/0.追憶(神崎良)

 俺と綾が両親を失った事故。
 その時の事故の記憶は、正直な所、断片的なものしかない。

 当時、幼かったという事もあるけれど、それ以上に、あの事故は何もかもが突然だった。だから何が起こったのか訳がわからないまま、気づいた時には全てが終わってしまっていた、というのが正直な所だ。その辺りがあの事故の記憶が断片的な原因だと思う。

 でも、バラバラになった記憶は、ぼんやりと曖昧なものではなくて、はっきりと鮮明に、俺の脳裏に刻まれて、まだ薄れていない。

 今でもまだ夢に見るぐらいに。
 今でもまだ理由もなく思い起こすぐらいに。
 
 でも、その内容はと言えば、ひどく現実味がない。だから、当時の大人たちが俺の証言を重要視しなかったことは当たり前といえば、当たり前だと思う。今の俺が当時の俺の言葉を聞いたとしたら、事故に巻き込まれた不幸な子供が錯乱している、としか思わないだろう。だから、ひょっとしたら俺の記憶は、本当に現実ではなくて、ただの夢なのかもしれない。

 でも、俺にとってはアレは夢ではなくて現実で。

 だから。
 あの時、自分が何をしたのか、ということと。
 あの時、自分が何をできなかったのか、ということだけは。

 ずっと事実として、俺の中に刻み込まれていて、消えることはなかった。


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  魔法使いたちの憂鬱

       第三十四話 記憶と記録と想いと迷い

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/1.神崎家の朝の風景。(神崎良)

「信っじられないっ!!」
 早朝の神崎家の食卓には、綾の元気の良い怒声が響き渡っていた。普段の寝起きの悪さが嘘のように、勢い良く抗議の声を張り上げる妹とは対照的に、レンさんは至って落ち着いた様子でコーヒーをすすっていた。

「ん。美味しい。やはり朝はコーヒーでないとな」
「かあさんっ! 何を和んでるんですかっ! 私がっ! 娘がこーんなに、怒ってるのにっ!」
「なんだ。やっぱり怒ってるのか」
「そんなの当たり前じゃない!」
 涼しい顔のレンさんに対して、綾は興奮に頬を赤くしている。あまりに対照的すぎる親子の様子だった。

「おーい、綾。ちょっと落ち着けって」
「兄さんっ!」
 落ち着かせようと俺が声をかけると、綾は、ぐるん、と勢い良く顔の向きをレンさんから俺へと変える。そして興奮冷めやらぬ様子で、言葉の剣先を躊躇うことなく俺に向かって突き刺してきた。

「兄さんは、母さんの味方なの?!」
「いや、敵とか味方とかじゃなくて。とにかく朝からそんなに怒らなくても……」
「お・こ・ら・な・く・て・も?!」
 なだめる俺の言葉が地雷だったのか、綾は更に目尻を釣り上げた。

「一晩、簀巻きで地下室に放り込まれていた私の気持ちが兄さんにわかるっていうの?!」
「……いや、ゴメン。それは、さっぱりわからない」
 さすがにそんな経験はないので、残念ながら共感はしてやれない。というか、ようやく綾の怒りの原因が把握できた。それはまあ、確かに簀巻きで一晩放置されていれば、怒りもするだろう。……って。

「レンさん? 簀巻きって、どういうことですか……?」
「何って、簀巻きは簀巻きだよ。うん? 昨晩も同じ台詞を返した気がするが」
「確かに聞きましたけど! 本当にやったんですか?!」
 あんなの冗談だって思うじゃないですか、普通。
 しかし、ここまで綾が荒れ狂っている以上、恐ろしいことに嘘でも冗談でもないのだろう。そんな事実に俺が戦慄していると、レンさんは何故か、満足気な顔で一人頷いていたりした。

「いや、しかし大したものだと思うよ」
「大したものって、何のことですか?」
「まさか簀巻きのまま、自力であの地下室を脱出するとは思わなかった」
「かーあーさーんっ!」
 完全に遊ばれてるなあ、綾。

「って、いやいや、というか地下室ってなんなんですか、地下室って」
「何って、地下室は地下室だよ」
「平然と言わないで下さい。俺、家に地下室があるなんて知りませんよ?」
「そうよ! 私も知らなかったもん!」
「私も使うことがないようにと願っていたんだが」
 おののく俺と、猛る綾に、レンさんは嘯くように呟いて肩をすくめた。

「ま、研究部材の保管庫だよ。お前たちには、まだ危ない品もあるからね。安全のために場所を教えていなかっただけだよ」
「そんな危険な場所に、私を一晩放置したの?!」
「だって、昨晩はお前のほうが危険物だったじゃないか」
「なんで、私が危険物なのよ?!」
「いや、だって、兄に夜這いをかけようとする妹なんて危険物以外の何物でもないだろう」
「そ、そんなことしようとしてないもんっ!」
「……夜這い?」
「と、ともかくっ!」
 不穏極まりない単語に、俺が口を挟むと、綾は誤魔化すように声を大きくして、その指先を俺の鼻先に突きつけた。

「大体、兄さんだって悪いんだよ?」
「俺が?」
「そうよ! なんで、兄さんとレンさんが一緒に寝てるのよ!」
「うっ」
 昨晩の出来事の後、気がつけば、俺はレンさんに抱きしめられたまま、眠りに落ちてしまっていた。そんな俺の部屋に、綾が入ってきてから今まで延々と綾の怒りは続いている訳で。……まあ、綾が怒っているのは、半分は俺のせいだと言うわけだった。

「いや、でも、それは、そんなに怒らなくても」
「そうだぞ、綾。普通の親子のスキンシップに、そんなに目くじらを立てるものじゃない」
「高等部の親子が抱き合って寝るのは、普通のスキンシップとは言いません!」
 俺とレンさんの反論を、綾はぴしゃりと切り捨てる。頬をふくらませて腕を組む妹は、いまだかなりご立腹のようだった。そんな綾の態度に、レンさんは小さく苦笑すると、パチン、と手を打ち合わせた。

「ともかく、朝ごはんを食べてしまおう。あと、綾はあまり良を困らせないこと」
「困らせてなんかいないもん」
「お前は良に告白したんだろう? 実の兄に、最大級の重荷を背負わせてるんだから、少しは遠慮しなさい」
「うっ……」
 告白、という単語を突きつけられて綾が言葉をつまらせる。

「でも」
「でも、じゃない」
 なおもあらがおうとする綾の言葉を、レンさんは少し語気を強めて遮って言った。

「綾。聞き分けがないようなら」
「ないようなら?」
 レンさんに問い返す綾は、平静を装いながら、しかし、明らかに緊張の面持ちになる。そんな綾に大して、レンさんは一瞬の溜めを作ってから、こう言い放った。

「今夜こそ、私が良を寝とってしまうぞ?」
「ええっ?!」
「レンさん?!」
 また過激なことを言い出したレンさんに、目に見えて綾がうろたえた。

「ほ、本気なの?!」
「冗談だよ。あくまで、綾が良い子でいてくれている間は、だけどね」
「うっ……」
 言外に「脅しじゃない」との含みを持たせるレンさんに、綾が言葉をつまらせた。

「そ、そんな脅迫になんか屈しないもん!」
「ほう、随分強気だね。まあ、良に告白して、色々とふっきれているのかもしれないけど。でも、私と良の濃密な関係を知っても、そんな態度でいられるのかな」
「のっ、濃密……?!」
「ちょ、レンさん?!」
「兄さん……? どういうこと……?」
「レンさんの冗談を真に受けるなよ」
 冗談じゃなくて目が怖いから。妹の視線に、軽い命の危険を感じ取ってしまう兄だった。

「ちなみに昨晩は下着はつけていなかったんだけど、気づいたか? 良」
「しれっ、と嘘をつくな!」
「失礼な。嘘なんかじゃないぞ?」
「だって、昨日はちゃんとつけているって言ったじゃないですか!」
「ああ、そっちが嘘だ。履いてなかったし、付けてなかった」
 ああ、もう、この人は!

「息子に惚れ直してしまった、いけない母を許して欲しい」
「兄さん? レンさんに何したの? 何があったの? は、履いてなかったし、付けていなかったって、ホントのホントに、どういうこと……?」
「だから何もなかったって! レンさんも変なこと言わないで下さい!」
 というか、実母ではないにしろ、母親と息子の関係をそう簡単に怪しむな。妹だけじゃなくて、育ての母にまで迫られたりしたら、最早、いろいろとダメすぎる。

「まあ、冗談はさておき」
「レンさん! 話はまだ終わってません!」
「冗談はさておき」
 納得いかないと全身で表現している綾の抗議の意志をあっさりと、無視してレンさんは強引に話題を戻した。
「ともかく、本当に良には、少し時間を上げること。いいな? 綾。 さもないと……」
「さ、さもないと?」
「今度は裸で良に迫ることになる」
「なるか!」
 思わずレンさんの頭を叩いてしまう俺だった。
 むー、と唇を尖らせて、レンさんは不満気に俺を見る。その表情は綾のようで、やっぱり血のつながりを感じてしまう。

「良だって、満更でもないくせに」
「そんなことはありません」
「本当に?」
「……本当です」
「兄さん……? 今の間はなんなの……?」
「本当に、何でもないってば!」
 昨日のレンさんはどこに行ってしまったんだろうか。あるいは、昨日があったからこその態度なのかもしれないけれど。

「ともかく、お前が勘ぐっているようなことは何もないってば」
「そ、そうだよね。いくら母さんでも、兄さんに裸で迫ったりしないよね。母が息子に迫るなんてありえないよね」
「勿論だ。妹が兄に裸で迫ったりするぐらいありえないことだぞ。うん」
「そ、そうだよね。ありえないよね。あはは」
「勿論だ。ありえないぞ。ふふふ」
「……」
「……」
 笑顔のまま無言で見つめ合う、レンさんと綾。……なんだろうか。この居たたまれない気持ちは。
 誰か神崎家に至急、倫理観の構築を。

「ともかく! 家族なんだから、裸で迫るなんてしちゃダメなんだからね! かあさん!」
「そうだね。全く同感だ。ところで綾。お前は同じ台詞を、一度、鏡に向かって言ってみるといいと思う」
「……」
「……」
「だ、大体、裸だったら!」
「裸だったら?」
「裸だったら、私の方が勝つもんっ!」
「!」
「お前は何を言ってるんだ?!」
 尽くレンさんに言い負かされて錯乱したのか、いきなり過激な発言をくりだした綾に、俺は思わずツッコミを入れてしまう。が、そんな俺のツッコミはさておき、今まで余裕をたたえていたレンさんの表情に、ゆらり、と暗い影がさした。

「綾、お前……また、人の胸を見て言い放ったな?」
「別に見てないもん。母さんの気にしすぎじゃないのかな」
 声を低くするレンさんに、綾は、ふふん、と笑って胸を張る。わざわざ、「これでもかっ」と胸のサイズを強調するかのように。

「いい機会だ。その「胸は大きいほど正義」というひどく短絡的な考えは、矯正してやらないといけないな」
「矯正の必要なんてありません。兄さんだって、私のほうがいいよね?」
「そんな話題を俺に振るんじゃない!」
 朝の食卓で、なんつー、会話を繰り広げる気だこの母娘は。

「ともかく、ほら、いい加減、朝ごはん食べないと本当に、遅刻するぞ」
「むー。兄さんが逃げた」
「逃げたな。まあ、結論は今晩に持ち越しかな」
「持ち越さないで下さい、頼むから」
 我ながら疲れた声で、そう答えながらも、少し緊張の糸がほぐれているのを感じて。いや、解れているというか……少し安堵しているような、そんな気持ち。

 綾に告白されて。それをレンさんに、気づかれても。
 目の前には、こうやって、いつもの食卓の風景があるっていう、その事に。

「まあ、あまり思いつめる必要はないっていうことだね」
「……わかってます」
 色々と見抜かれているとはわかりながら、それでも俺はそう答えるができたのだった。


/2.会長の誘い(神崎良)

 それは、東ユグドラシル魔法院の昼食時のこと。

「良さん」
「はい?」
 俺と霧子と龍也、綾に佐奈ちゃんに、会長さんと篠宮先輩。例の試験勉強の時から、最早、お馴染みになった感のある面子で、昼食をとっていると不意に会長さんが俺の名前を呼んだ。

「なんでしょう」
「今日の放課後、少し付き合ってくれないかしら」
「ダメです」
 会長さんの問いかけに間髪入れずにそう答えたのは、俺ではなくて、そして、綾でもなくて……篠宮先輩だった。冷然とした表情を浮かべる篠宮先輩の言葉に、会長さんは少し眉をひそめて唇を尖らせる。

「鈴。私は良さんに聞いているんだけど。どうしてあなたが答えるのよ」
「セリアが自分の予定を忘れているようでしたから思い出させてあげただけです。今日は生徒会がある日ですよ。セリアの放課後に、神崎さんを付きあわせている時間はありません」
「う」
 冷静に指摘する篠宮先輩に、会長さんはやや言葉を詰まらせる。しかし、会長さんがそんなに素直に折れるわけもないわけで、なおも彼女は反論の台詞を口にした。

「別にいいじゃない」
「良くありません」
「生徒会の用事なら後で、ちゃんと片付けるから」
「先週もそう言っていましたよ」
「先週の件だって、きちんと片付けたでしょう? 特に遅れもなかったはずだけど」
「そういう問題ではありません。生徒会長が生徒会の会合を度々欠席すること自体が問題です」
「む。それは……、そうだけど」
「それに今日は部長たちとの会議もありますから。流石に後回しという訳には行きません」
「……わかったわよ」
 落ち着きのある態度で理路整然と指摘されると、会長さんは、降参、と軽く両手を上げて肩をすくめた。会長さんがやり込められる、という光景は珍しいけれど、やっぱり会長さんは篠宮先輩の正論には従わざるを得ないようだった。
 ……俺が篠宮先輩と同じ事を言っても、こうは素直に聞いてはくれないんだろうなあ。などと思いつつ、会長さんと篠宮先輩のやり取りを眺めていると。

「ふふふ」
 何故か、傍らの綾が勝ち誇るような笑みを浮かべて、胸を張っていた。

「綾?」
「ということで、会長は生徒会活動に勤しんで下さい。兄さんは私と一緒に帰るんですから」
「仕事があるのは、綾さんもですよ」
「ええ?!」
「……綾さんは、少しセリアに似てきてしまったのかも知れませんね」
 悲痛な叫びを上げる綾に、心持ちこめかみを引き攣らせながら篠宮先輩が息をついた。

「あの、申し訳ないです……篠宮先輩」
「なんで兄さんが謝るのよ!」
「いや、なんだか、いたたまれなくて」
「どういう意味なのよ! それ!」
「こちらこそ申し訳ありません」
「なんで、鈴があやまるのかしら。というか、良さん。綾さんが私に似てきた、という発言に対して、「申し訳ない」って一体どういうことかしら」
「痛い痛い痛い、痛いですってば!」
 俺と篠宮先輩のやり取りに、会長さんは引きつった笑みを浮かべると、俺の耳を引っ張ってくる。っていうか、耳とか鼻とか、人の体を引っ張りすぎじゃないだろうか、この人。

「セリア。神崎さんにあたらないで下さい」
「あなたと良さんがおかしな事を言うからよ」
「とにかく、綾さん。今日は部活動に関しての会議なんです。予算執行状況の確認もありますから、できれば綾さんにも出席いただきたいのですが」
「……わかりました」
 静かに諭す口調の篠宮先輩の言葉には、綾も反発しづらいようで、少し間をおいてから大人しく首を縦に振った。そんな様子を見ていると、会長さんより、篠宮先輩の方が、生徒会長に向いているんじゃないかと思ってしまったりもする。

「その顔は、また、なにか失礼なことを考えている顔ね。良さん」
 なんだか俺の考えを見透かしたように、会長さんは声を尖らせる。

「…………そんな事はないですよ?」
「その『間』は、なんなのよ。もう」
 我ながら白々しい返事に、会長さんが不満気にまゆを曇らせた。また鼻でも摘まれるか、と、少し身構えると、会長さんは軽く笑って、また肩をすくめた。

「本当に私には意地悪なのね。あなたは」
「そんな事無いです」
「そんな事あります。速水さんとか、桐島さんとか、綾さんとか、佐奈さんとか、速水さんには、凄く優しいもの。あなた」
 何故、龍也のことを二回言ったのだろうか。この人は。

「いや、それだったら、会長さんは俺にだけは暴力的ですよね。妙に」
「失礼ね。私、暴力的なんて言われたことないわよ?」
「え……?」
「……良さん。本気で驚いているように見えるのは私の気のせいよね?」
「いや、えーと、って、って、痛い! なんでお前が耳を引っ張るんだよ、綾!」
「……別に。会長さんに似てきたらしいので、会長さんの真似をしてみただけです。兄さんが会長さんとイチャイチャしているのが、非常に気に入らないっていう訳じゃありません」
「あのな」
 なんで俺と会長さんがイチャイチャしていることになるんだ。
 そう言いかけて、ふと、皆の視線に気づく。なんだか、どことなく冷たい視線を浴びているような気がしないでもない。具体的には龍也と霧子と佐奈ちゃんから。

「え? あれ? 龍也?」
「……最近、会長さんと仲がいいよね。良って」
 にこやかだけど、なんとなく龍也の声が冷たいのは気のせいだろうか。

「……そうよね。良かったわね。関係修復できて」
「霧子?」
「私も、良先輩の耳をつまんでみたいです」
「佐奈ちゃん?!」
「良先輩が私の耳とか鼻をつまんでくれてもいいです」
「つまみません」
「違うところつまんでくれてもいいです」
「つまみません」
「残念です」
 相変わらずどこまでが本気なのかがよくわからない佐奈ちゃんだった。

「えーと、と、とにかく」
「あ、誤魔化した」
「とにかく!」
 霧子のツッコミを大きな声で跳ね除けながら、俺は言葉を続けた。

「どっちにしろ、俺も今日の放課後は少し用事があるんです。その、ちょっと図書館まで」
「図書館って、魔法院の? だったら、僕も行こうかな」
「あ、いや、そうじゃなくて。ちょっと国立の図書館の方」
「あ、そうなんだ」
 俺の返事に頷いた龍也は、少し考えこむような表情を見せた。勘の鋭い親友だから、ひょっとしたら俺の意図に気づいたのかもしれないけど……って、いや、流石にそれはないか。

 魔法院の生徒が「図書館」といった場合、それはほぼ例外なく魔法院にある図書館のことを指す。よほど高度な魔法に関するものでない限り(少なくとも高等部までの学生が必要とする魔法の範疇なら)、魔法に関する知識は、魔法院の蔵書で事足りると言われているからだ。だから、わざわざ国立の図書館に出向く、ということは、よほど複雑な魔法に関する資料を探しに行くのか、あるいは……魔法に関すること以外を調べたいのか、という事になる。でも、いくら龍也が鋭いって言っても、それだけの情報で俺が何を調べに行くのかまでは、わからないはずだけど。
 ともあれ、どこか考えこむような素振りを見せる龍也の傍ら、「図書館に行く」という俺の発言に、霧子が少しからかうような笑みを浮かべた。

「でも、良が図書館なんて珍しいわね」
「いやいや。別に珍しくないだろ?」
「えー。そうかなあ」
「そうだよ」
 確かに国立の図書館に行ったことなんて、それこそ数えるほどしかないけれど、魔法院の図書館の方なら割と頻繁に利用する。まあ、魔法院の生徒なら当たり前と言えば、当たり前なんだけど。

「少なくともお前よりは利用している自信はあるぞ」
「む。そんな事ないわよ。私だって、それなりに使うもん」
「月何回ぐらい?」
「……覚えきれないぐらい」
「なぜ目をそらす」
 そんなツッコミを霧子にいれながらも、本音のところではあまり勝ち誇ることでもないとはわかっていた。霧子は部活があるから、部活に参加していなかった俺よりは利用頻度が低いのはわかっていたから。

「ともかく。神崎さんに用事があるのなら、なおさらです。今日は素直に生徒会に向かってください。いいですね、セリア」
「わかったわよ。もう」
 サボるな、と念を押す篠宮先輩に、会長さんは降参、というように両手をあげた。しかし、そんな殊勝な態度はすぐに消えて。

「今日のところは諦めてあげます。今日は、ね」
、会長さんは意味有りげな視線と言葉を残して微笑むのだった。


/3.会議の後で(篠宮鈴)

「あら、もうこんな時間? もうっ、どうしてこんな時に、生徒会になんて出ないといけないのかしら」
「そうです。どうして、生徒会になんて出ないといけないんですか」
 生徒会会合を終え、更に少しの事務処理を終えたあと、すっかり茜色に染まった空を窓越しに見上げながら、セリアと綾さんが仲良く不平を口にした。

「こういう場合、どちらから叱るべきなのでしょうね」
 生徒会役員にあるまじき発言を口にする二人に、私は軽い目眩を覚えて思わず頭を抑えた。
 少しは卯月さんの純真さというか、真面目さを見習って欲しい。今日は家の用事があるから、と会合が終わるやいなや、名残惜しそうな表情を浮かべて帰っていった下級生を思い出しながら、私は内心でため息を付いた。
 こういうセリアを見てしまうと、果たして神崎良という魔法使いを彼女の傍に置いて良いのかと考えてしまう。元々、セリアは気ままに振る舞う性質があるが、普段はこうまで生徒会の優先順位を下げたりしない。セリアがこういう態度を取るのは、やはり神崎さんに関係した「何か」がある時が多いと思う。生徒会役員の一員としては、こういう会長の態度はやはり改めて欲しいと思う。
 でも、セリアの友人としては……きっと歓迎すべき事態なんだろう、とも思う。不平を言いながらも、今のセリアの瞳は、やはり今までより精気に満ちているのがわかるから。……わかって、しまうから。
 チクリとした内心の痛み。それを無視するように、私は二人に向かって問いかける。

「セリアも綾さんも、そんなに大切な用事があったんですか?」
 尋ねる私に、セリアは少し考えてから軽い笑みとともに頷きを返してきた。

「そうね。大切といえば、大切ね」
「私もすごく大切な用事がありました」
 セリアは意味有りげな笑みを浮かべて、綾さんはセリアに張り合うように胸を張りながら、それぞれの答えを口にする。

「あら、綾さんは良さんと一緒に帰りたいだけじゃなかったの?」
「ええ、そうです」
「それが大事な用事なの?」
「とっても大切な用事じゃないですか」
 自信満々に断言する綾さんに、セリアは「なるほど。そうかもね」と小さく笑ってから、軽く視線を私に向けた。セリアが何を言いたいのか、その視線の意味するところに、なんとなく気づいたが、しかし、私は咄嗟に気づかないふりをしてしまった。それは、あまり深く立ち入りたいと思う話題ではないと感じたからだ。
 例えば、綾さんが実の兄に向けている好意や、言動が―――どこか一線を超え始めているのではないか、なんていう、そんな話題。

 とは言え、セリアの前では、そんな態度は意味が無かっただろう。私が取り立てて反応を返さないことに、セリアは少しつまらなそうに眉を動かしたが、直ぐに視線を綾さんへと戻して、そしてそんな危うい話題を続けはじめた。

「でも、そういう意味では、私もとっても大切な用事があったことになるのよね。良さんと一緒に帰ろうって思ってたんだし」
「それでも私の方が大切な用事です」
「どうして? 同じ行為なのに」
「行為は同じでも意味が違いますから」
 神崎さんがセリアと一緒にいて、帰ること。
 神崎さんが綾さんと一緒にいて、帰ること。
 その二つの意味が違うと言い放つ綾さんは、セリアに対する対抗心で頑ななようでもあり、しかし、どこか言葉と表情に余裕を浮かべているようでもあった。余裕、というより、なんだろう……優越感、というのが一番しっくりするだろうか。

「意味が違う、か。面白いことを言うのね」
 ある意味、挑発するような綾さんの言葉と態度。それを受けてもセリアは、静かな笑みを崩さなかった。
 相手に対して好奇や興味をそそられた時に浮かべる、セリアの笑み。だけど、今、セリアの瞳に余裕や好奇以外の感情が見え隠れしていることに気づいて、私は少し身を固くした。
 ずっとセリアと一緒にいた私だから気づけた、ほんの些細な感情の揺れ。それが何なのかまでは掴めないけれど、セリアには似つかわしくない類の感情ではないだろうか。例えば、迷い、不安、あるいは……葛藤のような感情だったかもしれない。でも、そんな感情の揺れは即座に消えて。セリアはいつもの様に、余裕のある笑みをその瞳に浮かべて、綾さんを見据えていた。

「まあ、いいわ。綾さんにも大事な用があったから」
「……私に、ですか?」
 セリアにそう言われて、目に見えて綾さんが身構える。

「用事って、なんでしょう」
「聞きたいことがあるのよ。あなた、もう良さんから、返事は貰ったの?」
「返事、ですか?」
「ええ。告白の返事」
「え? ……え?」
 しばし、何を言われているのかわからない様子で、綾さんがきょとんとした表情を浮かべた。そして、おそらく私も綾さんと同じような表情を浮かべているのだと思う。私にもセリアが急に何を言い出したのか、彼女の言葉の意味がわからなかったから。しかし、綾さんの方は何を言われたのか直ぐに理解したらしく、見る間にその表情を朱色に染まっていった。

「あ、あの、会長? こ、告白?! 告白って?!」
「告白は告白よ。好きですって、告白したんでしょう? 良さんに」
「ななななな、何のことでしょう?」
「ふふ。不意をつかれるとそういう反応になるのね。そういう所、良さんに似てるわよね」
 露骨にうろたえる綾さんを、セリアは楽しげな視線で見つめた。そして静かな笑みを湛えたまま、どこか優しい声色で問いを重ねた。

「あなた、良さんが好きなんでしょう? そしてその気持が抑えられなくなって、告白した。そうよね?」
「ど、どうして……、そう、思うんですか?」
 セリアの意図をはかりかねているのか、綾さんは平静を保とうとしながら、セリアの表情を探る。そんな彼女に、セリアは小さく苦笑して軽く肩をすくめた。

「あのね。そのぐらい見ていればわかるわよ」
「見ていれば?」
「だって、この間から兄妹そろって挙動不審じゃない」
「挙動不審って、そんなことありませんっ」
「あります。まあ、挙動不審の種類はあなたと良さんで、違うみたいだけど。ねえ、鈴」
 綾さんの反論を、ばっさりと切り捨てながら、セリアは今度は私に言葉を向けた。

「あなただって、気づいてたんじゃない?」
「……急に私に振られても困ります」
 セリアと綾さんの会話についていけていなかった私には、セリアに言葉を返すのに少しの間が必要だった。紅坂家に使えるものとしては失格かもしれないけれど、でも、これは仕方ないんじゃないだろうかとも思う。セリアはいつもと変わらない態度と口調だけれど、今彼女が話題にしているのは、恐ろしく重々しい話題のはずだから。

 セリアは、綾さんが良さんに告白したと言った。つまり、実の妹が実の兄に告白した、と言ったのだ。冗談なら少したちが悪く、本当なら……こんなに軽々しく口にすべきではない話のはずだから。

 果たして、セリアはどこまで本気で言っているのだろうか。綾さんとは異なる意味で、セリアの意図を掴めなくて、私は言葉に詰まってしまった。そんな私に、セリアは「早く」と視線で言葉を促してくる。
 どうやら無言のままで、やり過ごすのは難しそうだと判断して、小さな溜め息と一緒に言葉を口にした。

「……確かに、綾さんと神崎さんの様子が普段と少し違うようには感じていましたけど」
「ほら、ね」
「でも、セリア。その……あなたが言うようなことまでは、感じ取れませんでしたよ?
 つまり、綾さんが神崎さんに告白したなんて。妹が実の兄に告白したなんて。神崎兄妹の様子から、そんな男女の機微までは、とてもじゃないけれど読み取れはしなかった。

「それは鈴が鈍いからじゃないかしら」
「セリアも似たようなものでしょう?」
 殊に、男女の恋愛関係に関しては。そう返す私にセリアは不満気に眉を歪めた。

「そんなことないわよ」
「そうでしょうか?」
「あ、あの! お二人とも!」
 思わず言い合いを始めてしまいそうになった私とセリアに、綾さんが声を大きくして割り込んだ。

「あの、わたし別に兄さんに告白なんて」
「安心して。別に言いふらしたりしないから」
 セリアの「告白発言」に、綾さんは、なお否定の言葉を返そうとする。しかし、そんな彼女の否定を、セリアは静かに、でも、強い口調で遮った。今更、事実認定を争うつもりはないと言うように。
 どうやら、綾さんがお兄さんに告白したことは揺るぎない事実だと、セリア確信しているようだった。もしくは……、どういう理由かはわからないけれど、告白の事実を「知って」いるのかもしれない。いや、でもそれは考え過ぎだろうか。セリアが告白の事実を知る機会なんてあるとは思えない。まさか、本当に綾さんを尾行したわけでもないだろうし。

 ……したわけでも、ないだろうし。まさか……尾行するって……あんなに怒ったのに……でも……

 などと言う嫌な予感が私の中に生まれたことに気づく様子もなく、セリアと綾さんは言葉をかわしていく。

「確かに鈴は気づいていなかったけど……でも、気づいている人は結構いるんじゃないかしら。今のあなた、良さんの事しか見えていないでしょう?」
「そ、そんなこと……」
 そんなことありません。そう続くと思われた言葉を飲み込んで、綾さんはは代わりに深々とした息をついた。まるで、肺の中を空っぽにするような。まるで、頭の中を迷いをすべて吐き出そうとするかのような、深く長い吐息。
 そんな長い呼吸の後。綾さんは一度、軽く私に視線を投げて、それからセリアの目を正面から見据えた。その瞳に浮かぶのは先程までの戸惑いと動揺の感情ではなく、決然とした決意の光。まるで、これから……目の前の魔法使いと、対決しようとするかのような覚悟の表情を浮かべて、綾さんはセリアと対峙する。

「そんなに、私の態度って、筒抜けでしたか?」
「ええ」
「……そうですか」
 落ち着いた声で呟いてから、綾さんはゆっくりと首を縦に振った。

「会長」
「なにかしら」
「私は、兄さんが好きです」
 はっきりと、セリアの目を見つめて、綾さんはそう言い放った。

「世界中の誰よりも、兄さんが好きです」
 実の兄に対する想いを、怖じけることなく、怯むことなく。
 まるで目の前のセリアに対して、宣言、いや宣誓、あるいは―――宣戦布告するように、そう告げた。

「……そう」
 まっすぐに投げられた、あるいはぶつけられた想いに、セリアは僅かに目を細める。

「一応、確認しておきたいんだけど、いいかしら」
「なんでしょう」
「あなたと良さんは、実は血が繋がっていないとか、そういう話なのかしら」
「血がつながっているとか、いないとか。そんなこと関係無いです」
「……あの。それは流石にどうなんでしょうか」
「関係無いです」
 口を挟むつもりは全くなかったのだけれど、でも思わず思わず口にしてしまった私のツッコミを、綾さんは歯牙にもかけずに切り捨てると、綾さんはセリアを見据えた。

「兄さんと私が血がつながっていても、いなくても。私は兄さんが……あの人が好きです。小さい時からずっとずっと好きで、今でも物凄く好きで、これからもずっとずっと好きなんです。だから……だから、私は」
 実の兄に告白したんです、と。静かに、ゆっくりと揺るぎない想いを言葉に込めて、紡ぐ。
 その言葉に込められた想いの重さは、傍らで見ている私でさえ感じることができて。そして、その重さに思わず気圧されてしまいそうになる。

 誰であろうと、兄は渡さないと。
 誰であろうと―――それが例え、上級生であり、生徒会長であり、紅坂の魔法使いである、紅坂セリアが相手でも、と。

 彼女は、こう言ってのけているのだ。

 あまりに真っ直ぐで。あまりに純粋で。だから、あまりに重すぎて、危なっかしい。そんな想いの塊を正面からぶつけられて、それでもセリアは表情を動かすことはなかった。
 真正面から、綾さんの視線を受け止めて。まるで、彼女の気持ちを慈しむようなそんな優しい笑みすら口元にたたえて。

「……ねえ、綾さん」
 セリアは、ゆっくりとした口調で彼女の名を呼び、告げる。

「あなた、私のものになる気はない?」
 綾さんにとっては、あまりにも場違いな、そんな台詞を。


/4.図書館にて(神崎良)

「じゃあ、復号器(デコーダ)は、ここに。もし使い方がわからなかったら遠慮なく聞いて下さい」
「はい、ありがとうございます」
 保管庫に案内してくれた司書さんから復号器を受け取りながら、俺は頭を下げてお礼を言う。頭に白いものが混じった初老の司書さんは、柔和な笑みを浮かべてから、保管庫の出口へと向かっていった。

 その背中が扉の向こうへと消えたのを確認してから、俺は保管庫の中を改めて見回した。目の前には、壁一面に並べられた黒い背表紙。それは魔法によって情報が記録された本(記録術式)だ。そこから情報を取り出すための復号器と呼ばれる機械が、今、俺の手の中にある。

 国立東ユグドラシル図書館。
 国立中央図書館の分館という位置づけながら、閲覧できる情報の種類は、中央にある本館と遜色ないと言われる。東ユグドラシルには、魔法院のものも含めて、大小いくつかの図書館が存在しているけれど、その中でもこの保管庫は、解決済みとされた事件の捜査資料を保管する役割も果たしている。

 通常、この場所にある事故の詳細な捜査記録・調査記録は、警察・法曹関係者にか閲覧は許可されない。例外として閲覧が許可されているのは、事件の関係者。つまり、事件に巻き込まれた被害者であったり、そしてその家族、もしくは、遺族だけだった。つまり、俺は事故の関係者としてここにいると言う訳になる。

 あの時の事故。
 両親がなくなった事故の記録を知るために、ここにいる。

「……本当は、レンさんに聞いたほうがいいのかもしれないけど」
 書棚から司書さんに教えてもらった記録術式を引っ張り出しながら、そんな呟きが自然と俺の口から零れた。まるで、ここにいないレンさんに言い訳するかのような言葉に気づいて、少し苦笑が漏れた。

 実際は、両親が命を落すことになった事件のあらましは、その昔、レンさんから聞いたことはある。
 細かな事故原因なんかも教えてもらった記憶もあるんだけれど、なにせ初等部の頃だったから、理解できたのは結局、事件の簡単な概要ぐらいなものだった。
 でも、その時は概要だけわかれば、それで十分だったし、それ以上を教えて欲しいとも思わなかった。正確には概要しか理解できなかったし、それ以上を求める余裕がなかった、というべきかもしれない。父さんと母さんを亡くしたっていう事実を受け止めるだけで、多分、精一杯だったんだと思う。多分。

 中等部、高等部と魔法院を進学して行っても、特に事件の詳細を知ろうとは思えなかった。亡くしたものは帰らないし、それに綾とレンさんという家族もいる。だから、それで十分だって思っていた。
 だから、俺は本当の意味で事件の真相を知らない事になる。少なくとも公式に「真相」とされて来たものを深く知らないままで来た。だから。

「だから、まあ。今更、かもしれないけれど」
 小さくそう呟きながら、薄暗い保管庫の隅に置かれた机の上に、書棚から取り出した記憶術式と貸してもらった復号器を並べた。ちなみに警察関係者以外に貸し出される復号器は、司書さんによって読み込める記憶術式が限定されている。まあ、一般人が他の関係ない事件の記録を勝手にしてしまわないように、という事だと思う。と、閑話休題。

「では」
 呟いて、本を復号器に差し込もうと右手を伸ばす。でも、その手が少し震えていることに気づいて、俺は大きくため息をついた。いざ、資料を読み込もうとして気後れしている。そんな自分に気づいて、俺は一度、拳を握った。
 この気後れの原因がなんなのか。それは俺の中に、断片的に残っている記憶が原因だってわかっている。はっきりしない事故の記憶の中で、嫌っていうぐらい鮮明に残っている幾つかの光景。それが本当に真実なのか。それを確かめることを、どこかで怖がっている。

 この記憶が正しいものなのか、と言われると正直言って自信はあまりない。
 ちぎれて消えていく木の葉。舞い散っていく光の中で、「それ」を必死でつかもうとしたのは真実だって思っていたけれど、それでも心の隅では夢なのかもしれないっていう思いも消せなくて。

 それが夢ではなくて、現実だって思い知らされることが怖いのか。
 それとも夢であって、現実じゃないって知らされる事が怖いのか。
 正直な所、自分自身でもわからないけれど。

「……でも、何を今更」
 何を今更、びびってるんだ。自分自身にそう言い聞かせて、もう一度固く拳を握った。

 今、こうして、改めて事件の詳細を知ろうとしている。
 それは事件の真相と、自分の記憶を照らし合わすためなのに。

 それが、綾への気持ちを決めることで必要なことなのかどうかは、本当のところはわからない。綾からしてみれば、ただの時間稼ぎにしか思えないかもしれない。そんなこといいから、さっさと答えを出せ、というあたりが率直な気持ちになるのではないだろうか。

 でも、あの事件のことに。
 でも、あの事件の記憶に。
 いつまでも、本当のところで、目を背けたままで。いつまでも、自分の心に、蓋をしたままで。自分の記憶と感情をねじ曲げたままで、あいつの真っ直ぐな気持ちを受け止められる気がしなくて。

 だから、俺は。

「……よし」
 もう一度、声に出してから覚悟を決めて。俺は一人、俺と綾の世界を変えてしまった、あの事件の記録に指先を触れた。


/5.セリアと綾(篠宮鈴)

 生徒会室の中には、言い知れない静寂が鎮座していた。
 窓から差し込む夕日が形つくる人影は、微動だにせず、ただ硬い床の上に陰を刻む。音さえも遠く、息さえも凍ってしまったかのような張り詰めた静謐は、しかし、それほど長く続かなかった。

「おっしゃっている、意味が、わかりません」
「あら、そう? 言葉通りの意味なんだけど」
 困惑と動揺と、そして苛立ち。そんな感情が浮かぶ声で絞り出された綾さんの言葉。それを受けても、セリアは平然とした態度を崩さない。

「ですから、意味がわかりません。私は、兄さんが好きって言ったばかりです。なのに、どうして会長さんのものになるっていう話が出てくるんですか」
「あなたが、良さんを好きなのはわかったわ。でも、良さんだけを好きにならないといけない理由はないでしょう? だから、こうして提案しているんだけど」
 兄のことを好きなままでいいから、私のものになりなさい、と。つまりは、それがセリアの提案だった。

「……セリア」
 セリアにはセリアの考えがあるのだろうけれど、綾さんにしてみれば、あまりに唐突で、そして不躾な提案だろう。そう考えて思わずセリアを諌めようと声を出した私に、セリアは短い一瞥を投げた。
 『わかっているから、黙って見ていて』と。視線だけで私に釘をさして、セリアは再び綾さんに言葉を向ける。

「どうかしら、悪い提案ではないと思うのだけど」
「悪い提案というか、私には冗談にしか聞こえません」
「そう? 良い話のはずなんだけどね。あなたにとっても……良さんにとっても」
「……っ!」
 いつもと同じ、何気ない口調のままで告げられたセリアの言葉に、しかし、目に見えて綾さんの表情が強張った。そして、私も自分の顔が引き攣るのを自覚した。

 『良さんにとっても』
 その言葉を聞いて、おそらく綾さんと私は、同時にセリアの提案の意図を理解したのだと思う。
 もし仮に、綾さんと神崎良さんの二人が……二人共がセリアのものになるのなら。二人はセリアを介することで、結ばれることもできるのだ、と。おそらく、セリアはそう言っているのだ。

「……おっしゃっている意味が、わかりません」
 そして、そんなセリアの意図を理解したはずなのに、綾さんは先ほどと同じ台詞を繰り返した。気丈にも平然を装った彼女の言葉は、それでも隠し切れない動揺に微かに揺れていた。

「本当にわからない?」
「……」
「ごめんなさい。意地悪な聞き方だったわね」
 口をつぐんだ綾さんに、セリアが少し口調を改めて、謝罪の言葉を口にする。

「だけど、もう一度言うわ。私のものになる気はない? 悪い提案ではないと思うのだけど」
 セリアが言うように、確かにそれは、『悪い提案』ではないのかもしれない。なぜなら、それはある種の抜け穴だから。
 血の繋がった兄妹同士の婚姻は基本的に認められていないが、兄妹が同じ相手と婚姻関係を結ぶことは、おそらく禁じられてはいない。勿論、無条件で認められるはずはないだろうが、乗り越えなければならないハードルの数は、兄妹が直接結ばれる場合に比べれば、明らかに減るだろう。

 そう考えるのなら、綾さんにとっては実の兄と結ばれる道筋ができることになる。その意味では、この提案には利点がある。そして、彼女の兄である神崎さんにとってみれば……実の妹の想いを、正面から受け止めるなんて言う重すぎる選択から、逃げることができる。あるいは、それがこの話の一番の利点なのかもしれない。

 今、綾さんがセリアの目の前で、言葉を失って立ちすくんでいるのも、綾さん自身がその事に……実のお兄さんに対する負担のことに思い至っているからではないだろうか。
 もっとも、これはただの私の推測でしかないけれど。

「……会長さんは」
「?」
 痛みを孕むようなしばらくの沈黙の後。セリアの真意を見抜こうとするかのように、綾さんはまっすぐにセリアを見据えて、静かに口を開いた。

「会長さんは、本当に、好きなんですか?」
「ええ、以前から言っていたでしょう? 私はあなたを気に入っているって」
「そうじゃありません」
 柔らかに、まるであやすかのような響くセリアの言葉を強い調子で遮って、綾さんは首を横に振った。

「会長さんは、あなたは、本当に、兄さんのこと……、兄さんのことが、好きなんですか?」
「……そうね」
 それは、セリアの提案の内容を考えれば、当然すぎる問いかけだっただろう。
 綾さんがセリアのものになるだけでは、「悪い提案」にしかならない。神崎さんもセリアのものになって初めて「悪い提案ではなくなる」のだから。なら、本当にセリアが神崎さんを手に入れたいと願っているのか。つまり、彼に好意を寄せているのかは、綾さんとしては当然確認しなければならないことだろう。
 しかし、そんな当然予想できていたはずの問いかけに、セリアは即答すること無く、しばし、言葉をつまらせた。小さな迷い……あるいは、微かな恥じらいのような。そんな微妙な表情を覗かせながらも、セリアを平静を装った声で綾さんに返事を返した。

「そうね。良さんは面白い人だから、少なくとも嫌ってはいないわよ」
「そんな曖昧な答え止めてくださいっ!」
 セリアの返答に綾さんは語気を強めた。そして胸に手を当てると、セリアを睨みつけるように視線に力を込める。

「はっきり、答えて欲しいんです」
「はっきり?」
「はい。兄さんのこと……兄さんのこと、好きなら好きって、はっきり言って欲しいんです」
「私は別に」
「嘘です!」
「嘘じゃないわよ」
 声を強める綾さんに、セリアは少し拗ねたような声で答えた。

「だって、わからないんだもの」
「え?」
「だから、私、男の人を本気で好きになったことなんてないんだもの」
「え……え?」
「だから、わからないの。はっきりとわかるのは、嫌いじゃないっていう感情だけ」
 拗ねるようなセリアの返事に、綾さんが毒気を抜かれたように、しばし、ぽかんとした表情を浮かべる。
 ……まあ、自分から「私のものになりなさい」といっておきながら、好きという感情がわからない、なんて言い出せば、綾さんが呆れてしまうのも無理はないかもしれない。
 ともあれ、セリアの言葉は嘘じゃない。私の知る限り、セリアが男性に好意を寄せたことはないはずだった。去年の速水龍也との一件をはじめとして、セリアが男性を自分の傍に置いた、もしくは置こうとしたことはある。だけど、それはあくまでも「気に入った」からであって、多分「好きになったから」ではない。
 そして。それは、きっと女性に対しても同じ事なのだろう。だから、セリアは本当に。誰かを好きっていう感情を、知らないのだ。

 『気に入っている』『傍に置きたい』。
 そんな感情はわかっても。胸を締め付けられるぐらい、誰かのことを想って焦がれるなんて言う感情を、きっとまだ、セリアは知らないのだ。……少なくとも、今はまだ、自覚できては、いないんだろう。

 そんな考えに、胸が軋むように傷んだ。

「気を悪くしたのなら御免なさい。でもね、綾さん。それが私の正直な気持なの」
「そんないい加減な―――っ」
「そうね、いい加減かもしれない。でも、今のあなたに、嘘の気持ちを告げるほど、私も馬鹿じゃないわよ」
「……っ」
 セリアには珍しく正直な、だから誤魔化しのない素直な言葉。それを向けられて、綾さんは言葉を詰まらせる。そんな彼女の様子に、何故か「ああ、神崎さんの妹なんだな」なんていう思いが私の頭をかすめた。

 セリアの提案は、悪い提案じゃないと言いながら、ある意味は「宣戦布告」のようなものだ。だって、綾さんからしてみれば、一旦は最愛のお兄さんをセリアが奪い取る形になるのだから。なのに、そんな言葉を向けてくる相手の気持ちをはかってしまうなんて所は……神崎さんのように、お人好しだと思えてしまった。

 そんな綾さんの心のなかで 果たしどんな葛藤があったのかはわからない。

「……せっかくのご提案ですけど、遠慮します」
 ただ、長い沈黙を挟んで、セリアの提案を拒絶した彼女の声は、もうそれ程、刺々しくは聞こえなかった。そんな綾さんに、気を悪くした様子もなく頷いて、それでもセリアは静かに、優しく言葉を続けた。

「そう。じゃあ、今の話は忘れて―――と、言いたいところだけど、出来れば覚えておいて。今は、きっと必要ないって思っているでしょうけれど。追い詰められた時の選択肢は、あるに越したことはないでしょうから」

 誰にとっての選択肢なのか。
 それを口にしないまま、セリアはその視線を、綾さんから外して窓の向こうへと向けた。

 今この場にいない人。まるで、その人を思い浮かべるような表情を、その瞳に湛えて。


/6.惑う記憶と彷徨う想い(神崎良)

「……ふう」
 復号器から指を離した途端、疲れに強張った息が、自然と唇から漏れた。
 この手の復号器で本を読むと、一度に色んな情報が頭の中に入ってきてしまうので、消化不良気味になってどうしても疲れてしまう。なんだか、頭の奥のほうがズキズキと鈍く痛んでいるのも復号器の副作用なんだろうか。レンさんや龍也ならこんな風にはならないんだろうけれど。

「こういう所はやっぱり紙の本がいいなあ」
 痛みを紛らわすように魔法院の学生としてあるまじき発言を口にしながら、俺はどっかりと椅子に腰を下ろした。そのまま視線を薄暗い天井に向けてから、目を閉じる。

 まだ整理しきれていない部分もあるけれど、事故の公式記録に直接触れて、収穫というかわかったことは大きく二つある。

 一つは、教えられてきた事実が、ほぼ記録されている通りのものだったということ。
 二つは、記録されている事実が、俺の持っている記憶とは、少し異なるということ。
 その二つ、だ。

 バラバラになったパズルのように断片的だった記憶。それが復号器で読み込んだ記録に合わせるように、パチパチと繋がりを取り戻していったのはわかる。でも、パズルを復元させるお手本となった記録と、その記憶を元に組み立てられた記憶の姿が、どうしても合わない。

「この場合、どちらを信用するべきかといえば……やっぱり、公式記録の方なんだけど」
 ため息混じりに呟いて、頭の中にある鈍痛を追い出すように軽く頭を振る。それでも頭痛は消えなくて、閉じた瞼の裏、辻褄の合わない記憶が浮かんで消えた。

 記憶と記録。その二つは、大枠の部分で違うわけじゃない。
 例えば、記録によれば、事故の瞬間、望遠鏡を覗いていたのは、綾だった。それは俺の記憶とも符合する。
 父さんに支えられて、望遠鏡を覗き込む妹の背中。それを焦れた想いで見つめる俺に、母さんが「お兄ちゃんなんだから、少し我慢してね」と諭す声をかける。そんな記憶は確かに俺の中にあった。
 ……まあ、読んだばかりの記録に刺激されて、記憶が改変されてしまっている可能性は否定出来ないけれど、今はそれを気にしても仕方ない。それに記録と辻褄を合わせるように、記憶が変わってきているのだとしても、肝心の事故の瞬間の記憶が、記録とは合わない方が問題だった。

 事故の記憶。
 空を埋め尽くす世界樹の雨、冗談みたいに大きい世界樹、目も眩むほどの光。消えて行く人影。掴んだ手と、掴めなかった手。

 そのいくつかは記録にあるのに、そのいくつかは記録にない。

「やっぱり、夢なのかな」
 呟きにつられるように、ずきん、とまた鈍い痛みが頭を刺す。それを振り払うように頭を振って、俺は再び事故報告書の内容を思い起こした。
 
 事故報告書には、当時の関係者による証言も記載されており、その中にはまだ小さかった綾や俺自身の言葉も記載されている。しかし、「二人共、記憶の混乱が見られ、証言としての有用性には疑問がの残る」との注釈が付けられているあたり、あまり重要視されていなかったのかもしれない。

 俺と綾の証言で共通しているのは「光(おそらくは世界樹の葉)がいっぱいあった」という記述。その他で目立った証言といえば、例えば次のような証言だろう。

 綾曰く、「お兄ちゃんに助けてもらった」。
 俺曰く、「お母さんを助けられなかった」。

 そして、このどちらの証言も、俺と綾が混乱していると判断された原因でもあるようだった。

「まあ……そうだよな」
 ズキズキと鈍く響く頭痛を堪えながら、閉じていた瞼をゆっくりと開ける。保管庫の薄暗い照明を瞳に捉えながら、考えを巡らせた。
 父さんも母さんも、東ユグドラシル魔法院を卒業した立派な魔法使いだ。そんな二人を差し置いて、まともに魔法を使えるわけもない初等部の子供がどうやって綾を助けたっていうのだろう。だから、警察の人が俺たちの言葉が、混乱の産物だって判断したのも無理もないことなのかもしれない。

 そもそも、俺の記憶の中で、一番、鮮烈に残っているのは、溢れ出る光の中で、必死に手を伸ばしたという記憶だ。
 でも、父さんの姿は、光のなかに飲まれてしまって、直ぐに殆ど見えなくてしまって。
 だから、まだ見えていた母さんと綾の手を掴もうって、ただ、それだけを思って。それで、綾の手を掴んで。そして、母さんの手を―――。

 ―――そして、母さんの手を掴み損ねたっていう、そんな記憶。

「……っ」
 ズキン、ズキン。
 思い出した光景に、頭痛が一際、酷くなる。今まで忘れたことなんかなかったけれど、事故の報告書に触れたせいか、今までより鮮明に、あの時の記憶が脳裏に蘇ったからかもしれない。でも―――。

 でも、報告書のどこをひっくり返してみても、俺の記憶が事実だなんて示してくれる記述も記載も見当たらない。当たり前といえば、当たり前だろう。大人たちが対処できなかった事故なのに、子供が手を繋いだぐらいで、あの事故から人を救うことなんてできたはずがないんだから。

 だから『母さんを助けられなかった』なんていう記憶は。
 俺の中でずっと、俺の心をずっと縛って、そして……支えてきたあの光景は、どこにも真実として記載されていない。

 なら、やっぱり。この記憶は、事実でも、真実でもないのだろうか。

 勿論、そんな俺の記憶を現実的に解釈することはできるんだろう。例えば、事故報告書には、俺の証言は「事故後の記憶との混同の可能性が高い」と記載されている。
 父さんや母さんが命がけで俺達を助けてくれて。助かった俺は、妹をあやすためにその手を握り、抱きしめた。あまりに衝撃的な事故だったため、事故の最中の記憶と、事故後の記憶が混ざり合い、「世界樹の魔力の暴発の中から、俺が綾の手を握って助けた」という記憶が捏造されたのではないか。そんな報告書の解釈は、言われてみれば、その通りかもしれないと頷いてしまうものだった。そもそも、そうでなければ、辻褄は合わないんだから。

 ……逆に言うのなら、そう考えさえすれば辻褄は合うはずなのだけど。でも、その考えにまだ納得出来ない自分がいる。
 そんな想いに、俺は薄くまぶたを開く。そして、薄暗い書庫の照明に、いつしか固く握りしめていた右手を開いて、かざしてみた。

 俺はずっと「父さんと母さんを助けられなかった」と思っていた。
 あの時、この手で母さんの手を掴めさえすれば、きっと助けられたはずなのに。この手で母さんの手を掴めなかったから、助けられなかったって、ずっと思っていた。

 もう綾にも、レンさんにさえ言うことはないけれど。でも、それはずっと俺の中にある思い。
 母さんに、父さんに、レンさんに。そして……なにより綾に対する、引け目であり、負い目であり、拭いきれない罪悪感。普段は意識しないようにしていても、心のどこかでわだかまっていた想い。

 でも、それは全部、事故中と事故後の「混ぜられた記憶」によるものなのだろうか。

 そうなのかも知れない。
 そうだったら、良いと思う。でも、そんなのは―――。

「……うっ」
 ……駄目だ。しっかりしろ。
 流されそうになる思考を押しとどめるように、自分に言い聞かせて、大きく息を吸う。
 今日、ここに来たのは、自分の気持ちをはっきりさせるためだ。ずっと目を背けて、蓋をしながらも、ずっと引きずってきた気持ちに、きちんと決着を付けないといけいないって思ったから、ここに来たんだ。
 そうでないと、応えるにせよ、拒むにせよ、ちゃんと胸を張って綾の気持ちに向き合えない。

 綾への想いが。妹への気持ちが。
 ただ、あの時の罪の意識に引きづられてのものだなんて、思いたくなくて。
 なのに、その罪悪感の正体はただの記憶のすり替えにすぎないかもしれないってことを、受け止めきれなくて。

 これじゃ。こんなんじゃ、なにも―――変わらないし、変えられない。

 収まらない頭痛に苛まれながら、それでも、気持ちを整理しようともう一度頭をふった。その刹那。

「……いや、待て」
 不意に記憶の中に、符号を見つけた気がして、俺は一人息をのんだ。
 鮮明になった事故の記憶。そのなかの光景って、どこかで「別の場所」で見なかったか。

 溢れる光の中。舞い散る世界樹の雨の中。そして……馬鹿みたいに大きな世界樹の影。
 そんな夢の様な風景の中で、『誰かに触れる』なんて、誰かに話せば、夢物語だと笑われてしまいそうなことだけど。でも、よく考えれば、その光景とその感覚は……

 ひょっとして、あの時、会長さんとの―――。

「……さん。神崎さん!」
「え?」
「大丈夫ですか?」
 不意にかけられた声に気づいて顔をあげると、そこには気遣わしげな表情を浮かべる司書のおじさんの顔があった。

「大丈夫ですか?」
「え? はい、なんでしょうか」
「いえ、ですから……大丈夫ですか? 随分と青い顔をされていますが」
「え? あ、はい。大丈夫です……っ」
 答えた瞬間。一際大きな頭痛がして、俺は思わず顔をしかめて言葉をつまらせた。額を指す痛みを抑えようと、額に手を当てると、自分でもびっくりするぐらい冷たい汗に濡れていた。

「あまり、一度に記録に触れないほうがいいかもしれません」
 そんな俺の様子に、司書さんは落ち着いた態度で、ハンカチを差し出してくれた。

「あ、ありがとうございます」
「魔法の本、というものは便利ですけどね。少し便利すぎます」
「え?」
「少しずつ、受け止めていって上げて下さい」
「……はい。ありがとうございます」
 落ち着いた色合いのハンカチと、なにより優しいその言葉を受け取りながら、俺は司書さんに深く頭を下げた。司書さんの言葉と手慣れた様子からすると、事故の記録をみて、こんな風に取り乱す人は多いのかもしれない。

「あの、ありがとうございました。この復号器、返却します」
「はい。ありがとうございます」
「あ、ハンカチは洗って、今度持ってきます」
「ええ。そうしていただけると助かります。私にしては良い品物なんですよ、それは」
 冗談めかしてそう答える司書さんだったけれど、ふと何かに気づいたように表情を変えた。

「ああ、そうそう。神崎さん。神崎良さん……でしたね?」
「え? あ、はい」
「あなたに伝言をお預かりしていたんです」
「僕にですか?」
 図書館に知り合いはいない。そう訝る俺に、司書さんは少し気まずそうな表情を浮かべて頷いた。

「ええ。もし、あなたがこの記録を見に来るようなことがあれば、この手紙を渡して欲しいと頼まれましてね。本当は、こういうことはしてはいけないんですが……」
 と、声を潜めながら司書のおじさんは、背広のポケットから便箋のようなものを取り出した。特に変哲のない便箋。目立った点といえば、署名が赤いインクで記されているあたりだろうか。血のような赤ではなくて、さながら夕日を思わせる紅の色で、こう記されていた。

 紅坂カウル。

 俺が、その存在をはっきりと知ったのは、多分、この時が初めてだった。

(続く)

(続く)

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