/0.ある述懐

 同じ夢を、何度も見る。

 物心つく前から今に至るまで、何度も何度も繰り返して、数え切れないほど同じ夢を見た。その夢の中では、いつも大量の緑の葉が空一面に広がっていて、大小混じり合った葉っぱが、淡い光を放ちながら虚空を縦横に舞い踊っている。あまりにも空にある葉の量が多くて、空を見上げても太陽の光は見えないほどだ。だけど、私はその夢の中で私は暗さを感じたことがない。
 それは、空に舞う葉が放つ光の数があまりにも多いから。一つ一つの葉が放つ光はとてもささやかなものだけど、それでも、それぞれに輝いて、それぞれが一生懸命にこの世界を照らし続けているから。その世界は日の光を失っていても、なお眩い明かりに包まれて、輝いていた。

 その光景は、とても頼りなくて。でも、とても健気で。そして、とても綺麗だって思う。

 そんな夢の光景が一体、何を意味しているのか。それにはっきりと気付いたのは、私が物心ついてからだろうけれど、でも多分、最初から私はわかっていたのだと思う。この世界に、ただひたすらにその欠片を放って、絶え間ない明かりを紡ぎ続けているものがある場所。それはきっと私たちが「世界樹」と呼ぶものが存在する場所なんだろうって。歴史さえ欠落してしまっているこのあやふやな世界を、懸命に支えてくれる存在がある場所が、私が見る夢の正体なのだと思う。つまり、そこは世界の中心。
 
 でも、わからなかったこともある。そして、まだわからないこともある。どうして私がそんな夢を見てしまうのか。どうして繰り返してそんな夢を見てしまうのか。それは本当にただの夢の中の出来事なのだろうか。それに何より……、世界を紡ぐあんなにも沢山の世界樹の葉は、一生懸命に手をつないで世界を照らしているのに。どうして、私は、私だけは。いつもひとりぼっちで、そんな空をただ見上げていなければいけないのだろう、って。それが不思議で仕方がなかった。
 そう、夢見る度に不思議に思う。空を舞う世界樹の葉は、とても一生懸命で、そして、どこか楽しそうに、みんな一緒に踊っているのに。私の周りには誰もいない。空を舞う光に何度も何度も手を伸ばしてみたけれど、私の小さな手が、空にある世界の欠片達には届くことは決してなかった。だから、とても優しくて暖かな光に満ちているその夢を見る度に、夢から覚めた私の胸には、いつしかそんな寂しい想いがわだかまるようになっていた。

 だから、いつしか夢の中で、私はいつも呼びかけるようになっていた。見渡す限りに広がる緑色の空。世界を紡ぎ出す世界に満ちあふれたその明かりの中、きっと私と同じようにこの光景を見つめている誰かが……一人で寂しい思いをしている誰かがいるはずだって、そう思って。「誰か、いませんか」って、何度も何度も、夢の中、私は今も呼び続けている。



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  魔法使いたちの憂鬱

       第二十七話 繋がる二人

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/1.エスケープ中。(神崎良)

 ……果たして、今はどういう状況なのだろうか。東ユグドラシル魔法院の高等部校舎屋上で、会長さんと向かい合いながら俺が自分の置かれた状況を頭の中で整理していた。昼休み中の騒動の結果、本日の放課後、会長さんによる中間テストが強行されることになった。うん、それはわかっている。わかっているのだけど。俺は半ば頭痛を覚えながら目の前の会長さんを見つめてみた。
 会長さんは、気持ち良く吹き抜ける風に、僅かに目を細めながら、その長い金色の髪をなびかせている。澄み渡った青空を背景に佇む彼女の姿は、さながら絵画のように様になっていて、思わず目を奪われそうになってしまう。だが、そんな綺麗な光景に問題点があるのが、おわかりいただけただろうか。そう、「試験」は放課後に行われるのだから、こんな空の青さが目に眩しい時間帯、つまりは、思いっきり午後の授業の真っ最中に、俺が会長さんと二人っきりで屋上に居て良い理由はないはずなのだ。本来は。

「あの、会長?」
「……ふふ」
 俺の問いかけに気付いていないのか、会長さんは屋上から校庭の方を見下ろしながら楽しげな笑みを零している。お昼の日差しが照りつける校庭には、何人もの生徒の影が見えた。体育か、魔法の実技か果たしてどちらなのかはわからないけれど、何かしらの授業を受けていることは間違いない。そんなまじめな学生たちの姿をひとしきり眺めて満足したのか、会長さんは視線を俺の方へと戻して楽しそうに笑った。

「私、授業をサボったのって初めてなの。なかなか気持ちの良いものなのね」
「授業をサボって気持ちいいとかいうのは駄目です」
「なによ。優等生ぶるのね、神崎さん」
「優等生ぶるって……俺は常に優等生でいるように心がけています」
 成績は追いついていないけど、と内心で小さく溜息をついてから、俺は会長さんに問いかける。

「それより、どうして授業をサボってまで俺を呼び出したんですか?」
「決まってるじゃない。放課後のテストの準備をするためよ」
「テストの準備、ですか」
「……こら」
「いて」
 テスト、という言葉に思わず緊張してしまった俺の額を、会長さんが軽く指ではじいた。そしてと大きくため息をついて会長さんは睨むように眼を細める。

「相変わらず自信なさそうなんだから。自信が大事って何度も言っているでしょ? もう、あなたがそんな顔してたらはったりがバレちゃうじゃない」
「はあ、済みません……て、はったり?!」
「あ、こら、声が大きい! 誰かに聞かれたらどうするのよ」
 授業中、ということも忘れて思わず叫んでしまった俺の口を、会長さんが慌てて塞いだ。俺も急いで校庭の様子を伺ったが、どうやら誰かがこちらに気付いた様子はない。まあ、校庭と屋上では距離は離れているし、大丈夫だとは思うけど……って、いやいや、それよりも、それよりも!

「か、会長?!」
「なに?」
「何? じゃないですよ! な、なんですか?! はったりって」
「はったりははったりよ。あ、でも、言い方が悪かったかしら。うん、はったりじゃなくて、ちょっとした誇張ってことね」
「いやもう、言葉はどうでも良いですけれど、いったい何がどこまで嘘なんですか?」
「嘘じゃなくて、誇張よ、こ・ちょ・う。神崎さんが成長しているのは本当なんだけど、あの場の全員を反論の余地のないぐらいに納得させるだけの成長の証拠を見せられるかどうかは少し怪しいから。その点をちょっとだけ誇張しちゃったの」
「しちゃったの、じゃないですよ。じゃあ、なんだって、あんな強引に今日テストするなんて言ったんですか?」
「神崎さん。後には引けないって言葉知ってる?」
「……引っ込みが付かなくなった、っていう言葉なら知ってますよ」
「そう。よかったわ」
「良くないでしょうが!」
「だから、声が大きいわよ。もう」
 声を荒げる俺を諫めながらも、流石にややばつが悪いと感じたのか、会長さんは少し拗ねたような口調で言葉を続けた。

「だって、仕方ないでしょう?」
「何が仕方ないんですか?」
「だから、あそこまで挑発されたら、見返したくなるじゃない」
「あのですね……」
「それに鈴まで反対するんだもの。こうなったら引けないじゃない?」
「……子供ですか、あんたは」
「……なんですって?」
「痛い痛い痛い、痛いですって」
 思わず零した俺の言葉に、会長さんは引きつった笑みを浮かべて、俺の耳をひっぱる。いや、そのうちにちぎれるんじゃないだろうか、俺の耳。
 まあ、会長さんが意地を張った理由はわかった。いつものように自信に満ちた表情だったから気付かなかったけど、昼休みに会長さん以外の全員から「今日の家庭教師は中止すべき」と言われたのが、相当に気に障っていたらしい。いつもなら味方をしてくれるはずの篠宮先輩まで、反対に回ってしまったのも会長さんの意地を更に固くしてしまった、という事か。

「もう。なによ、神崎さんまで私が悪いって言うのね」
「まあ、悪いとまでは言いませんけど。そもそも会長がもう少し穏便にアドバイスしていれば良かったんじゃないかとは思います」
「……アドバイスってなんのことかしら」
「え? いや、アレって霧子たちの教え方へのアドバイスでしょう? 優しすぎるとか、無理させすぎとか」
「……」
「会長?」
 俺の台詞に、何故か会長は口をつぐんだ。そんな会長さんの様子に、ひょっとしたら勘違いだったんだろうか、と俺は首を傾げる。昼休みの会長さんは、「翌日の魔力残量を見越した上で、教え方を調節しろ」ってみんなに諭しているみたいに聞こえたんだけど。ここ最近、ずっと教えて貰っているおかげで会長さんが基本的に面倒見のいい人なのだとわかっているから、間違いじゃないと思うんだけど……。

「神崎さん」
「はい? って、痛い痛い痛い。なんで、耳を引っ張るんですか!」
「生意気だからよ」
「意味が分かりません」
 理不尽に俺の耳を引っ張った会長さんは、またしても拗ねたような表情で口を僅かに尖らせながら、ふん、と小さく息を吐いた。

「分からなくて良いわよ。それより今はテストのことに集中しなさい」
「しゅ、集中はしますけど」
 しかし、会長さん自ら「はったり」といった以上、どうしようもないのではないだろうか。正直、疲労のピークだし、これから二三時間の間に猛特訓をしたとしても「成果」を見せつけられるほどの魔法を使えるとは思えない。素直にそう告げてみると、会長さんは怒った様子もなくごく平然と首を横に振って見せた。

「猛特訓なんてしないわよ。それはいくらなんでも反則でしょうし、ね」
「え? じゃあ、どうやって誤魔化すつもりなんですか?」
 試験の方法で誤魔化す、という方法もあるのかもしれないけれど、レンさんや龍也が立ち会う以上は、下手な誤魔化しなんて通用しないだろうし。

「誤魔化したりもしません。ちゃんとはっきりとわかる形で結果を示すの」
「でも」
「心配いらないわよ。私は負ける喧嘩はしないもの」
「……そうですね」
「今の間は何かしら?」
「いえ、なんでもないですって、だから耳を引っ張るなっ!」
 会長の手を振り払いながら、思わずため口で叫んでしまった。だが、会長さんは気にした様子もなく、俺に向かってぴしり、と人差し指を突きつける。

「話を戻すけど。神崎さん、私が教えたことわかってますか?」
「はい」
 会長さんに教えて貰ったこと。その内容を頭の中で反芻しながら俺は頷いた。
 基本に忠実に、集中すること。魔力の流れを意識して、決して途切れさせないこと。世界を紡ぐ規則を取り込んで、自分の中の魔力によって書き換えて、そして再び世界に帰す。一連のその流れをよどみなく、効率よく行うための手順を繰り返して会長さんからは教えられている。そして、何度も何度も念を押されている事は……。

「躊躇いを抱かないこと」
「そう」
 良くできました、と満足げに頷いてから、会長さんは、俺に突きつけている指の本数を一本から二本へと増やした。

「いい? 繰り返すけど、神崎さんが成長しているのは本当よ。そして、今まで私が教えたことだけじゃ、きっと全員を納得させるだけの成果を示せないのも本当。でもね、今まで私が教えたこと、それを守った上で、あと二つ、意識して欲しいことがあるの。それを守れれば、きっと私の誇張は、誇張じゃなくなるわ」
「……はい」
 真剣な会長さんの声。その凜とした響きに引き込まれるのを感じながら、俺は彼女の言葉に深く頷いた。
 はったり、誇張。そう言いながら、会長さんは俺の成長を強く信じてくれている。それを感じられたから、それなら俺だって覚悟を決めて、少しぐらいは会長さんの期待に応えたい。そう思って、俺は会長さんの言葉を待った。

「じゃあ、一つ目。規則を書き換える時、自分自身を意識すること」
「自分自身を、ですか?」
「そう。イメージできる?」
「ただ集中する、というのとは違うんですか?」
「違うわ」
 俺の質問に首を横に振って、会長さんは視線を空に向けた。雲が遠く感じるほど、澄み渡った晴天の奥。そこには朧気に世界を支える大樹の陰が見え隠れする。

「私たち魔法使いは、魔法を行使するときに世界へと意識を向ける。それは大事なことだけど、今回に限ってはその意識の矛先を自分自身へと向けるように意識するの」
「でも、それだと、そもそも法則の組み替えができないでしょう」
「できるわ。世界を構築しているのは、自分自身。その意識があるのなら無茶でも無謀でもないわよ。基本的に魔法の手順は変わらないわよ。規則を取り込んで、書き換えて、還す。そのそれぞれの段階で世界樹ではなく、自分自身を意識する。それだけだから」
「……」
 思わず「無茶だし、無謀です」と言いそうになったのを堪えて、少し考える。世界を構築するのが自分自身だと思う、なんて考えることは荒唐無稽だけど……それでも、この前から会長さんが繰り返して言っている「自信を持て」という事に繋がることなのかもしれない。

「今の言い方が極端だって思うのなら、こう考えても良いわ。世界を支えるのは、世界樹『だけ』じゃない。きっと『私たち』も支えている。そう考えて」
「私たち……つまり、世の中の一人一人が、っていうことですか?」
「……ええ。そう考えても良いわよ」
 少しだけ間があったような気がするけれど、俺がそれを指摘する前に会長さんは中指を折り、また立てている指を一本に戻した。

「次に、二つ目。そして書き換えた法則を還すとき、世界を意識するのではなくて、私を意識しなさい」
「会長を?」
 またも不思議な言い方だった。魔法使いは普通、個人を書き換える、という意識は持たない。個人も極論すれば世界に帰属するモノだから。だから、常に働きかけるのは世界に対して。それが基本の筈なんだけど。人を対象に魔法を掛けるにしても、普通は対象とするのは「世界」だ。人間に人間としての形と機能を持たせるのはあくまで世界の法則だから。そして、付け加えるのなら、人間個人を対象とする魔法は禁止されているものが多い。魔法で人の心に干渉するものは、特に禁忌とされているぐらいだから。
 だけど、会長さんの表情は真剣そのもので、少なくとも冗談を言っているようには見えない。

「いい? 放課後のテストでは、私があなたに魔法をかけるの。だから、それを打ち破るのなら対象は世界ではなくて、私でしょう?」
「それは……、そうですけど」
「なら簡単でしょ? 書き換える対象を置き換えるだけだから」
「置き換えるだけって……」
 まあ、世界を構築しているのは自分自身だから、規則を取り込む際に自分の中からその規則を探せ、という一つ目の命令よりは、まだ直感的でイメージしやすいかもしれない。でも、それはあくまで「比較的」イメージしやすい、というだけの話だ。そもそ法則の書き換えと、還元の時のイメージを、今までのモノと置き換えろ、と言われても、そうおいそれと出来るはずもない。それが素直な俺の感想なのだけど、何故か、会長さんは自信に満ちた眼で俺を見つめて頷いた。

「大丈夫。あなたならできるから」
「……が、頑張ります」
 会長さんの眼差しに押されて、思わず首を縦に振ってしまった。ともかく、やるしかないのだ。しかし、正直なところ全く以て出来る自信がない。そんな俺の不安は、やっぱり会長さんにはお見通しだったのか、彼女は「心配しないで」と小さく笑った。

「まあ、いきなり魔法を使うときの根幹のイメージを変えろっていうのが、無茶だっていうのはわかってるわ。だから、大サービスをしてあげる」
「大サービスですか?」
「ええ。その感覚を覚えるのに一番良い方法があるから」
 そう言って、会長さんは俺に右手を差し出したのだった。

/2.魔力交換(神崎良)

「……」
「……」
 会長さんは右手を差し出して、そのまま無言で俺の方を見つめている。俺はと言えば、そこから彼女が何をするのか分からずに、ただ無言で次の行動を見守った。

「……」
「……」
 そして、お互いに無言のまま見つめ合うことしばし。先に口を開いたのは会長さんだった。

「ねえ、神崎さん?」
「はい」
「あなた、何をしてるのかしら」
「いや、何って、会長さんの「大サービス」を待っているんですけど……会長さんこそ、何を?」
 差し出された右手と会長さんの顔を交互に見ながら俺が首を傾げると、会長さんがもの凄く爽やかな笑みを浮かべたまま、硬直する。

「……会長?」
「あなたね!」
 そして、硬直から一転、会長さんは思いっきり引きつった表情で俺に向かって詰め寄った。

「魔法使いが魔法使いに手を差し出したんだったら、意味するところは一つでしょう?!」
「え? あの、ひょっとして、魔力交換、ですか?」
「そうよ。当たり前でしょう? 他にないでしょう?」
「いや、その言われてみればその通りなんですけど」
 確かに魔法使い同士が魔力を交換するときには握手の形になるのが普通だけど。
 しかししかし、龍也のような例外はあるにしても、ごく親しい間柄でおこなわれるのが普通だ。龍也の場合にしても、速水会にメンバー達は並々ならぬ感情を抱いているわけで、親しい、という表現をしてもいいとも言える。更に会長さんは、魔力交換の相手に他の人間との交換を禁止する、なんて言うほど、人一倍、魔力交換にこだわりを持っている人なわけで。だから、会長さんから俺との魔力交換の提案があるなんて意外すぎて、想像すらできなかった。

「あ、いや、でも、俺。魔力の量は大丈夫ですよ?」
 お昼にも言ったけれど、朝にレンさんとしたばかりだから魔力量は問題ない。そう答えると会長さんは呆れたように溜息をついた。

「魔力の量を問題をしているんじゃないわよ。言ったでしょう、感覚を教えるためだって」
「あ、そうか」
 会長さんの提案に驚きすぎて、そんな直前のことすら頭から飛んでしまっていたらしい。でも、会長さんと魔力交換するなんて、本当にそのぐらい驚いても仕方ないことだって思う。特に、去年の出来事を思えば、なおさらだ。

「ほら、早くしなさい」
「でも、本当にいいんですか?」
 会長さんが魔力交換をある意味で特別に思っていることを知っている。だから、その申し出を受けることに躊躇いを覚えてしまう。そんな俺の態度に、会長さんはにっこりと、しかし、どこか引きつった笑みを浮かべて口を開いた。

「……ねえ、神崎さん」
「はい?」
「私、今まで異性に魔力交換を申し出て、断られたことはないのよ」
「そ、そうですか」
「ええ。去年、速水さんでも貴方が邪魔しなければ、受けてくれたしね」
「そう言えば、そうでしたね」
 確かに最初は、龍也も会長さんと魔力交換をしたんだった。そのうち、魔力に変調を来すようになったから、俺や霧子で止めさせたんだけども。

「言っておきますけど、私があなたに魔力交換の機会を上げるなんて、これから先のもう二度と無いかもしれないのよ?」
「お、大げさな」
「大げさじゃないわ」
 短く、でもはっきりと告げて、会長さんは俺の目を見つめた。強い意志を灯した碧眼。そこに込められた覚悟のような感情に気付いて、俺は自分の中の躊躇いを押しのける。

「わかりました。お願いします」
「最初からそう言えばいいのよ」
 ようやく頷いた俺に、会長さんは呆れたように、そして多分、ほんの少しだけ安堵したように言葉を返して、再び、その右手を折れに向かって差し出してくれた。

「じゃあ、失礼します」
「……ええ」
 そして、俺は小さく息をすってから、会長さんのその手を取った。思ったよりもずっと小さな掌の感触に、抑えきれない緊張が体の中を駆け巡る。
 果たして、上手くできるだろうか。考えてはいけないと思っていながら、拭いきれないそんな不安が脳裏を掠めてしまう。
 今まで、何度も、何人も、手を繋いで、魔力を交わそうとしてきたけれど、そのほとんどは上手くいかなかったから。レンさん、綾、霧子、龍也、佐奈ちゃん。俺がまともに魔力を交換できるのは、現在、その五人だけ。果たして俺は、ちゃんと会長さんの中の魔力に触れることができるだろうか。
 際限なくわき上がる不安。でも、それを押し殺して俺は掌に意識を集中させる。

「……いきます」
「ええ。いつでもいいわよ」
 互いに頷きあった後、俺は目を閉じて、意識を集中させる。
 霧子の時と、龍也の時と、佐奈ちゃんの時と同じように。きちんと自分の中の魔力の流れを、会長さんの中の魔力の流れへと繋げられるに、懸命に意識を巡らせる。

「ん……」
「……っ」
 掌に感じる仄かな熱。それは俺と会長さんの魔力がその場所に集まっている証拠だった。でも、その熱はそこにわだかまったままで、動かない。お互いの魔力がお互いの中へと流れ込んでいく魔力の流れが……感じられない。

「……ふむ。上手くいかないわね」
 やがて、呻くように呟いて、会長さんがそっと手を離す。瞬間、掌に籠もった熱は霧散して、俺に何度目かの失敗を告げていた。

「済みません。俺、魔力交換、苦手で」
「ええ、知っています。でも、これは神崎さんの所為だけじゃないみたいね。相性の問題もあるみたい」
 そう言いながら会長さんは顎に手を当てて、考え込むように視線を伏せた。平然としたその様子は、少なくとも俺との魔力交換は無理だ、と思っているわけではないらしい。

「少なくとも、掌じゃないのよね。神崎さん、あなた、誰とでも掌で交換してる?」
「あ、いえ。家族とはちょっと違います」
「そう。それって、昔から?」
「ええ」
「なるほど」
 何が「なるほど」なのかは分からないけれど、少なくとも会長さんは何か思い当たることがあったようだった。彼女は納得したように頷いてから、じっと自身の掌をのぞき込む。そして、今度は俺に向かって確認するように尋ねてきた。

「胸、額。もしくは首筋って所ね」
「え?」
「だから、神崎さんが綾さんと魔力交換するときに使っている場所よ。そうね……うん、ずばり首筋なんじゃない?」
「な、なんでわかるんですか?!」
 綾との魔力交換をする場所を言い当てられてて、俺は思わず悲鳴のような声をあげてしまった。流石に家族とは抱き合うようにして魔力を交換しているなんていうのは、気恥ずかしくて霧子と龍也にさえ言ったことはないのに。そんな驚きに狼狽える俺を見て、会長さんは愉しげに口元をほころばせた。

「なるほど首筋なんだ。ふふ、流石はシスコンの誉れ高い神崎さんね」
「し、シスコンは関係ないでしょう!?」
「ふーん、シスコンなのは否定はしないんだ」
「う、いや、勿論、シスコンではありませんよ?!」
「へー。ふーん」
「……と、ともかく!」
 ニヤニヤと俺の反応を見ている会長さんに、顔が熱くなるのを感じつつ俺は無理矢理に話題を変える。

「どうしてそんなこと分かるんですか? もしかして、綾から聞いてたんですか?」
「聞いてないわよ。さっき魔力の交換はできなかったけど、神崎さんの中の魔力には少し触れられたから。掌、額、首筋、胸の中央。その辺りが神崎さんの体の中で魔力の流れが強い場所に感じたのよ」
「あれだけで、そんな事までわかるんですか?」
「大体はね」
 俺の驚きをさらりと受け流して、会長さんは再び顎先に手を当てた。

「うん。じゃあ、神崎さんの場所はその中から選ぶとして、問題は私の方ね。神崎さんは、さっきの行為で私の中にある魔力の強い場所、何か感じ取った?」
「いえ、全然」
「本当に?」
「本当です」
「全然? 全く?」
「全然、全くです」
「……そう」
 我ながら情けないのだけど、ここで嘘をついても仕方がない。だから正直に答えたのだけど、その返答に、少しだけ会長さんの顔に焦りのような感情が浮かんだような気がした。だけど、それは一瞬の事で、会長さんは直ぐにいつもの自信に溢れた表情を取り戻して頷いた。

「じゃあ、もう一度、試してみましょう」
 そういって、会長さんは俺の首筋へと手を当てる。

「うっ」
「こら、動かないの」
「は、はい」
 いきなり首筋に触れられた感触に身じろぎしてしまったけれど、会長さんに窘められて、俺はなんとか姿勢を保った。

「もう一度、この状態で魔力交換をするわ。神崎さんは魔力を流そうって考えなくて良い。ただ、私の中にある魔力を感じ取るようにしてみて」
「はい」
「良い返事ね。じゃあ、始めるわよ」
 正直なところ自信なんて無い。だけど、やるしかないんだ。その思いと会長さんの言葉に背中を押されるように、俺は再び目を閉じて首に触れた会長さんの掌に意識を集中させる。
 さっき、会長さんは俺の中の魔力を感じ取ったと言った。なら、少なくとも会長さんの方から俺の中に魔力を流せる可能性は零じゃないはず。だから、あとは俺さえしっかりすれば―――。

「こら」
「うわっ?!」
 しかし、そんな俺の集中は会長さんの声であっさりと途切れる。いや、それは無理はないって思う。なにせ、声と同時に会長さんがいきなり俺の顔を両手で挟むなんていう予想もしなかった行動に出たのだから。

「か、会長?!」
「それじゃ駄目。ちゃんと、こっちを見なさい」
 目を開ければ目の前に会長さんの顔。その近さに驚きて思わず身を離そうとする俺を、しかし、会長さんは逃がさない。がっしりと俺の顔を掴んだまま、そして真剣な声で告げる。

「私を見て、ちゃんと私に意識を向けなさい」
「いや、向けてます」
「向けてない」
 言い訳めいた俺の声を、有無を言わさずに切り捨てて、会長さんは俺の顔を挟む両手に力を込める。

「神崎さん」
「は、はい」
「あなたなら、出来るはずなの」
 じっと俺の目を見つめたまま、その碧い瞳に意志の光をみなぎらせて会長さんは言う。

「だから、ちゃんと私を見なさい」
 それは、いつものように、真っ直ぐに我を通そうとする会長さんの声。とても高圧的で、逆らうことを許さない、一方的な声なのに。でも……どうしてだろうか。

「目を逸らさないで、ちゃんと私に意識を向けて」
 凜と響くその声の芯が、ほんの少しだけ、震えているように感じられたのは。

「……会長」
 ―――お願い。そんな言葉が頭の中に、浮かぶ。
 お願い。会長さんが口にした訳じゃない。だけど、会長さんの目が、そう言っているように思えて。だから、会長さんきっと何かに必死なんだって、このとき、ようやく俺は気付くことができた。
 
「私を、ちゃんと見つけなさい」
 強気な響きなその声に、それでも、祈るような響きが混じっている。俺の顔に触れた手に、ほんの少しだけ、おびえるような震えが混じっている。それは、気のせいなのかも知れない。そんな態度、そんな反応、あまりにも「会長さんらしく」ないから。でも……それは、本当に彼女らしくないのだろうか。そもそも、俺は……会長さんの「らしさ」を語れるほどに、彼女のことを知っているのだろうか。

 遊園地での不始末のお詫びだと言って、俺に魔法を教えてくれるようになった会長さん。でも、本当に理由はそうなんだろうか。
 挑発されて後に引けないからと言って、俺と魔力交換をしようとしてくれる会長さん。でも、本当に理由はそうなんだろうか。
 俺にはきっと特別な力があるはずだって、そんな事を何度も言ってくれた会長さん。でも、その理由はどこにあるんだろうか。

 いつからか、俺の方に歩み寄って手を伸ばしてくれているこの人に、俺は果たして答えようとしていたのだろうか。

「神崎さん」
「はい」
「大丈夫。あなたなら、できるから」
「……はい」
 だから俺は深く息を吸ってから、彼女の言葉に頷いて。会長さんの碧く輝く瞳を真っ直ぐに見つめた。
 逃げないように。ただ真っ直ぐに、相手を見つめて、意識を相手に向ける。試験とか、喧嘩とか、面子とか、失敗とか。そういうことはどうでもよくて、ただ真っ直ぐに手を伸ばしてくれるこの人の心を、受け止めたいと心から願った。何度も会長さんに言われているように。もう、躊躇いを、抱かないようにってそう決める。
 俺と会長さんを繋ぐ。その場所はどこだろう。彼女の目を見つめて、そして、俺の頬に触れてくれている彼女の手に、俺もまた手を重ねた。

「……あ」
 俺の掌が触れて、会長さんが小さな声をあげる。それでも彼女は手を払ったりしなかった。ただ、変わらずに俺を見つめて、そして待ってくれている。
 ああ、そうか。この人は、待っているんだ。そして私を見ろ、と何度も手を差しのばしてくれているのなら……、ぎこちなくても、ゆっくりとでも、こちらからも手を伸ばして、そして、ずっと何かを、誰かを待っているこの人を捕まえて、安心させてあげないといけない。それが俺の中に浮かんだイメージだった。
 魔力の流れを感じた訳じゃない。だから、間違っているのかも知れない。だけど、それを躊躇うことは、もうしなかった。

「会長。分かったかも知れません」
「本当?」
「はい。だから……失礼します」
「え?」
 一言そう言ってから、俺は顔に触れてくれていた会長さんの手を取って、引く。そして、会長さんの額を、俺の首筋にあてるように。俺は、彼女を抱き寄せていた。

「か、神崎さん……?!」
「……」
 流石にびっくりしたのか、狼狽えた会長さんの声。きっとあとでひどい目に遭わされるだろうなあ、なんてことを脳裏の奥で考えながら、それでも俺は抱き留めた会長さんの温もりに意識を集中する。

 自信が無くて悩んでいた俺に、手を伸ばしてくれた会長さん。その彼女は「躊躇いを抱くな」という言葉を俺に教えてくれた。じゃあ、俺が彼女のために返せる想いは一体何があるんだろう。何かを、誰かを待っている彼女に、俺が見つけてあげられるものは、なんなんだろう。

 ただ、それが知りたくて。
 だから、彼女の心に、つながりたいと、ただ願った。

 その行為が正しかったのかは、わからない。だけど、変化は確実に起こった。

「え?」
 何が起こったのか、そのときの俺には分からなかった。だけど、気付いたときには、どくん、と心臓が跳ねて。

「あ」
 小さく漏れた声が、どちらのものだったのかも分からないまま、俺の意識は途切れて、そしてどこかへと消えていったのだった。
 

/3.世界樹の風景(神崎良)

 どのぐらい昔のことだっただろうか。そういえば、おかしな場所の夢を見たことがある。
 そこにあるのは、びっくりするぐらいな巨大な木。どのぐらい大きいかと言えば、その木に茂った葉っぱがあまりにも多いので、空には雲一つどころか青の欠片も見えないぐらいだ。ただ、その木から舞い落ちる葉っぱは、僅かな灯りを放っているので、不思議とその世界をくらいと感じることはない。そんな不思議な場所の夢。
 とても印象的な風景。だけど、言っても今の今まで、そんな夢、見たことさえ忘れていた。でも、こうして今目の前に広がる光景に、俺はかつてこの夢を見たことを思い出していた。

「夢。そうか、これ、夢なのか」
 我ながら間が抜けているけれど、口に出してみて、自分が夢を見ている事をようやく自覚できた。何せ目の前の光景はあまりに現実離れしすぎている。この間の遊園地「天国への門」での光景さえも、かすんでしまうような風景は、だから夢でしかあり得ないのだろう。
 するとこれは明晰夢、という奴だろうか。夢の中で、夢を見ていると言うことを意識している。思えばそんな経験は今までなかった気がする。そんな事を考えていると、ふと根本的な疑問が浮かぶ。どうして、俺は今、夢なんかみているんだろうか。さっきまで確か……。

「……何してたんだけっけ」
 呟いて、思わず首を傾げてしまう。なんだか大事なことをしていたような気がするのだけど……まあ、夢というものはそういうものなのかも知れない。そう自分に言い聞かせつつ、ぼんやりと空を舞う葉の群れを見上げていると、今度はまた別の事が頭に浮かんだ。

「あ、そうだ。綾は……?」
 大事なことに気付いて、俺は慌てて綾の姿を探す。見渡す限り何もない空間には、ただ光を放つ落ち葉が舞い踊るだけだけど、それでも目をこらして、そしてあちらこちらと呼びかけながら、俺は妹の姿を探して歩く。

「綾! あーやーっ! おーい、いないのか−?! あーやー!」
 大地さえ見えない場所。踏みしめる地面さえない場所をそれでも歩き回りながら、綾を探す。
 とても幻想的で、見る人が見れば神聖にすら思える場所だったけれど、もしここに綾がいたら、きっとおびえているだろう。なぜなら昔から、あいつはこういう風景は嫌いだったから。
 だから、もしこの場所に綾が居るのなら、何よりも早く見つけてやらないといけない。その想いを胸に、あちらこちらを探し回ったのだけれど、結局、呼びかけに答える声も、おびえてすすり泣く声も聞こえてくることはなかった。

「……いないか。うん、いないな。よかった」
 そうして妹が居ないことを確認して、俺はほっと胸をなで下ろす。でも、安堵する気持ちは直ぐに霧散してしまった。それは相変わらず大事なことを忘れたままという事に、気付がついたからだ。そう、大事なこと。大事なことがあるはずなのだ。

「そうだ、探さないと……」
 夢を見る直前、たしか、大切な何かを探しそうとして、見つけようとして……そして、多分、ここに来たんだ。思わず綾のことを探してしまっていたけれど、他にも何を、あるいは誰かを見つけないといけないはずなんだ。
 そう、見つけないといけない。でも、何を?

「ああ、もう! 健忘症か、俺は!」
 自分自身に毒づいても、しかし思い出せない。その事に焦りを抱いて、おれはその世界の中を再び走り出した。目に入るのは、乱れ飛ぶ緑の葉と、果ての見えないほど大きな樹。現実離れした、夢のような光景。そんな場所で、俺はいったい何を探しているのか、誰を捜しているのか。自分自身の中にあるはずの答えが見つけられないままに、それでも闇雲に辺りをかける。
 急がないといけない。だって、これが夢ならやがて泡沫のように消え去ってしまうのだろう。だからその前に、俺は探している何かを見つけないといけない。ようやく、気付いてあげられた、大切なこと、その何かを。
 そんな焦りが胸に渦巻いていく中、何の音も、何の声もしないその場所で、かすかに聞こえる声があった。

「ん?」
 ほんとうに小さな声。でも、聞き間違いじゃない。確かに、聞こえた。

 誰か、いないの?、って、そう呼びかける声。
 その声に振り向いた先には、はたして、女の子が立っていた。気の遠くなるほど巨大な幹。それを背にしてその女の子は一人佇んでいる。遠目で分かるぐらいに綺麗な金の髪に、清楚な白のワンピース。年の頃は……五歳ぐらいだろうか。小さな、でもとても目を引く女の子。
 俺が探しているのは、あの女の子だろうか? そんなことにすら自信が持てない自分に軽い苛立ちを覚えながらも、俺は手がかりを求めて少女の方へと歩み寄った。

「こんにちわ」
「……」
 呼び掛けてみてもその女の子は何の反応も示さない。ただ幼い顔にどこか毅然とした表情を浮かべたままじっと空を見つめている。宝石みたいな碧い瞳。ふと、その強い眼差しが誰かに似ていると思った。だけど、誰に似ているんだろう? それを思い出せないまま、俺は再度、彼女に呼びかける。

「もしもし、こんにちわ!」
「……」
 やはり、反応無し。無視している、というよりは気付いていないっていう様子だった。
 ひょっとしたらお家の人に「知らない人に声をかけられて付いていったりしてはいけません」と言われているのかも知れない。そう思ってじっくりと見てみると、どこか気品がある女の子だった。どこかのお屋敷のお嬢様、と言われれば素直に納得できる。そんな事を考える俺を尻目に、その女の子はもう一度、呼びかけの言葉を口にした。

「誰か、いないの?」
「え? いや、ここにいるよ?」
「……」
「あのー、もしもし?」
「……」
 呼びかけに答える俺の声に、しかし、彼女は振り向くことすらしない。相変わらず空の方を見上げながら、幼さの残る声で「誰か居ないのか」と呼びかけている。

「ねえ、誰かいないの?」
「いや、だから……」
 繰り返される言葉は、やっぱり俺の方ではなく、空に向かって放たれている。いや……違うのか。

「あの光か」
 よく考えれば、女の子の視線の先には空はない。ただ、そこにあるのは大樹から放たれて、仄かに輝く大小の葉っぱだ。その女の子はさっきから、ずっとその葉にむかって声をかけ続けているんだろう。
 空を舞う光を見つめる碧い瞳。その吸い込まれてしまうような瞳に、俺は知らずある人の名前を思い出して、そして呟いていた。

「……会長?」
「?」
「あ、気付いた?」
 瞬間、女の子が俺の方を向いた。ようやく気付いてくれたか、と思ったのもつかの間、彼女は本当に「俺の方を向いただけ」、という様子だった。こちらを見たけど、俺を見ては居ない。だから、目の前の俺に何の反応を返すこともなく、再び視線を光の群れに戻してしまった。

「うーん。どういうことだろう?」
 ひょっとしたら目が悪いのかもしれない。でも「会長」と呼びかけた声には反応をしてくれた。なら、ここは呼びかけ続けるのが正解じゃないだろうか。そう考えてから、俺は腰をかがめて、女の子と顔の高さを合わせた。

「こんにちわ、お嬢ちゃん」
「……」
「会長、じゃなくて、紅坂先輩の親戚なのかな?」
「……誰か、いるの?」
「うん。目の前にいるよ?」
「……」
「うーん」
 やっぱり、会長さんの名前を出すと反応を返してくれる。だけど、それ以外の言葉は彼女を素通りしてしまっているみたいだった。

「どういうことかな」
 会長さんと似ている女の子。妹さんか、あるいは親戚なんだろうか。

「誰か、いないの?」
「いるよ。ここに」
「誰か、いないの?」
「いるんだけどなあ」
 相変わらず繰り返される言葉。でも、それに声を重ねても、やっぱり答えは返ってこない。会長の事を口にすれば、少しは反応を返してくれるけれど、俺のことに気付くまでには至らないようだった。

 ……さて、どうしてものだろうか。
 そんな女の子の不思議な様子に、俺は思わず腕を組む。目の前に立っても駄目、声をかけても駄目。じゃあ……触れてみればいいのだろうか。そう思った刹那、「触れて良いのだろうか」なんて躊躇いが胸に浮かぶ。大樹の陰に佇む女の子は、軽々しく触れることを躊躇わせるだけの雰囲気を身にまとっていて、だから軽々しく触れてはいけないような気がしたのだ。
 でも、そんな躊躇いを胸に抱いたとき、誰かの声が頭の中で、言ってくれた。

 『躊躇いを抱くな』って。

 いつか、どこかで、言われたこと。いや、違う。
 ついさっき。そう、夢を見る前に、言った貰ったことだ。あの人に、会長さんに―――。

「……ああ、そっか」
 そこに思い至ったとき、ようやく俺は思い出す。
 俺が何をしようとしていたのか、何を探していたのか、そして、誰を捜そうとしていたのか。それを、ようやく……思い出していた。

 この場所がどこなのか。
 どうしてここにいるのか。これが本当に夢なのかどうかも、よくわからないけれど。気丈な声に、でも、ようやく気がついた。

「誰か、いないの?」
「いるよ。いますよ……会長」
 この小さな女の子は、毅然と一人、世界樹の下に立っていて、だけど、ずっと気付いてくれる誰かを探していて。一体、彼女はどのぐらいの時間……この場所で、気付いてくれる誰かに呼びかけ続けていたんだろうか。ひょっとしたら、こんな小さな姿の時から、今までずっと、この子は―――会長さんは、一人で世界に向かって、呼びかけ続けていたんだろうか。

「ここに、いますよ」
「あ」
 彼女の頭を胸に抱いて、あやすようにそっとその頭を優しく撫でる。

「誰か、いるの?」
「うん。いるよ」
「どこに、いるの?」
「ここに、いるよ」
 問いを繰り返す彼女に答えながら、俺は強く彼女を抱きしめた。こんなに側にいるのに俺に気付いていない女の子。なら、気付いてくれるまで、こうしていてあげよう。

 こんなに小さな時から、見つけてくれる誰かを捜して世界樹の下で、一人で立っていたのなら、せめて、それが報われるまでは、ずっと。

「俺は、ここにいますよ。会長、紅坂先輩」
「あ……、あ」
 ひどく現実離れした世界。あるいは本当にただの俺の夢だったのかもしれない。
 でも、その夢が終わる頃、彼女を抱きしめたままで、薄らいでいく意識の中、俺は最後に確かにその声を聞いた。

「…………やっと、見つけた」

 薄れていく意識の中、醒めていく夢の果て。胸の中に抱えた女の子の、温もりに満ちたその声を、

続く

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