0.

 神崎綾が生徒会への参加を申し込んでから三日が経過しようとしていた。

 中等部の頃から成績優秀・品行方正で通っていた彼女の申し出は、高等部生徒会でも諸手を挙げて歓迎された。
 生徒会役員の中には、綾の兄である神崎良と会長である紅坂セリアとの間にあった去年の諍いを知るものもいたが、そういった人々も綾の参加に大きな懸念を示すことは無かった。むしろ敵対者の妹をして慕わせる会長の人徳を示すものとしてプラスの方に受け止めるものがほとんどだったのだ。
 会長自身が前日に見学を勧めていたこともあり、神崎綾は会長、副会長および会計補佐の三名による推薦を申し込み当日に取り付けることに成功し、以て生徒会準役員として生徒会活動への参加が認可されることになった。(なお正役員として新任されるには、夏休み前の全校生徒による信任投票が必要となる)。
 つまり神崎綾の生徒会への参加は事実上なんの障害もなく認められ、現在の、彼女を取り巻く環境は順風満帆と言えた。

 ただ一点、神崎綾本人がこの現状に、不満を抱えている、という点を除いては。


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  魔法使いたちの憂鬱

           第六話 ブラコン娘の憂鬱

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1.歴史学授業(神崎綾)

「魔法はいかにして生まれたのか。この問いに対する答えは、未だ用意されていません」
 授業終了の予鈴まで、あと5分。本日の授業予定が早めに終わったからか、白髪のファーラム先生は「余談ですが」と断りを入れてから、そんな問いかけを生徒に向かって投げかけた。もうすぐ定年を迎えようかという先生の声は、低くしわがれていて、それでも不思議と良く耳に届く。
 でも、今の私はそんな先生の声をどこか遠くに聞いていた。それは、胸に抱え込んだ鬱々とした感情の所為なのかも知れない。

 ……兄さん、どうしてるかなあ。
 鬱々とした感情の原因であるその人の事を脳裏に描きながら、私、神崎綾はこっそりとため息を零す。けれど、そんな私の内心と講義は当然関係ない訳で、どこか胡乱なままの私の意識に、ファーラム先生の講話が耳に流れ込んでいる。

「生命が生まれた理由、人が生まれた理由。あるいは宇宙が生まれた理由が明白でないのと同じように、です」
 ファーラム先生は車椅子に腰掛けたまま、魔法でチョークを操って黒板に大きく「理由」と書き記す。

「聞き飽きた、と思われる方も多いでしょうね。あるいは、聞きたくない、という方もおられるかも知れません」
 穏やかな声でそう言いながらファーラム先生は、私たちを見回した。つられて私も教室中にぼんやりと視線を巡らせてみる。確かに「うんざりだ」という表情や、それどころか「迷惑だ」という表情の生徒が数人居た。他にも中々に判断の難しい表情をした級友たちが居るようだった。
 ……どちらかといえば、私もこの話題は食傷気味かもしれない。なにしろ二週間に一回はこの手の「余談」を生徒たちに投げかけるのがファーラム先生の癖だったから。当の本人もそれは自覚しているのか、あまり好意的でない生徒の反応に気を悪くした様子も見せずに、先生は頭髪と同じ色に染まった顎髭を撫でつけながら頷いた。

「確かにこれはカリキュラムの範囲外です。そして安易に触れるべき話題ではない事も事実です。しかし、これは大切な問いかけです。皆さんが、魔法院の学生たるを志すならば、とても大切な問いかけなのだと、私は信じます。現時点での魔法学、そして科学で答えが導けないからと言って決しておざなりにして良い問いではありません」
 ……確かに大切な問いかけではあるのだろうけれど。
 高等部に入学してから早二ヶ月。すでに5回は聞いた先生のファーラム先生の台詞に、今の私は特に感銘を受けることもなく、教室の壁に掛けられた時計を視界の端で捉える。予鈴まであと4分。「余談」は、少なくともその時間は続くのだろう。多分、いつも通りに。

「魔法が生まれた理由。それは未だ解けない問いですが、魔法がいつ生まれたのか、については私たちは答えを用意することができますね。さて、それはいつでしょうか」
 何人かの生徒が時計に視線を向けているのに気づいていないのか、気づいていて無視しているのか。相変わらず蕩々とした口調でファーラム先生は語り続けて、「では」、と最前列の名前を呼んで、解答を求めた。
 指名されたのは背の低い丸刈り頭の男子生徒。俊敏な体育会系といった雰囲気の彼は、やや戸惑ったように声を詰まらせてから、それでも先生の視線に押されるようにおずおずとその答えを口にする。

「えーと……『空白期』です」
「そうですね。私の歴史に刻まれている『空白期』。これが魔法が発生した時期であると考えられています。現在では、常識とさえ考えられていますね」
 空白期。
 先生が繰り返した言葉に、何人かの生徒が鼻白んだのが分かった。まあ、それも無理はないんだろうなあ、ってその雰囲気を肌で感じながら、私はぼんやりとした思考のまま頷いたりした。なぜならその辺りは、学問と宗教の境界線だから。少なくとも高等部の授業で軽々しく扱うような話題じゃないんだろうと思うし、「常識」と言い切ってしまうのもいろいろと語弊があるんじゃないかな、って思う。私はあまり気にしないけれど。

「空白期とは、その名前の通り、歴史の断絶を指す言葉です。私たちの歴史は、その期間の記録を失っており、つまりは連続しては居ないのです」
 歴史は連続していない。冗談みたいな話だけれど、大まじめな話。なにしろ今一番信頼性の高い学説と考えられているらしいから。

「連続していない、という言い方は更に語弊を招くかも知れませんね。続いているのか、続いていないのか。その議論さえ、未だに決着はしていないのです」
 ファーラム先生の言葉に無意識に刺激されたのか、私はぼうっと今まで習ってきた歴史学の知識を脳裏でパラパラと紐解いた。
 歴史が連続していない、ということはとりもなおさず、その期間の記録が無い、ということ。今現在、この歴史は「世界暦」という暦で綴られている。現在は、世界暦397年。あと三年でめでたく世界暦が生まれて四百周年ということになり……そしてそれはとりもなおさず魔法が生まれてから400年が経過した、ということでもある、『らしい』。

 では、今から四百年前。今の暦、つまり「世界暦」が始まる以前には、世界はどのような暦で歴史が記されていたのか。実のところ、はっきりとした解答は用意されていない。それがファーラム先生に言わせれば「歴史は連続していない」という事になんだろうと思う。いくつかの有力な説みたいなものはあるようだけれど、現時点で一番「尤もらしい」と母さんが評していたのは、世界暦の前には「西暦」と記されていた時代があった、という説。

 「西暦」。
 世界に魔法という存在が無かった時代……という事になっている。つまり世界は純粋な物理法則のみで運営されていたという時代。まるで実感はわかないけれど、そういう時代があった可能性を示す痕跡が、世界の各地で見つかっている、との事だった。
 見つかっているものが本当に証拠たり得るのか、正直なところ私には分からないけれど。だって、母さんの話によると「西暦」の遺物と見なされる書物に記された世界地図と、今現在の世界地図ではまるで様相が違うらしいから。
 それはともかく、じゃあ、西暦の終わりに何が起こったのか。どういう出来事があったから世界暦という暦が作られたのか。科学、という名のルールのみで運営されていた世界が解れて、その隙間に魔法という名前の法則が編み込まれたのは何故か。
 これらについての答えは、ファーラム先生が穏やかに嘆いている通り、未だ用意されていない。何故、そんな事態になっているのか。詳しい理由は私に分かる良しもない。

「西暦と世界暦をつなぐ期間。そして魔法というシステムが世界に編み込まれた時間。その空白期の謎をひもとくことこそが、私たち魔法使いに与えられた大きな使命とも言えるのです」
 相変わらず、ファーラム先生の発言は穏やかだけれど、言っている内容はかなり剣呑だなあって思う。実際、クラスメートの中には、怒りに似た視線を先生にたたきつけている子もいるぐらいだから。

 そんなに怒ることでもないような気もするけれど。でも、ファーラム先生も余計なことを言うよね。「空白期」なんて本当にデリケートな話題なのに。
 私はため息混じりに、怒れるクラスメートの顔を盗み見る。想像に違わず、彼女は「信心深い」家柄の娘だった。つまり神様の領域を平然と「暴け」とけしかけるファーラム先生に、信仰心が刺激されまくっているのだろう。彼女は。

 終わりの分からない過去。始まりの分からない現在。
 その二つをつなぐ鍵を宗教……つまりは「神様」に求める、という思考は、それほどおかしなものじゃない。というか、その考え方がこの世界において大半を占める、と言っていい。

 だって、考えてみて欲しい。空白期とは何かわからない。だけれど、その時代を境界にして世界のあり方は変わってしまったのはどうやら事実らしいのだ。先ほどの世界地図がもし正しいのなら大陸の形と数さえ変わってしまっていることになる。なら、そんなことを出来るのは誰だろう? 少なくとも人間にできるような事じゃない、って言えば百人中九十九人は首を縦に振ってくれると思う。世界から時間を切り取って、そしてその中に魔法なんて言う法則を忍ばせるなんて、人間に出来るわけ無いんだから。

 じゃあ、誰が? 答えは簡単、「神様」、なのだ。

 ほとんどの人にとってそれはあまりにも自明で、至極当然のものとして受けて止められている。世界を作り替えるなんて真似ができるのは神様だけ。だから「空白期」とはすなわち、「神様が世界を作り替えた時間」って考えられて居るのは当たり前の話だって思う。
 とても単純で、明快で、誰もが受け入れる答え。だから「空白期」に対する研究は、タブーでもある。だから、そこに人間が触れて良いはずはない……世界にいくつか大きな宗教は存在するけれど、そのいずれもが神様に対する畏怖から空白期への研究を禁忌として戒めているから。

 この東ユグドラシル魔法院は、一応「宗教分離」を謳っているので、ファーラム先生みたいに「空白期」に踏み込んで研究することを諫めることはできない。でも、現実問題として魔法院内にいる全ての生徒・教職員が無宗教というわけじゃない、というか、無宗教である人の方が少数派かもしれない。だから、正直、この手の話題を授業中に振るのは止めて欲しいなあって思うんだけど。

「空白期……、かあ」
 こっそりと口の中で呟いたその単語に、私はいつもとは違う感情を抱いていた。勿論、私こそが空白期の謎を暴くのだっ、なんてファーラム先生が感涙してしまいそうな決意に目覚めた訳じゃなくて。その言葉に、今の私の境遇を重ね合わせて、ちょっと明るい未来を夢想してしまったからだった。

 空白期。
 それはその前後で大きく世界のあり方を変えるために必要だった時間。だから……

「私も、頑張らないと」
 神様みたいな力は無いけれど、それでも胸に抱いた想いなら神様にだって負けない。
 だから、今。私が兄さんとの間に置こうとしている距離が、私たちの二人の「空白期」になるのなら、この時間が過ぎ去った後、私たちの二人の関係は劇的な変化を遂げるはずなのだから―――。


2.神崎家の夕食後(神崎蓮香)

「……でも、もう、駄目、かも」
 夕食後、良と入れ違いにリビングに姿を現した綾は、先ほどまで良が座っていたソファーに倒れ込むと息も絶え絶え、といった風情でそう呟いた。

「……駄目、かも」
「……」
 うわ言のように弱音を零す娘に、さてどう対応したものかと考えながら私はとりあえず黙ってコーヒーをすする。

「限界」
「……」
「死んじゃう」
「……」
「生徒会、止めようかなあ」
「………………あのなぁ、綾」
 ソファーに顔を埋めながらくぐもった声で泣き言を漏らす娘に、私は軽い目眩を覚えて頭を抑えた。まさか兄の残り香をかいでいるという訳じゃないだろうが……いや、そうではないと信じたいのだが。

「生徒会に参加を申し込んでまだ三日だろう?」
「そうだけど」
「それとも生徒会で耐えきれない仕打ちでも受けているのか?」
「そうじゃないけど……うう、母さんにこの辛さ、わからないのかなあ」
 弱音を吐くのが速すぎる、と諭す私に、綾は半病人よろしく、ふらふらと頼りなくソファーから上体を起こす。そして何故か恨みのこもった視線を母に投げかけつつ、呻くように言った。

「もう三日も、兄さんとのスキンシップが無いんだよ?……うう、枯れそう」
 本気で辛そうに呟いて、くたり、と綾は再びソファーに崩れ落ち、クッションに顔を埋めた。
 ……どこまで、根性がないんだ。この娘は。
 いつもの優等生ぶりは猫かぶりだったのか、あるいは、単に本当に兄のことに関しては耐性がまるっきり無いのか。おそらくは後者だろうな、と嘆息しながら私はソファーを立って、倒れ伏す娘の頭に手を置いた。

「もう三日も、じゃなくて、まだ三日、だ。見たところ、別に魔力の欠乏も淀みも無い。まだ魔力交換は必要ないだろう?」
 そう指摘する私に、綾はソファーに寝そべったまま顔を上げて、唇をゆがませる。

「そうだけど、そういう問題じゃないんです」
「あのね、綾。そもそも生徒会に入った目的が何か、わかってるのか?」:
「わかってる。わかってるけど……っ!」
 ぽんぽんと額を叩く私に、かみつくような勢いで言ったかと思うと、綾はそこで言葉を止めて。

「つらいよう」
 と何度目かの泣き言と共に、三度ソファーにその顔を埋めるのだった。

「……まったく」
 ……この娘は。僅か三日でへこたれる娘に、今までの教育方針を顧みて、忸怩たるものを感じてしまう。
 まあ、兄が絡みさえしなければ、至ってまともな娘なだけに、悩ましいところではあるけれど。今も殊更、幼い言動になっているのは単に私に甘えに、というか愚痴りに来てガス抜きをしているだけの部分もあるだろう。流石に本気で三日で投げ出すほどに無責任な娘に育てた覚えはないのだから。
 ………………多分。

「ねえ、母さん」
「なんだ?」
 頭をよぎった微妙な予感を振り払いつつ、私が隣に腰を下ろすと、綾は体を起こして声の調子を改めた。

「あのね、ちょっと聞きたいんだけど」
「うん?」
「……効果、出てるよねっ?!」
「…………効果?」
「だから! ちゃんと兄さんに効果出てるよね?!」
「……」
 まだ三日だ、と言ったばかりだろうに。この子は。
 思わず額を抑える私に、しかし、綾はすがるような視線を向けて、なおも言葉を重ねる。

「兄さん、寂しがってる?」
「うーん」
「嘘、寂しがってない、の……?!」
「いや、寂しがってはいるよ」
「本当?!」
「本当」
 頷きながら私は今晩の良の表情を思い起こす。……まあ、多少は寂しくは思ってはいるだろう。あくまで兄として。

「私のこと、何か話してた?」
「ああ。そりゃ夕食の時にはほとんどお前の話題だよ」
「ほ、本当?! 私のこと、ちゃんと気にしてくれてた?!」
「ああ」
 そりゃ生徒会への参加を勧めたのは良自身だから、気にするだろう。あくまで兄として。

「どんな風に?」
「どんな風にって、そりゃ……うまくなじめているかなって心配してたよ」
「ああ、違うの、そう言うんじゃなくて!」
「そう言うんじゃなくて?」
「だから……その……」
 問い返す私に、綾は僅かに頬を赤くしながら言葉を濁す。
 ああ、もう。この期に及んで照れるかなあ、こいつは。思わず抱きしめたくなったが、ぐっと我慢して耐えることしばし。意を決したように……というには控えめな視線を私に向けて、綾はおそるおそる、という声で私に問いかけた。

「や、焼き餅とか焼いてない……かな?」
「さて。良もお前の現状を知らないわけだからね。焼きようがないんじゃないか?」
 まあ、まず間違いなく「焼き餅なんて焼いていない」と断言できるが。流石に事実そのままを突きつけて、その目に爛々と輝く娘の希望を叩きつぶすのは、多少躊躇われるので止めておく。
 ……ちょっと言いたいけれど。流石に今言うと泣きそうだしな。

「そっか……まだ兄さんは嫉妬に狂ってはくれていないんだ……」
「……」
「じゃあ、まだ頑張らないといけないんだね。うう、辛いよう」
「……」
 ……娘よ。多分、このままいくら頑張ってもお前の兄が嫉妬に狂うなんてことはないと思うんだ、母は。
 流石に不憫になってきたので、ちょっと綾の行動の方向性を修正してやろうと私は言葉を探す。

「なあ、綾」
「うう、何?」
「あー、その、なんだ。最初から少しとばしすぎじゃないのかな」
「……とばしすぎ?」
「まあね」
 なにしろ綾は生徒会入りを決意した翌日から、なるべく良と顔を合わせないように工夫を凝らしていた。
 朝は良より早起きし、先に一人で登校する。昼食も兄のところへ顔を出す、という行為は控えているようだし、夕食に至っても、「兄さんと先に食べていてください」と私に頼み込んで、顔を合わさずにすむように工作までしていた。
 つまり良との間に距離を置くために「本当にしばらく顔を合わせない」という作戦をとっているのだ。その実行力と決断力は大したものだと思わなくもないけれど、実際のところ効果があるのかと言えば、今のところ収穫なし、という所だろう。

 良が綾を心配している、と綾に言った言葉は嘘じゃない。本当に綾のことが心配、という良の気持ちは態度からくみ取れる。しかし、それ以上に「兄離れ」ともとれる彼女の行為を邪魔してはいけない、という気遣いもありありと感じ取れるのだ。
 そう「兄離れ」。綾にとっては残酷きわまりないことに綾の行動は良にとっては「兄離れ」の一環として受け止められてしまっている。つまり、綾が望んでいる「嫉妬感」とはほど遠く、ともすればほほえましい感情で綾の行動は受け止められようとしているのだ。
 ……それに。
 まだ綾には告げていないのだけれど、良の「部活」の話を聞く限り、綾の努力はまるっきり逆方向に作用しだしている可能性さえあるのだった。

「……母さん? 話聞いてます?」
「あ、うん。聞いてるよ」
 実はちょっと上の空だったけど。それを悟られまいと私は綾の髪を掌で軽く梳きながら、先の話題を続ける。

「とばしすぎ、というのはね、最初から完全に距離をとらなくてもいいんじゃないか、っていうことだよ。そうだね、夕食ぐらいは一緒にとってもいいんじゃないか?」
「そ、そうかな!」
 お預けを食らっていた子犬が、「よし」のかけ声の気配を誘ったかのように、途端、綾は目を輝かせる。綾にしっぽが付いているとしたらさぞや勢いよくぱたぱたと振れていることだろう。

「さっきも言っただろう? お前の状況を知らない事には良も焼き餅の焼きようがないって」
「あ、そっか……そうだよね!」
 私の垂らした餌に、豪快に喰らいつきながら、綾は喜色を満面に浮かべて頷いた。

「そっか、いいよね。夕食ぐらい、一緒に食べて、こっちの状況を教えないと駄目なんだよね」
「そうそう」
 実際、それで状況が好転する、とは思ってはいないのだけれど、かといって現状のあまり効果がない……、というか逆効果を招きつつある作戦を長時間とらせておくのも忍びない。
 本音を言うと、良にはこの隙にさっさとまっとうな彼女を作って欲しいという思いもあるのだけれど、その反面、やっぱり娘の恋路に多少の報いを、と願ってしまうから。
 ……親として、破綻している考えだとは自覚はしている。でも、例え、茨の道であっても。ひとひらの花びらぐらいは、頑張る娘に与えられてもいいのではないかって、どうしようもなく思ってしまう。

「……親ばか、とは言わないんだろうね、こういうのは」
「? 何か言った? 母さん」
「いや、別に何も」
 誤魔化すように小さく微笑んで、私を見上げる綾の額にそっと手を置いた。そんな私の態度に、多少は疑問を抱いたようだが、今の娘は、そんな些細な疑問より、兄と会えることの喜びの方が遙かに大きいようで、瞬く間に疑問符は彼女の表情から消えて、代わりに歓喜に近い喜色がその瞳に満ちていった。

「そっか、明日は兄さんと晩ご飯食べてもいいんだよね。あ、私が作っても、いいよね?」
「いいよ。家事を変わってくれる分にはいくらでも」
「うん。よーし、これでまた明日一日、がんばれるー」
 どこまでも兄のことしか見えていない妹。久しぶりに見たその娘の無邪気な笑顔に、私は内心でこっそりとため息をついた。
 できれば、生徒会活動で本当に兄から離れられるような出会いがあってほしいものなのだけれど……

「……まあ、なるようにしかならない、か」


3.生徒会(神崎綾)

「ふう」
「……神崎さん?」
「え?」
「溜息付いていたけど、大丈夫?」
 生徒会の書棚。其処に並べられた過去5年にわたる資料を閲覧しながら、何となく溜息をついた私に卯月さんが気遣わしげな視線を向けてくれた。卯月鏡花さん。私と同じ高等部一年で、ふわりとした茶色の髪が可愛らしい小柄な女の子。去年まで中等部の生徒会長をつとめていただけあって、面倒見が良く、生徒会に入ったばかりの私を何かと気遣ってくれる優しい子だった。
 そんな彼女に無用な心配をかけたことに、内心詫びながら、私は努めて明るい笑顔を作って彼女に頷いた。

「はい、大丈夫です。心配してくれてありがとう」
「そう? まだ慣れないだろうから、あまり無理しないで良いんだよ?」
「ありがとう。でも、本当に無理はしてませんから。疲れたら遠慮無くサボる、じゃないや、休ませて貰いますね」
 冗談交じりの笑顔に、卯月さんも安心してくれたのか、彼女も微笑んで頷いてくれた。

「うん。そうしてくれると嬉しいな。あ、あと、一つお願いがあるんだけれど」
「何でしょう?」
「うん。できれば、そういう敬語はやめて欲しいなって。ほら、私たち同じ学年じゃない」
 気さくな、悪意のない笑顔。その善意の眼差しに、ちくり、と罪悪感めいた感情が胸を差すを自覚しながら、私もなるべく気の良い笑顔を繕って返す。

「そうですね。じゃなくて、うん、そうだね……って、こんな感じ?」
「そうそう、そんな感じ」
 そう笑いあってから、再び、私たちは書棚に向き直る。
 胸にうずく罪悪感の原因。それは多分、真っ直ぐな気持ちで生徒会に入ったに違いない彼女に、恐らくは不純な動機で生徒会の扉を叩いた私が感じる引け目みたいなものだろう。
 でも、私だって……抱いている気持ち自体は半端でも何でもないんだけれど。

「……よし」
 気持ちを切り替えようと小さく呟いて、私は書棚に改めて視線を落とす。

 四日前に生徒会への参加を認められた私に、与えられた役職は卯月さんと同じく会計補佐。とはいえ、まだ暫定なので、会計補佐「候補」と言ったところ。学期末に信任されれば役職からは「補佐」の文字が外れることになるらしい。
 会計が二人に、その補佐が二人、とは随分と大げさな構成だな、と思ったけれど、現状、高等部生徒会の一番大きな役割は、予算の配分と運営という事だった。中等部よりも構成人員が増え、活動範囲・活動内容ともに高度化することから組まれている予算の額は、中等部のそれと桁が一つ違う。それ故に、部員数および活動実績を数値化し、その数字に応じて各部に配分することはもちろんだが、いかに公平性と健全性を保つかに生徒会の能力が問われており、会計には多めに人員が割り当てられる……とのこと。そして今、私の、目の前に並んでいるのは、その会計処理のための基本となる過去の予算配分および執行結果の書類だ。

 書棚に並んだ「本」の背表紙に刻まれているのは魔法の紋章。生徒会の扉に刻まれている金の校章と同じ図形が、黒の糸で本の背表紙に刺繍されている。つまりこれは「魔法の本」なのだ。
 東ユグドラシル魔法院の生徒会。伊達に世界樹の名前を冠している訳ではない―――からなのかは知らないけれど、基本的に生徒会の戸棚に収められた書類には全て符号化処理魔法が施されている、との事だった。本の頁を開くことなく、背表紙に刻まれた紋章に振れることで、中身を直接、脳内に展開することが出来る。本の頁を繰る、という風情も何も無くなってしまうが、情報を閲覧、検索する効率は段違いに跳ね上がる。ただし、「頭の中に本を展開する」という行為は誰にでも簡単にできるものではなく、一定以上の魔法技術が必要とされる。幸いにして私は、以前に母さんの書斎の整理を手伝わされた経験があるので、この手の本の扱い方は、一通りの扱い方は心得ていた。

 ……正直、兄さんには読めないだろうなあ。

 もっとも普通はこの手の符号化処理(エンコード)された魔法の本は、専用の読み取り機(デコーダー)を使うことで魔法が使えない、もしくは魔法が未熟な人でも簡単に扱うことが出来る。しかし、苟もここは魔法使いたちの学舎。生徒会規模の情報処理に機械演算の補助を頼るような横着は許されない……とは、会長の紅坂セリアさんの台詞。果たして、その台詞の通り、生徒会室に魔法を補助する道具の類はほとんど見あたらなかった。(流石に「記録」の際には魔法の持続時間の永続化が必要になるので符号器(エンコーダ)は置いてあるけれど)。さすがは、エリート集団、と目される生徒会、なのだろうか。

 ……でも、もし補助具があっても、兄さんなら、アタフタして、多分、使いこなせないだろうけれど。

「ふふ」
「……神崎さん?」
「あ、ごめんなさい。ちょっと思い出し笑いしちゃって」
「えー。何々? 何か面白いこと思い出したの?」
 アタフタしている兄さんを妄想して楽しんでいただけです、なんて流石に、正直に言うわけにもいかず「内緒」と微笑んで話を逸らしておく。

 ……ああ、兄さん、何してるかなあ。
 いつも必ず放課後は一緒にいる訳じゃない。寧ろ、兄さんは速水先輩や霧子さんと一緒にいることがだから、こんな状況、いつも通りと言えばそれまでだけど。兄さんと距離を置く、ことを妙に意識したせいか、いつも以上に兄さんのことが頭にこびりついて離れない。ぽっかりとあいた胸の空白。意識してしまえば、寂しくなって、意識しないようにすればするほど、泣きたくなる。

 ……でも。今日は家に帰ったら一緒に夕食食べられるんだよね。

 昨日の母さんとの会話を思い出して、私は自然と頬をゆるむのを自覚した。うん。夕食ぐらいは一緒に食べたって構わない。母さんもそう言ってたし。
 それにそれに。やっぱり兄さんも寂しがってると思うんだ。母さんは控えめにしか表現してくれなかったけれど、私がこれだけ寂しいんだから、兄さんだって寂しがってくれていないとバランスがとれない。というか、平然としていたら、泣く。

「というか平然としてたら……もの凄いこと、泣いてやるんだからね」
「綾ちゃん?」
「え? あ、何でもないよ」
 度重なる独り言に、卯月さんの視線が、ものすごく心配そうなモノに変わってきている気がする。うう、独り言なんて癖、今まで無かったはずなのに。
 ……兄さんの所為なんだから。うう。

 と、私が内心で兄さんに八つ当たりを始めたとき、ガチャリ、と資料室のドアが開く音がして、私と卯月さんは同時に振り向いた。
「お疲れ様。仲良くやっているみたいね
「あ、会長、副会長。お疲れ様です!」
「お疲れ様です」
 開いたドアから姿を見せたのは会長の紅坂セリアさん。そして、その背後に控えているのは副会長の篠宮鈴さんだった。二人の姿に卯月さんは元気よく一礼し、私もそれに習ってお辞儀する。

 会長と副会長。社長と秘書。お嬢様と護衛。女主人に若旦那……と最後のはいろいろと間違った思考から生まれた例えだけど。二人がそろっているところを見ると、思わずそんな例えを思い浮かべたくなるのは良くわかった。でも、噂は噂。意外と当てにはならないもので、護衛だの若旦那などと言われている篠宮さんは、とても優しい気配りの人だって言うことはこの四日で身にしみていた。今だって、きっと。

「お茶を入れました。一息入れませんか? 二人とも」
 そう予想に違わず、篠宮先輩は私たち新入生を気遣う台詞を向けてくれるのだった。これで、もう少し表情とか物言いとかが硬質ではなくて、柔らかかったら、ものすごく人気が出るんだろうな、ってそんな気がする。
 私がそんな暢気な感想を抱いている傍ら、卯月さんは慌てたようで。

「あ、先輩、お茶なら私が……」
「構いませんよ。二人に雑用を押しつけているので暇なのです、私は。たまにはお茶ぐらい淹れないとすることがありません」
「え? あ、あの、でも、そんな」
「鏡花さん。鈴は働くのが好きなのに、あなたたちに仕事を取られてむくれているの。だからお茶の用意ぐらいは、譲ってあげて」
「そうですよ、卯月さん。たまには先輩に仕事をあげてください」
「は、はい」
 果たしてどこまで本気で、どこまでが冗談なんだろうか。篠宮先輩って人が良いのは間違いなんだけれど、本当に真顔で冗談を言う人なので、出会って四日の私には全然判断が付かないし、出会って二ヶ月の卯月さんにしても同様みたいだった。

 そんな新入生二人は、結局会長・副会長に招かれるまま、生徒会室のソファーに腰掛けて座る。上座に会長。そして私たち一年生と、篠宮さんが向かい合うように腰掛けた。そして、それぞれの目の前には篠宮先輩が淹れてくれた紅茶が湯気を立てている。

「うわ」
「……おいしい」
 篠宮先輩に「どうぞ」と促されるままに口をつけたその紅茶。口の中に広がるその味に、私と卯月さんはそろって絶句していた。そんな私たちの反応は予想通りだったのか、会長さんは満足げに頷いて笑う。

「鈴のお茶は生徒会役員の特権の一つよ。めったには出さないのだけどね」
「私は毎日淹れても構わないのですが」
 自慢げな会長さんの言葉に反応して、篠宮さんがもの言いたげな眼差しを目を向ける。でも、その視線を受けながら、会長さんは悪びれることなく笑いながら言った。

「だって、鈴のお茶は特別だもの。いつも淹れていてはありがたみが無くなるでしょう?」
「そうですね! 私もそう思います」
 こちらもどこまで本気なのか判然としない会長さんの台詞だったけれど、会長さんの信奉者たる卯月さんはブンブンと勢いよく首を縦に振りまくる。
 なにもそんなに必死で同意しなくても良いとは思うんだけど……ひょっとして会長にお茶を供する係を篠宮先輩に取られてしまうのを危惧しているのかも知れない。会長さんにお茶を出すとき、緊張しながらも凄く嬉しそうだしなあ、卯月さん。
 ある意味で必死な下級生の態度をくみ取ったのか、篠宮先輩はそれ以上は会長に抗議することもなく、お手製のお茶に一口、口をつけてから、別の話題を私たちの方へと差し向けた。

「まあ、お茶の事は置きましょう。それより、神崎さん。書類の扱いは分かりましたか?」
「あ、はい。一通りは」
 篠宮先輩に頷く私の横で、卯月さんが勢い込んで身を乗り出した。

「凄いんですよ、神崎さん。あっというまに半分チェックしちゃったんですから」
「一通りは母に使い方を教わっていましたから」
 卯月さんの大げさな賞賛に、私は控えめに首を振る。だが、その私の返事に、何故か会長さんは不満そうなため息を零す。

「そう、それは残念ね」
「残念、ですか?」
 予想外の返事に私が首をひねると、会長さんは口元を手で隠して軽く笑った。

「だって、大抵の新入生は読み取り(デコード)方法に四苦八苦するものなの。そして、それを見るのが上級生のささやかな楽しみなのよ?」
 微笑んで会長さんは、卯月さんの方に視線を向けた。

「鏡花さんが涙目で奮戦する様はとても微笑ましかったのだから」
「か、会長ぅ」
 ちょっと泣きそうな声を出す卯月さんに、会長さんは「泣かないの」と子供をあやすような声に変わる。

「頑張る姿が好ましいって褒めているのだから。ね?」
「は、はい」
「これからも期待してるわよ」
「はい! 頑張りますっ!」
 立ち直り早いなあ。というか、会長が扱い方がうまいのか。卯月さんがここまで会長さんに心酔している理由は、まだ理解できてはいないけれど、会長さんの才能が卓越している、ということは私も感じ始めていた。

「あの、会長。一つお聞きしても良いですか?」
「どうぞ?」
 感じ始めていた会長さんの魔法使いとしての才能。それを確かめるために、私は会長さんに問いかける。

「会長は、会計の仕事もされているんですか?」
「人手が足りないときには、ね」
 そう言って微笑む会長さんは、意味ありげに僅かに目を細めた。それは出した問題に生徒が正解したときに母さんが見せる表情を彷彿とさせた。
 なら……やっぱり、そうなのか。先ほどまで私が触れていた記録。それに触れていたときに胸に浮かんでいた仮説が、どうやら正しいということを告げられて私は、思わずため息を零す。
 一方、会長さんの返答に、卯月さんの表情に疑問符が浮かんでいた。

「会長も、会計を……? そうなんですか?」
「ええ、少しだけれど」
「でも、どうして分かったの? 会長の署名なんて……」
 無かったよね、と卯月さんは私に振り向く。そう、確かに編成者の名前に、会長さんと副会長さんの名前は無かった。

 でも、わかる。
 情報を魔法の本の中に、文字ではなく「魔法」として記録する作業は「符号化(エンコード)」と言われる。一冊の本の中に、多くの情報を押し込むためには、それだけ効率の良い符号化作業が必要になる。つまり本の中に記録されている情報の量、そして記録の際に行われたであろう符号化の行程を読み解くことで、作業者の能力を推定することができるのだ。例え、同じ符号器(エンコーダ)を利用していても、今度は符号器を扱う能力で個人差、というものが発生してしまう。
 そして、私が触れた記録の中には明らかに他の人と質の違う「記録」がある。恐ろしく効率的に編成された情報群(コード)。私では読むことが出来ても再現することが出来ない表現の形は、おそらく彼女の手によるものなのではないか。そう踏んだのだけど、どうやらその推定は間違ってはいなかったようだ。

 正直、会長さんの才能、というのを見くびっていたのかも知れない。私にはその凄さを感じることは出来ても、とてもじゃないが同じ事は再現できない。母さんはともかく速水先輩にだって、あんな真似はできないんじゃないだろうか。

「……やっぱり、凄い」
「そうですね。やっぱり会長さんは」
「そうじゃなくて。あ、勿論、会長はものすごーく、凄いんだけど、私が今言ったのは神崎さんの事」
「え? 私?」
「うん。だって、私なんてそんなこと全然、気づかなかったのに」
 しゅん、とまともの落ち込で表情を陰らせる卯月さんをみて、私は慌ててフォローの言葉を探す。

「そんなことないよ。ただ、ちょっと扱いになれていたから気づいただけ」
「でも」
「謙虚なのね、綾さんは。でも、彼女の言うとおりよ。鏡花さん、まだ使い始めたばかりなのだから、落ち込む必要はないの。分かった?」
「はいっ!」
 またしても会長さんの言葉に、速攻で回復する卯月さんだった。落ち込んだり、立ち直ったり、ころころと表情の変わる卯月さんを眺めているのは、確かに楽しいかも知れない。
 本人は真剣なのでそんなこと思っちゃ可哀想だけど。

「あ、そういえば、生徒会って普段は本当に女の人ばかりなんですか?」
 私が申し込んだ日には、男性のメンバーも何人かいた。でも、それからの三日間は、会長と副会長さん、そして卯月さんの三人の姿しか見ていない。

「会議の無い日には部活動に参加しているメンバーは来ないことが多いんです。毎日の参加は強制ではありませんから」
 私の疑問に、篠宮先輩がティーカップを置いた。

「男性に限りませんが、役員は魔法競技の方に引っ張られることが多いんです。綾さんも卯月さんも勧誘された経験は多いでしょう?」
「あ、はい」
「あります」
 確かに、生徒会に参加する生徒は、魔法使いとしての才能が高いことが多い。そのため当然のことながら、各部活動の勧誘対象となる訳だ。

「でも、掛け持ちって問題ないんでしょうか」
「そうですね部費の関係上、生徒会との癒着を危惧する声もあります。ですが、魔法院としても対外的な成績を残すことには意味がありますから」
「なるほど」
 世界樹(ユグドラシル)。その名を冠すること許された魔法院は東西南の三つ。そのほかにも大小併せて20を超える魔法院がこの国には設立されている。
 その中で「東ユグドラシル」の存在をアピールするのは、決して損にはならない、ということらしい。

「だから、先輩方は部活動には参加していない、ということでしょうか」
「ええ、そんなところね」
 会長と副会長は、特に強い権限をもつ。その二人だけは、部活動には参加しないことで一応の線引きを行っている、というあたりなのだろう。部活としては損失だろうけれど、魔法院の評価は部活動だけで決まるわけではない。現に成績の点でも会長さんは飛び抜けた実績を残しつつあるらしいし。
 
 ……いろいろと生徒会にも、ややこしい事情があるんだなあ。
 少し考えを巡らしただけで散見できた駆け引きめいた事情に私は自分でも感心しているのか、呆れているのかはっきりしない思いで息をついた。

「いろいろと察しが良いわね、綾さんは」
「え?」
 そんな私のため息に、会長さんはどこか可笑しそうに目を細めて「それより」と話題を変えた。

「生徒会の感想はどう? まだ本格的な活動ではないけれど、何か思うところはあるかしら」
「正直、反省しています」
「反省?」
「はい、いろいろ侮っていたかなあって」
 兄さんと喧嘩するような人だから、仲良くできるかどうかは分からないけれど。魔法使いとしての能力は尊敬に値する人だって言うのは、今日だけでも痛感させられたから。
 そう素直に心情を告げると、会長さんは可笑しそうに口元をほころばせた。

「おもしろい物言いをするのですね。綾さんは」
「おもしろい、ですか?」
「ええ、穏やかな物腰なのに、ときどき挑発的な物言いになるから。そういうのは、お兄さんの影響なのかしら」
「……そうでしょうか?」
 あまり他人から「兄さんに似ている」との評価は受けたことはない。だから、驚いてしばし会長さんの顔を見つめてしまった。

「あら、そう言われるのは嫌だった?」
「あ、違います。あまりそういうこと言われたことなかったから、ちょっと驚いちゃって」
「そうなの?」
「ええ……でも」
「でも?」
「……だったら、嬉しいなって、思います」
 もし会長さんの目に私が兄さんに似ているって写ったのだったら、凄く嬉しい。私がそんな暖かな思いに浸っていると、

「前言撤回」
 と、会長さんがなんだか拗ねた口調でいきなりそう呟いた。

「え?」
「似てません。私の気のせいでした」
「ええー!」
 思わず声を上げた私に。会長さんは「冗談よ」と笑いながら手を振る。

「うん。そういう素直な反応も似てると言えば似てるわね。お兄さんと」
「うう。会長さんって、実はいじわるなんですか?」
「ええ。とても」
「鈴。あなたが即答するんじゃありません」
 私の問いに即答した篠宮さんに向けて、会長が苦笑しながら息を吐いた。

「……でも、そうなら少し意外ね」
「え?」
「ほら、先日、お兄さんとあんな所を見せてしまったでしょう? あなたがそこまで兄想いだとは知らなかったけれど、あの時、私のこと嫌いになったりしなかったの?」
 先ほどまでの笑いは少し形を潜めて、心持ち態度を改めた会長さんの声と視線に、私は答えを探す。

 『実は嫌いになりました』
 と素直な返事が口を付きかけたけれど、流石にそう答えるのはまずいかなあ、と、私はしばし答えを探そうとして……やめた。

「実は、ちょっとそう思いました」
「正直ね」
 結局、正直に返事を返すと、会長さんは気分を返したようでもなく却って好奇をそそられたように目を光らせた。それは気を悪くしたような態度には見えなくて、私は少し胸をなで下ろす。きっと見え透いた嘘の方がこの人の機嫌を損ねる、と踏んだのは間違いじゃなかったみたいだ。

「なら、どうして、生徒会に?」
「それは……えーと、初日にお話ししたとおりで」
「『魔法院の学生として、責任ある立場で自分たちの学舎を運営する経験をしたい』なんて、通り一辺倒な台詞は忘れました」
 ばっちり覚えてるじゃないですか。

「私は本音を聞きたいんだけれど? 綾さん」
「えーと」
 今回は流石に『兄さんの気を引くために入りました』なんて、正直に言うわけにはいかない。とはいえ、見え透いた嘘はあっさりと見抜かれそうな気がして、私はしばし言葉を選ぶ。

「兄さんは「会長さんは悪い人じゃない」って言ってたんです」
「神崎さんが?」
「はい。ちょっと意見の食い違いがあるだけだって」
「……そう」
 私の台詞に、会長さんは喜怒の曖昧な微妙な表情を浮かべて、少し視線を伏せた。

「それに私も、少しは兄離れしないといけないかなって」
「……なるほど」
 私の台詞に、何か感じるモノがあったのか、会長さんは少し間をおいてから、ゆっくりと首を縦に振った。その様子からは私の台詞を虚偽だとして、気分を害したようには見えなかった。

 ……まあ、嘘は言っていない、よね?
 会長さんの態度に安堵して、私は自分に言い訳するように問いかけた。いや、言い訳じゃなくて。やっぱり嘘なんか言っていない。だって「兄と妹」という関係から離れて、「恋人同士」という関係を築くためにこうして兄さんが近寄りがたい領域に単身乗り込んできているんだから。だからこれは立派な「兄離れ」の儀式。

 我ながら「ちょっと苦しいかなー」なんて思わなくもないけれど。でも、そんな私の内心に会長さんは気づいた様子はなくて、ひとしきり無言で頷いた後、その表情を優しい笑顔に塗り替えて私に手を差し出した。

「じゃあ、お近づきに、交換しましょうか?」
「え?」
 差し出された手。そして「交換」という単語。その意味するところを直ちに了解して、私は思わず口ごもる。

「あ、済みません。わたし……」
「大丈夫よ。今後、私とだけ、なんて制限するつもりはありませんから」
 そう言って会長さんは微笑むが「今はまだ」という言葉が台詞の何処かで省略されているのは明白だった。だけど、それも違うと、私は首を横に振った。

「あの、そういう意味じゃなくて、体質的にダメなんです」
「体質的に?」
「ええ。その……血縁者以外との交換ができなくて」
 その返事は予想外だったのか、一瞬、会長さんの表情が止まる。
 正確には、医者に言わせれば「体質的」というのは嘘で「性格的」もしくは「精神的」な問題、と言うことらしいけれど。でも、そんなの私にとってはどちらでも同じこと。

 兄さんと魔力交換できるのなら、そんなのどちらでも構わないし、それ以外の人と交換できない理由はどうでもいいんだから。

「それは……不自由でしょう。お察しします」
 そんな私の言葉に、途端、篠宮先輩が気遣わしげに声を潜めた。

「医師には、かかられているのですか?」
「ええ、年に一度くらいですけれど。あ、でも、心配はないんですよ? 今まで体調を崩したこともないんですから」
 見る間に深刻そうに表情を曇らせていく篠宮先輩と卯月さんに、私は大あわてでそう付け加える。

「その、いつも兄と母が側にいてくれましたし」
「そうですか……、お兄さんとお母さんが同じ学校におられるのは幸いでしたね。よかった」
「はい」
 実は母さんとは魔力交換できないんだけれど。まだそこまで踏み込んだ内容を話すつもりはなくて。
 だから、心底心配してくれて、安堵してくれる篠宮先輩に、ずきり、と胸が痛んだけれど余計なことは言わずに私は「ご心配ありがとうございます」って、そこだけは嘘じゃない言葉と一緒に頭を下げた。

「……なるほど、ね」
「え?」
「それで、お兄さんは反対しなかったのね」
 反面、私の発言にしばらく考え込んでいた会長さんは、憮然としているのか、あるいは微笑んでいるのか判然としない表情で、そう言いながら肩をすくめて見せた。

「信用されているのか、いないのか。どちらなのかしらね」
「会長?」
「気にしないで。ただ、少しだけあなたのお兄さんにも興味が出てきたかな、って思っただけだから」
「きょ、興味ですか?」
 それは、果たしてどういう意味だろうか。一瞬、会長さんが兄さんの手を取るなんていう不吉な未来図を想像しかけたけれど、まさか、と首を振ってその想像を打ち消した。
 自分で言うのは何だけど、誰の目にもとまる会長さんと、平凡きわまりない兄さんとでは、ちょっと釣り合わない。うん、全然釣り合わない。釣り合っちゃ駄目なんだから。

「あの「お兄さん」って……神崎先輩のことですか?」
「え?」
「あ、えーと、神崎良さん、でお名前合ってたよね?」
 おずおずと、と言った態度で会長さんと私の会話に割り込んだ卯月さんの言葉。その彼女の言葉の内容を、私は一瞬理解できなくて、そして理解した次の瞬間、絶句した。

「え、え……っ?」
 なんで卯月さんが、兄さんの名前を知ってるの……? 硬直する私を尻目に、篠宮先輩が小さく首をかしげて卯月さんに問いかける。

「卯月さんは、神崎さんのお兄さんのことをご存じなのですか?」
「あ、はい。お名前ぐらいは。ちょっと、有名……だよね?」
 そこで私に振られても困る。

「有名って……兄さんが?」
 卯月さんが兄さんの事を知っているだけでも意外きわまりないことなのに、「有名」とは一体どういう事なのか。目を丸くする私に、卯月さんは「知らないの?」とそれこそ意外そうに目を開いて説明してくれた。

「だって、神崎先輩って、いつも速水先輩とか、桐島先輩とか、綾ちゃんとかといっしょにいらっしゃるじゃない。それに神崎先生の息子さん、って言うだけでも有名だし」
「あ、そっか」
 ……なるほど。そういうことか。
 そこでようやく私は卯月さんが兄さんを知っていた理由が腑に落ちた。確かに本人が平凡きわまりなくても、周りが目立つ人ばかりであるなら、確かにその中にいる人も多少注目を浴びてしまうのだろう。

「で、でも、そういうのって普通、その他一名って数え方にならないかな?」
 速水先輩と霧子さんの両方のファンだっていう子は実際に何人もいる訳で、その中で兄さんだけが特別注目される理由は何だろう。
「うーん。でも、神崎先輩ってお二人のファンって感じじゃ無いでしょう? それに」
「それに?」
「うん。速水先輩も桐島先輩も、えーとそれに綾ちゃんも、神崎先輩のことを最優先にするみたいだって、噂があるから」
「……そ、そんなこと無いと思うんだけどなあ」
 卯月さんの言葉を、一応否定しながら、私は内心の動揺を押さえるべく思考を巡らせる。

 みんな「兄さんを最優先」にしてる? 私は勿論、そうだけど。霧子さんや速水先輩も?
 でも、それって、どういうことだろう。周りの人から見ても、「そう見えてしまうほど」、速水先輩と霧子さんの態度はあからさま、ってことなんだろうか。いや、あからさまって、何が……って言わなくても分かってるけれど、でも、でも、そんなのってまずくない? ひじょーに、まずくない? 私の知らない間に、そんな既成事実というか暗黙の了解が組みあがっているってどういうこと? そもそも速水先輩も、霧子さんも「兄さんを最優先している」って周りの人に思われるって、普段いったい、どんな態度で兄さんと接してるって言うの……っ?!

「あら、卯月さんは神崎さんに興味があるの?」
 ぐるぐると思考に混乱を来す私の耳に、卯月さんをからかう会長さんの声が届く。笑いを含んだ、でもどこか落ち着きのある声に、少しだけ思考の渦がその回転を弱めた……気がして私は意識を内から外へと戻すことができた。
 そしてそこには会長の言葉に真っ赤になって首を揺る卯月さんの姿があって。

「ち、違います! 私は会長一筋ですからっ!」
「そう。いい子ね」
「私も会長一筋ですよ」
「鈴。張り合わないの」
「別に張り合っていませんけれど」
「はいはい。鈴もいい子ね」
 二人の好意を受け止めて、悠然と微笑む会長さん。その笑顔と態度に、私はしばし、羨望の感情を抱いてしまった。

 ……ああ、兄さんもこの人ぐらい甲斐性があればなあ。

 なんて、そんな無理な願いを胸に私は一人嘆息した。あるいはひょっとして、兄さんがものすごい甲斐性を発揮する将来がくるのかも知れないけれど。でも、今ままでそんな兆候はみじんも見つけることは出来なくて。
 でも、それはやっぱり関係ないのかもしれない。その想いに私はまた息をつく。だって、兄さんが会長さんみたいに、複数の人の思いを笑顔で受け止められるような人だったとしても―――。

 ……最初の一人は、絶対、私じゃないと、嫌なんだから。

「綾さん?」
「は、はい」
 またしても考えにふけってしまっていた私に、会長さんがどこか穏やかな声で呼びかけた。

「なんでしょう」
「あなたを生徒会に入れて正解だったかな、って。そう思ったの」
「……どういう意味でしょう?」
「そのままの意味よ。やっぱり、おもしろそうね。あなたたち「兄妹」は」
 私の内心を見抜いているのか、いないのか。投げた言葉に揶揄以上の深い意味はあるのか、それともないのか。端然と微笑むその表情からは、今の動揺に揺れる私には読み取れなかったけれど。

 なんだか、ひょっとして、いろいろとややこしい事態になってきているんじゃないかって。そんな根拠のない思いが、会長さんの笑顔に重なって、見えた……気がした。

 とりあえず、今の私に分かったことはただ一つ。最早、躊躇っている暇はないって言うことだけで。
 とにもかくにも、今夜。今夜こそ、兄さんと私の関係を変える記念すべき第一歩にしてみせるんだ。その思いに私は深く拳を握るのだった。

続く

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