/0.告白の夜に。(神崎良)
綾とデートして、そして告白された。
その夜は、流石に眠りにつけなかった。俺のことを好きだって告げた綾の顔と、綾の声。目に、耳に、焼き付いて離れない妹の姿が、閉じたまぶたの中で、何度も何度も浮かんでは消えていく。
ひょっとしたら、今日のことは夢だったんじゃないだろうか。眠りに落ちることができないまま、夢とうつつの境目で寝返りをうっていると、ふと、そんな事すら思ってしまう。
あまりに現実感のない、妹からの思い。でも、それが夢だったら良いのに……とは、思えない自分に、ため息が出る。
自分の気持ち。綾の気持ち。
レンさんのこと。父さんのこと。母さんのこと。
好きな子のこと。親友のこと。先輩のこと。後輩のこと。
これから先どうしたいのか。どうするべきなのか。どうしたらいいのか。
考えれば考えるほど、違う思いが次々に浮かんできて、ぐるぐると巡る思考に押しつぶされそうになってしまう。
これからどうしたらいいのか。綾の想いにどうやって答えたらいいのか。正直、まだ答えは出ていない。でも、どんな形にせよ、俺は俺自身の答えを出さないといけなくて。だから、結局の所、俺の心の問題なのだと思う。
綾は俺に気持ちをくれた。悩みに悩んだ末に、あいつなりの答えを俺に手渡してくれた。だから、今度は俺の番。だから、俺も悩みに悩んで、ちゃんと決めないといけない。誰も傷つかない答えが、誰をも守れる答えがあるのならば、それに越したことはないのだろうけれど、きっと、そんな都合のよい解答は、神様でもない限りは手に入れることはできないと思うから。
だから、決めないといけない。
俺は、何を一番守りたくて。そして……何を、多分、傷つけるのか、を。
/
でも、本音を言えば。
できるのなら、大切な何かを守るためにでも、何も傷つけたくないなんて、そんな都合のよいことを、まだ考えてしまっている自分もいた。
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魔法使いたちの憂鬱
第三十三話 告白の後に
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/1.告白の翌朝に。(神崎良)
チリリリリ、と聞き慣れた目覚まし時計の金属音に、浅い眠りに浸っていた意識が、現実へと引き戻された。
「……ん。朝、か」
小さく呟いて重い瞼を開くと、カーテンの向こう側から朝の日差しが眩しいほどに差し込んできていた。空が白んでいくまでは意識があったけれど、それでもいつの間にか眠りに落ちてしまっていたらしい。
「1時間ぐらいは寝たのかな」
あくび混じりに呟いてから、腕だけを枕元へと動かして目覚まし時計を止める。全身を軽い倦怠感が包んでいるけれど、一睡もできていないよりはマシなのかもしれない。ぼんやりとそんなことを考えながら、体を起こそうとして。
その時、ふと、違和感に気付いた。
「え?」
布団の中、明らかに自分以外の温もりがある。というか、思いっきり隣から、スヤスヤと形容したくなるほどに穏やかな寝息が聞こえている気がする。いや、ばっちり聞こえている。そんな真横で感じる人の気配と温もりに、寝不足の頭が急速に覚醒していく。
「まさか……」
恐る恐る、という思いで布団に横たわったまま、ゆっくりと首を横に向けると、果たしてその予想の通り。そこには俺に寄り添うようにして眠りこけている穏やかな妹の寝顔があった。
「って、なにしてるんだ! 綾!」
「んー?」
引きつった叫びを上げて、布団から飛び起きる俺に、当の綾は半分以上、夢の世界に足を突っ込んでいますという表情でぼんやりとした視線を向けた。
「あ、兄さんだー」
「兄さんだ、じゃないだろ?! なにしてるんだ、お前はっ!」
「んー? えーと?」
「……」
「おはよー。兄さん」
「お、おはよう。って、そうじゃなくて!」
「んー……」
「……」
「えへ」
「えへっ、じゃないっ!」
何やら可愛くはにかむ妹から布団をひっぺがすと、俺は兄の布団に潜り込んでいる妹の頭を勢い良く叩いた。いつもは寝起きの悪い妹も、流石に頭を叩かれると意識がはっきりとしたのか、元気よく抗議の声を張り上げた。
「いったーいっ! もう、何するのよ、兄さん!」
叩かれた頭をさすりながら身を起こして、不満気に唇を尖らせる綾に、俺は動揺を押し殺しながら声を上げた。
「それはこっちの台詞だ!」
「兄さん。朝から興奮するのは良くないんだよ?」
「誰のせいだ、誰の。そもそも、お前は一体何をしてるんだ?!」
「何って」
当たり前すぎる俺の指摘に、綾はきょとんとした顔をした後、一度、目を瞬かせて。
「……えへ」
再び、はにかんで、頬を赤らめた。
「あのな……なんで赤くなってるんだ、お前は……」
「なんでって。もうっ、女の子にそんなこと言わせないでよ」
綾はそう言って恥ずかしそうに、布団を引き寄せて口元を隠す。正直、その仕草を可愛いと思わないでもないけれど、でも、今はそんな風にシスコンぶりを発揮している場合ではないわけで。俺は平静さを保つように咳払いを一つしてから、綾の肩に手を置いた。
「……あのな、綾」
「何?」
「『何?』じゃない! だから、一体何のつもりなんだ、お前はっ」
「何のつもりって……」
なんでそんなことを聞くのかと言わんばかりに、綾は真顔で首を傾げる。
「勿論、兄さんの返事を聞きにきたの」
「返事……って、え?」
「でも、兄さんったら寝てるんだもん。起こすのは可哀想だから、待ってたら寝ちゃった」
「寝ちゃったって……」
だからって、兄の布団に潜り込むんじゃありません。って、いやいや、問題はそこじゃなくて。
「答えって。答えはもう少し待ってくれって言っただろう? 昨日」
「うん」
戸惑う俺の声に、しかし、綾は至って真面目な顔で頷いた。
「だから、待ったでしょう? 一晩」
「いやいやいやいや」
何を言ってるんだ、こいつは。
冗談抜きで俺と綾の人生を左右するかもしれない決断を一晩でしろっていうのだろうか。
「あのな、答えなんか出てないぞ。昨日の今日じゃないか」
「むー。じゃあ、どれだけ待てばいいの?」
「う。それは……」
痛いところをつかれて思わず俺は口ごもる。なるべくなら、できるだけ引き伸ばしたい気もするけれど、それもできないだろう。いつまでも綾の気持ちを宙ぶらりんにさせておくわけにはいかない。でも、だからといって、「じゃあ、三日後に」、なんて明確な期限なんて示せるわけもないんだけど。
いや、でも、そもそも「答えがなかったら、告白は成功したとみなす」とか怖いこと言ってたしなあ、こいつ。
「えーと、だから、ともかく、もう少し」
「そんな曖昧な時間の指定はダメです」
我ながらあいまいな俺の返事を間髪入れずに遮って、綾は人差し指をフリフリと振って見せた。
「世の中には、「もう少しだけ」と言っておきながら、延々と続くお話なんて一杯あるんだからね」
「いや、まあそうだけど」
漫画や小説と、現実を同じように語らないでほしい。とは言うものの、さて、どう答えたものか、と頭をひねる。と、そんな風に考え倦ねている俺の顔を不満そうに見つめていた綾は、不意に一転して、悪戯っぽく笑みを零した。
「なーんてね。冗談だよ、兄さん」
「へ?」
思わず間の抜けた声を漏らす俺に、綾は優しい笑みを向けていた。
「私だって、兄さんを困らせてることぐらいわかってるもん。だから、兄さんが待てっていうなら待つよ」
「そ、そっか……ごめん。なるべく待たせないようにするから」
「ううん、いいよ。大丈夫。兄さんのこと信じてるから」
そう言ってベッドから降りようとする綾に、俺は軽く胸を撫で下ろす。
だけど、それと同時に今度は違う懸念が頭に浮かぶ。結局の所、こいつは何をしに来たんだろうか。本当に、単に、からかいに来ただけなのか。そんな疑問が俺の胸中に湧いたのを見越したように、綾は動きを止めて、ややわざとらしい声で「あ、そうだ」と言った。
「大事な用を忘れるところだった」
「なんだよ」
綾の声色に猛烈に嫌な予感を覚えて、思わず身をすくませると、綾は「やだなあ。警戒しないでよ」と拗ねたようにこぼしてから、すっと俺に身を寄せた。
「あのね……」
「うん?」
「えいっ」
小さな綾の気合の声が聞こえたのと同時。
「え……っ?!」
頬に暖かな感触が触れた。肌の熱と吐息に湿った温もり。
その感触が何なのか。俺が気づいて声を上げた時には、綾はもう俺から身を引いて、照れ笑いを浮かべていた。
「え、えへへ。なんだか、改めてこういう事すると、照れちゃうねっ」
「照れちゃうって、お前……」
今のは、まさか。
いや、その考えるまでもなく、そうなんだけど。
いやいや、別にこんなの初めてなことじゃなくて、それこそ綾となら生まれてからこのかた、数えきれないぐらいに繰り返してきた行為なわけだけど、それでも、昨日の「告白」の後だと、その意味合いが全然変わってくるわけで。
だから、俺達は互いに声も出せずに、思わず硬直して見つめ合う。
「……」
「……」
「……あ、綾?」
「じゃ、じゃあ、今朝のところは退散してあげるねっ」
いよいよ本当に恥ずかしくなったのか、綾は見る間に顔を赤くして俺のベッドから飛び降りた。対する俺はといえば、自分でキスしておきながら真っ赤になって逃げていく綾の姿に、どう反応していいのかわからずに、まだ硬直したままで。
そんな風に固まっている俺に、部屋のドアノブに手をかけた綾が振り向いて、言った。
「あのね、兄さん。わたし、待ってあげるって言ったけど、「大人しく」待ってあげる、なんて一言も言ってないからね?」
「は……?」
確かにそんなことは言っていない。言っていないけれど……。
「いや、いやいやいや! 確かに言ってないけどさ! 普通は大人しく待ってくれるもんじゃないのか?!」
「私は普通じゃないもん。だから、そんな一般論なんか知りませーん」
「そこで開き直るなっ!」
「えへへ。兄さんもそろそろ着替えないと遅刻しちゃうよ? じゃあね」
俺の抗議を聞き流しながら、綾は素早くドアの向こうへと姿を消した……とおもいきや。すぐにドアの隙間から顔だけを覗かせた。
「あ、そうそう。兄さん」
「なんだよ」
まだ何かあるのかと、いよいよ身構える俺に、綾は小さく深呼吸してから、
「大好き」
って。そうはにかむような笑顔で告げて、そして逃げるようにして部屋のドアを閉めていったのだった。ドア越しにドタドタと聞こえる綾の足音は、そのまま綾の動揺を示すように賑やかで。
「……そこまで照れるならやらなきゃいいだろ……あいつは、ほんとに」
ドア越しに耳まで赤くなっている妹の後ろ姿を想像しながら、俺は綾に触れられた頬に、そっと手をやる。
触れた頬の熱と、触れなくてもわかる耳の熱さ。
……綾は待ってくれるといったけれど。
早急に答えを出さないと、ひょっとしたら俺自身が大変まずいことになるかもしれないなんて、そんな危うすぎる思いが少しだけ頭の中をかすめたような気がした。
/2.親友の気遣い。(速水龍也)
この空気は、どう表現すればいいんだろうか。
「おはよう」「おはようございます」「……おはよう」
いつもと同じ時刻、いつもと同じ場所、いつもと同じメンバー。
それはいつもと同じ朝の光景であって、だから、そこに流れているのはいつもと同じ雰囲気であるべきはずなのに。今朝の雰囲気は、とてもじゃないけれど「同じ」だなんて思えなかった。
うまく表現できないんだけど、なんというか、いい知れない緊張感が漂っているといえばいいだろうか。
そもそもまず、良の様子がおかしい。
もの凄く疲れたというか、やつれたというか、顔色がよろしくない。「おはよう」と笑う笑顔が痛々しく思えるぐらいだ。まるで、みんなに心配かけないためなのか、無理に笑っているようにも見える。まあ、それだけなら試験疲れがまだ残っているのかな、と心配するぐらいですむのだけど……でも、おかしいのは良だけじゃないのだ。
良とは対照的に、綾ちゃんは上機嫌そのものだった。
満面の笑みを浮かべているというわけじゃないけれど、軽く上気した頬に、微笑をたたえた口元は、今にも鼻歌ぐらいなら歌い出しそうな気持ちを押さえ込んでいるようにも見えた。「おはようございます」と返す声も、踊り出しそうなぐらいに、弾んでいる。良の試験がうまく行かなかったから、随分と機嫌を損ねていたのはつい先週だったのに。あ、でも、良と綾ちゃんはデートしていたはずだから、綾ちゃんが上機嫌なのは、おかしくはないのかな。
でも、良と綾ちゃんの神崎兄妹に輪をかけて、更に様子がおかしい人が別にいて。それは、
「……おはよう」
「……おはようございます」
霧子と会長さんの二人だ。おかしいというか、変というか、挙動不審というか。良たちと僕の挨拶に「おはよう」と返す声にも覇気がない。
それに二人そろって何かもの問いたげに、ちらりちらりと良の方へと視線を送っている。だけど、傍らの綾ちゃんの方へと視線を向けないように意識しているように思えた。まるで綾ちゃんのことを意識していることをばれてはいけないと、意識してしまっているようで。……傍から見ていると不自然な事この上ない。
でも、良の方はそんな二人の視線に気づいている様子はなく、上機嫌な綾ちゃんも霧子と会長さんの不自然な態度は目に入ってはいないようだった。
……って、本当に何なんだろう、この状況は。
「おはようございます」
「はい。おはようございます」
こんな状況の中、佐奈ちゃんと篠宮先輩の二人は、いつもと変わらないように見える。もっともこの二人の感情は、表情からは少し読みとりにくいので、ひょっとしたら彼女たちも普段とは違うのかもしれない。
あえていつもと比較してみるなら、心なし佐奈ちゃんは機嫌が良さそうで、篠宮先輩は少し不機嫌そうにもみえるのだけど、これは気のせいなのかもしれない。
……まあ、多分、こんな状況を考えるに、この週末に良と綾ちゃんと霧子と会長さんの四人の間で何かあったんだと思う。でも、果たして何があったんだろう。あるいは、良と綾ちゃんの間、霧子と会長さん、とか、ある組み合わせの間で何かあったのかもしれない。でも、霧子と会長さんという組み合わせはちょっと考えにくいけど……。
魔法院までの道すがら、皆の一番後ろについて、僕がそんな疑問に首をひねっていると、不意に会長さんが良に言葉を向けた。
「そういえば、良さん」
「は、はい?」
何気なさを装った会長さんの問いかけに、答える良の声はどこか強ばっているような気がした。多分、会長さんもそれに気づいただろうけれど、特に表情には出さずに彼女は言葉を続ける。
「少し顔色が悪いようだけど……大丈夫?」
「え? あ、はい。大丈夫です。少し、寝不足気味なだけで」
「そう」
「はい」
「……」
「……」
二人の間に落ちる微妙な沈黙。その空気に慌てたように、会長さんが少し勢い良く口を開いた。
「良さんっ」
「な、なんでしょう」
「……」
「……」
「……」
「……えーと、会長?」
珍しく逡巡するような表情を浮かべて言葉に詰まっている会長さんに、良も困惑の表情を浮かべた。かえって彼女を気遣うような面持ちで、良の方が会長さんに声を向ける。
「あの、会長。どうかしましたか? なんだか、様子が変ですけど」
「変って、あなたね。それは、こちらの台詞なのだけど……」
「え?」
「ともかくっ! 何か私に相談することはないかしら」
「相談ですか?」
「ええ」
「いえ、特には無いですけど……?」
そう答える良に、ちらりと会長さんと霧子が目を見合わせる。その光景に僕は思わず目を剥いた。霧子と会長さんが、なにやら意思疎通している? 僕と同じぐらいに会長さんに苦手意識をもっているはずの霧子が? ……どうして?
そんな僕の驚きを尻目に、会長さんは更に良に問いかけていた。
「えーと、何でもいいのよ? 些細な悩みでも、すっごく重要な悩みでも」
「いや、えーと、ないですよ」
「ほんとに悩みがないの?」
「ええ、まあ」
「本当に? 全く? 完全無欠に悩みがないの?」
「いや、流石にそこまで完全無欠に悩みがないって訳じゃ―――」
「「あるのね?!」」
良の言葉に、なぜか、霧子と会長さんが二人で声をハモらせる。……いや、もう本当にびっくりした。本当にどうしたんだろう。霧子と会長さんの息がここまで合うなんて。霧子が会長さんを苦手にしていたのって、気のせいだったのかな。それとももう苦手を克服したのか。あるいは……。
あるいは。苦手を感じている余裕もないぐらい、会長さんと意識を合わせなくちゃいけないような出来事があった、とか。
そう考えて、胸の奥がざわり、とざわついた。なんとく、そうなんとなーく、とても嫌な予感がしてしまったんだけど……。でも、そんな予感の中身を僕が確認するよりも早く、良と会長さんの会話に勢い良く割って入る声があった。
「もう。会長さんも、霧子さんも、いったい何なんですか。朝から兄さんを困らせないで下さい」
そう。誰あろう、朝から上機嫌の綾ちゃんだった。彼女は腰に手を当てて胸をはると、まるで宣言するように、会長さんと霧子に向かって告げた。
「そもそも、兄さんに悩みなんてありませんっ」
いや。あの。そこで断言するのはどうなんだろう。
喉まで出かかったツッコミの言葉を、僕がなんとか飲み込んでいる傍らで、しかし、会長さんはばっさりと僕がいいそうになった台詞を口にした。
「どうして、そこまで綾さんが断言できるのかしら」
「できます」
「だから、どうして?」
「だって、兄さんのことですから」
「理由になってないわよ」
謎の自信に満ちあふれた綾ちゃんの答えに、「呆れた」と呟きながら会長さんは小さく首を振った。
「そもそも、良さんに悩みがないなんて、そんな訳ないでしょう」
「会長さんこそ、どうしてそんなこと言い切れるんですか」
むっとした様子の綾ちゃんに、今度は会長さんが自信満々に「決まってるじゃない」と胸を張る。
「成績のこととか、魔力交換のこととか悩みの種ならいくらでもあるでしょう? それに私のことでも良さんの悩みはつきないはずよ」
……何といえばいいのだろうか。ともかく、自分が良を悩ませている自覚あるんですね、会長さんって。
と、僕が(多分、周りの誰もが)思わずいろんな意味で絶句してしまった会長さんの発言に、しかし綾ちゃんは動じることなく「ふふん」と不適な笑みを浮かべて更に胸を張る。
「そんなことは、些細なことですっ」
「些細ですって?」
「ええ。だって、兄さんは今、幸せの絶頂にいますから。ね、兄さん」
「いや、それはない」
「ないの?!」
自信に満ちあふれた言葉を、当の良自身に即座に否定されて、綾ちゃんは心底悲痛な声を上げた。そんな綾ちゃんに深いため息を付いてから、良は首を横に振る。
「あのな。何をどう考えたら、そんな結論に至るんだ、お前は」
「何をって、決まっているじゃない」
「決まっているって、何が」
「だから、その……もうっ」
良の問いかけに綾ちゃんは何やら言いづらそうに声のトーンを落とした。そしてややあってから、良の袖を引くと、良の耳元にこっそりと何事かを囁きかけた。
「……その。ほら、朝の……とか」
「……っ、お前、それは……っ」
果たして綾ちゃんが良に何を言ったのだろうか。ひそひそ声だったから、肝心なところは聞き取れなかったけど、良の顔が見る間に赤く染まるのをみると、どうやらかなりの爆弾発言があったらしい。良につられるように囁いた方の綾ちゃんも、顔を赤く染めている……って。
二人揃って赤くなるって……どういう……ことかな……良……?
そんな兄妹の様子に、不信感、というか焦燥感というか、危機感を感じたのは僕だけではないようで、途端に霧子と会長さんが引きつった表情で良に詰め寄った。
「ねえ、ちょっと良。どういうこと?」
「え? いや、その」
「なにかしら。今の意味深な会話は。よく聞こえなかったけど、綾さんと朝に何かあったのかしら?」
「いやいやいや、何も無いですよ?!」
霧子と会長さんに詰め寄られて、良は慌てて首を横に降った。でも、今の良の態度で「何もない」と言われても説得力はないわけで。当然、霧子は納得せずに、ずいっ、と人差し指を良の鼻先に突きつける。
「じゃあ、どうして二人揃って赤くなるのよっ」
「え? いや、赤くなんて」
「なってるじゃない。何もないならそこまで赤くなんてならないわよね?」
「だから、何もないってば」
「良さん? 本当にやましいことがないなら、白状したほうが楽よ」
「だから、やましい事なんてしてませんって!」
「そうです。私と兄さんは、やましいことなんて何もしていません」
場を何とか収めようとする良の言葉に、綾ちゃんが落ち着き払った(というか、妙に余裕にあふれた)態度で大きく頷いて、そして、言った。
「アレは『私と兄さんの間なら』、全然やましくなんてないんですから」
「「『私と兄さんの間ならっ?!』」」
「ああ、もう、お前はしばらく黙ってろっ!」
「んんーっ?!」
埒があかないとばかりに、良が、綾ちゃんの口を手で塞ぐ。そんな神崎兄妹に、更に詰め寄ろうとした霧子を、不意に会長さんが手で制した。
「……会長?」
「霧子さん。ちょっと」
「はい?」
軽く霧子に手招きした会長さんが、すこし僕達から距離をとる。そして、ひそひそと何やら霧子の耳元にささやいた。
「……ここは……あまり……追い詰めても……」
「でも……ええ……そうですね……」
「なら……後で……必要……拉致……」
「じゃあ……確認……自白……」
……一体なにを相談しているんだろう。時々、物凄く物騒な単語が漏れ聞こえてきている気がするのは、僕の気のせいなんだろうか。傍らで同じく二人の会話に耳を済ませている良の顔がひきつっているのを見ると、気のせいではないみたいだけど。
「あのね、良」
「……うん」
未だ妹さんを羽交い絞めにしつつ、同級生と先輩の怪しげな密談に冷や汗を流している親友に、僕は努めて優しい口調で声かけた。
「僕でよかったら、いつでも相談に乗るからね?」
「……ああ、ありがと。頼むな」
そう頷く良は、いつもよりずっと素直で。
だから、きっと事態は僕が思うよりも深刻になっているとの確信が持てたのだった。
/3.攻勢の裏側で(泉佐奈)
「でも、本当に朝から良先輩とキスしたの?」
「うん。頑張ってみた」
「そっか。うん、頑張ったね、綾」
「ありがと……流石に恥ずかしかったけど」
「でも、嬉しかったんでしょ?」
「うん、まあ……えへ」
授業の休み時間。教室の片隅で、私と綾はひそひそと作戦会議というか、反省会を開いていた。
反省会の内容は「ちゃんと良先輩を攻めつづけることができているか」というもの。実は、昨日の晩、良先輩に告白できたと綾から連絡を受けた私は、「そのまま攻勢をゆるめちゃだめだよ」と綾にアドバイスしたのだった。、
肝心な所では綾も良先輩に優しいから、良先輩が答えを考えている間に、攻勢を控えちゃうかもしれない。そんな危惧からの言葉だったんだけど……今朝の良先輩の様子を見ていると、流石に「やり過ぎかな」と胸がいたんだりもした。でも、良先輩には、本当に申し訳ないけれども、綾の幸せのためには、綾を炊きつけるのが私としては必要だと思ったのだった。
だって、せっかくの綾の勇気を無駄にしてほしくないから。
良先輩の綾の認識が、「妹」と「女の子」の間で大きくぐらついているはずの今こそ、頑張ってその天秤を「女の子」の方に傾かせないと。今までは、相手が綾だったら、頬にキスぐらいじゃ良先輩はそれほど動揺しなかったと思う。なのに、あんなに動揺してくれているということは、今はやっぱり好機なのだ。やりすぎると逆効果という懸念ももちろんあるけれど、それでも、ここは攻めるべき時だと思う。良先輩の理性と良識と常識の壁を打ち壊すためには、多少のリスクは覚悟しないといけないと思うから。どれだけ綾が女の子として良先輩のことを好きなのか、わかってもらうべきだと思うから。
いざとなれば、私が炊きつけたと白状すれば、綾への悪印象も抑えられるかもしれないし。ここはなんとか綾に頑張ってもらって、桐島先輩と会長さんと速水先輩に差をつけて、良先輩と結ばれて欲しいのだった。
そう思って綾と相談を続ける私だったけれど、朝の様子を思い出して、ふと気にかかることがあった。
「……ねえ、綾」
「何?」
「朝の桐島先輩と会長さんの態度、ちょっとおかしくなかった?」
「そうかな。会長さんが兄さんに絡むのはいつものことだし……」
「それはそうだけど」
普段の綾なら多分、気づいていると思うのだけど、幸せ絶頂の今の綾はやっぱり周りが目に入っていないようだった。綾には疑問形で聞いたけれど、思い起こせばやっぱり、今朝の会長さんと桐島先輩の様子はおかしかったと思う。
良先輩の様子を伺いながら、でも、綾を極力刺激しないような態度。まるで、綾が良先輩に告白したことを知っているような……。
「ひょっとしたら、綾と先輩のデート、見られたのかも」
「まさか」
小さく零した私の呟きに、綾は「そんなことないよ」、と断言した。だけど、私は考えを巡らせる。
どうだろう。昨日の綾は良先輩に告白することだけで頭が一杯だったはずで。だから、やっぱり周囲に気を配っている余裕はなかったと思う。それに会長さんが、本気で尾行しようと思えば、魔法でいくらでも隠れることはできるはず。そう思って考えこむ私に、綾は明るく笑って手を振った。
「もう。佐奈ってば考え過ぎだよ。尾行なんてされていたら、ちゃんと気づくもん、私」
「普段の綾ならそうだけど。昨日、綾は告白のことで一杯一杯だったでしょう?」
「う、それは」
「今日だってお花畑状態だし」
「……そんなことないもん」
私の指摘に一応反論する綾だったが、浮かれている自覚はあるのか、反論に勢いはなかった。
「でも、佐奈。別に見られていたっていいんじゃない?」
「え……?」
考えこむ私に、当の綾はあっさりとした口調で、そんな事を言った。
「だって、もう私は告白しちゃったんだもん。霧子さんや会長さんが、どう動いたって関係無いでしょう?」
「うーん……そうかも……しれないけど」
一応、会長さんや桐島先輩が危機感に押されて、告白に走る、という展開も考えられるから、無関係ということはないんじゃないのかな。そんな考えを思い浮かべてから、私は直ぐに綾の意図に気がついた。
そっか。綾にとっては、どうでもいいことなのかもしれない。
「兄さんは、ちゃんと考えて、答えをくれるって言ったんだから」
「……そうだね」
ちゃんと綾は自分の気持ちを渡したんだから、周囲がどう動こうと、良先輩はちゃんと気持ちを返してくれる。そんな綾が良先輩に向ける絶対の信頼が、今の綾の笑顔の源泉なんだと思う。自分のことを考えて、そしてちゃんと答えをくれるという絶対の信頼。
それはとっても眩しくて、思わず胸が詰まってしまう。
「……優しいね。良先輩」
そんな綾と良先輩の関係に触れて、心からの呟きが、私の唇から漏れた。
実の妹からの告白なんて、重すぎて、普通なら投げ出してしまうはずなのに。
自分としか魔力交換ができない相手なら、それを言い訳に受け入れてしまえるはずなのに。
そのどちらもしないで、ちゃんと受け止めて、ちゃんと悩んでくれる。それはとても不器用で、とてももどかしくて、でも、とても暖かな心の形。
そんな人だから、私は良先輩を……。
「佐奈?」
不意に黙り込んだ私に気づいて、綾が不思議そうに私の顔を覗き見る。
「あのね、綾」
「うん」
「私もそろそろ、良先輩のほっぺにちゅーぐらいはしてもいい時期かな」
「そんなのはダメですっ」
「綾のいじわる」
「そんなことありません」
私と綾の間でいつものように繰り返されるやりとり。それは私にとって、とても心地よくて、とても大切で。だから、やっぱり今はこの親友のことを一番に考えることにしよう。そう自分の心に呟いてから、私はまた綾に注意を向けるのだった。
「でも、油断は禁物だよ? 今朝も速水先輩が地味にポイントを稼いでたし」
「……本当に速水先輩が女の子じゃなくてよかったと思ってる」
「今晩もがんばってね」
「うん。ありがと」
/4.蓮香の相談会(速水龍也)。
「昨日、綾が良に告白した」
「え?!」
「っ?!」
昼休み。いつかのように僕と霧子を生徒指導室に呼び出した神崎先生は、開口一番、そんな衝撃発言を繰り出した。
「こっ……」
告白?! 綾ちゃんが?! 良に?!
絶句する僕に、神崎先生は妙に落ち着いた態度で頷いてから、言葉を続けた。
「まだ私の予想だけどね。まあ、外れてはいないだろう。昨晩からのあの二人の様子を見ている限りではね」
そこまで言うと、神崎先生はゆっくりと視線を動かして、霧子の方へと目を向けた。
「桐島は驚かないのか」
「……はい」
先生の問いかけに、霧子は一瞬、迷うように視線を伏せてから、ゆっくりと迷いを押し殺すように首を縦に振った。
「昨日……綾ちゃんと良がデートしているのを見ましたから」
「なるほど。告白の現場も見たのか?」
「いえ……そこまでは」
見ていません、と霧子は首を横に振る。その神崎先生と霧子の会話を聞きながら、僕は動揺を収めてなんとか考えを巡らせる。
綾ちゃんが良に告白した。
それは、今までさんざん懸念していて、なんとか回避させようと右往左往していた自体が現実のものになったということだった。確かにそれなら、今日の綾ちゃんの機嫌の良さにも説明はつく。それに霧子の態度がおかしかったのも、綾ちゃんの告白のことを知っていたことが原因だとというのなら納得できた。
いや、でも、待てよ。今朝、霧子と同じように様子がおかしかったのは……
「ねえ、霧子。ひょっとして会長さんと一緒にいたの?」
「うっ、まあ……そう」
「な、なんでまた」
「だって、もともと会長さんに呼び出されたんだもん。仕方ないじゃない」
「ああ、そういう事か」
霧子が会長さんを呼び出すのは想像しづらいけれど、確かに会長さんの方から霧子を呼び出したのなら話はわかる。それで今日、二人仲良く様子がおかしかったということなんだろう。
神崎先生も、僕と霧子の会話に事情を察してくれたらしく、頷きながら言葉を続けた。
「なるほど。要するに桐島と紅坂の二人で、うちの息子達を尾行してくれたということか」
「……ごめんなさい」
「でも、ホントに尾行したの? 霧子」
尾行とは霧子らしくない。そんな思いで思わず尋ねた僕に、霧子は恥じ入るように頬を赤くして首を縦に振る。
「尾行なんて、良くないってわかってたけど……どうしても気になって」
「いや、そこは恥じ入らなくて良い」
「え?」
申し訳なそううにうなだれる霧子に、しかし、神崎先生はそう断言した。
「というか、尾行するならちゃんとしろ」
「ええ?」
「というか、むざむざと綾に告白を許すんじゃない。ちゃんと妨害すべきだろう、そこは」
「えええっ?!」
霧子と会長さんの尾行行為を咎めるどころか、奨励する神崎先生に、僕と霧子がそろって戸惑いの声を上げる。
「だって、あそこまで綾ちゃんが一生懸命だったのに、そんな事」
「綾の気持ちは、近親相姦の阿鼻叫喚の無間地獄への片道切符だぞ? 多少の無茶は許される。というか、私が許す」
霧子の言葉をばっさりと切り捨ててから、でも直ぐに口調を変えて、神崎先生は小さく笑った。
「……というのは、まあ冗談だけどね」
「……」
その割には目が笑っていないような気がしましたけれど。
「なにか言ったか? 速水?」
「いえ、なにも」
どうやら無言のままでも考えていることを見ぬかれてしまったらしい。平坦な口調の神崎先生の声に、僕はブンブンと首を横に振る。そんな僕に軽く肩を竦めてから、神崎先生は優しい声で霧子に告げた。
「ともかく、ありがとう」
「え?」
「綾の……娘の気持ちを大切にしてくれて。あいつは良い先輩を持ったと思う」
「そんな」
先生の謝辞に、霧子はむしろ辛そうに顔を歪めて首を横に振る。
「どうすればよかったのか、正しかったのか、わからないんです」
「それは誰にもわからないよ。私にも……きっと綾自身にもね」
諦観と寂寥の滲んだ優しい笑み。そんな儚い笑いをたゆたえながら、神崎先生はゆっくりと大きく息をついた。
「こうなったら、仕方ないな」
「こうなったら?」
「……埋めよう」
「何をですか?!」
文脈を完全に無視して飛び出してきた剣呑な単語に、僕は思わずツッコミの声をあげた。
「そんなの決まっているだろう。そんな残酷なことを言わせるのか、速水」
「言わせたくないです、というか、そんな残酷なことをするつもりなんですか?!」
「大丈夫だよ、安心しろ」
澄み切った……というか、達観したような瞳で神崎先生は、遠くを見つめてそして呟いた。
「大丈夫。埋めるのは良の方じゃないから」
「綾ちゃんも埋めちゃ駄目ですよ!」
なんだかんだで、神崎先生も十分に錯乱状態らしい。考えてみれば、無理も無いと思う。前々から、綾ちゃんの気持ちをわかってたとはいえ、実際に彼女が行動に踏み切ってしまったのだから。親として神崎先生も、難しい立場に追い込まれていることになる。
血の繋がらない親として、血の繋がった伯母として、そして二人を導く教師として。
なによりも、綾ちゃんの命を見守る、一人の大人として。きっと、僕達よりも深い感情に苛まれているんじゃないだろうか。
「あの……先生は、どうされるんですか?」
「そうだね」
ひょっとしたら聞くべきではないのかもしれない。そう思いながらも口にしてしまった僕の問いかけに、神崎先生は少し考える素振りを見せてから、小さく首を振った。
「とりあえず、話し合いかな」
「そう、ですよね」
「埋めるのはそれからでもいいだろう」
「埋めるのはやめてください」
そんないつもの神崎先生の冗談にも、心なしか少し湿った響きがあって。
「ともかく、心配をかけて済まないね。まあ、なんとかするよ。ああ、良を狙ってくれるのは、あきらめないでいいからね。ガシガシと迫ってやってくれ」
そういって僕と霧子をけしかける神崎先生の言葉。いつものような力強さは、やっぱり、その声からは抜けて落ちているような気がした。
/5.親と子(神崎良)
「……疲れた」
夕食を終えて自分の部屋に戻ると、俺は力なく呟いてベッドの上に倒れこんだ。
疲れた。本当に、疲れた。
昼休みといい、放課後といい、家に帰ってからといい、今日の綾はいつにもまして積極的だったのだ。不必要なまでに密着してくるし、隙あれば腕を組もうとするし。昼休みは霧子と龍也がいなかったことも相まって、佐奈ちゃんの前でも、「あーん」を連発してくるし。
「……でも、変わらないといえば変わらないのか」
今日の妹の行動を思い起こしながら、でも、俺の口から出てきたのはそんな言葉だった。確かに積極さという点では違いはあるのだろうけれど、今日、綾がやったことは今までも俺にやったことがある行為ばかり。だから、その行為にこんなにも疲れを感じているのは、俺自身の受け止め方が変わってしまっているからなんだろう。
綾の行動をただの妹のスキンシップだとは、見れなくなったから。だから、受け止める方法がわからなくて気疲れしたのかもしれない。ただ、それが嫌だという訳じゃないのが、問題なんだとは思う。
「でも、こんなんじゃダメだよな」
綾に振り回されるのは、いつものことかもしれないけれど、流石に今の調子が続くのなら、いずれは周囲にも感づかれるだろうし。そういえば、今日は、霧子と龍也の態度もおかしかった。まさかとは思うけど、綾が俺に告白したことに気づいているんだろうか……? そんな考えに軽く身震いしたけれど、でも即座に俺はその考えを打ち消した。
「まさか、な」
自分で言うのもなんだけれども、すでに「シスコン」の烙印を押されて久しいわけだし、綾にからかわれて赤くなるだけで、そこまで不信感は持たれないんじゃないだろうか。
……いや、普通は持たれるのかもしれないけど。でも、いきなり「妹に告白された」という想定にまでは繋がらないだろう。多分。
繋がるのなら、よっぽど俺と綾が重度のブラコン・シスコンとみなされていて、いつ禁断の一線を超えてもおかしくない奴らだと思われていたことになりかねない。流石にそこまでは思われて……
「ないよな?」
なんだか、自分で考えていて目眩がしてきた。
ベッドに倒れ伏したまま、そんな事をつらつらと考えていると、不意に、コンコン、とドアをノックする音がした。その音に思わず、ビクリ、と背筋が伸びたのは、今日一日の綾からの攻勢のためだと思う。
……いや、別に怯えているわけじゃないんだけども。うん、決して怯えているわけじゃないだけれども。今日の綾の行動を考えると、ほんとにどんな行動に走るか予想がつかない。
とにかく、このまま綾に押されっぱなしという訳にはいかない。ここは少し強く出て、あいつに行動を抑えてもらうようにしないと。そんな思いに、俺は一度息を吸ってから、少し強い口調でドアの向こうへと声を投げた。
「綾。もう遅いんだから、今日はもう寝ろ」
しかし、投げかけた言葉に返事はなく、再び「コンコン」と俺を急かすように、再びドアがノックされる。
「俺はもう寝るから。話はまた明日な」
コンコン。
「だから」
コンコン。
「あのな」
コンコンコン。
「綾、いい加減に……」
繰り返されるノックの音に、いい加減、少し頭に来て声を荒らげた瞬間、「ガチャリ」と鍵を掛けていたはずのドアが空いた。
「え?」
「綾でなかったら、入っても構わないかな?」
「レンさん?!」
そう。ドアの隙間から姿を覗かせたのは、綾ではなくてレンさんだった。
ワイシャツ一枚だけを羽織った姿。小柄だけど、すらりとした足がワイシャツの裾から伸びて、正直目のやり場に困る……って、いやいや。
「だから、その格好は止めてくださいってば」
「つれないなあ。こういう格好嫌いじゃないくせに」
だから、余計に反応に困るんです、とは言えずに、俺は深くため息を付いた。その俺の様子に、レンさんは楽しげに目を細めて、軽く手を振る。
「大丈夫、大丈夫」
「何が大丈夫なんですか」
「今日はちゃんと下を履いているから」
「そういう問題じゃないです」
「確かめてもいいぞ?」
「確かめません!」
「なんだ。せっかく良の好きな下着なのに」
一体、なにをもって「俺の好きな下着」だと言っているんだろうか、この人は。……いや、あまり深く考えないようにしよう。うん。
「冗談はさておき、入っても構わないかな。少し話がある」
「……はい」
レンさんの口調に、いつもと違うものを感じて、俺は自然と背筋を伸ばして、頷いた。
「っと、その前に」
くるり、とドアに振り向くと、レンさんは小さな声で呟きながら、そっとドアのノブを撫でた。
「今、何をしたんです?」
「ん? 魔法で鍵をかけただけだよ。これで邪魔は入らない」
「邪魔って……」
この家には三人しかいないわけだから、他に邪魔になる可能性がある人間は一人しかいない。要はレンさんは俺と二人っきりで話があるということなんだろう。
「まあ、一応、睡眠薬を飲ませてから、布団でぐるぐるに簀巻きにしておいたから鍵はかけなくても大丈夫だとは思うんだが……あいつの恋する底力は時々、予想を超えるしな」
「睡眠薬に簀巻きって、なんなんですか?!」
「何って、簀巻きは簀巻きだよ。やっぱりそれだけじゃ、生ぬるかったと思うか? でも、流石に鎖を持ち出すのは母親としても心が痛むんだが」
「誰も拘束方法に不足があるって言ってませんよ!」
戦慄しつつ、ツッコミを入れる俺に、レンさんは「冗談だよ」と、どこまでが冗談なのかさっぱりわからない笑みを浮かべつつ、ドアをコツンと拳で打った。
「まあ、この部屋全体を金庫並に補強したからね。軍隊だってそう簡単には破れないから安心していい」
「レンさんは何と戦う気なんですか」
「なんとでも戦うよ。必要なら世界とでも」
「……」
冗談めかした口調で、笑い飛ばせない台詞を紡ぐレンさんに、俺は言葉を返せなかった。
どこまで冗談かわからない。けれど、ここまでして俺と二人で話し合う必要があるっていうことだから。レンさんがどういうつもりで、ここに来て、そして、何を話すつもりなのか、いくら俺でも察しは付いている。
多分。
レンさんは、全部、もうわかってるんだ。
その考えに、口の中が緊張に乾いて、手のひらに汗が滲む。
妹が兄に告白したこと。そして、その兄が妹の想いを拒絶できていないこと。その全てに気づいているとしたら、レンさんは一体、どんな行動をとるのだろうか。
「あの、ここどうぞ」
「いやいや、ここで良いよ」
緊張を押し隠して座布団をすすめる俺を片手で制すと、レンさんは俺のベッドに腰掛けて……そしてそのまま布団の中へ潜り込んだ。
「って、なんで布団に入るんですかっ」
「なんでって、布団には入るものだろう?」
「そうですけど! そうじゃなくて、話があるんですよね?」
「話は布団の中でもできるじゃないか」
「そうですけども、そうじゃないでしょう?!」
突っ込み続ける俺に、やがてレンさんはため息と共に身を起こして、不満気に唇を尖らせた。そういう仕草は綾にそっくりで流石に血の繋がった二人だと思ってしまう。
「むー、いいじゃないか。そもそも、最近のお前は冷たいぞ?」
「冷たいって何がですか」
「綾とはイチャイチャするくせに、私とはイチャイチャしてくれないじゃないか」
それは、いつものようなレンさんの軽口。でも、その口調に不意に真摯な響きが交じった。
「それとも、もう「そういう事」は、綾としかしないって決めたのかな?」
そう問いかけるレンさんの瞳は笑みを湛えたまま。でも、俺の視線を絡め捕らえて、離さない。その瞳に捉えられて、俺は誤魔化しは無駄だと悟って、息を吐いた。
「レンさんは……」
「うん?」
「知ってたんですか。綾の気持ち」
「うん。知ってた」
「いつから?」
「いつからだったかな」
問いかけに、レンさんは少し視線を上にあげて考える仕草を見せた。でも、直ぐに小さく首を振って、笑った。
「いつだったかは、忘れてしまったかな。でも、ずっと前だよ。綾自身から、相談された」
「そう、ですか」
ずっと前。その言葉の意味を噛み締めて、俺は一瞬、目を閉じた。そんな以前から、あいつはそんな想いを抱えていたのか。
「最初はね、ただの無邪気な好意の発露だと思ってたんだけどね」
「普通は……そうですよね。小さな女の子が父親や兄と結婚する、って言い出すことはよくあるらしいですし」
「ああ。でも、残念ながら私の娘は、ちょっとだけ普通じゃなかったらしい」
そう言って、レンさんも少しだけ目を閉じた。まるで昔を懐かしむような優しげな表情がその顔に浮かぶ。
「普通は、そんな無邪気な好意はいつしか、形を変えるものなんだけどね。でも、綾はいくつになっても、その想いの形を変えようとはしなかった。流石に、中等部に入った頃には色々言ったんだけどね。それでも、めげなかった。本当に、そういうところはあの子そっくりだ」
あの子。
懐かしむような、慈しむようなその言葉の響きに、それが誰のことを指しているのか気づいて、俺はレンさんに問いかける。
「あの子って……母さんの事、ですか?」
「うん」
母さん、と口にして少し胸が傷む。そんな俺の表情に気づいたのか、レンさんは小さく微笑んでから、「おいで」と急に俺の手を引いた。
「ほら、こっち」
「え? わっ!」
ベッドにレンさんと並んで座る形になっていた俺は、不意をつかれてバランスを崩し、そのままレンさんに向かって倒れこむ。そして、その俺を要領よく、レンさんは胸の中に抱え込んだ。
「ちょ、ちょっとレンさん?!」
「慌てなくてもいいだろう? 魔力交換と同じだ。いつもやっている事じゃないか」
「魔力交換ではそうですけど、でも」
でも、これはそういうのじゃなくて。
そう言いかけて言葉が止まる。確かに体勢としては魔力交換と同じだけど、でもそれは格好だけの話だ。今のこの行為が魔力交換じゃないのなら、じゃあ、なんなんだろう? こうして俺を抱きしめるレンさんの意図は……なんなんだろう。
その考えに、俺は抵抗するのを止めて、そして静かにレンさんの言葉を待った。
「……」
「……」
交わしていた言葉が途切れて、ただ沈黙が落ちる。
間近に感じるレンさんの呼吸と鼓動。いつもの魔力交換の時には、暖かく、落ち着いていて、安心を与えてくれるその温もりが、今は少しの躊躇いに揺れているような気がしたのは、気のせいだろうか。
「……良」
「はい」
「……」
「……」
珍しくレンさんが言葉を探すように、一度紡いだ言葉に沈黙を挟む。でも、それはほんの僅かな時間で。俺がその沈黙の意味に気づく前に、レンさんは次の言葉を口にしていた。
「良。もし、耐えられなくなったら」
「え?」
「耐えられなくなったら、我慢しなくていいんだぞ?」
「……我慢、ですか?」
我慢しなくても良い。その意味がわからずに、胸に抱きかかえられたまま俺は視線を上げる。そこにあるのは、育ての母であり、血のつながった叔母である人の柔らかい笑み。そんな笑みを湛えたまま、レンさんはそっと俺の頬に手を添えた。
「レンさん……?」
「つまりね、良」
優しい声色で、でも、わずかに躊躇うような響きを孕んで。蓮さんは俺を抱きしめたまま、耳元にそっと囁きを落とした。
「綾の気持ちに耐えられなくなったら、投げ出してしまってもいいって事だよ」
「?!」
投げ出す。その言葉の意味を反芻して、俺は即座に首を横に振った。
「そんなことっ」
そんなこと出来る訳がない。そう続けようとした言葉は。
「本当はね、良」
レンさんが俺を抱きしめる力に、止まってしまう。
「本当は、こんなことをおまえに背負わせるのはおかしいんだよ」
耳元でささやく声は、あやすように。
「私はずっと綾の気持ちを知っていたから。それを正さなかったのは、私の過ちなんだ」
耳元で震える声は、懺悔のように。
「綾の気持ちを止められなかったことも。綾にそんな行動をおこさせてしまったことも。良にその想いを受け止めさせてしまったことも……全部、私の」
過ちなんだって。
レンさんは、噛み締めるような言葉で、その想いを、俺に告げてくれた。
その内、時間が解決してくれる。
いつかは、あいつも兄以外の誰かを好きになって。許されないはずの想いは、過去の苦い思い出になって、ほつれていく。それなら……誰も。大切な誰もが傷つかなくても、済むはずだって。
「そんな甘い考えが……私の甘さと弱さが、今を招いたんだ」
「レンさん……」
レンさんの抱きしめられて、レンさんが震えているのがわかった。その声が、体が、後悔に震えていることが痛いぐらいに、わかった。
「駄目だな、私は。こんなことじゃ、あの子に―――」
「レンさん!」
レンさんが言いかけた言葉。あの子に……母さんに、顔向けできないって続けようとするレンさんの言葉を、俺は自分でもびっくりするぐらいに大きな声で遮った。
「……良」
「違います。レンさんが悪い訳ないじゃないですか!」
「良。それは違う。私は」
「違いません!」
そう、違わない。だから、俺は少し言葉を強めて、まだ自分の罪だと口にしようとするレンさんを遮った。
「レンさんは、悪くなんてありません」
本当は悪いのかもしれない。
レンさんは、俺と綾の保護者だから。二人が間違った関係に踏み出そうというのなら、そうなった原因は保護者にあるのかもしれない。きっと、社会の良識ある人達はそんなことを言うだろう。俺だって、自分が第三者ならそんなことを考えたかもしれない。
でも、そんなこと、関係無かった。
だって、レンさんが自分を責めて苦しまなくちゃいけないのなら、そっちの方が、ずっと「間違っている」。
だから、これ以上は、そんな言葉聞きたく無くて。
だから、これ以上は、そんな想いをして欲し無くて。
母さんが死んで。父さんが死んで。二人っきりになった俺と綾をずっと育ててくれたこの人に、ずっと見守ってくれたこの人に、そんな哀しい想いなんて、絶対にさせたくなくて。
だから、俺は自分の弱さも、社会の正しさも棚上げにしてでも、レンさんの自責を否定する。
「レンさんは……レンさんは、ちゃんと綾の気持ちを守ってくれたじゃないですか」
レンさんが綾を止めなかったこと、そんなこと責められるはずがない。
綾の魔力交換の事情もあるけれど、それにもまして綾の気持ちを大切にしてくれたってことだから。
「ちゃんと俺達を信じてくれたじゃないですか」
時間が解決してくれるって思ってくれたのは、俺達ならきちんと答えを出せるって、間違った想いにはたどり着かないって信じてくれたから。綾を、そしてきっと、それ以上に俺のことを信じてくれたからだ。それはひどい自惚れかもしれないけれど、でも、今はそう思えるから。
もし、許せないものがあるのなら。
綾の想いにも、レンさんの想いにも気付けていなかった自分自身が、一番許せない。家族が一番大事だって、そう思っていたはずなのに、そんな家族の痛みに、何一つ築けなかった自分自身が、情けなくて。
でも、今はそんな泣き言を胸に閉まって、俺はレンさんに、大切な人に、言葉を返す。
「俺、ちゃんと応えられるように、頑張りますから。だから……だから、少しだけ待ってください」
「……良」
「ちゃんと、答えを出しますから」
レンさんが守ってくれた綾の気持ちを。
レンさんが信じてくれた俺の責任を、このまま投げ出して、綾の気持ちも、レンさんの想いも、全部壊してしまうようなことはしたくない。
「あいつは俺の妹です。たった一人の妹なんです」
「……うん」
「だから、あいつの事、ちゃんと考えさせてください」
なんの保証もない、ただ決意だけの俺の言葉。でも、その言葉にレンさんは、微笑んで頷いてくれた。
「そうだね。お前ならそう言うって思ってたよ」
「レンさん……じゃあ」
「でもね、良。覚えておいてほしい」
そう言って、レンさんは俺を抱きしめる手に力を込めた。
「私は綾のことが大切だけど、お前のことも大切なんだよ」
「……はい」
そんなこと、言われなくたってわかってる。でも、言われないとわからないこともあるって、綾の告白で知った。だから、今、告げられた言葉に胸が詰まって、そして俺も言葉を返さないといけないと思った。でも、なんて言えばいいのだろうか。俺だって、レンさんのことが大切だから。だから、きっとそれを伝えないといけない。
「あの……レンさん」
「うん?」
「ありがとう、ございます。俺も、レンさんのこと……大切だって思ってます」
結局、俺の口から零れたのは、そんな平凡で……でも、とても大切な言葉の形だった。
「……ふふ、まったくお前は」
「うぷっ?!」
「ちょっと生意気だから、おしおきだ」
「んー!」
息が出来ないと、もがく俺を無視して、レンさんはしばらくそのまま俺を抱きしめ続けて。だから、その声はよく聞こえなかったけれど。
『……ありがとう』
と、囁いた声は、きっと俺の聞き間違いじゃなかったって思う。
/
結局、その夜は、レンさんの腕と胸に包まれて眠りに落ちることになるのだけれど。
この時になって、俺はようやく一つのことに対して、考えを決めることができたのだと思う。
「家族が大切」と言いながら、ずっと目を背けていたもの。その事に向き合うことが、俺自身の心を決める上で、大切だって思えたのだ。
あの時のこと。
神崎良が―――家族を失った、あの時のことを。
(続く)
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