/************************************************/ 

  魔法使いたちの憂鬱

       第二十六話 家庭教師達の昼食会

/************************************************/

/1.集合中。(神崎良)

 『肺が痙る(つる)』、という表現がある。
 魔法を使いすぎた時に、胸の奥、つまりは肺のあたりに引きつったような痛みを覚えることがあるのだけれど、そんな症状を指すのが「肺がつる」という言葉だ。実際に肺が痙攣を起こしている訳ではないので生死に関わるような状態なのではないが、息苦しくて、結構辛い。
 さて。どうして、そんな言葉の説明しているのかというと、俺自身が今まさに「肺がつった」ような状態で、呻いているからだったりする。

「う、おお……」
「良、大丈夫?」
「だ、大丈夫……、多分」
 中庭の一画に敷いたシート。そこに座り込んだまま、俺は気遣わしげな龍也の声に絞り出すような声で頷いた。正直、授業が終わった直後は声を出すのも辛かったけれど、時間と共になんとか収まってきたような気がする。だから「大丈夫」と答えたのだけれど、霧子は呆れた様子で溜息をついた。

「何が大丈夫なのよ、何が。まだ午前中が終わったばっかりなのに死にそうじゃない」
「……うう」
 霧子の言うとおり、授業はまだ午前中を終わったばかり。この調子で今日一日を乗り越えられるのだろうか、と我ながら情けない不安が胸を満たしていく。別に、午前が厳しい内容だったという訳じゃない。ほとんどは座学だったし、実技の内容も軽めだった。それなのにどうして俺がここまで憔悴しきっているのかと言えば……、それは勿論、連日の「個別指導」の賜だった。
 綾、会長さん、霧子に龍也の四人がかりで俺に魔法を教えてくれることになってから二週間と少し。その個別指導は三巡してなお休むことなく続けられている。それは魔法院の学生としてもの凄く恵まれた環境な訳だけど、やっぱり普段と勝手が違うので中々疲れが抜けてくれない。なので、昼休みの中庭で、こんな醜態を晒してしまっている訳なんだけど……。

「……でも。うん、本当にもう大丈夫。落ち着いてきた」
「全然、大丈夫に見えないわよ」
「大丈夫ったら大丈夫だって」
「変なところで意地を張るんだから」
 大丈夫、と繰り返す俺に、霧子が呆れた様子で溜息を零す。まあ、ちょっと強がりだって自分でも分かっているけれど、それでも泣き言ばかりも言っていられない。せっかくみんなに教えて貰ってるんだから、少しは意地を見せないと申し訳ない。

「もう。ほら、ちょっとだけ大人しくしてなさい」
「お……」
「こうすると少しは楽でしょ?」
 俺の強がりに苦笑しながら、霧子が軽く背中を撫でてくれた。ゆっくりと背中から肺の辺りをさすられると、肺に絡みつくようだった強ばりが、抜けていくような感じがする。

「あ、ほんとに楽だ」
「でしょ?」
「何か魔法使ってるのか?」
「使ってないわよ。さすってるだけ。もし家でも苦しいんだったら……そうね、神崎先生にさすってもらうのよ」
「ああ、うん。わかった」
 じわり、と広がっていく温もりに、息苦しさが溶けていく。その感覚に深々と安堵の息をついて、俺は霧子に礼を言った。

「……ありがと、霧子。ほんとに楽になったよ」
「そう? それなら、まあ、いいけどさ」
「でも、神崎さん」
 俺の背中をさすってくれていた霧子の隣、篠宮先輩が俺を気遣うような視線を投げかける。

「無理はしない方が良いと思います。具合が悪いなら保健室に行った方が良いのではないですか?」
「ありがとうございます。でも大丈夫です」
「そうよ、鈴。そんな必要はないわ」
 心配してくれる篠宮先輩に答えた俺の声。それに重なるように、会長さんの声が響いた。

「見たところ魔力の欠乏は起きていないようだし」
「でも……大丈夫でしょうか」
「大丈夫よ。男の子だし」
 不安げな篠宮先輩と、楽観的な会長さん。二人の上級生が対照的な様子で俺の体調について意見を交わすその間に、今度はまた違った俺の耳に届く。言わずと知れた妹の綾の声だ。

「兄さん、魔力、交換しようか?」
「大丈夫だよ」
 俺の対面に座って、不安そうな目を向ける綾に、俺は片手を上げて笑って見せた。まあ、実際の所、胸を張って「大丈夫」と言える状態ではないのは自分でもわかっているけれど……正直、今の状態では魔力交換をしてもらうのも辛い。というか、今だったら魔法を使うよりも魔力交換の方がきつい。それに何より、綾と魔力交換をする、ということは自然と、首筋に口づけされる格好になるわけで、いくら何でも昼休みに衆人環視の場所で、やる気にはなれない。というか、無理だ。うん。

「でも、兄さん。本当に魔力足りてるの?」
「足りてるよ。朝、交換して貰ったばかりだから」
「朝って、私、してないけど」
「うん? いや、だからレンさんと交換したんだ」
「……ふーん。母さんとしたんだ」
「いや、何故にそこで怒る」
「別に怒ってません」
 明らかに怒っている声で、綾は口を尖らせる。

「いや、怒ってるだろ?」
「怒って無いったら、怒ってません。ただ母さんとはするのに、私とはしてくれないんだって思っただけだから」
「いやいやいや、だから何でそこで拗ねるんだ。お前は」
「別に。拗ねてないもん」
「お前な」
 拗ねているだろうが、どう見ても。一体何が気に入らないというのか、この妹は。
 綾のそんな態度に、俺はどうしたものか、と額に手を当てる。と、そんな時、拗ねている綾のとなりで、お弁当を鞄から取り出していた佐奈ちゃんが、代わりにとばかりに手を挙げた。

「じゃあ、先輩。私としてくれませんか?」
「え? 魔力交換?」
「はい」
 そう言って佐奈ちゃんは、そっとその小さな手を俺に向かって、差しのばす。

「だめ……でしょうか?」
「う」
 佐奈ちゃんは僅かに目を潤ませて、どこか不安げに上目遣いで俺を見つめた。そんな彼女の態度に、俺は否定の言葉を口に出来ずに口ごもる。魔力交換は辛いのは確かだけど、佐奈ちゃんとは普通に手を握る形で魔力交換できるし……、どうするか。

「良先輩」
「……うん」
 訴えるような声と視線。その彼女の態度に、この前、綾の代わりに家に来てくれたときのことを思い起こしてしまう。慌てたり、動揺したり、そして抱きついてきたりして、色々な不安を相談してくれたあの時のこと。あの時も、魔力を交換することで落ち着いてくれたから……だから、今もひょっとしたら、何か不安を抱えていたりするのかな。佐奈ちゃん。

「あの、やっぱり、駄目でしょうか」
「いや、駄目じゃない―――痛!」
「に・い・さ・ん?」
「痛い痛い痛い! こら、綾! 耳を引っ張るな!」
「母さんとも佐奈とも交換するのに、私が駄目な理由を教えて貰いましょうか」
「理由って、お前な」
 佐奈ちゃんはこの間の事がちょっと気になっているから心配なんだよ、とは言えずに、とりあえず耳から綾の指を振り払ってから、とりあえずごく一般的な理由を綾に向かって投げ返す。

「あのな、佐奈ちゃんの魔力が足りてないんだったらどうするんだよ」
「う、それは」
「いえ、魔力は大丈夫です。純粋に良先輩を誘惑してみました」
「ゆ、誘惑って、佐奈ちゃん」
「冗談です」
「あ、あのね……」
 いつものように真顔で冗談を繰り出す佐奈ちゃんだった。

「ほら、元気でしょう?」
「そうかも知れませんね」
 佐奈ちゃんに振り回された俺と綾。そんな俺たち兄妹を眺めながら、楽しげに会長さんは笑って、篠宮先輩は呆れたような声で頷くのだった。

 /

「ともかく、お昼にしよう」
「そうね。それだけ漫才できるんだったら、良も大分回復したんだろうし」
「漫才っていうな。漫才って。まあ、声は大分楽にだせるようになったけど」
 呆れの籠もった霧子の台詞に、溜息で返しながら、俺は鞄から弁当箱を取り出す。それを合図にしたかのように、みんなもそれぞれ食事の用意を終えて、「いただきます」と昼食を取り始めた。
 俺、霧子、龍也のいつもの面子だけでなく、綾と佐奈ちゃん、そして会長さんに篠宮先輩まで顔を揃えて、みんなが中庭に敷いたシートの上に腰を下ろしている。ちょっとしたピクニックのような風景に見えるかも知れないけれど、あくまでここは東ユグドラシル魔法院の中庭の一画。そして、ここ最近では珍しくはない、俺たちにとっては日常になりつつある光景だった。

「お弁当、というのも大分と慣れたわね」
「そうですね。ここは日当たりも、風通しも良いですし」
 サンドイッチをつまみながら、そう言って笑いあう会長さんと篠宮先輩は、普段は食堂を利用していたらしい。そういえば、食堂には事実上、生徒会役員の専用になっているスペースがあるとかないとか聞いたことがある。なんでも会長さんたちの信奉者による無用の混乱と混雑が生じるのを避けるためだとか。果たして何処まで本当なのか分からないけれど、「嘘でしょう」と笑い飛ばせない辺りが、会長さんの恐ろしい所だった。
 ちなみにそんな会長さんとお昼ご飯を一緒になんて食べたら周りの視線が凄いことになるんじゃないかと危惧したりしたが、実際の所はそうでもない。遠巻きに視線を投げてくる人はいたりするけれど、会長さんが視線に気付いて軽く微笑むと慌てて退散していくのだ。「人払いの魔法をかけているのよ」という会長さんの話は冗談ではなくて本当なのかも知れない。重ね重ね、会長さんは底知れない人だと思う。

「神崎さん? どうかしましたか?」
「え?」
「さっきからずっと私の方を見ていますけど」
「あ、すみません」
 どうやら会長さんの事を考える内、自然と彼女の顔に視線を投げてしまっていたらしい。

「別に謝ることはありませんけれど。でも、駄目よ?」
「駄目って何がです?」
「このサンドイッチは鈴の手作りなんだもの。そんな物欲しそうな目をしてもあげません」
「確かに美味しそうですけど、誰も物欲しそうな目なんてしてません」
「でも、そうね……私と鈴に向かって、三回回ってワン、と言うのなら、そうね、トマトぐらいはあげてもいいわよ?」
「人の話を聞いて下さい。お願いですから」
 っていうか、そこまでしてもトマトしか恵んでくれないのか、この人は。いつものように愉しげに人をからかう会長さんに、俺は軽い頭痛を感じながら、気を取り直して自分の弁当箱に向き直る。今日は俺の食事当番だったから、当然のごとく自分で作ったおかずが並んでいる。体力をつけるように、とちょっとばかり肉分多めなメニューにしてみたんだけれど……、ずきり、と不意に痛んだ肺の痛みに、おかずに伸ばしかけた箸が止まった。

「良。あんた、そんな状態で食べられるわけ?」
「そこまで死んではいないから、多分」
 霧子の言葉に「大丈夫」と頷いたものの、固いものをかむと肺のあたりが疼きそうだった。というか、肉分と油分が多すぎたかも知れない。ちょっと行儀悪いけど、ここはあまりかまずに飲み物で流し込むことにしよう。そう決めて俺がお茶に手を伸ばすと、それを待っていたかのようなタイミングで龍也が俺に声を掛けてきた。

「あ、あのさ。良」
「うん?」
「よかったら、これ食べない?」
「え?」
 そう言って龍也が差し出してくれたのはゼリー状のものが入った容器とスプーン。冷却の魔法を使ったのか、ひんやりとした冷たさが容器越しに伝わってくる。

「龍也、これは?」
「えーとね、栄養ドリンクみたいなもの。それをゼリーみたいに固めてから、ちょっと冷やしたんだ。これだったら、食べるの楽だと思うし、肺の痛みもちょっとは引くと思うよ」
「おお!」
 なんという心遣いだろうか。確かに今の状態だと、こういうものの方が食べやすくてありがたい。

「助かる。ありがとうな、龍也」
 素直に礼を言って、差し出された容器を受け取る。そして、スプーンを手にして一口、薄いオレンジ色のゼリーを口の中に放り込む。瞬間、爽やかな酸味と、ほのかな甘みが口の中に広がって、そして清涼感を残して喉の奥へと溶けていく。

「おお……旨い」
「そ、そうかな:
「うん。凄く旨い。いや、ほんとにありがとな、龍也」
「口にあったんだったら、よかったよ」
「でも、コレ、どうしたんだ? 龍也が作って来てくれたんだよな?」
「うん。昨日、良が、ちょっと辛そうだったから。ひょっとしたら、今日あたり、苦しくなるかなって」
 そう言って、龍也は照れくさそうに微笑んで頬を掻いた。そんな龍也の様子に、俺はちょっと、いや、かなり感動して息が詰まる。本当に、良い奴だよな、こいつは。
 決して、俺は「そっちの気」がある人間ではないのだけど。この優しさと笑顔の前には、速水会に参加する男子生徒の方々の気持ちがわからないでもなかった。というか、こいつと性別が違ったら、あっさりと惚れているじゃないだろうか。俺。

 ……うん。龍也だったら。
 綾が好きな奴が誰なのか、未だに教えて貰っていないけれど、龍也だったら、何の心配も要らずに任せられるんだけど。そんな思いに、少しだけ浸りながら、ゼリーをまた一口、口に運ぼうとした、その刹那、ふと突き刺さる視線を感じて顔を向けた。

「……」
「……」
「……」
 向けた視線の先にあったのは、女性陣の何とも言えない表情。というか、女性陣は本当に喜怒哀楽の読めない表情で俺を、いや、俺たちの方を眺めていた。

「……えーと。どうかしたか? 霧子」
「いいの。なんでもないの。なんでもないのよ、良」
「いや、なんでもないって言うようには見えないんだが」
「いいの、放って置いて。色々と考えることがあっただけだから。女の子として。色々と」
 俺の問いかけに、なんだか霧子は目を伏せたまま、自嘲するように笑った。とても何でもないようには見えないが、しかし「今は話しかけるな」という雰囲気に気圧されて、俺は視線の方向を綾に向ける。が、果たしてそこにも目を背けたくなるような陰鬱な雰囲気が蟠っていたのだった。

「どうして……どうして、そういうポジションに速水先輩が……」
「まさか、速水先輩が手作りお弁当攻撃だなんて……み、見くびっていました……」
「しかも、兄さんの体調を気遣った特別メニューなんて」
「速水先輩を侮ってはいけない。そんなの分かっていたはずなのに……不覚。不覚です」
「どうしよう、佐奈。兄さんが、兄さんが、兄さんの貞操が……っ!」
「なるほど、綾の中では速水先輩は責めなんだ」
「兄さんは受けだと思う……って、そうじゃなくて、どうしよう」
「綾、ここは頑張り所だよ。だから……」
 ぶつぶつと綾と佐奈ちゃんが身を寄せ合ってなにやら呟いている。というか、物凄く悔しそうに聞こえるのは気のせいだろうか。いや、気のせいだよな?

「えーと、綾? 佐奈ちゃん?」
「に、兄さん!」
「ど、どうした?」
「その……お弁当。た、食べづらいんだったら、その私が食べやすくしてあげよっか?」
「食べやすく?」
「うん……その」
 そこまで言って、綾は何故か頬を赤くして口ごもる。一体、何を言おうとしているのか、綾の意図が分からず、俺は思わず眉をひそめてしまう。しかし、そんな綾の様子に、俺より先に、霧子が言葉をかけていた。……なんだか頬を引きつらせつつ。

「あ、あのね。綾ちゃん。まさか、かみ砕いて食べさせるなんていわないわよね……?」
「……え」
「……綾ちゃん?」
「そ、そんなことするわけ無いじゃないですか」
「そうよね。するわけ無いわよね」
「ええ、その、勿論です」
「ふふふ」
「えへへ」
「……」
 ……なんだろう。
 傍目から見ている分には、お互い穏やかに微笑みをかわしているだけな筈なのに、見ているだけで胃が痛くなるようなこの雰囲気は。
 ちらり、と龍也に目を向けると、ハラハラと心配そうに霧子の方を見守っている。どうやら霧子と綾の間に、ただならない雰囲気が漂っていると感じるのは俺の気のせいではないらしい。

「綾、駄目だよ」
「佐奈」
 そんな微妙な緊張感に割っては言ったのは、佐奈ちゃんだった。彼女は霧子に向かってぺこり、と頭を下げてから、綾に向かって諭すような口調で言葉を続ける。

「こんな所で、そんなこと言っちゃ、良先輩が困っちゃうよ?」
「それは、うん」
「だから……そういうのは家でやらないと」
「家で?」
「うん。良先輩の様子だと、晩ご飯も大変そうだから……」
「そっか」
「『そっか!』じゃない!」
 あまりの会話の内容に、思わず突っ込みの声を上げてしまった俺だった。本当に何をやろうとしてるんだ、コイツは。ってか、佐奈ちゃんもそういうのを唆さないでほしい。

「お前な。そもそも、かみ砕いて食べさせるって、それは赤ちゃん相手にすることだろ」
「だ、だって……兄さん、食べるの辛そうなんだもん」
「いや、だからってな」
「私は辛そうな兄さんなんて、見たくないもん。だから……」
「う」
「だめ、かな……?」
「いや、その」
 なんだって、そんなに潤んだ目で見つめてくるんだろうか、こいつは。というか、さっきの佐奈ちゃんと同じ台詞じゃないのか、これ。

「兄さん。駄目?」
「……あのな、綾」
「うん」
「普通に、最初からおかゆでも作ってくれたら……って、痛い痛い!」
 努めて冷静に答えたはずなのに、何故だか、綾は機嫌を損ねて、またも兄の耳を引っ張った。

「もう、なんでそうなのよ!」
「一体、何の話だ! って、だから耳を引っ張るな、耳を!」
「うう、兄さんのバカっ!」
「うおおお、痛い痛いってか、本当にもげるもげるもげる」
「……いい加減にしないか。この、バカ娘」
「あう?!」
 理不尽な(少なくとも俺にとっては理不尽きわまりない)綾の怒りの声は、突然の呆れた声によって、終わりを告げる。綾のことを「バカ娘」と呼ぶその声の主は、当然のことながら、俺たちの母親であるレンさんその人だった。
 いつの間に、こんな近くにきていたのか、綾の背後(つまりは俺の正面だけど)に立つレンさんは、あきれ果てたという表情で、それはもう深々とした溜息をついて、再度、ぽこり、と綾の頭に拳骨を落とす。

「まったく。学院内でのおかしな言動は、慎め」
「うう、母さん! 痛い」
「痛いのが嫌なら、行動を改めなさい。まったく、兄の耳を引っ張るんじゃない」
 半泣きの目で見つめる綾に盛大に溜息をついてから、みんなの方に向き直った。

「済まないな。昼間っから兄妹漫才を見せてしまって」
「ま、漫才って、母さんっ」
「レンさん。せめて兄妹喧嘩といってください……」
「こんにちは、神崎先生。ふふ、神崎さんたちはとても面白いですから、退屈しませんね」
「気に入って貰えているのならなによりだね。ああ、いいよ。座ったままで」
 シートから腰を上げて挨拶しようとする会長さんたちを片手を上げて制してから答えると、レンさんはスタスタと龍也の元に近寄った。

「こんにちわ、神崎先生」
「ん。こんにちは。ところで、速水」
「はい」
「決めた」
「はい?」
「お前、嫁に来い」
「えええ?!」
 何の脈絡もないレンさんの発言に、龍也がうわずった声で悲鳴を上げる。いや、俺も声を上げたけど。というか、その場の全員が声を上げるか、絶句するかのどちらかの反応しかできなかったけど! いや、本当に何を言い出すのか、この人は。

「ちょ、レンさん?! 何をいきなり言い出してるんですか」
「別におかしな事は言ってないだろう?」
 突っ込む俺に、「何を騒いでいるのか」とでも言わんばかりに落ち着き払った視線を向けて、レンさんは言葉を続けた。

「常に気を配り、旦那の体調を気遣い、そして食事のメニューを変える。私は感激したよ。これはもう、是非とも嫁に欲しい」
「あのですね。というか、レンさん。せめて婿にこい。にして下さい」
「ん? じゃあ、お前が嫁なのか。うーん。」
「なんでそうなるんですか。龍也が神崎家に入るんだったら婿でしょう」
 神崎家には、現在、独身女性が二人もいるというのに。そう俺が指摘すると、レンさんはなんだかいたく感心したように手を打った。

「ほう。「嫁に来い」発現を、良はそういう風に捉えたのか」
「普通はそう思うでしょう」
 他にどういう解釈があるというのか。というか、それ以外の解釈は危なすぎるので止めて欲しい。

「ま、それはそれでいいか。良がまだ理性を保っている証拠だしな」
「理性って。あのですね」
「でも、ちょっとぐらっとしなかったか?」
「してません」
「速水が女だったらとか思わなかったか?」
「お、思ってませんよ!」
「ふふん」
 一瞬の俺の戸惑いを、しかし、レンさんは軽く笑っただけで追求はしなかった。

「まあ、食事にしようか。少し出遅れたけれど、私だって捨てたもんじゃないって所を見せないといけないし、ね」
 そういって笑ったレンさんの手には、龍也と同じように流動食があったのだった。


/2.食事後。(神崎良)

「でも、本当にそういう状態になるものなのね」
 レンさんが加わった事もあって、一際、騒々しかった食事の後。授業まではまだ少し余裕があるという時間に、会長さんが不思議そうな、というか、感慨深げな声でそう呟いた。

「そう言う状態って、俺の……肺が痙るって状態ですか?」
「ええ」
「ああ、そうか。紅坂は「肺がつる」という状態になったことはないのか」
「はい。そうなんです」
 レンさんの言葉に、会長さんはあっさりと頷く。

「ええ?」
 その事が信じられなくて俺は思わず驚きの声を漏らした。いや、驚いたのは俺だけじゃない。霧子や佐奈ちゃんも同じように「え?」という声をあげて目をむいている。繰り返しになるけれど「肺がつる」という症状は「魔法使いの筋肉痛」とも言われることもある。だから、だれだって経験はあるものだと思っていたんだけど……。

「ふむ」
 会長さんの反応、そして俺たちの反応。その二つを見比べて、レンさんはしばし顎先に手を当てて、何かを考えるよう素振りを見せてから、やがて授業中の時のようにみんなを見まわしてから良く通る声で言った。

「この中で、肺がつったことがあるのは?」
 レンさんの問いかけに、ぱらぱらと手が上がる。手を挙げた、つまりは経験がある、と答えたのは俺、霧子、綾と佐奈ちゃん、それに篠宮先輩の5人。対して会長さんと龍也は、その手を挙げていない。

「って、本当になったことないのか?! って、いてて」
「ちょっと、良。落ち着きなさいよ」
 驚きのあまり発した声に、収まっていた胸の強ばりが少しぶり返した。霧子はそんな俺の背中を再び撫でてくれながら、驚きの隠せない声を龍也達に向ける。

「でも、龍也。あんた本当に肺が痙ったことってないの?」
「えーと、うん。まあ」
「桐島さん。鍛え方が足りないのじゃないかしら」
「セリア。あなたを基準にしてはいけませんよ」
 気まずげな龍也に対して、平然たる態度の会長さん。そんな会長さんの台詞に、篠宮先輩は溜息混じりに首を横に振った。

「普通は経験するものです。頑張って魔法を学ぶ人なら、なおのこと」
「確かにそうだね。魔法使いなら経験するのが普通だろう。まあ、紅坂と速水は例外だ。魔力の総量が他人とは違うんだろうな」
 篠宮先輩の言葉に笑いながら頷いたレンさんだったけれど、ふとその表情から笑みが消えた……ような気がした。

「……やはり共通点はないか。近いというのなら、むしろ速水の方だろうけど」
「レンさん?」
「ん? ああ、独り言だよ。気にするな」
「そうですか」
 なんだか、一瞬、考え込むような表情を浮かべたのが気になったけれど。でも、俺が問いを重ねるより先に、レンさんが先に口を開いていた。

「まあ、紅坂と速水は使える魔力の総量が生まれつき大きいんだろう。だから、肺がつらなくても不思議じゃないよ」
「ええ。でも、少し意外ですね。綾さんも、きっと経験ないと思っていましたけれど」
 そう言って綾の方を見つめる会長さんに、綾は少し考えてから首を左右に振る。

「よく分からないですけど、わたし、昔は体が弱かったですから、肺が苦しいことは良くあったんです」
「そうなの?」
「そうだったんですか」
 綾の説明に、会長さんだけでなく、篠宮先輩も気遣わしげに少し目を細めた。そんな先輩たちの様子に、綾は慌てて言葉を付け足した。

「あ、でも、今は平気なんですよ? 兄さんのお陰で、すっかり元気になりましたから」
「そうですか。それはよかったですね」
 本当に安心してくれたような篠宮先輩の様子に、ちょっと胸が熱くなる。この人は本当に綾のことを心配してくれたんだってわかったから。生徒会に、篠宮先輩がいてくれることは本当に良かったと、兄としてしみじみ思うのだった。
 よく考えれば、篠宮先輩は「あの会長さん」と長年つきあっているのだから、それはもう聖母のような心の広さがないと耐えられないのじゃあるまいか。

「神崎さん? なにかとても失礼なことを考えていません?」
「気のせいです、気のせい」
 鋭い会長さんの突っ込みに、我ながらわざとらしく視線をそらしながら、俺は霧子の方に言葉を向ける。

「霧子はちゃんと肺がつる経験はあるよな?」
「まあね。って、なによ、その顔。なんでそんな露骨に安心するのよ」
「いやあ、霧子が同じで嬉しいなって」
「なによ、それ。どういう意味よ」
「いや、この中で成績的に一番追いつけそうなのはお前だし」
「ほほう。先生に向かって言うじゃない」
「先生?」
「魔法の勉強教えてあげてるでしょ」
「いや、それは分かってるけど、でも、教えあってるのは同じだろう? だったら、俺だってお前に関しては先生にならないか?」
「そうだけど。でも、私の方が偉いのよ、多分」
 などと、凡人同士のやり取りを繰り広げていると、レンさんが不意に感心したような声で会話に入ってきた。

「教えあってる、か。なるほど。桐島はそういう教え方をしているのか」
「あ、はい。そうですけど」
 頷いてから、霧子は少し不安そうな眼差しで、レンさんの表情を伺う。

「そういうのは、だめ、でしょうか」
「いや、良いと思うよ。人に教える、というのは自己の知識を整理するのにとても有効だからね」
 そう答えてから、レンさんは俺の方を見て意味ありげに笑って見せた。

「それにお前達は誰が良に上手く魔法を教えられるかで勝負中なんだろう? なら教え方には個性が合った方が面白い。その方が白黒がはっきりするしね」
「ええ。それはその通りです」
 レンさんの発言に、会長さんが自信満々と言った態度で頷いた。

「私も、勝敗ははっきりさせたいですから」
「そうだね。なにせ、今回は良の嫁を決める勝負だしな」
「ええ、それは……はい?」
 またも自信満々に頷きを返そうとした会長さんだったが、流石にその言葉が途中で止まる。って、何を言い出してるんだ、この人は。

「レンさん!」
「ちょ、ちょっと、母さん! 変なこと言わないでよ!」
 同時につっこみの声を上げる俺と綾に、しかし、当のレンさんは何だか不思議そうな表情を浮かべて小首を傾げる。

「ん? 何か違ったのか?」
「何もかも違います!」
「そうですよ! 兄さんの嫁って、な、な、なんだって、そんな話しになってるんですかっ!」
 綾は、なんだか真っ赤になってぶんぶんを首を左右に振りたくる。そんな綾の様子に、会長さんが小さく笑いをかみ殺しながら、レンさんに向かって声をかけた。

「先生。あまり綾さんをからかっては可哀相ですよ」
「そうは言われてもなあ。可愛い子はからかいたくなるものだろう」
「それは分かりますけれど」
「分からないでください!」
「良もからかうと愉しいしな」
「それも分かりますけど」
「そっちも分からないで下さい」
 なんだか息が合っているレンさんと会長さんだった。そんな二人にぐったりと突っ込みを入れる俺に、会長さんは「冗談よ」と愉しげに言ってから、レンさんに向かって首を横に振って見せた。

「神崎先生。ともかく、少なくとも私には神崎さんのお嫁さんになる権利を争っている、という認識はありません」
「ふむ。そうなのか」
「ええ。神崎さんのお嫁さんになる権利ではなく、神崎さんを……そうですね、下僕にできる権利の争奪戦というのが正しいでしょうか」
「そっちも正しくないですよ! なんですか、下僕って」
 また無茶なことを言い出した会長さんに、俺は再び悲鳴を上げた。が、当の会長さんは先程のレンさんと同じように心底不思議そうな表情を浮かべて小首を傾げた。

「何と言われても……。そうね、何でも言うことを聞く人の事よ?」
「誰も「下僕」っていう言葉の意味を聞いてる訳じゃありませんよ! なんだって俺が下僕になるんですか?!」
「だって、そういう条件だったでしょう?」
「いやいやいや、違います。なにか言うことを一つきく、というだけでしょう」
「同じ事じゃないかしら。神崎さんに「以後、私の下僕として生きなさい」とお願いすればいいわけでしょう?」
「そ、そんな事を命令するつもりだったんですか?」
「ふふ。冗談よ」
 戦慄を覚えて声を震わせる俺に、会長さんはそう笑って手を振ったけれど。何故だろう。その目が笑っていないような気がするのは。いや、気のせいだよな。うん、冗談だよな。……冗談だと、いいなあ。
 
「あの、会長」
「あら、なにかしら」
 そんな会長さんの恐ろしい要求内容を、流石に見かねたのか、横から霧子が口を挟んでくれた。

「もう一つ大切な条件が抜けてます。『お互いに』いうことを一つきく、って事だったでしょう」
「そうだったかしら」
「そうだったんです」
「そうだったっけ」
「そうだったの。って、何であんたがそんな大事なことを忘れてるのよ!」
「面目ない」
 そう言えば、そうだった気もする。いや、綺麗さっぱり忘れていた、という訳じゃない。ただ、俺としてはその取り決めは俺と綾との間だけだと思っていた。そもそも教えて貰っている立場なのだから、その上で何かを要求するなんて、あまりに厚かましいと思っていたのだけど。しかし、こと会長さんに関して言えば「こちらも命令権を持っている」ということにして置いた方が良いかもしれない。そうしないと、一体、どんな要求が飛んでくるかわかったものじゃない。
 と、俺がそんな風に考えていると、レンさんがなにやら「良いことを思いついた」とでも言わんばかりの良い笑顔で、ぽん、と手を打った。

「なんだ。そういう条件なら、良が一言「嫁に来い」と言えばいいだけじゃないか」
「あのですね……」
「そうか、なるほど。つまりこれは、良に一つ言うことを聞かせつつ、かつ、良から「嫁に来い」と言って貰える権利の争奪戦だったわけか。ふむ」
「ふむ! じゃない!」
「あら、そうだったのね。神崎さんって、強欲なのね」
「わざとらしく納得しないで下さい。会長」
 なにを納得してるんだろうか、この人は。
 なにをどう解釈したら、そういう結論に至るんだろうか。が、あからさまに俺をからかって遊んでいる会長さんを尻目に、レンさんは何やら急に神妙な顔つきで黙り込んだ。って、なんだかまた変なことを言い出しそうな予感がして、俺は自然と身構えながらレンさんの表情を伺った。


「レンさん?」
「……ふむ。美味しい」
「いや、美味しいって」
「……私も参加しようかなあ」
「駄目ですっ!」
「駄目です!」 
 呟くレンさんに、綾と霧子が何故か同時に突っ込んだ、本当に間髪入れない突っ込みに、流石にレンさんも驚いたのか、しばし目をぱちくりと瞬かせると、訴えるような眼差しで俺の方を見つめる。

「良。嫁と娘がいじめる。もしくは一号と二号がいじめる。なんとかしてくれ」
「せ、先生! 一号、二号ってなんなんですか!!」
「そうですレンさん! どっちが一号なんですか?! どっちが嫁なんですか!」
「綾。そこは自信を持って私が一号で嫁ですって言わないと」
「……お前らな」
 綾。突っ込むところが、凄く変だぞ? っていうか、綾。霧子がレンさんの娘と言うことはないので、必然的に嫁は霧子の方だと思う。あと、佐奈ちゃんも綾に変なことを囁くのは止めて欲しい。

「まあ、綾で遊ぶのはさておき」
「かーあーさーん!」
 ひとしきり、俺と綾で遊んで満足したのか、レンさんは今度こそ本当にまじめな視線で俺の方を見つめた。

「しかし、冗談抜きで、良の疲労もそろそろ限界かな。中等部までならともかく、高等部で肺が痙るのは、負担をかけすぎてる」
「そうですね」
「確かに」
「私もそう思います」
 レンさんの指摘に、霧子に龍也、そして佐奈ちゃんがほぼ同時に頷いてくれた。そんなみんなの視線の先にあるのは龍也とレンさんが用意してくれた流動食。流石に食事がつらくなってくるのは、疲労のピークと考えて良いだろう。

「そろそろ一日ぐらい休憩を入れた方が良いんじゃない?」
「そうだね。あまり無理をして、倒れても仕方がないし」
 そう言って霧子と龍也の二人は顔を見合わせて頷いてくれた……のだけど。

「駄目よ」
「駄目です」
 だがレンさんと親友達の温情提案に、しかし、揃って否定の言葉を投げた人達が居る。一人は会長さんであり、もう一人は我が妹こと綾である。
 現在の俺の講師陣の中でとりわけ厳しい、もとい指導熱心な二人だ。綾は最初から、会長さんは回を重ねる事に、その指導に熱が入ってきていて、現在スパルタ度合いで一位と二位を激しく争ってくれている。鬼め。いや、教えて貰っている立場で言う台詞ではないかも知れないけれど。でも、言わせてください。鬼め。鬼達め。

「いや、でも、会長。この様子を見てくださいよ」
「そうです、無理をしたら元も子もないですよ」
「甘いわ」
「甘いです」
 なおも「無理だ」と言ってくれる霧子と龍也の言葉を、鬼教官二人組はきっぱりと拒絶する。

「神崎さんは叩かれないと伸びない人よ」
「兄さんは頑張ったら出来る人なんです」
 微妙にニュアンスは違うけれど、ともかく二人とも厳しくいく方針に代わりはないらしい。

「でも、良ってご飯を食べるのもつらそうですよ? 流石に……」
「あれだけ突っ込む元気があるうちは大丈夫です」
「……あのですね」
 誰も好きこのんで突っ込みを入れているわけじゃないんだけど。まあ、龍也とレンさんの栄養食のお陰か、確かに会話する元気は戻ってきているから、もう少し休めば、今日の魔法講義ぐらいは耐えられるかもしれないけれど。
 果たしてそんな俺の体調すら見通してしまっているのか、会長さんは霧子と龍也に諭すような口調で指を突きつけた。

「そもそも桐島さんと速水さんは、甘すぎます」
「そ、そんなことないと思います」
「そうです。あの僕たちだってちゃんと教えてますよ?」
「そうね、きちんと教えているのはわかります。でも甘すぎるの。というより、優しすぎるのよ、あなたたちは」
 教えている、との二人の抗議に直接の否定を返さずに、それでも会長さんは二人のやり方に「優しすぎる」と首を横に振る。

「私と綾さんの後には疲弊している神崎さんが、貴方たちの後では回復していますからね」
「う」
「それは」
 確かに霧子と龍也の二人は、綾と会長さんほどに厳しくない。
 霧子とは教えあう、という形式上、こちらの魔力をフル回転させていなくても良い場合もあるし、龍也の場合も色々と休憩を挟んでくれる。だから、二人に教えて貰った後は、疲れていないわけではないけれど、それでも疲労感は少ないのは確かなのだ。でも、それで二人から教えて貰っていることが意味がないとは思わない。
 だけど、俺がその思いを口にする前に、会長さんの言葉に怯みかけていた霧子が、それを堪えて会長さんに向き直っていた。

「で、でも! 疲れさせることが正しい教え方とは限らないです」
「疲れさせないことが正しい教え方とは限らない、とも言えるわね」
「だったら……どっちが正しいか分からないのなら、少なくとも良の体調を優先すべきだと思います。休息は絶対に必要です」
「休息は必要だし、体調管理も大事ね。でも、それは今じゃないわ」
「あの、霧子。会長。俺だったら」
「セリア。桐島さん。少し落ち着いて下さい」
 平行線を呈する二人の議論に、俺と篠宮先輩がほとんど同時に口を挟んだ。そして篠宮先輩は俺の方をちらりと一瞥してから、会長さんの方に向かってゆっくりと首を横に振る。

「セリア。神崎さんに無理をさせることに意味がある、というのなら、根拠を示す方がよいと思います」
「根拠?」
「ええ。神崎さんが叩かれれば伸びるとセリアが断言し、頑張れば出来る人と綾さんが胸を張る理由です。そうでもしないと桐島さんは納得しないでしょうし、今のままでは平行線のままです」
 口喧嘩になりかけていた二人の議論に、篠宮先輩はそんな提案をしてくれた。確かにそんな根拠があるのなら、霧子だって納得するかもしれない。その篠宮先輩の提案に、会長さんは「そんなことで良いの?」と拍子抜けしたように呟くと、自信満々に俺の方を指さして、言った。

「そんなの見ればわかるでしょう? ねえ、綾さん」
「はい。そうです。一目瞭然です」
「一目見てわかるのは、神崎さんが疲労困憊でいつ倒れてもおかしくなさそうということだけです」
「……」
「……」
 ぴしゃり、と篠宮先輩に言われて、流石の二人も言葉に詰まった……ように見えた。というか、会長さんにここまで冷静に突っ込みを入れられるのは篠宮先輩ぐらいだろうなあ、と思わず感心してしまう。
 だが、当の綾と会長さんは感心してはいられないようで、まず綾の方が縋るような視線をレンさんに向けた。

「母さんならわかるよね?!」
「んー。さて、どうだろうねー」
 綾の問いかけに、しかし、レンさんはわざとらしく目をそらしながら平坦な声で答える。

「どうせ私は息子に教えることも許されない駄目教師だしな−。優秀な家庭教師の先生方の成果を推し量るような真似はできないかなー。ふーん」
「母さん、拗ねないでよう」
「拗ねてないぞ。全然拗ねてません。つーん」
「うー」
 な、なんて分かりやすい拗ね方を……。どうやら綾と霧子に参加を拒否されたことで、ちょっとご機嫌斜めらしい。って、まあ、実際はそんなことじゃなくて、ただおもしろがっているだけなんだろうけれども。その証拠に、そっぽ向いているレンさんの口元がちょっと緩んでるし。しかし、レンさんに判定をゆだねられなくなった綾と会長さんは互いに視線を交わして、溜息を零していた。

「ふう。どうやら神崎先生は協力して下さらないみたいね」
「もう。兄さんはちゃんと伸びてるのに……」
「こうなったら、直接みてもらうしかないのかしら」
「直接、ですか?」
「ええ。論より証拠というものね」
「……」
 ……なんだろう。
 鬼教官二人、もとい、会長さんと綾の間で交わされる会話に、またひしひしと嫌な予感がしてきた。より正確に言うのなら、会長さんの目つきがまた物騒なことを考え出しているような目つきになっている。

「あのさ、龍也、霧子」
「うん」
「何?」
「あの二人が何を考えているか、わかるか?」
「えーと、多分、この場で良自身に証明させる、ってことなんだろうけど」
「でも、どうやって? はっきりいって、今の良に魔法を使わせたら死ぬわよ」
「……」
「……」
「……」
 まあ、流石に死にはしないだろうけれど、これ以上に胸を押さえて呻く羽目になるのはあまりに容易く想像できた。

「逃げた方がいいかな」
「逃げた方がいいんじゃない?」
「逃げた方がいいよ」
 俺と霧子と龍也。二年生組の見解が見事なまでに一致した、その瞬間。

「逃がしません」
 そんな無慈悲な生徒会長さんの声が降り注いだ。どうやらこっちの思考はお見通しらしい。腕組みをしたまま、俺の前にたつ会長さんは、おそらく何の事情も知らない生徒から見れば、恐ろしく慈愛に溢れているように見えるであろう優しい微笑みを浮かべたまま、告げる。

「大丈夫よ。神崎さんの魔力限界は確実に上がってきているんだから。多少無理しても死にはしません」
「いや、ですから、もう肺がつってるんですけど。今、魔法を使ったら死にます」
「我慢しなさい。男の子でしょう?」
「無理です」
「しなさい」
「無理です。死にます」
「死にません」
「死にます。ぱたりと」
「むー」
 会長さんの言葉にことごとく首を横に振る俺に、会長さんは少しだけ頬を膨らませて不満げに唸る。

「もう。神崎さんはいじわるなんですから」
「この状況のどこをどうみれば、俺が会長さんにいじわるしていることになるんですか」
「セリア。今のところはあなたが意地悪しているようにみえてしまいますよ」
 ここでまた俺と会長さんの口論を見かねたのか、篠宮先輩が俺たちの間に割って入ってくれた。

「鈴も神崎さんに無理をさせるの、反対なの?」
「ええ。それぞれの方針はあるでしょうけれど、やっぱり無理をさせては元も子もないと思います」
「あの、僕も反対です」
「やっぱり会長さんの教え方は厳しすぎるんじゃないでしょうか」
 篠宮先輩に続いて、龍也と霧子もここぞとばかりに会長さんに向かって反対する言葉を投げかけていく。流石に篠宮先輩に重ねていさめられる形になった会長は、少し困ったように眉をしかめて首をひねる。

「そんなに厳しくしているつもりはないのだけれど……そもそも、それを言うのなら、私より綾さんの方でしょう?」
「え?」
 会長さんから急に話の矛先を向けられて、綾が戸惑いの表情を浮かべた。

「あの、どうして私なんでしょう……?」
「あら、言わないとわからないかしら。綾さんが担当した次の日、神崎さんの疲弊具合が普通じゃないからです。それこそ「見れば分かる」ぐらいに」
「あの済みません。最近、誰に教えて貰っても疲弊してます。俺」
「神崎さんは黙ってなさい」
 混ぜっ返すな、と目と言葉で釘を刺されて、思わず首を竦める。そんな俺を一瞥してから会長さんは綾の目を見据えた。

「綾さんの当番の後は、神崎さんの魔力の量だけじゃなくて、質が目に見えて落ちています。自分でも分かっているでしょう? 綾さん」
「で、でも会長さんの後だって兄さんは疲れてるじゃないですか。それに無理はさせるべきだって」
「私はこれでも加減をしています。無理はさせても無茶はさせないように、ね。綾さんは無理を承知で無茶をさせているでしょう? 方法だけではなく、時間も含めて」
「それは……」
「神崎さんに無理は必要だけど、それでも限度はあるの。綾さん、あなたはそこを踏み越えているんじゃないかしら?」
「……それは」
 会長さんの指摘に、綾が少し気まずげな表情を浮かべて言葉を詰まらせる。
 正直、会長さんの言う「無理」と「無茶」の違いが俺にはよく分からないけれど……まあ、時間に関しては綾は無理というか無茶をさせる傾向にあるのは確かだろう。綾に教えてもらった後には、なにせ睡眠時間が足りてないし。

「でも、でもでも! 会長さんは本当に無茶はさせていないって言うんですか?! 本当に、会長さんのやり方だけで成果はでているんですか?」
「ええ」
「う」
 自信たっぷりな会長さんの態度に、再び綾が言葉を詰まらせて狼狽える。

「だ、断言しちゃってますけど、根拠はあるんですか、根拠はっ」
「ええ。勿論」
 済みません会長。そこまで自信たっぷりに断言していただいてなんな何ですけど、その、成果と言われると厳しいのでは。そう言おうとして、再び会長さんの「余計なことを言わずに、黙ってなさい」という視線に気圧されて口を閉じる。

「そもそも神崎さんが成長しているのは貴方だって実感しているんでしょう? 綾さん」
「そうですけど……でも、どうしてそこまで自信満々なんですか? 兄さんが会長さんに勝つようなことがあった訳じゃないですよね?」
「そうね。それは―――」
 と、そこまで言って会長さんは、ちらり、とこちらの方に視線を向けた。

「……う」
 その視線に会長さんを押し倒してしまったときのことを思い出して、じわり、と耳が熱くなる。

「兄さん……? なんで赤くなってるの?」
「そ、そんなことないぞ?!」
「ええ、そうよ。そんなことはありません。とにかく今からテストしてみましょう。中間結果ということで神崎さんの成長をみるにはちょうど良い機会ですからね」
「……私は、反対です」
「あら、綾さんまで?」
「はい。兄さんには無理とか、無茶をさせたくないですから」
 どうやら拗ねてしまったのか、綾は前言を翻して「無理をさせない派」に鞍替えしてしまった。そんな綾の様子に頷いてから、篠宮先輩が会長さんに向かって説得するように言った。

「セリア。やはり、今日は止めにしておいた方が良いのではないですか?」
 そう言いながら篠宮先輩が視線で指し示したのは霧子、龍也、綾、佐奈ちゃん、そしてレンさん。つまりはそれが「反対派」の面々という訳だけど、これに篠宮先輩を加えれば、この場にいるメンバーの中では会長さんと俺以外の全員が、俺のこれ以上の魔法の行使に反対を示した事になる。多数決で考えるのなら、圧倒的な情勢だった。しかし、だからといってこの状況で会長さんが自分の意見を曲げるとは思えない。むしろ、こういう状況になればこそ、会長さんなら自分の意見を通すための手を打ってくると思うのだけど。
 少なくとも俺にはそう思えるし、そんなことは、篠宮先輩も当然分かっているとは思うんだけど……

「わかりました。条件を出しましょう」
 そして予想した通り。会長さんは四面楚歌の状況下で狼狽えることもなく、平然とした様子で一同を見回すと、ぴん、と指を一本立てながらそう言った。

「もし神崎さんの成長が証明できなければ、私の負けで良いわよ」
「負け?」
「ええ。神崎さんを下僕にする権利を返上します」
「ほ、本当ですか?」
「ええ。逆に、神崎さんの成長が証明できても、この時点で私の勝ちにしなくてもいいわ。どうかしら」
 あまりに気前の良い提案に、みんなは驚きの表情を浮かべて目を見合わせる。ここで会長さんの提案をのんで試験をしても、会長さん以外に損をする人はいない、という事になるのだから。だが、しかし。

「あの、会長?」
 会長さんの提案に、俺の方が動揺にしてしまった。いや、なんだってこんなに自信満々なんだろうか、この人は。
 いや、会長さんの教え方が決して悪いわけではないのだけれど、今のところ、会長さんの教育方針は良くも悪くも教科書的なのだ。基本に忠実に、丁寧に、そしてしっかりと基礎を体に叩き込み、染みこませる。そのおかげで一歩一歩と、着実に力が付いてきたような気はするんだけど……その反面、そこまで急速に魔法使いとしての能力が伸びている実感はないわけで。少なくとも、今ここで「成長の証」を見せろ、と言われても「無理です」としか答えようがないのに。そんな俺の心配をよそに、会長さん本人は自信に満ちあふれた表情で一同を見回し得て胸を張っている。

「どう? 良い条件だと思わないかしら。これでもテストには反対?」
「に、兄さん!」
 会長さんの再度の提案に、綾が興奮した様子で俺を呼ぶ。なんだか爛々と輝いている瞳に、ひしひしと嫌な予感を感じつつ、俺は「なんだ」と綾に問いかけた。

「大丈夫。ちゃんと付きっきりで一晩中、手厚く手厚く看護してあげるから! だから、わかってるよね?!」
「お前なあ……」
 まさかとは思うが、無抵抗に串刺しにされろとでもいうつもりじゃないだろうな。そんな恐ろしい命令を暗黙の内に告げてくる妹とは対照的に、霧子と龍也の二人はなおも会長さんに食い下がってくれていた。

「会長。でも、良の体調は……」
「やっぱり私は、反対です。今のコイツに魔法は無理だと思います」
「大丈夫よ。危ないことはしないし、無理はさせないわ。それに……」
 霧子と龍也にそう言って会長さんは意味ありげに目を細めて、俺に向かって笑って見せた。

「それに神崎さんだってやる気なんですから。ね?」
「……はい?」
 一瞬、何を言われたのかわからずに、俺は間の抜けた声を上げてしまう。そんな俺に、会長さんはもの凄く良い笑顔……もの凄く悪い予感のする笑みを浮かべて言った。

「神崎さん? 私の試験を拒否した場合、綾さんと桐島さんに、神崎さんが私にしたことを包み隠さず話してしまいます」
「ええ?!」
 いきなり何を言い出すのか、この人は。それって多分、あの時の……挑発に乗って、押し倒してしまった時のことだよな?

「だから、頑張れるわよね?」
「あ、あんたなあ」
 なんて恐ろしいことを言い出すのか、この人は。脅迫する気か。

「こら、良! なんで、そこで動揺するのよ!」
「兄さん、会長さんに何をやったのよう!」
 俺の悲鳴に何を感じ取ったのか、霧子と綾の二人の顔色が変わる。そんな二人に俺は慌てて弁明の言葉を口にした。

「いや、何もやってない……ことはないけど!」
「ええ?!」
「やったの?!」
「いや、ともかくやましいことは何もしてない!」
「やましくないのなら、今この場で言いなさいよ」
「そうです、兄さん。やましくないのなら、今この場で言いなさい」
「……いや、それはだね」
 やましくないんだけど。確かにやましくないんだけど、やっぱりあれは軽率だったわけで。綾に聞かれると怒られるだろうし、霧子にはできれば聞かれたくないなあ、と。
 うああ、俺のバカ。会長さんの挑発にのって押し倒すなんて、やっぱり軽率すぎた。まさか、まさかこんな事になるとは……。しかし、後悔先に立たず。どう説明すればよいかと俺が考えを巡らせる内に。

「ちなみに神崎さんの成長が証明できない場合、今の会話の内容も教えてあげます」
「わかりました。やりましょう」
「ええ、私も賛成です。是非、良が何をしでかしたのか聞きたいですから」

 ……今日の放課後、神崎良の成長具合を確認する機会が持たれることになったのだった。

(続く)

前のページへ

小説メニューへ

サイトトップへ



ご意見・ご感想などありましたら、下記メールフォームなどで頂けると嬉しいです。


お名前(省略可)
メールアドレス(省略可)
作品への評価(5段階)



ご感想など(省略可)
inserted by FC2 system