ち破って先に進んで貰うしかありませんから」
「いやいやいや、そこは打ち破っちゃだめなんじゃ」
「いえ、打ち破らないとダメなんです。弟君はそう簡単に諦めたりはしませんから」


/3.授業終了(泉佐奈)

「……ふう」
 神崎家の玄関をでた瞬間、私の口からおっきな息が漏れた。

 結局、今日の目論見は全部失敗しちゃったのかも知れない。ちょっと先走りすぎたかな。そんな不安が胸に疼いたけれど、でも、完全に失敗じゃなかったって、そう思い直すことにしてみた。
 少なくとも先輩の意識を綾に向けて貰う、という目論見は、少しは達成できたように思うし、それになにより、先輩の綾への思いに少し触れることができたから。

『俺だったら、やっぱり妹からの想いは……受け入れちゃダメだって思う』
 真剣に考えて先輩が私にくれた答え。それは予想していた言葉。だけど、予想はしていたけど……聞きたくはなかった台詞。それを聞いたとき、胸に冷たい針が刺さった気分になったけれど、でも、その針は今は溶けている。

『兄妹っていう関係って、恋人って言う関係より、軽いのかな……?』
 その先輩の台詞は少なくとも綾にとっては当てはまらないんだって思う。大切に想われていても、それでも、抱きしめて貰えないなんて、綾には辛すぎると思う。でも……

「……羨ましいな」
 姿の見えない親友に向かって、私は本音をぽつりと零した。
 先輩が綾に向けているのはやっぱり、どこまでも家族への愛情。それは綾が求めている想いとは違うけれど、それでも……それでも、こんなに想って貰ってることがやっぱり、羨ましいって素直に思えた。

「だから、きっとまだ脈はあるよね」
 そう胸中で呟いて、私は綾と待ち合わせの場所に向かうべく、歩き始めた。今日の私の失敗と、そして先輩の綾への思いの欠片を、大切な親友に伝えるために。

続く

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