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  魔法使いたちの憂鬱

       第三十一話 神崎家の兄妹(中編)

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/1.相変わらずにデート中(神崎良)

「ご馳走様でした」
「お粗末さまでした」
 綾の手作り弁当を平らげて、俺は満足の息を付きながら、手を合わせた。うん、わが妹ながら料理上手だと思う。というか、普段から綾の料理なんて食べ慣れているはずなのに、いつもより妙に美味しく感じたのは、綾の気合の賜物だろうか、それとも屋外で食べる開放感からだろうか。頭をよぎったそんな考えに、少し首を捻っていると、弁当を片付けながら綾が少し不満そうに唇を尖らせた。

「む、兄さんがぼーとしてる。もう。デートの最中に惚けるなんて駄目です」
「ああ、ゴメン」
「ひょっとして、美味しくなかった?」
「いや、寧ろ逆」
「逆?」
「うん。綾の料理はいつも食べてるのに、いつもより、美味しく感じたのはなんでなのかなー、と」
 そんなことを考えてた、と正直に告げると、綾は嬉しそうに口元をほころばせてから、「そんなの決まってるじゃない」と自信満々に頷いた。

「それは勿論、愛の力です」
「ああ、そっか。なるほど。ありがとうな」
「そんなに、さらりと流さないでよ!」
「他に反応のしようがないだろうが」
「いーえ、あります!」
「あのな」
 むくれる綾に、俺は苦笑して軽く頬をかく。どんな反応を返せというのだろうか、この妹は。まあ、綾が愛情を込めてくれたっていうのはわかっているけど。

「もう! 兄さんは私への愛が足りませんっ」
「いやいや、そんなことはないぞ」
「うん。それは知ってる」
「……お前な」
 愛が足りないと言った直後に、あっさりと綾は前言を翻す。そんな妹に俺が軽く息をつくと、綾は慌てたようすで首を横に振った。

「えっとね、違うの」
「違う?」
「えーとね、その……そう! 兄さんには、愛の表現方法に問題があると思うの」
「表現方法って。また難しいことを言い出すなあ」
「難しくなんてありません。もうちょっと気持ちを態度で表して欲しいなあって、そう思うのです」
「ふむ。なるほど」
 冗談交じりにも聞こえる綾の言葉だけど、その指摘に俺は思わず腕を組む。気持ちを態度で表していない、と言われたら、それは確かにそうなのかもしれない。そもそも今日だって、試験勉強に協力してくれた綾へのお礼が目的なんだから、もう少し、そのあたりの感謝とかを態度で表すべきなんだろう。

「よし、わかった」
「? 何がわかったの?」
「とりあえず、もうちょっと感謝の表現方法を変えないといけないと言うことがわかった。ということで、綾」
「な、何?」
「お前は、今日はどうして此処に来たかったんだ?」
「え?」
「俺の財布に気を使ってくれたのはわかってるけど、他にも理由はあるんだろ?」
「それは……」
 俺の問い掛けに、綾は少し考えるように視線を外した。「俺が好きそうな場所だから」って言ってくれたけれど、でも、何となく理由は別の所にあるような気がしている。そんな俺の言葉に対して僅かな沈黙と黙考を挟んでから、綾は少し照れたように笑いながら、その答えを口にした。

「久しぶりに兄さんとのんびりしたいなー、って」
「のんびり?」
「うん。
「そっか」
 確かに、試験期間中は、いろいろと騒々しかったから、のんびりと綾と遊ぶのも久しぶりだと思う。でも……

「ふーん」
「な、なに?」
 ……なんとなくだけど。即答しなかったあたりに、まだ他の理由が潜んでいるような気がしなくもないのだけど。まあ、他に理由があるのなら後で教えてもらえるだろう。そう納得してから、俺は先に「感謝の表現」を実行してみることにした。

「じゃあ、綾への感謝として綾がのんびりするのに協力しよう」
「ふーん? どうやって?」
「どうやってって、そんなの勿論」
「勿論?」
「……どうしようか」
「……考えてなかったのね。兄さん」
「ごめんなさい。急いで考えます」
 綾の冷ややかな視線に、俺は素直に頭を下げる。いや、だって、のんびり出来る方法なんて瞬時には思いつかない訳で。……昼寝、とか言ったら怒られるだろうか。と、ぐるぐると必死で考えを巡らせる俺に、綾は深々とため息をついて額を押さえた。

「もう、仕方ないんだから、兄さんは」
「面目ない」
「うーん。じゃあ、私に膝枕して欲しいなあ……なんて」
「あ、そうか。それでいいなら、いいけど」
「いいの?!」
「い、いいぞ?」
 勢い込んで詰め寄ってきた綾に、少し気圧されながらも俺は首を縦に振る。

「っていうか、なんで、そこまで驚く」
「だ、だって」
「嫌なら良いけど」
「嫌じゃないです!」
「そっか。良かった」
 勢いよく頷いてくれる綾に、ほっと胸をなで下ろしてから、俺は辺りを改めて見回した。綾の服は下ろしたてだって言っていたから、流石に地面で膝枕、という訳にも行かないだろう。なら……このベンチが丁度いいかな。そう頷いてから、俺はベンチに軽く手をかざして、そして意識を集中させる。

「……あ」
 俺がやろうとしていることに気付いて綾が小さく声を上げる。その声を遠くに聞きながら、俺はゆっくりと魔法の言葉を紡ぎ、そして形へと変えた。

「―――以って、その表から剥離せよ」
 四小節から成る呪文、その最後の一節を口にした瞬間、ベンチの表面が淡く光る。その一瞬を逃さずに、俺はその表面を取り出したハンカチでぬぐった。忽ちの内に綺麗になるベンチと、そして真っ黒になるハンカチ。魔法によってベンチの表面に浮き出た汚れを、上手くハンカチで拭き取れた証拠だった。

「よし、綺麗になった……よな?」
「わっ、凄い、兄さん! 今の魔法、綺麗だったよ!」
「そっか?」
「うん」
 我ながらもの凄く地味な魔法ではあるのだけれど、それでも綺麗に拭き取られたベンチを見て、綾が賞賛の声を上げてくれた。

「だって、前に兄さんが同じ事をしたときには、大変なことになったじゃない?」
「ああ……覚えてたか」
「ふふ。それは勿論」
 実は、昔、綾の目の前で同じ事をしようとして、ベンチの塗装ごとはぎ取ってしまったことがあったのだった。いや、だって「ベンチの汚れだけ」に干渉するというのは地味でありながら、制御が難しいのだった。それから考えれば、確かに進歩が見られると言っていいかもしれない。

「ま、コーチが良かったからな」
「それって、私のことだよね?」
「勿論」
 いくら俺でも、ここで霧子や会長さんの名前を出すほどに無神経じゃない。だから、ただそれだけを答えてからベンチに座って、それからポンポン、と太ももを叩いて綾を促した。

「ということで、準備完了です。ほら、おいで」
「ほ、ホントにいいの?」
「いいよ。ほら」
「し、失礼します」
 繰り返して太ももを叩くと、綾はなんだか恐る恐るといった様子で俺の隣に腰掛けて、そしてゆっくりとその頭を俺の太ももの上へと乗せて。

「ふわっ」
「うわっ」
 綾の頭が太ももに乗った瞬間、その感触に俺たちはほぼ同時に声を上げて身を震わせていた。

「な、なんだか、くすぐったいね」
「そ、そうだな」
 上と下。太ももにちょこんと頭を乗せる妹と見つめ合って、俺と綾は照れ隠しに笑う。……いやいやいや、落ち着け、俺。妹に膝枕したぐらいで照れるんじゃない。変なことを考えるな。というか、正気になれ俺。

「……よし」
「兄さん?」
「いや、なんでもない。それより、姿勢は大丈夫か? 首痛くないか?」
「うん、大丈夫。えへへ」
 俺の問い掛けに頷くと、綾はなんだか、とても幸せそうに、はにかんでくれたのだった。


/2.相変わらずに追尾中(桐島霧子)

 草葉の陰、もとい樹木の影に潜みながら、私と会長さんは目の前の光景に、声を漏らしていた。

「……ねえ、桐島さん」
「……なんでしょう、会長」
「あれは「仲の良い兄妹」で済ませられる範疇なのかしら」
「ぜったい、違いますっ!」
 呟くような会長さんの問い掛けに、私は即座に首を横に振った。そりゃあ、なんの事情も知らない人から見れば、「兄が妹に膝枕してあげている」なんていうのは、とても微笑ましい兄妹の風景なんだろうけれど。でも、ことあの二人、というか、綾ちゃんの気持ちがわかっている身としては、「微笑ましい」なんていう言葉で表現できる光景じゃなかった。というか、もう、心臓に悪すぎるくらいに危うい光景なのだった。

「もう、何やってるのよ、あいつはっ。『ほら、おいで』、じゃないわよ。もう」
「……」
「会長?」
 綾ちゃんを膝枕する良と、良に膝枕される綾ちゃん。その二人の様子を見つめていた私だったけど、隣に身を潜めている会長さんが、ひどく真剣な表情で考え込んでいることに気づいて、私は彼女に意識を向けた。

「会長、どうかしましたか?」
「ねえ、桐島さん」
「なんでしょう」
「良さんって、私が膝枕をお願いしたらしてくれるのかしら」
「ど、どうでしょう」
 突飛な質問に、私は思わず口ごもって、そして答えを濁す。良が会長さんに膝枕? その情景を想像しようとして、流石にそれはしないんじゃないかなあ、と私はその想像を途中で止めていた。そんな私の考えがわかったのかどうか、会長さんはやや不満げな息を零してから、小さく頭を振った。

「でも、桐島さんがお願いしたら、してくれるわよね。多分」
「……ど、どうでしょう」
 言葉につまりながら返した答えは、さっきと同じはぐらかすための言葉。でも、その言葉の意味合いは大分、違っていた。良が私に膝枕する。再び、そんな情景を想像しようとして、途中で耳が熱くなった。

「む。桐島さん。自分はしてもらえるって思ってるでしょう」
「そ、そんなこと……」
「思ってるでしょう? 耳が赤いもの」
「……う。はい」
 耳が熱いのは自覚できていたので、誤魔化すのも今更だとおもって私は、正直に首を縦に振る。

「そう。やっぱり、仲がよいのねあなたたち」
「でも、私だけじゃなくて、龍也にもしますよ。あいつなら」
「……むう」
 妙に可愛いうめき声を零して、会長さんは唇をとがらせた。普段なら篠宮先輩がここで宥めるなり、慰めるなりのフォローをしてくれるんだろうけど。

「あの、会長」
「なにかしら」
「して欲しいんですか?」
「何を?」
「膝枕です」
「………………別に?」
 なんなんだろうか、今の間は。

「会長?」
「だから、別に膝枕して欲しいという訳じゃないわよ? ただ」
「ただ?」
「……ただ」
 そこで会長さんは、珍しく言葉を詰まらせて、そして不思議そうに小首をかしげた。

「ただ、ちょっとだけ、もやもやするのよね」
「え?」
 会長さんの台詞と言葉に、私の胸が警報を鳴らす。だって、それって。

「あの、会長?」
「何かしら」 
「それって焼き餅じゃないですか?」
「焼き餅?」
 私の指摘に、会長さんはきょとん、と目を見開いて固まった。

「焼き餅って……私が、良さんに?」
「違うんですか?」
「ふむ」
 良が綾ちゃんに膝枕して、そして私や龍也が頼んだら、多分膝枕してくれると予想して。それなのに、良は会長さんには膝枕はしないだろうと予想して。それで「もやもやする」というのなら、そのもやもやの理由はやっぱり焼き餅なんじゃないだろうか。

「……そうなのかしら」
 どうしてだろう。なぜだか、会長さんはひどく戸惑っているように見えた。会長さんは、そもそも独占欲の強い人だから、焼き餅を焼くことは多いんじゃないんだろうか。
 私がかける言葉を探している内に、会長さんは戸惑いを振り切るように小さく首を振ってから、頷いた。

「いいわ。今後の参考のために、今日は、ううん、今は観察に勤めましょう」
 そう呟いて会長さんは意識をまた二人の方へと振り向ける。そんな彼女の視線を追いながら、私はひょっとして今日は思った以上の事が起こってしまうんじゃないか、なんていういい知れない不安に包まれるのだった。

/3.ただ今、膝枕中(神崎良)

「ねえ、兄さん」
「ん?」
「足、痺れない?」
「大丈夫だよ」
 気遣う言葉に軽く頷きを返してから、俺は綾の頭をゆっくりと撫で付ける。膝枕を開始してから、どのぐらい経っただろうか。最初の照れは、ようやくどこかへ行ってくれたので、こうして頭を撫でるぐらいの余裕はできていた。

「それより、綾の方こそ大丈夫か? 首、痛くなったりしてないか?」
「うん、大丈夫。あっ、でも別の姿勢もお願いしちゃっていいのかな……?」
「いいけど」
「本当?!」
「本当。正面から抱きしめる、とか、そういうのじゃなければ」
「……っ」
 俺の返答に、綾は打ちひしがれたような表情を浮かべて、一瞬浮かせた頭をまた俺の膝枕の上に落とす。そして、俺から顔を背けるようにして、わざとらしく両手で顔を覆った。どうやら「正面からだっこして欲しい」という要望は本気でするつもりだったらしい。

「うう。ひどい……期待させてから、突き落とすなんて……ひどい」
「そこ、嘘泣きはしない」
「ふーんだ。兄さんの意地悪」
「はいはい。ごめん、ごめん」
 また膝の上で姿勢を変えて、今度は兄の腹の上で「のの字」を書き始めた妹に苦笑しながら、俺はあやすようにまた頭を撫でつける。本当、俺のシスコンぶりも相当だけど、というか、魔力交換云々を抜きにしても、綾の兄離れも課題山積だと思う。

「だっこぐらい良いと思うのに」
「まだ言うのか。そもそも、だっこって、そういう年じゃないだろ」
「じゃあ、抱擁」
「誰も言い方の話をしていません。そういうのは、ちゃんと恋人作ってからやりなさい」
「むー、兄さんだって彼女とか居ないくせにー」
「それを言うな」
 痛いところを突かれて、軽く指先で綾の額をつつく。その指先を追っていた綾の瞳に、不意に、一瞬、影が差した……気がした。

「……綾?」
 どうかしたのか、と問い掛ける前に、綾は少しだけまじめな声で「兄さんは」呟くように口を開いた。

「兄さんは、平気なの?」
「平気って?」
「だから」
 刹那、綾が声に微かに揺れる。

「だから、私が別の男の子とそんなことしても平気なの?」
「そんなの」
 平静を装っていて、でもやっぱりかすかに揺れている綾の声と瞳。それが多分、不安の所為だと気付いて、だから、俺は間を置かずにはっきりと告げる。

「当たり前だろ。全然平気」
「あ−、ひどい! 即答しなくても良いじゃない!」
「はいはい。ごめん、ごめん」
 唇を尖らせる綾をあしらいながら、俺は即答できたことに内心で安堵の息をつく。今のは、綾が何を言い出すのかが途中でなんとなく想像できたから、あしらう返事を口にできたんだけど。例えば、もし不意に、綾が他の男とこんな事をしている所を見たら、そこまでいかなくても、手をつないだりしている光景を不意に目撃したら……やっぱり狼狽えるんだろうなって思う。だから「全然平気」っていうのは、嘘だけど。でも、そうのは露骨に態度に出してはいけないとはずだから。……少なくとも、妹に兄離れを願っている身としては。

「まあ、独り身同士、お互い頑張ろうって事で」
「私は、頑張ってるもん」
「そうなのか?!」
「あ、今、狼狽えたでしょ」
「っ、いや、そんなことは断じてないぞ?」
「いーえ、狼狽えました。体が、「ビク」って震えたもん」
「くっ」
 膝枕している以上、動揺が体をモロに伝わったらしい。ああ、もう。動揺を見せたら駄目だって、考えている傍からこの為体とは、我ながら情けない。そんな俺の様子が、なんだか面白かったのか、綾は軽く微笑んでから、俺の膝から頭を起した。

「ん。もう良いのか」
「うん。ありがと。十分のんびりできました」
「そっか」
「兄さんが「全然平気」じゃないのもよくわかったし」
「うるさい」
「えへへ」
 軽口を叩きながら、綾はベンチからも身を起こすと、うーん、と軽くのびをする。そして「さて」と仕切り直すような声と一緒に、手を下ろした。

「じゃあ、次の目的地に出発」
「駅に戻るのか?」
「そうじゃなくて、この公園の中だよ。正確には森の中、だけど」
「森の中?」
 そう言われて、俺は背後を振り返る。そこには歩いてきた道と、それを包み込むように立ち並ぶ緑の木々。

「ひょっとして、草木をかき分けて進むつもりか?」
「大丈夫。ちゃんと道はあるから」
「そうなのか」
「うん。多分」
「多分、ってお前な」
「いいから、いいから」
 なんとなく曖昧な綾の言葉に、そこはかとない不安に襲われたけれど、でも結局の所。

「とっておきの場所だから。期待しててね」
 そういって微笑む妹の笑顔に、文句の言葉は口から出てはくれなかったのだった。

/4.それでもまだ偵察中(桐島霧子)

「あ、移動するみたいです」
「そうみたいね」
 良と綾ちゃんの二人が移動を開始したのを確認してから、私と会長さんは身を潜めていた草陰から抜け出した。うう、ずっと身をかがめていた所為か、体がちょっと痛い。隣では会長さんも、ようやく狭い所から抜け出せた開放感からか大きく伸びをしてから、ふう、と大きく息をついていた。

「でも、結局ここではご飯を食べて、膝枕しただけだったわけね」
「ええ、まあ……」
 どことなくつまらなさそうな、それでいて、少し安堵したような会長さんの声。その声に頷きながらも、私は内心、気が気じゃなかった。盗み聞き、もとい、盗聴、じゃない、ええと、とにかく二人の会話を聞いていた限りでは、かなり危うい会話が飛び交っていたのだから。正直、いつ、綾ちゃんが告白に踏み切るのかとヒヤヒヤものだった。

「……良の奴。ホントに危機感が無いんだから」
 安堵の息を付く私の口からは、良に対する文句も一緒に零れていた。だって、綾ちゃんとのデートしていること自体が危ないって言うのに、更に自分から「恋人つくれ」とか、その手の話題を振るなんて自殺行為にもほどがあるんじゃないだろうか。そんな風に私が思わず良に対して毒づいている傍らで、会長さんが思案を巡らせるように、あご先にかるく指を当てていた

「良さんは、わざとやってるのかしら」
「わざと?」
「そう。わざと無警戒な話題を振ることで綾さんを異性として意識していない、という意思表示をしているとか」
「良はそんなに器用じゃないですよ」
「そうね。それは流石に考えすぎよね」
 あっさりと答えた私に会長さんは苦笑混じりに頷いてから、今度は別の話題を口にする。

「それにしても、とっておきの場所、か。どこなのかしら」
「この場所じゃなかったんですね」
 そう良いながら私は展望台の方へと視線を向けた。視線の先に広がるのは、住み慣れた街の、見慣れない風景。東ユグドラシルの町を一望できるこの光景だって「とっておき」と言えるぐらいに綺麗だって思う。だけど、綾ちゃんにはここ以上の隠し球があるらしい。果たして、それは、どんな場所なのか。

「森の中って言ってましたけど。何か特別な物がある場所なんでしょうか」
「そうね。きっと、綾さんにとっては特別な何かがある場所なんでしょうね。それが形のある物なのかどうかはわからないけど」
 そう言うと会長さんは一度言葉を切って、少し考えてから何気ない口調で言葉を続けた。

「そこで告白するつもりなのかしらね。綾さんは」
「え?」
 零された会長さんの言葉に、とくん、って心臓が強く鳴る。思わず硬直してしまった私に気付いて、会長さんは少し不思議そうな面持ちで小首をかしげた。

「あら、別に驚く事じゃないでしょう? 今日の綾さんの意気込みを見ていれば、わかることじゃない」
「それは……そうですけど」
 会長さんの言うとおり。その事は、つまり綾ちゃんの意気込みは、今日、尾行を始めた頃から気付いていた。服装やお化粧もそうだけど、どことなく決意めいたものが遠くから見ている私たちにも見て取れたから。気付いていないのは当の良ぐらいのものじゃないだろうか。そう、気付いていたんだけれど。でも、どうしたらいいのか、まだ私は決められていない。
 我ながら流されるままに、今の状況に至っているなあと反省しつつ、私は傍らの私を連れ回している人物へと視線を戻した。

「あの、会長はどうして平然としているんですか?」
「どうしてって……どうして平然としていたらいけないの?」
「だって、このままじゃ」
「あのね、桐島さん」
 私の言葉を遮って、会長さんは諭すような口調で私に向かって指を振った。

「いい? 問題は、綾さんが告白するかどうかじゃないの」
「いえ、それは大問題だと思います」
 即座に突っ込む私の声に、しかし、会長さんは少しも動じた様子を見せずにごく平然と首を横に振る。

「いいえ、問題じゃないわ。問題は、その時に私はどうするのか。そして、あなたはどうするのか、よ」
「それは……そうですね」
 確かに、そうなんだけど。それは、きっと正論なんだろうけれど、それでも、妹が実の兄に告白しようとしているのを「問題じゃない」と受け流せるほどに、私は達観してなんかいない。というか、そこはきっと達観したら駄目な部分だと思う。いろいろと。
 そんな私の考えを読んだのか、会長さんは人差し指を、くるり、と回しながら諭すように続けた。

「だからこそ、自分がどうするのかが大事なの。妹が兄に告白すること自体が駄目だって言うのなら、どこかで妨害をしないと駄目っていうことでしょう?」
 それは確かにその通り。全くその通りだってわかっているんだけど、そんな風に割り切れるなら、今、私はこんな風に迷ってなんか居ない。
 このまま尾行を続けて、もし本当に「その場面」を目にすることになったら……私はどうしたらいいんだろう。そもそも、その場面をのぞき見てしまうことなんて、許されるんだろうか。女の子の告白を邪魔なんてしたらいけないっていう思いと、でも、兄妹でそんなことになったら駄目だって言う思いと。そして、それ以上に……あいつが誰かに告白されているシーンなんて、見たくない。そう、見たくないのに。でも、私の気持ちは「回れ右」を命じてはくれない。

「ねえ、桐島さん」
 そんな逡巡に言葉を失っている私に、会長さんは少し息をついてから、別の質問を口にした。

「そもそも良さんは綾さんの告白を断れるって思う?」
「……それは」
 真正面から投げかけられた問い。その内容に、私は思わず口籠もる。それは何度も何度も私が想像して、そして結局、答えを出せない問いかけだったから。
 良が綾ちゃんに対して、ちゃんと「兄」でいようと思っていることは知っているし、わかってる。だから、良が綾ちゃんの「そういう感情」を受け入れることは無いって思う。でも、魔力交換のことがあるから簡単に断れない。心が良が綾ちゃんを拒絶して、もし、綾ちゃんが良とすら魔力交換ができなくなったら。きっとそのことを良はなによりも畏れているから。それが誰よりもきっと綾ちゃんのことを大切にしているから良をがんじがらめにしてしまっている、鎖。

 でも……でも、良なら、きっと。

「……はい。断れるって思います」
 しばしの黙考の後、私は結局首を縦に振っていた。
 
「そう」
「だけど、正直なところ、絶対の自信があるわけじゃないです」
「綾さんの魔力交換のことがあるから?」
「はい」
「それって私が綾さんと魔力交換出来ればいいのよね」
「で、出来るんですか?!」
 思わず驚きの声を上げた私に、会長さんは平然とした表情で頷いた。

「良さんに出来ているんだもの。私に出来ない訳が無いじゃない」
「で、でも、神崎先生でもできないんですよ?」
「でも、良さんにはできているんだもの。だったら、私にだってできるわよ」
 そう自信満々に頷くのだった。
 でも、今の言い方は少し気に障った。そりゃ、会長さんの実力は凄いけど、でも、それだからって良ができることを全部できるみたいなことを言わないで欲しい。と、私が思わず気色ばんだのを見て会長さんが「あら」と呟いてから、また別の質問を投げかけてきた。

「桐島さんは、独占欲が強い方?」
「え?」
 予想もしていなかった問い掛けに、私は思わず気の抜けた声を零してしまう。独占欲に関して会長さんに尋ねられるとは思っていなかった。だから、直ぐには答えられずに、どういう意味かと視線で問い掛ける私に、会長さんは小さく頷いてから言葉を付け足してくれた。

「だから、良さんが他の誰かと付き合うのは嫌? それとも相手が綾さんだから、止めたいだけ?」
「それは、えーと……」
「要するに良さんがハーレムを作るのは許せる? 許せない?」
「は、ハーレムですか?」
 確かに、一応、ハーレムなんて呼ばれる一夫多妻、多夫一妻制度があるわけで、ちゃんとお互いの同意の物できちんとした関係をその中で気付いている人たちがいることも知っている。でも、素直な心情としては……、嫌かもしれない。好きな人には、自分だけを見ていて欲しい。そう願うのは、多分、当たり前の感情だって思う。
 でも、どうしてそんなことを今聞くのだろうか。私がその疑問を口にするより前に、会長さんはごく平然と、その答えを返す。

「だって、良さんのことが好きなのよね? あなた」
「え……ええっ?! い、いきなり、な、な、なにをっ」
 あっさりと心の奥を指摘されて、瞬間、私は耳と頬が熱くなるのを自覚した。

「ど、どうして、そんなこと」
「それはわかるわよ。あなたの良さんへの態度を見ていればね。今だって、良さんが下に見られたと思って怒ったんでしょう?」
 慌てふためく私を愉しげな視線で見つめながら、会長さんはあっさりとそう告げた。どうやらこの人は、綾ちゃんと同じように、私の気持ちも態度から読み取ってしまっているらしい。

「うう……」
 駄目だ、落ち着かないと。多分、今、会長さんに対して引いてしまっては駄目だ。落ち着け、と自分に言い聞かせて、私は大きく息を吸う。これは私の気持ちの問題で。だから、相手が会長さんでも引っかき回されたままで良いわけなんてない。そう自分に言い聞かせて、私はゆっくりと会長さんに頷きを返す。

「……はい。私はあいつが好きです」
「そう」
 だけど、私の答えに会長さんはさして慌てるでもなく、ごく平然と受けて止めていた。

「それで、良さんがハーレムを作るのは嫌?」
「それも嫌です」
「そう」
 短い私の言葉に、でも、会長さんはなんだか嬉しそうに微笑んでくれた。

「ちなみに私も嫌よ。私が作るのならいいけども」
「知ってます」
「あら、そうなの?」
 自覚はなかったのか、この人。あるいはわかっていて惚けているのか。
 半ば呆れながら息をつく私だったけど、気分は不思議とすっきりとしていた。会長さんの問いに振り回された結果だけど、でも、しっかりと自分の気持ちを口にしたらからだって思う。だから、いじけかけていた心が気持ちが軽くなっていた。
 そんな私を見て、会長さんは満足そうに頷いてからパン、と軽く手を打ち合わせる。

「じゃあ、そろそろ行きましょうか。見失わないうちに」
「あ、はい」
「ふふ。桐島さんの元気も出たみたいだしね」
「……ありがとうございます」
 からかうような会長さんの言葉に、それでも私はお礼を言って頭を下げた。本当に傍若無人で、自己中心な会長さんだけど、どうして人を引きつけているのか、その理由が少しわかった気がした。
 嫌われることを怖がっては居ないから。嫌われて、自分が傷つくことを怖がっていないから。そして、その強さが周りを、巻き込んでしまうから。それが悪い方向に働くと、去年みたいな騒動になるんだろうけれど……今は、きっと良い方向に働いてくれたんだって思えた。

「あの会長」
「なにかしら」
「会長は、良のこと、好きなんですか?」
「どうかしら」
「そこははぐらかすんですね」
「ふふ」
 微笑んではぐらかす会長さんの笑顔。その笑顔を見ながら、今は、少しだけ巻き込んでくれたことを感謝していた。うん、でも、少しだけど。


/5.追憶の場所で(神崎良)

 果たして、綾はどこまで行くつもりなんだろう。うっすらと地肌が見える獣道のような小道を辿り、突き進むことしばし。辺りをキョロキョロと見回しながら進む様子から、綾自身もはっきりとした場所はわかっていないように見えた。
 ひょっとしたら、道に迷ったのかも知れない。そんな不安に、そろそろ俺が声を上げようとした刹那、立ち並ぶ木々の隙間から差し込む光がにわかに明るくなった。

「何だ?」
 木々の先に何があるのか。それを確かめようと目を細める俺の傍ら、綾が歩みを止めて、「……あった」と呟きを零す。

「綾? 着いたのか?」
「うん。多分……ううん、きっとここ」
 興奮しているのか、僅かに頬を紅く染めて、そして喜色に声を揺らしながら綾は一気にかけ出した。

「綾! 走るな、足下、危ないって!」
「大丈夫! それより、兄さん、早く!」
「あ、こら。ちょっと落ち付けって、綾!」
 足下の悪さや茂る木々の枝にも気を止めず、綾は俺の制止を無視して一目散に駆けだしている。そんな妹に遅れないようにと、慌てて俺も後を追った。そして木々の茂みを抜けたその先。

「……っ、あった!」
「綾。あったって何が……って、なんだ、ここ?」
 不意に視界が開けると、眩しいくらいの光と共に目に飛び込んできたのは白く水面をきらめかせる池だった。青々と茂った森の中、まるで箱庭のような空間が、その池を中心にして忽然と姿を見せたのだ。魔法院の教室よりも一回り小さいぐらいの広さしかないけれど、奇妙な静謐さに満ちていて、しばし、俺はこの光景に見とれてしまう。
 最初は沼なのかとも思ったけれど、こうして箱庭の端から眺めていてもまるで濁っている様子はない。透明度が高いのかとも思ったけれど、日差しの所為か、水面が輝いていて水面下の様子はよくわからない。というか、どうしてこんなに輝いて見えるんだろう。確かに拓けた場所なので、日の光は差し込んでいるけれど……それにしたって。

「ほんとに……」
「綾?」
「ほんとに……、あったんだ」
「綾も来たこと無かったのか? この池」
「池じゃなくて、泉です」
「どう違うんだっけ?」
「泉の方が詩的です」
 左様ですか。そう心の中で突っ込みを入れたけれど、でも口には出さなかった。この場所がどういう場所なのかは知らないけれど、綾が感動に浸っているのだから、水を差す言葉は必要ないだろう。
 そう俺が納得していると綾はゆっくりと泉の方へと歩み寄っていく。

「ここ、魔法の泉なんだって」
「ああ。だから、こんなに明るいのか」
 やけに明るく見えると思ったけど、この泉は水面自身が仄かに光を放っているのだ。要するに「光る泉」。夜に見れば、一層幻想的な趣なのだろう。

「確かに、これはとっておきの場所だな」
「……」
「綾? 滑らないように気をつけろよ」
 素直な感想を零す俺に綾は答えないで、そのまま、ゆっくりとした足取りで泉の縁へと脚を進めていた。そして綾は池、もとい泉の縁にしゃがみ込むと、その静かな水面にそっと指先を浸す。触れた指先を起点にして、鏡のような水面に静かな波紋が広がっていく。日の光と、泉自身が放つ光。それらが混じり合って、揺らめく波面に不思議な光の絵を描いていく。もし、白銀の糸だけで織られたレリーフがあるのなら、あるいはこんな風に見えるのかも知れない。そんな風な思いを抱いている自分に気付いて、俺は内心で手を打った。なるほど、確かに、この場所は詩的な場所なのかも知れない。

「あのね、兄さん」
「何だ?」
 どのぐらい、光と水の絵画に見惚れていたのだろうか。独り言のように零された言葉に、俺は意識を呼び戻されて綾の方へと目を向けた。綾の方は相変わらず泉に指先を遊ばしたまま。

「デートして、って言ったとき、どうして迷ったの?」
「ん?」
 水面を渡る波紋に視線を落としたままの問い掛けに、俺は何のことかと首を捻る。

「覚えてない? 私が今日のことお願いしたときのことだけど」
「……あー。あれか」
 一瞬なんのことかって思ったけれど、確かに綾が試験のお礼に「デートして欲しい」って言ったときには、口籠もったかも知れない。

「あれは……そうだな。デートっていう言葉に気圧されたのかな。そういうのは慣れてないから」
「ふーん」
 俺の答えに、綾は釈然としない、というように声を漏らしながら立ち上がった。

「それって、意識しちゃったってことかな。私のこと」
「いや、免疫がないだけ」
「もう。素直じゃないなあ」
 妹と出かけるのに普通は「意識」なんてしない。客観的にみて、俺と綾は仲のよい兄妹だって思うけど、でも抱いている感情は「そういう感情」とは、また違う。……違うはずだよな。うん。正直に言えば、綾は俺にとって特別な存在だけど。でも、だからこそ、そういう対象としては見てはいけないはずだった。
 綾のことは大切にしたい。でも、だからこそ、離れていく準備はしないといけない。だったら、少なくとも俺が綾をつなぎ止める枷になってしまうのだけは、駄目だから。

 そういえば、佐奈ちゃんに相談されたことがあった。兄弟を好きな女の子の事をどう思うかって。綾なら、そんな事態をどう思うんだろう。家族としての感情と、異性としての感情と。その二つは果たして両立できるものなのだろうか。勿論、それを両立させたものが夫婦になる訳だけど……兄妹である以上、夫婦っていう関係には決してなれない。それがわかっているから、佐奈ちゃんの質問に、俺はあの時「兄妹の恋愛は受け入れない」と答えを返した。あれから、時々考えてみたけれど、やっぱり、誰もが傷つかない綺麗な答えなんて出てこない。
 でも、綾ならなんて答えるのだろう。佐奈ちゃんなら、きっと俺よりも先に綾に相談しただろうから、綾もなんらかの答えを返したんじゃないだろうか。なら、その答えはなんだろう。一瞬、綾にその答えを聞いてみようか、なんて気持ちが浮かぶ。

「兄さん?」
「……なんでもない」
 だけど、そんな考えを俺は慌てて打ち消した。なんだか、それは取り返しのつかない出来事の引き金を引きかねないから。

「それより綾、よくこんな場所知ってたな」
「凄いでしょ」
 変えた話題に、綾は素直に食い付いて、そして誇らしげに胸を張った。

「でもね、実は兄さんはこの場所には来たことがあるんだよ?」
「へ?」
 言われて俺は思わず気の抜けた声を零す。そして、慌てて辺りを見回して、記憶と照合するけれど……やっぱり、記憶のどこにもこんな景色の思い出はなくて。戸惑う俺を綾はしばらくおかしそうに見ていたけれど、やがて小さく微笑みながら種明かしをしてくれた。

「ふふふ。答えは兄さんがまだおなかの中に居るときのことでした」
「おなかの中って……あ、そういうことか」
「うん。まだお母さんのおなかの中に居るときに、来ている筈なんだって」
 それなら確かに記憶に残っているはずはない。納得して頷く俺をみて、綾は満足そうに微笑むと大きく手を広げた。

「ここってね。お父さんとお母さんのお気に入りのデートの場所なの」
「……そう、なのか」
「うん」
 どうして知っているのか、と思ったけれど、口にはしなかった。きっとレンさんに聞いたんだろう。そう納得して、でも今度は別の疑問が口をついた。

「なんでレンさんは、そんなことお前にだけ教えたんだ?」
「私が教えてって、ねだったから」
 俺の疑問にあっさりと答えて、そして綾は俺の目を真っ直ぐに見つめる。

「兄さんは、そう言うこと聞かないよね」
「そんなことはないけど」
 反射的にそんな言葉が口をついたけど、でも、よく考えればそうなのかもしれない。「そんなこと」とはきっと、父さんと母さんの事だろう。遠い記憶の中の、二人の笑顔。それを綾の顔に重ねて、俺は綾の目から僅かに視線を外す。その笑顔に顔向けできるような自信がまだなかったから。
 でも、そういう態度が隙になったのかもしれない。あるいは、この場所の意味合いをちゃんとレンさんから聞いておくべきだったのかも知れない。

「……ねえ、兄さん」
「ん?」
「手、握って欲しい」
「? 良いけど……」
 頷いて差し出された綾の右手を左手で取る。と、その次の瞬間に、綾が左手を伸ばして俺の右手を取った。

「綾?」
「えへ。捕まえた」
 お互いの右手と左手をつないで、自然と向き合う形になる。だから、綾は俺の顔を正面から見つめて、少しだけ照れくさそうに微笑んだ。でも、はにかむ笑顔のその奥に、隠しきれない決意の色が覗いている。

「綾。お前」
「ねえ、兄さん」
 何をするつもりかという俺の言葉を、遮って綾が続けた。優しい声なのに、どこか固く聞こえる。いい知れない予感に、掌に汗を感じたけれど、果たしてそれは俺の汗なんだろうか、それとも綾の汗なんだろうか。

「どうして、ここがお父さんとお母さんのお気に入りのデートの場所なのか、わかる?」
「どうしてって……綺麗だから、とか」
「ぶー。外れ」
 はぐらかそうとする俺の意図を軽くいなして、綾は真っ直ぐに俺の瞳を見つめ続ける。その真っ直ぐな視線に、知らず、頭をよぎる記憶があった。それは……あの遊園地での出来事で。綾とキスをしたあの時の、記憶で。だから、このままの体勢でいるのは非常に不味いってわかっているのに、体がうまく動いてくれない。動かないと駄目だってわかっているのに、でも、動けなかった。

「ここはね、母さんが、父さんに告白したその場所なんだよ」
「……そっか」
「うん」
 その答えに、綾がどういうつもりで俺をここに連れてきたのか、鈍い俺でもはっきりとわかったから。
 繋いだ両手。それを通じて伝わってくるのは綾の熱と、隠せない震え。それが綾の気持ちを伝えているから、

「あのね、わたしね」
 母さんが、父さんに想いを告げたこの場所で。泉が光を放つこの場所で。綾がなにをするつもりなのか、わかってしまっているのに。
 繋いだ両手から伝わる震えが、見つめる瞳に揺れる迷いが。綾の手を振り払って、その目から逃げることを、させてくれなくて。だから、俺と綾を止める者は、他に誰もいなくて。

「私、私ね―――」
 いつか、母さんが、父さんにしたように。

「私、兄さんのことが、好きです」
 今、妹は、兄に、その気持ちを告げていた。

続く

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