その時、果たして俺はどんな顔をしていたんだろうか。
 その時、本当はどんな顔をしていなくちゃ、いけなかったんだろうか。

 本当のところ。その答えは、今もまだ、わかっていない。

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  魔法使いたちの憂鬱

       第三十二話 神崎家の兄妹(後編)

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/1.兄の気持ち(神崎良)

 綾が連れてきてくれた両親の思い出の場所。
 そこで妹が何を言おうとしているのかについては、寸前で予測というか予感というか、なんとなく想像はついた。でも実際に妹の口から『その言葉』を聞いてしまうと、一瞬、思考と体が止まってしまった。というか、言い放たれた言葉の内容を把握できても、その意味を理解するのに時間がかかってしまったというべきだろうか。

『私、兄さんのことが、好きです』

 それが綾が俺に向けて告げてくれた言葉の内容。ごく短く、率直なその言葉の意味と意図を、脳がうまく認識してくれない。というか、脳が認識するのを拒否しているような、そんな感覚があった。だけど、実際にはそんな感覚は一瞬で、次の瞬間には、その言葉の意味は流石に理解できていた。それは紛れもなく、異性への好意を告げる「告白」だったわけで。

 ああ、うん。
 いや、その。
 つまり、俺は、要するに。
 綾から、実の妹から、正真正銘、血の繋がった女の子から告白された、という事になる。

 その事実を理解した瞬間、俺の頭を駆け巡ったのは―――、

 え。
 えええ?
 えええええええええええええええっ!?

 そんな、ただひたすらに動揺と混乱を示す言葉の嵐だった。いや、我ながら情けないことだとは思うけれど、この時の俺の頭からは、そんな情けなさを感じている余裕なんか微塵もなかった。

 いや。
 いやいや。
 いやいやいや。
 ちょっと待て。ちょっと待て。ちょっと待って。頼むから

 一体誰に待てと頼んでいるのか自分でも分からないけれども、目の前の事態にすっかり冷静さを失ってしまっているのだけは自分でもよく分かった。心の動揺に比例するように、体の方も耳の辺りが熱くなっていったり、心臓が脈打つタイミングが早くなっていったり、全身に汗が滲んでいったりしているわけで。
 直前の綾の態度というか雰囲気から、こういう事態はうっすらと予感できていたはずなのに、しかし、実際に面と向かって告白されてしまうと、そんな予感は、沸き上がる狼狽を押さえるのに何の役にも立ってくれていない。「本当に、綾に告白された」という事実に、ものの見事に、俺は動揺して、狼狽してしまっていた。気を抜けば「ええ?!」と口をつきそうになる衝動をなんとか押さえ込んで、俺は懸命に「落ち付け」と自分自身に言い聞かせる。

 駄目だ。こんなのじゃ駄目だ、落ち着かないとっ。そうだ、ちゃんと落ち着かないと―――!

 そもそも、女の子に告白されて、狼狽するなんて情けない―――って。いやいやいや。違う、違う、違う。そういう事態じゃないはずだ、今は。うん。
 確かに告白されて、慌てふためくのは情けないけれども、でも、しかし、この場合は、仕方ないんじゃないだろうか。この世の中に、果たして、どれだけの数の兄妹や姉弟が存在するのかは知らないけれど、実の妹や弟から告白されて、硬直も、動揺も、狼狽もしない兄や姉が、そうそう居るとは思わない。というか、俺個人の常識と良識と倫理観を照らし合わせて考えてみると、動揺しない方が変だと思う。
 いや、弟や妹から「好き」と言われること自体は多いとは思う。「大好き」とか、はたまた「愛している」とか、ひょっとしたら「大きくなったらお兄ちゃんと結婚する」とか言われたことのある兄や姉も、きっと少なくないのだろう。うん、それはわかっている。だって、実際に俺は綾から何度も、何度も、その手の言葉を向けられたことがあるから。それに俺だって綾に何度も何度も「好き」って告げてきた。まあ、いつしか気恥ずかしくなって、きちんと言葉で告げる事なんて、もうほとんど無くなったけれど、それでもその感情はずっと俺の胸の中にあるし、その事を忘れることなんか無い。

 今までも、この今も、そしてこれからも。
 俺は綾のことが好きだし、とても、大切に思っている。それは、それだけは、俺の嘘偽らざる気持ちだった。
 でも、それは。その「好き」という言葉は、あくまで妹が兄に向ける「好き」という言葉であって、ただ素直な好意の発露のはずで。その好きって言う感情は。家族が家族に向ける、無邪気な感情の現れのはずだった。子が親に、親が子に、妹が兄に、あるいは兄が妹に向ける、とても素朴で、とても無邪気で。そして、とても……とても大切な感情の発露。

 でも―――。

     『私、兄さんのことが、好きです』

 今、俺が綾から告げられた言葉は、それとは、違う。今、向けられている妹の感情は「そういうものじゃない」。いくら鈍いって言われる俺だって、そのぐらいはわかっている。綾に連れられてきた公園。その中でも、父さんと母さんが結ばれた思い出の場所。その場所で告げられた「好き」という言葉の意味。それを取り違えるほど、いくら何でも鈍くはなかった。

 そう、わかってる。
 綾が、今、俺にくれた言葉は、俺に向けた好意は、「異性としての好意」だって、もう、わかってる。

 だからこそ、今、俺は動揺して、狼狽して、そして、何より綾に言葉を返せない。なんて言葉を返したらいいのか、わからないんだ。
 繰り返しになるけれど、この場所に連れられてきてから、この手を握られてから、そういう予感はあった。そういう予想はできた。だから覚悟して準備する時間も、僅かだけどあったはずだけど。でも、そんな覚悟は、やっぱり「まさか」という想いに打ち消されて、上書きされてしまっていて。だから、なんて答えればいいのか、何を伝えればいいのか、その思いが形になってくれなくて、ただ焦燥だけが頭をグルグルと回っている。

 なんで? なんで? なんで?
 告白された衝撃が突き抜けた後に、頭の中を勢いよく駆け回るのは、そんなフレーズ。綾が俺に告白をしたという事実自体は理解できても、その理由が理解できなくて、だからそんなありきたりな疑問符の群れが、胸と頭の中を慌ただしく駆け巡る。 

 そもそも綾は龍也のことが好きなんじゃなかったのか? 遊園地の時にそれらしいことを言っていなかったっけ? いや、遊園地と言えば、あれだ。あの時のキスはやっぱりそういう意味だったのか? いやいや、そもそもなんで綾が俺を好きになるんだ? 実の兄だっていう点を差し引いても(いや、一番差し引いてはいけない要素だとは思うのだけれど)、綾は俺のどこを好きになってくれたんだろう? つい先日の試験だって綾の期待に応えられなかったのに。そもそも、いつから綾は俺のことを好きでいてくれたんだ? というか、実の兄に告白なんてどういう踏ん切りがあったら実行できるんだ、普通。ああ、いや、綾は思い詰めたら思い切った事するよな、確かに。いやいや、今はそんなことを考えている場合ではなくて、そう、そういう問題ではなくて、大体、なんで―――、

 なんで俺は実の妹の告白に、『こんな風に』動揺してしまっているんだろう? 

 その疑問を自覚して、ずきり、と胸のどこかが痛んだ。 
 いや、繰り返すけれども動揺するのは無理はないと思っている。実の妹に、異性としての気持ちを告げられた上に、実のところ、女の子に告白されるのなんて生まれて初めてのことなんだから、狼狽えてしまうのは仕方がないって思う。でも、それでも、こんな風に動揺するのは変じゃないのか。だってこの場合、考えなくたって、悩まなくたって、返す答えなんか……決まっている。

 だって、兄妹の恋愛関係なんて、成立しない。

 近親相姦という言葉があるように、禁断の兄妹愛なんていうフレーズがあるように、小説や映画の中になら、物語の中になら、いくらだってありふれているテーマだけど、今、この国ではそんな関係、認められてなんか居ない。つまり、それは世の中で「間違った気持ち」として決められて、認識されている感情なんだ。だから、俺が綾に返せる答えは、どうやっても「拒絶」でしかあり得ない。そんなこと、考えるまでもなくて。だから、もし、俺が迷うことがあるとすれば、どうやれば上手く綾の告白を断れるか、その方法についてだけだろう。優しく諭すのか、厳しくはね除けるのか。あるいは、「冗談はやめろよ」って笑っていなしてしまうのか。そんな「拒絶の方法」について迷うのなら、まだわかる。でも、拒絶しなくちゃいけないってわかっているはずなのに、そんな拒絶を答えとして返して良いのかって、そんな風に迷っている自分に気付いて、強く心臓が鳴った。

 ……駄目だ、何、考えてるんだ。俺は。

 しっかりしろ、と自分自身に言い聞かせて、俺は深く息をすう。とにかく、この場をなんとか納めないといけない。その思いに、まだ混乱している思考を無理矢理に動かしていく。
 今後のことを考えるのなら、笑って冗談だったということにしてしまうのが、一番良いのかもしれない。「無かったことにして」にさえしてしまえば、家に戻ってまた今まで通りに、お互いにちょっとシスコン・ブラコン気味だけど、仲の良い兄妹としてやっていけるはず。だから、賢い選択肢というのなら、それが一番良いのだろう。でも―――。

『はいはい。俺も好きだよ、綾の事』『冗談だよな? あはは』『そう言うのは、止めような。心臓に悪いから』

 そんな、この場を誤魔化して、冗談に紛らわせるための言葉は、口に出せなかった。

「……」
 だって目の前には、無言のまま、俺の手を握って、俺を見つめて、俺の答えを待っている綾が、居る。

 もし、手を繋いでいなかったら。もし、その手から、綾の震えが伝わっていなかったら。
 もし、見つめ合っていなかったら。もし、綾の瞳が、涙に濡れていることに、気付いていなかったら。
 ひょっとしたら綾の告白を、「冗談だろ」って誤魔化して、あるいは上辺の言葉で濁してしまって、この場を取り繕うことはできたのかもしれない。

 でも、繋いだ手から、見つめた目から、告げられた言葉から、もう、伝わってしまっているから。 答えは、わからないままだけど、それでも。

「……綾」
 それでも、きちんと答えを返さなきゃ行けないって事だけはわかったから、俺はゆっくりと、大切な妹の名前を呼んだ。


/2.妹の気持ち(神崎綾)

 ついに。
 言っちゃった。
 ついに、ついに……ついに言っちゃった。言っちゃった、言っちゃった。
 うわあ、うわあ、うわあ。どうしよう、どうしよう、どうしよう。

『私、兄さんのことが、好きです』
 父さんと母さんの思い出の場所で、兄さんの手を握りながら、長年秘めていた想いを、とうとう兄さんに告げた。その瞬間から、私の頭の中は、もう、興奮と期待と、そして押さえきれない不安でぐちゃぐちゃになってしまっている。一瞬、視界もぼやけて、このまま気絶しちゃうんじゃないのかって思っちゃったぐらい。

 告白するって、こんなに大変なことだったんだ。想像はしてたし、覚悟もしていたけれど、胸の鼓動が収まってくれなくて、頭に血がのぼっちゃって、もう、どうにかなりそうだった。
 好きな人に、好きだって言うのって。大切な人に、想いを告白するのって、こんなに、こんなに大変なことだったんだ。今まで何人かの男の子に告白されてたことはあったけど、あの人達もこんな想いを我慢して、告白してくれたのかな。だったら、もっと優しくしてあげれば良かったな、なんて、とりとめもない考えが、茹だっている私の頭の片隅で浮かんで、消える。
 
 というか、告白なんていう儀式は、いったい誰が考えたんだろう。もうちょっと、楽に気持ちをつがえる手段があってもいいはずなのに、そんな方法をどうして神様は人間に渡してくれなかったのだろう。想いを告げるだけでも、こんなに勇気を振り絞らなくちゃいけなかったのに。その直後に、こうして答えを受け取らないといけないなんて。

「……っ」
 答え。その単語を意識した瞬間、ずき、って心のどこかが大きく軋んだ。
 そう。言っちゃったけど。告白しちゃったけど。言っちゃった以上は、告白しちゃった以上は、何かの答えは返ってきてしまう。

 兄さんは、兄さんは、なんて答えてくれるんだろう―――?

 その考えに、胸が壊れてしまいそうに揺れて、泣き出しちゃいそうなくらいに目頭が熱くなって、思わず逃げ出したい衝動に駆られてしまった。
 だって、私にだって、わかっているから。実の妹が、実の兄に告白するって事が世の中の常識から考えて、あり得ないことだってわかっているから。子供の頃に、肉親に抱く好意。ほとんどの人が、親や兄妹に抱くであろうその感情は、やがて異性に抱く感情とは区別されていく。それが自然だし、当たり前だし、そうでなくてはいけない。そんなこと、私にだってわかってる。だから、私が兄さんに向ける感情は、いけない感情。当たり前ではない感情。正しくないあり方で、だから間違っていて―――。

 誰よりも、目の前の大切な人を、ただ困らせてしまうだけの感情だってわかってる。

 だから本当は、迷ってた。佐奈に背中を押して貰っているときも、今日、この公園で兄さんとデートしている間も、ずっと……ずっと、心の奥底では迷ってた。
 告白なんかしちゃったら、兄さんを困らせるだけだってわかってたから。ひょっとしたら、嫌われてしまうかもしれないって思ってたから。だから、今までずっと、兄さんに迫ってはいたけれど、本当に最後の一歩は、踏み出せないでいたのかもしれない。

 でも、それでも、もう告げずには居られなかった。だって、もう我慢できなかったから。

 だって、みんなが変わろうとしているから。
 霧子さんと兄さんの距離が少しずつ近くなっていくのを目にして。会長さんが兄さんを名前で呼ぶようになって。なにより、兄さん自身が、美術部に入ろうとしたり、魔法の特訓をしたり、会長さんと魔力交換していたりして。みんながみんな、それぞれの関係を変えるように、頑張って、動き出しているのがわかってしまったから、だから、もう我慢ができなかった。
 わたしだって、生徒会に入ってみたり、兄さんに魔法を教えてみたり、みんなより頑張って動いてきたつもりだけど……でも、私は兄さんの妹だから。少しぐらいの頑張りなんかじゃ、あっというまに追い抜かれて、置き去りにされてしまう。

 だから。
 兄さんを困らせて、兄さんに嫌われて、兄さんに拒絶されてしまうことは、凄く怖いけど。兄妹の恋愛なんて、気持ち悪いって思われるかも知れないけれど。

 でも……でも。
 嫌われてしまうより。ただ何も出来ないままで、私だけが置いて行かれてしまうことが、もっと、怖くかった。私だけが、兄さんとの関係を変えることができないまま、変えようとしても変えられないまま、ただ置き去りにされてしまうことが、ずっと、ずっと怖かった。
 こんな想いは、こんな考えは、ただの甘えなのかも知れないけれど。ううん、きっと許されないぐらいの甘えなんだって、わかってるけれど。でも、私は―――。

「……綾」
「っ」
 小さく、でも、はっきりと私を呼ぶ兄さんの声。その声に、私は一瞬、震えて、自分の中に沈んでいた思考を戻す。

 視界の中にある兄さんの顔。生まれてからずっと一緒に居てくれて、困ったときには絶対に助けてくれる、大好きな兄さんの顔。その顔は、やっぱり強ばっていて、凄く困った表情を浮かべているのがわかった。そんな兄さんの表情に、言いようのない後悔と罪悪感が生まれて、私の胸を突き刺していく。

 やっぱり、困らしちゃった。やっぱり、言わない方が良かったのかな。やっぱり、こんな妹なんて、嫌いになっちゃったかな。
 そうじゃなくても、ひょっとしたら「冗談だろ」って笑われるだけで、終わっちゃうかもしれない。だって、これからを考えるのなら、それがきっと―――。

 そんな不安が私を押しつぶしてしまいそうになった、その時。兄さんが、私の手を少し強く握ってくれた。

「……あ」
 無言のまま、私を見つめる兄さんの表情。
 ほんのりと赤くなっていて、心なし汗も浮かんでいたりして、内心の動揺がはっきりと窺い知れた。でも、その目は、逃げないで私を見つめてくれている。困っているのに、焦っているのに、でも、真っ直ぐに。優しい目で、私を見つめてくれていた。
 
 ……そうだよね。
 
 その瞳に、思い出す。握ってくれている手の温かさに、知らされる。いつだって……いつだって、兄さんは、私のことを思ってくれているって。自惚れなんかじゃなくて、ちゃんとわかってる。その思いは家族としての思いだって、だって、わかっているけれど、でも、その思いに触れれば触れるほど、私の思いは溢れていってしまう。
 だから、その思いに浸りながら、私は兄さんの手を握り返して、そして、待った。兄さんが、どんな答えを返してくれるのか、分からない。まだ、怖くて、不安で、逃げ出したいって言う思いが消えないけれど、でも―――。

 兄さんが、私を思って一生懸命に返してくれようとしている答えを聞かないで逃げちゃうことだけは、絶対にできなかった。


/3.彼女たちの思い(桐島霧子)

「もう、終わった頃かしら」
「……どうでしょう」
 鬱蒼と木々の茂る小道を歩きながらの会長さんの質問に、私は気の入っていない声でそう答えていた。ちらり、と後ろに視線を向ければ、目に飛び込んで来るのは小道を覆い隠そうと茂る木々の葉と、それが落とす影ばかり。良の姿もなければ、綾ちゃんの姿も見えない。当然のことながら、二人が居るであろう泉も見えないし、あの静謐な場所に満ちていた水音さえももう聞こえないでいた。

 要するに綾ちゃんの告白現場から、私と会長さんはそそくさと撤退している最中だったりする。しかも、良の返事を確認しないままに、だ。

 『私、兄さんのことが、好きです』
 あの場所で、綾ちゃんの台詞を聞いた瞬間、心臓がはねて、血の気が引くのがわかった。反射的に駆けだして、そして「駄目っ」って声を上げそうにもなった。でも、私はすんでの所でそんな衝動を押し殺して、そして隣で硬直している(ように見えた)会長さんに、努めて小さな声で囁いたのだった。『会長。もう、行きましょう』って。

 妹が兄に告白するなんて。そして、兄がその気持ちを受け入れるなんて。そんなこと認められていないから、止めなくちゃいけない。それはわかっているけれど、あの綾ちゃんの表情を見てしまったら、あの綾ちゃんの声を聞いてしまったら、今だけは邪魔をしてはいけないって、そう思ってしまった。だから、会長さんに誘われるままに尾行を続けていた私だったけど、肝心の瞬間を最後まで見届けることなく、こうしてコソコソと家路を急いでいるわけである。幸いにして会長さんの魔法によって離れた位置からのぞき見していたわけで、きっとあの二人には気付かれては居ないだろうと思う。だから、この尾行は結局、良と綾ちゃんにはばれては居ないはず。居ないはずなのだけれど……ホント、何してるんだろうなあ、私ってば。

 今日の行動を振り返って軽い自己嫌悪に襲われて、そしてやっぱり告白の結果が気になって、後ろ髪を引かれる思いに溜息が零れた。そんな私に、傍らの会長さんはなんだか面白がるような微笑みを浮かべてみせた。

「ふふ。やっぱり見届けたかったのね。桐島さんは」
「本音を言えば、そうです。やっぱり気になりますから。会長こそどうなんですか?」
「それは勿論、気になるわよ」
「でも、その割にはあっさりと引いてくれましたよね?」
 そうなのだ。今日の目的を台無しにするような私の提案に、会長さんは「そうね。行きましょう」って、意外なほど、あっさりと頷いてくれた。正直、あの場所で一悶着、起してしまうかも知れないって覚悟していたぐらいなのに。
 でも、会長さんはどうしてあっさりと引き下がってくれたのか、分からないままだった。そもそも今日の尾行の発案者は会長さん自身であり、しかも篠宮先輩に怒られてなお、良と綾ちゃんのデートの尾行を強行したはずなのに。今までの会長さんの行動から考えると、少し彼女らしくないようにも思える。そんな疑問を口にした私に、会長さんは、小さく肩をすくめた。

「多分、桐島さんと同じ理由よ。二つともね」
「え? 二つ、ですか?」
「ええ。まず一つ目の理由は、綾さんよね。あんな綾さんの表情を見ちゃうと、ね。流石に邪魔は出来ないわよ」
 そう言って会長さんは小さく息をついた。それは確かに私と同じ理由。だけど、会長さんの言葉だと、他にもう一つの理由があることになる。それは何かと、目で問い掛ける私に、会長さんは一瞬、考える様な表情を浮かべてから、やがて悪戯っぽく微笑んで言った。

「言ったでしょう? 理由は二つとも桐島さんと同じだって」
 だから言わせないでね、って、笑う会長さん。そのからかうような笑みは、いつもの彼女のものであるように見えて……でも、少し違って見えた。

「珍しいですね」
「あら、何が?」
「会長が、答えを誤魔化すなんて」
「そうかしら。いつもこんな感じじゃない? 私って」
「そうかもしれません」
 彼女が私や良をからかうために、答えや言葉をはぐらかしたりするのは、確かにいつものことだと思う。でも、やっぱり違うと感じて、私はなおも言葉を重ねた。

「でも、答えたくないからっていう理由で答えを誤魔化すのは、珍しいと思います」
「あら、言うじゃない。知らない間に、桐島さんは鈴に似てきてしまったのかしら」
 少し挑発が過ぎたかな、と思わなくもない私の台詞に、しかし、会長さんは気を悪くした風でもなく言ってから、少し考え込むように目を伏せる。そして一拍の沈黙を挟んでから、視線を上げた彼女の目に浮かんでいたのは―――

「確かにらしくないわね。自分でもびっくりしてるのよ。実は」
 本当に会長さんにしては珍しい困惑の表情だった。いつも自分の言いたいことははっきりと、かつ堂々と告げる会長さんなのに、今、私の目の前にいる会長さんは、確かに何か感情を持て余しているように見えた。

「綾さんが告白するなんてわかっていたのに。その時に何かをすべきだってわかっていたのにね。実際の所は、見届けることすら出来ずに、ここにいるなんて。本当に……なんなのかしらね?」
 自分自身にとぼけるように呟きながら、会長さんは視線を背後に向ける。その視線の先にあるのは、あの二人の告白の情景のはず。ここからは見えないその光景を見つめる会長さんの表情に、私はようやく、彼女が「私と同じ」と言っていたもう一つの理由も、その理由を彼女が言いよどんでいる訳にもようやく気付くことができたのだった。
 確かに、それは私と同じ。確かに綾ちゃんの邪魔をしてはいけないという想いはあるけれど、理由はそれだけじゃなくて。会長さんも私と同じように……良が答える瞬間を見ていたくないって、きっと、そう思ってしまったんだと思う。
 だって、もし。そんなことは、無いって思っていても、でも万が一にでも―――良が綾ちゃんの気持ちに頷いてしまうようなことがあったら。そして、そんな光景を、こんな形で覗き見てしまったら。

 そんなこと、想像するだけでも、苦しくて息が詰まる。そんな私の様子を知って知らずか、会長さんは独り言のように呟いた。

「良さんはどんな答えを返すのかしらね」
「……大丈夫です」
 大丈夫? 大丈夫って何が何が大丈夫なんだろう。
 言ってから、私は自分の言葉に自問していた。自分で口にした言葉の意味を考えるなんて間が抜けているような気がするけれど、それでもこぼれ落ちた言葉は、きっと私の本心だろう。

「大丈夫って、良さんが綾さんの告白を断るっていうこと?」
「それは……わかりませんけど」
 少し怪訝そうに小首を傾げる会長さんの問いに、私は考えながらそんな風に答えを返した。
 良のことは信じているし、良が安易に流されたりしないって思っているけれど。でも、綾ちゃんのことを、きっとなにより大切に思っているあいつのことだから、本当の所、どんな答えを考えて返すのか、想像が付かない。

 良と綾ちゃんの関係。兄妹であり、そして命を繋ぐ関係。その後者の関係があまりに重すぎて。なのに綾ちゃんが良に向ける感情があまりに純粋すぎて。私が良の立場だったら、本当にどんな答えを返すのかわからない。良自身は感情と理性を秤にかけて、理性の方に重きを置く性格だと思う。でも、本当に大事なときには感情を優先させることがある。だから、良がなんて答えるのか、本当のところはわからないけれど。でも―――。

「でも、良は、きっと」
 どこか抜けているところがあって、今回の試験だって失敗しちゃったりして、空回りすることだって多い奴だけど、でも、きっと。

「あいつは、多分、なんとかすると思います」
 抜けていても、頼りなくても、でも、こういう時にだけは、あいつは逃げたりなんかしないから。去年の会長さんと龍也の1件だけじゃなくて、そもそも中等部時代に龍也との件だって、そうだった。だから、今度もきっと逃げずに何とかしようとしているはず。その事だけは、今、あいつを目の前に見ていなくて、確信をもって言い切れる。それが、わかっているから。だから、私も考えないといけない。私が良のために……いったい何ができるのかっていうことを。

「……そうね。私もそう思うわ」
 『思う』っていうだけの無責任きわまりない筈の私の言葉に、でも、会長さんはからかうことなく素直に頷いてくれた。

「良さんって、頼りにならないくせに、変なところで頼りになる人だものね」
 褒めているのか、貶しているのか、曖昧な言葉。でも、今の会長さんなら、きっと褒めているんだろうなって、そう思った。

「でも、あの場面を上手く切り抜けられるとは思わないけど。どうするのかしらね」
「切り抜けられない、ですか?」
「ええ。だって、良さんは不器用だもの。上手くいなして、その場を乗り切るなんて器用なこと、あの人には無理よ」
「……そうですね」
 言われてみれば、確かに、と頷かざるを得ない。何とかしようとするし、何とかするんだろうけれど、でも優柔不断な癖に、変なところで頑固だから、きっと綺麗になんて切り抜けられないだろう。……本当、要領悪いなあ、あいつ。まあ、私もだろうけれど。

「良のこと、よく分かってるんですね。会長って」
「ふふ。だって、良さんにそんなことができるんだったら、私に振り回されたりしないでしょう?」
「振り回している自覚、あったんですか?!」
「あら、無自覚だと思ってたの?」
 しれっと言い放って、会長さんは愉しげに目を細めた。その表情は、いつものように悪戯っぽい笑みを湛えていて……そして、ほんの少し、何かを慈しむような優しい色が滲んでいるような気がして。

「そんな彼だから、きっと―――」
 その優しい表情のままに会長さんが呟いた言葉は、新緑の中に吹く風に紛れて、最後までは、私の耳には届かなかった。


/4.二人の気持ち(神崎良)

 答えを返せないままに言葉を探して、果たして、どのぐらい時間が経ったんだろう。
 情けない兄の手を握って、じっと答えを待ってくれている妹。その目を見つめて、俺はもう一度、ゆっくりと口を開いてその名前を呼んだ。
 
「綾」
「……うん」
 緊張に乾いた俺の声に、綾が小さく震えたのがわかる。でも、俺を見つめる視線は逸らさない。そんな綾の瞳に浮かぶのは、期待と不安と、多分、両方の感情なんだと思う。

 ……本当に、本気で、兄に告白したんだよな、こいつは。
 綾の表情から、改めてその事実を思い知らされて、俺は深々と息を吐き、絞り出すようにして胸の中の想いを言葉に変える。

「あのな、綾」
「う、うん」
 何を返すことが正しいのか。どうやって応えることが賢いのか。混乱しながら、それでも懸命に考えてみたけれど、正直、それは分からないままだった。だから、せめて正直に、俺は自分の心の中の気持ちを、形にして返す。

「とりあえず……」
「と、とりあえず?」
「お前がバカだと言うことは、よくわかった」
「ば、バカ?!」
「うん。バカだ」
 我ながら不躾な言葉に、綾が面食らったような声を上げた。うん、本当に不躾というか、あんまりな台詞だとは思う。告白への返事として相応しくない言葉なんだろうとは十二分に分かってはいるのだけれど、でも、綾の告白に対して俺が抱いた紛れもない正直な感想だった。

「実の兄貴に告白するような妹を、バカと言わずになんて言えば良いんだ」
「う、それは……だって」
 俺の言葉に泣きそうになって、それでも、綾は気丈に何か言い返そうとする。そんな妹の言葉を遮って、俺はその手を強く引いた。

「え―――?」
 戸惑う声を零しながら、手を引かれるままに綾は俺の方へと倒れ込み、そんな妹を俺は胸の中に抱き留める。

「え、あ、あれ?」
 正面から二人で抱き合う形になって、綾の口からは戸惑いの声が零れた。そんな妹をあやすように、俺は胸に抱えた頭にそっと手を添えて、できるだけ優しく、でも少し強く抱きしめた。
 抱き留めた体は、少し強ばっていて、そして小さく震えている。手を握っている時よりも、ずっと、綾の感情が伝わってくるような気がして、だから、綾の気持ちがより強く分かる気がして、胸が締め付けられるように軋む。そんな胸の痛みに、俺の口からはゆっくりと言葉が零れ落ちていった。

「……本当に」
 こんなに緊張してるくせに、こんなに不安な癖に、こんなに怖がっている癖に。その感情を押し切って、それでも実の兄に告白するなんて。

「本当に、馬鹿だ」
「……兄さん」
 告白してくれた女の子に、馬鹿だって繰り返すのはどうかしているのかもしれないけれど、でも、言葉が押さえられないでいた。優しい言葉も、穏便な台詞も、口をついてくれなくて。妹の告白に、俺は何度も「馬鹿だ」って、零してしまった。だって、他にどういえばいいのか、分からない。

 兄妹の恋愛なんて、そんな事は駄目で、認められるはずなんて無い。何度も頭を巡るその考えは、わかりきったことで、当たり前のこと。そんなことは、俺だけじゃなくて、誰だって分かっていることだ。だから―――だから、綾自身がそんなこと分かっていないはずがなくて。きっと、そんなこと、嫌って言うくらいに、分かっているはずなのに。

 それでも。
 それでも、こいつはこうやって、その気持ちを、俺に告げてくれた。

 その事実に、その想いに、どうしようもないくらいに、息が詰まる。

 誰かを好きだって言う気持ち。
 その気持ちがとても大切なものだってわかってる。でも、それでも、それは免罪符にはならないってわかってる。

 『愛さえあれば、すべてが上手くいく』
 『世間の目なんて気にしなくても、二人の気持ちが本物ならそれでいい』

 例え、それが綾が求めている台詞だとしても、そんな無責任な台詞なんて言えない。言ってはいけない。
 好き嫌いって言う感情とは別に、やっちゃダメなことと、やらなくちゃダメなことがあるわけで。駄目なことは駄目。悪いことは悪い。好き嫌いとは別の次元で、守らないといけないことがある。だから、本当に、妹のことが大事なら。本当に、綾の未来を思うなら。ここで綾を叩いてでも、その想いを諫めることが、きっと兄として当然の行為であって、責任だと思う。

 今、傷つけることになっても。その傷はいつかは癒えるから。
 今、傷つけることを恐れたら、いつかはもっと深い傷を、俺たち自身に刻んでしまうだろうから。だから、今は、綾を突き放さないといけない。

 それが普通で、当たり前で、正しい行為のはずだった。それは分かってる。分かっている。分かっている筈なのに―――。

「本当に、馬鹿だな、俺たち」
「え?」
 そう。
 報われないって知っているのに、正しくないって分かっているはずなのに告白した綾が馬鹿なんだったら。兄として当然の行為も責任も、頭では分かっているのに、その普通で当たり前のことができない俺も、きっと同じぐらい、いや綾よりもっと馬鹿なんだろう。

「こういう時は怒らなきゃいけないんだよ、普通は」
「……兄さん」
 胸の中で抱きしめられたまま、綾が小さく俺の名前を呼んだ。辛そうで、少し嬉しそうで、でも、僅かに涙のにじむ妹の声。その声に滲む微かな喜色は、やっぱり実の兄から即座の否定を突きつけられなかった事への安堵が理由だろうか。そう思うと、胸の奥がますます締め付けられて、痛んだ。当たり前と言えば、当たり前だけど、やっぱり綾も、不安で仕方なかったんだろうって、そう思ってしまうから。
 ……本当に、こいつは、馬鹿だ。
 綾を抱きしめながら、綾を髪を撫でながら、綾の気持ちを感じながら、やっぱり、どうしようもなくそう思ってしまう。

 兄に告白して受け入れられるなんて、普通に考えてありえないのに。それ以上に、俺としか魔力交換ができなくて、俺との関係がこじれたら、命に関わるかもしれないって言うのに。
 そもそも綾は、命を粗末にする人間じゃない。父さんと母さんが亡くなった事故から、世界樹の葉を怖がるようになったみたいに、ちゃんと死が避けるべきものだってわかってる。そう、怖くないはずがないんだ。恋心で、命を無視できるような、そんな、そんな娘じゃない。なのに、それでも、綾は。俺の妹は、今の関係を壊すことの意味を、その危うさをわかった上で、俺に想いを告げたんだ。

 それが、どれだけ勇気のいることなのか、わからない。
 好きな女の子がいて、今の友達という関係から、先に進むことさえ勇気が出せていないままの俺なんかでは、想像も、できない。

『傷つくことを怖がっていない』

 頭の中に、そんな言葉が浮かぶ。それは、確か佐奈ちゃんから相談を受けたときの言葉だっただろうか。考えてみれば、あの時の佐奈ちゃんはきっと綾の事を言っていたんだろう。だから、少なくともあの時には綾の俺への気持ちは、友達に漏れてしまうぐらいには形になっていたということになる。じゃあ、こいつは、一体、いつからこんな気持ちを抱えていたんだろう。


例えば、それは、綾が生徒会に入ったばかりの頃。

『変だよ、私』
『今日だけじゃなくて、もともと、変なんだから。私』
霧子に誘われて美術部に入るといった俺に、急に怒り出した綾が言い放った言葉。

『ずっと、変で。多分、これからも変なんだから』
ひょっとして、あの時から、ずっと綾は自分の気持ちが普通じゃないって思っていたのか。普通じゃないって、わかっていて、それでも、『これからも』って言っていたのか。


例えば、それは、遊園地の天国への門の中。

『こうしてると、なんだか……その、えーと、こ、恋人みたいだよねっ』
雲の彼方に浮かぶ塔の上で、はにかむように言った言葉は、綾の押さえきれない願望の欠片だったのか。

『兄さんは……平気? 私が誰かを好きになっても平気なの?』
塔の上、「好きな奴がいるのか」と問い掛けた俺に、そう返した綾は、どんな気持ちで。

『……いるよ。いるよ。好きな人』
 あの時、こいつはどんな思いを押し殺して。

『えへへ……間違えちゃった』
 医務室で唇が触れたとき、どんな想いで、俺に微笑んでいてくれたのか。


 もしそうなら、それはどれだけ辛いことだったんだろう。正直なところは、俺にはわからない。でも、想像するだけで、胸が押しつぶされそうに疼いた。綾のことを何より大事だって思っていた癖に。綾の事を守るって、そう誓っていたのに。なのに、妹が一人で悩んで、苦しんでいたことに気付いてやれなかったことが、悔しくて。

「……ごめんな」
「え?」
「今まで、気づいてやれなくて、ごめん」
 謝るのは、違うのかも知れない。でも、違うって思っていても、言葉は止められなかった。
 気付いてやれたら。きっとこんなに綾を苦しめなかったのに。いや、結局は苦しめる事になったのかも知れないけれど、それでも、もっと早くに、気付いてやれてたら、せめて、綾と一緒に悩んでやることぐらいは出来たのに。こんなに震えながらの告白なんて、させなくて済んだかも知れないのに。
 そんな気持ちに、自然と綾を抱きしめる手に力がこもってしまったのかも知れない。胸の中で綾が少し身じろぎして、額で軽く俺の胸を叩いた。

「兄さん、ちょっと苦しいよ」
「ごめん」
「もう、兄さんは……ふふ」
 苦しいって言いながら、でも甘えるような声で笑って。そして、次第に滲む涙を隠すように、綾は俺の背中に回した手に力を込めて、強く胸に顔を埋めた。

「やっぱり、兄さんは優しいね……大好き」
「馬鹿。だから、そういう事を言っちゃ駄目なんだぞ」
「そんなの知らない。だって、馬鹿だもん。私」
 冗談めかした言葉と、胸を伝わる涙と吐息。それを感じて、俺は胸の中で、「ごめん」って繰り返してしまう。鈍感でごめんって。そして、駄目な兄貴で、ごめん、って。

 諫めないといけない。
 否定しないといけない。
 突き放さないといけない。
 怒って、叱って、ちゃんと正さないといけない。そんなこと、分かってる。頭では、理性では、ちゃんと、分かってる。

 でも、だけど、感情が言うことを聞いてくれない。
 いけない事だって、辛い事だって、不毛なことだってわかりきっていたはずなのに。そんな想いを、一人で、ずっと、ずっと抱えて、そして積み重ねてくれた綾が―――。

どうしようもなく、愛しいって、そう思ってしまう。

 そんな自分の感情を自覚して、胸の中にあふれる感情の渦に息が出来なくなる。

 妹の気持ちに、応えてはいけないっていう事実が、苦しくて。
 そんな綾の気持ちに気付いてやれなかったことが、悔しくて。
 なのに、そんな綾の気持ちが、どうしようもないくらいに、やっぱり愛しくて。

 そんな気持ちの奔流に押し流されながら、でも、俺は何とか綾に向かって、言葉を絞り出す。

「あのな、綾」
「……うん」
「ちゃんと、今の気持ち、言うから。聞いてくれるか?」
「うん……」
 そう前置きして、抱きしめていた腕の力を弱めた。ひょっとしたら、顔は上げてくれないかと思っていたけれど、でも綾は涙の後を軽く指で誤魔化して、そして俺の方を見上げてくれた。
 息のかかる距離にある綾の顔。涙と、不安と、期待に揺れている瞳を見据えて、一度、息を吸い、そして俺は自分の中の想いをゆっくりと言葉にしていく。

 正直、まだ気持の整理がつかない。
 なら、言うべきじゃないのかもしれない。でも、何も言わないことだけは、してはいけない。そう思ったから、言葉を上手く選べないかもしれないけれど、俺は言葉を振り絞る。ぐるぐると巡る思考の中で、ぐらぐらと揺れる感情の中で、これだけは伝えたいと思った気持ちを、拾い上げて言葉に変えた。

「あのな、綾の気持ちは、その、すごく驚いたけど……嬉しかったよ」
「っ!」
 その言葉に、綾の表情が目に見えて輝いて、一瞬、その体が跳ねた。

「ほ、本当?! い、嫌じゃ、ないの……?」
「嫌じゃない」
 声を喜色に震わせながら、それでも信じられない様子で俺を見つめる綾に、俺はそう応えて頷いた。
 そもそも嫌だったらこんなに困ってない。いや、まあ嫌だったら、嫌だったで、また違う悩みがあるんだろうけれど。どちらかと言えば、それは健全な悩みであって、妹の本気な告白に「嬉しい」なんて本音を返してしまう兄貴よりも、非常にまっとうな悩みだと思う。

 というか、今の返事で目を輝かせる妹を見て、可愛いとか思っている自分は心底どうかしているんだろう。本当……、何やってんだろうな、俺は。
 散々、ブラコンだ、シスコンだって、揶揄されてきたけど。嫌って言うほど、思い知らされる。綾の泣き顔を見るぐらいなら、禁忌の一線を踏み越えても構わないという自分が、確かに自分の中にいるのかもしれない。

「じゃ、じゃあ……」
「だから、凄く困ってる」
「え?」
「綾に好きって言われて嬉しいけど。でも、その気持ちがなんなのか、まだよくわからない」
「……そう、なんだ」
 喜びから一転して露骨に沈み込む綾の表情に、ずきりとした痛みが、胸の奥に突き刺さる。

 でも、それが俺の素直な気持ちだった。
 綾に告白されて嬉しいという気持ちが、綾に抱いた愛しさが、それが、異性に対するものなのか、正直、わからない。少なくとも、綾に向けるこの感情が、好きな女の子に……霧子に向ける感情と同じ種類のものなのか、と言われれば、違うような気もする。でも、だからといって、どちらの感情が大事か、と言われても、きっと俺は答えられない。佐奈ちゃんに答えた事があるけれど、家族としての感情が、恋人に向ける感情よりも小さいものだなんて、思えないから。

 でもその感情はやっぱり、どこかで区別しないといけない。
 それに、もし本当に俺が綾に異性としての好意を抱いていたとしても―――それは、あいつに抱いている好意よりも大きいのか、わからなくて。だから、今はまだ綾に答えを返せない。
 
「それに、告白されたなんて初めてだから、今、冷静になれなくてさ。だから、月並みな返事になっちゃうけど……その、考える時間が欲しい」
「冷静に考える時間が欲しいってこと……?」
「うん、まあ、そういうこと」
「……やだ」
「え?」
 短く、でもはっきりとした拒絶に、俺は思わず戸惑いの声を零す。多分、きょとんとした表情を浮かべている俺に、綾は少し頬を膨らませて、首を左右に振った。

「やだ。そんな時間なんてあげない」
「いや、やだって」
「だって!」
 強く言ってから、綾は躊躇いがちに目を伏せて、そしてどこか拗ねるような口調で呟いた。

「だって、冷静になったら、兄さん、ちゃんと答えをだしちゃうもん」
「あのな」
「お願いっ。冷静になんてならなくてもいいから、間違ってもいいから……」
 泣きそうな声で、俺に縋る綾をみて、少し、心が揺れる。頼むから、そういうのは止めて欲しい。今、俺は冷静じゃないっていっているのに、そういう表情を見せられると、押し切られそうになってしまう。

「嘘でも……良いから、答えが、欲しいよ……兄さん」
「……綾」
 泣くような、甘えるような綾の懇願。そんな畳みかけるような妹の懇願に、思わず頷いてしまいそうになる感情を押しとどめて、俺はその願いをなんとか拒絶した。

「駄目だ」
「兄さんっ」
「お前のことで、ちゃんと答えを出さなかったら、俺は一生後悔する」
「……」
 妹の告白に驚いて、戸惑って。あげく、嬉しいなんて言ってしまう兄だけど。頼りなくて、優柔不断って言われる俺だけど。でも、そこだけは、絶対に譲ってはいけない。綾がずっと抱えてくれた想いに、その場しのぎの返事なんて返せない。だから、酷いかも知れないけど、今はまだ……ちゃんとした答えを渡せない。

「だから、頼む。少しだけ……待って欲しい」
「でも……」
「あのな、綾」
 俺の頼みに少し口籠もって、綾はそれでもまだ反論しようとする。そんな綾を諭すように、俺はそっと綾の髪を撫でた。そして、綾の気持ちを完全に分かるなんて言えないけれど、少しでも綾の不安が消えるようにって願いながら言葉を続けた。

「絶対に、独りぼっちになんかさせないから」
「あ……」
「どんな答えを出しても……絶対、お前の傍にいるから」
「……そんなの、保証、無いじゃない」
「あるよ」
 拗ねるような、縋るような綾の呟きに、俺はその瞳を見つめて、強く言い切った。

「俺は絶対に、お前の前から居なくなったり、しない」
 あの日から。
 もう二度と、父さんと母さんに会えないんだってわかった、あの日から。

 ずっとこの胸に抱いていた誓いを、父さんと母さんが結ばれたって言うこの場所で、俺は言葉に変える。

 綾の告白に、悩んで答えを返せない俺だけど。
 この先、俺が綾の告白を受け入れても、拒絶しても。そして例え、綾が俺のことを嫌いなっても。

 今、この場で誓った想いだけは、変わらない。

「だから、少しだけ待って欲しい」
「……うん。わかった」
 その思いがどこまで通じたのかはわからない。でも、しばらくの間を置いて、綾はゆっくりと口を開いて、そして頷いてくれた。

「わかった……じゃあ、待つね」
「……うん。ありがとう」
「でも、そんなに長いことなんて、待ってあげないからね」
「わかった」
「答えがなかったら、その……告白は成功したって見なすからね?」
「……普通は逆じゃないのか、それは」
「成・功・し・た・っ・て・見・な・す・か・ら・ね」
「はいはい。わかりました」
「よろしい」
 俺の返事に、そう言って綾は、笑ってくれた。どこか嬉しげで、どこか寂しげで、無理をしている笑顔だったけど。でも……笑ってくれた。

 その笑顔に、胸が疼く。
 その胸のうずきの理由をはっきりさせることが、きっと俺の答えになるんだと思う。そして、それが綾にちゃんと笑顔でいてもらえるために必要なことなんだって、思う。

「じゃあ、帰ろうか。綾」
「うん……でも、もう少しだけ、このままでいたいな」
「……そっか」
「いいの?」
「いいよ」
「ん、ありがとう。兄さん……ごめんね」
「……俺こそ、ありがとう」
「……うん」
 そんな言葉を交わして、俺たちはしばらく、両親の思い出の場所で、二人抱き合った。

 /

 想いを伝えてくれた妹に、答えを返すことが出来ないまま。
 それでも、綾を守りたいという思いだけは、綾の傍にいたいという気持ちだけは、心の底からの本心だって確かめながら。

 神崎家の兄妹にとっての長い一日は、こうして一応の、終りを告げたのだった。

続く

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