0.悩める兄(神崎良)

「綾ちゃんが反抗期?」
 俺の言葉に、霧子と龍也が弁当を食べる箸を止めて顔を見合わせた。
 青空がまぶしい五月晴れの空の下。いつものように中庭で昼食をとりながら、言おうかどうか悩んだあげく、俺は親友たちにその相談を持ちかけたのだ。

「反抗期ってどういうこと?」
「良、喧嘩でもしたの?」
「喧嘩した、というか……」
 昨晩のことを思い起こしつつ、俺は目眩をこらえて答えた。

「なんか、一方的にキレられて、罵られて、泣かれて、魔力吸われた」
「うわあ……」
「なんて言うワンサイドゲーム……」
 哀れむような、それでいて呆れるような視線を俺に向けながら、二人が呻いた。

「というか、それで今日はそんなに顔色悪い訳ね」
「そういうことなら、もうちょっと分けようか?」
「いや、大丈夫。朝、レンさんにも分けてもらったから。ありがとうな」
「それならいいけど……でも、何したのよ、あんた」
「お前、完全に俺が悪者だと思ってるだろ……?」
「だって、綾ちゃんが理由もなくそんなことする子だと思ってないもん。私」
 断言する霧子の台詞は、兄としては嬉しい。
 しかし。

「俺は理由もなく綾のことを怒らせる真似をする、と思ってるわけだな」
「理由もなしに、じゃなくて「無自覚に」、ね。知らない間に地雷をふんだんじゃないの?」
「う」
 それは俺が無神経だと言いたいのか、と反論したいが、昨日の出来事を思い起こして俺は思わず言葉に詰まる。流石、俺のことをわかっているだけあって、痛いところを突いてくる。

「……やっぱり、なんかやったのかなあ、俺」
「あ、やっぱりなんか思い当たる節があるんだ」
「その逆。さっぱり妹の考えてることがわかりません」
「それ、まるっきり保護者の台詞よ。ああ、だから「妹が反抗期」な訳ね」
「そういうこと」
 元々、女心の機微がわかるなんて思ってはいないけれど、妹の考えていることが全然つかめない、っていうのは流石にちょっと参ってしまう。家族なのに。

「心当たり、本当にないの?」
「少なくとも怒らせることはしてない……つもりなんだけどなあ」
「うーん。綾ちゃんが良にそこまでするのって、珍しいんじゃないかな」
 気遣わしげに俺の表情を伺いながら、龍也が首をひねる。その傍らで、霧子が「しょうがないなあ」と言いつつも、どこか好奇のこもった声で、俺の方へと身を乗り出してきた。

「ともかくもう少し詳しく聞かせなさい。龍也、照明の用意」
「取り調べかよ」
「あ、カツ丼用意しないと」
「あのなあ」
「ともかく状況を教えてもらわないとね。さて、何をしたのかな。お兄ちゃんは。すっきり吐いて楽になろうねー」
「……」
 二人とも俺を完全に容疑者扱いしているのとには、大いに疑問があるが。ともあれ、話は聞いてくれるようだ。だから、俺は陽の明かりから目を伏せて、思いにふけるようにして昨日の出来事を話すことにしたのだった。

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  魔法使いたちの憂鬱

           第七話 妹心と兄心

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1.神崎家の兄妹(神崎良)

「会計補佐か。じゃあ今のところは書類整理やってるわけか」
「うん。まだまだ勉強中、ってところ」
 久しぶりに(とは言っても四日ぶりだけど)家族全員が揃った夕食の後、綾はこれまた久しぶりに(こちらは1週間ぶりぐらいか)俺の部屋に姿を見せた。
 ベッドに腰掛ける綾と、勉強机の椅子に腰掛けて向かい合う俺の間で交わされる会話はやっぱり、綾自身のこと。つまりは四日前から綾が参加している生徒会についてのことだった。

 生徒会入りを進めた晩に、喧嘩別れして以来の二人っきりの会話だったけれど、生徒会のことを語る綾の声は弾んでいて、少なくともあの晩の喧嘩が尾を引いている、ということはなさそうだった。
 いや、夕食の時の綾は妙にそわそわしている、というか、落ち着けなげで、言葉少なだったから、ひょっとしてまだ怒っているのか、と不安になったりしたのだけれど、どうやらそれは俺の杞憂だったらしい。

「それで、今日初めて会議があって、みなさん顔を揃えたんだけどね。やっぱり役員さんたちは凄いんだよ。みんな符号化された本を読むのに機械補助使わないんだから」
「……マジか」
 綾の台詞に、流石はエリート集団、と俺は口の中で呻いた。レンさんの書斎の片付けを手伝った際に、何度か符号化されれた本(ようするに「魔法の本」)を読んでみたことはあるのだけれど、復号器(デコーダ)という機械を使っても俺にはまともに内容を読めなかったのだ。

「わかってたけど、やっぱり凄いんだな。あそこ」
「うん、私もちょっとびっくり。やっぱり中等部の生徒会とはレベルが違うみたい」
 ため息混じりの俺の賞賛に頷く綾だったけれど、その表情には多分に喜の感情が混じっている。俺みたいに「叶わないなあ」と高みを見上げているのではなく、きっと「今はまだ叶わないけれど」と、その高みにたどり着く自信が、その笑みを形作っているような気がした。まあ、それは兄の蟇目かもしれないけれど。

「兄さん。どうしたの?」
「え?」
 ふと意識を戻すと、綾が怪訝そうに目を細めて俺の顔をのぞき込んでいた。

「なんか急にニヤニヤしだしたから……私の話、ちゃんと聞いてる?」
「聞いてるよ、ちゃんと」
 ちゃんとかどうかは怪しいものだ、と自分でも思うけれど。どうやら俺は自らの不甲斐なさを脇に置いて、妹の頼もしさというか、才能に僅かに頬が緩めていたらしい。霧子にでも見られたら、また「シスコン」の烙印を押されてしまう所だった。

「ほんと? なんか目の焦点が怪しかったけどなー」
「そんなことはありません。それより、綾」
「あ、なんか誤魔化した」
 兄の内心を巧みに見抜く妹に、うるさいな、とこれまた内心でつっこんでから俺は軽く咳払いする。

「それより、ちゃんと先輩たちとうまくやってるのか?」
「うん……って言っても、まだ会長さんと篠宮先輩と卯月さんくらいとしか、ちゃんと一緒に作業してないけどね。今はみんな部活動を優先する時期みたい」
「そっか」
 そういえば会長さんもそんなことを言っていたっけ、と思いながら綾の口から出た人名の情報を頭の中で探す。会長さんは良くも悪くも縁が出来ているけれど、篠宮先輩のことはよく知らない。龍也との一件で顔を合わせたことはあるけれど、基本、会長さんの背後に控えていてあまり言葉をしゃべらない人だったから。それに卯月さん、という人の名前も初耳だった。

「その三人とは、うまくやれてるんだな?」
「うん。あ、卯月さんのこと、兄さん知ってる? 私の同級生で、去年中等部の生徒会長だった子だよ」
「いや、知らなかった。ついでに言うと篠宮先輩のこともあんまり知らない」
「あ、そうなんだ」
 俺の返事に、綾は「二人ともいい人だよ。たぶん」と頷いてから、また生徒会での出来事を語ってくれた。
 会長さん、副会長さん、卯月さん。
 まだその三人としか、あまり関わりを持っていないと言っていたけれど、その彼女らのことを語る綾の表情は、楽しげで、その笑みを含んだ表情に、心に引っかかっていた不安が少しずつ溶けていくのを自覚した。

「それで篠宮先輩って、ものすごくお茶を入れるのが上手なんだよ」
「へえ。そうなのか」
「うん。それで詳しく聞いたらね。篠宮家は元々、紅坂家の執事を務めた家系なんだって。だから、『その辺りはいわばお家芸ですから』って、平然というんだよ。篠宮先輩」
「紅坂家の、執事の家系……?」
「凄いでしょ?」
「凄いってお前、いや、凄いけど」
 綾の説明に思わず呻く。
 確かに会長さんの家はお金持ちだとは聞いていたが、「代々執事を務めた家系がある」なんて何の冗談なんだろうか。映画や小説じゃあるまいし。あまりに現実味がわかず、その「凄さ」がどのぐらい凄いのかもよくわからない。

「あ、それでね。卯月さんと一緒に習おうかって話もしてるんだ。そのうち、ちゃんと習って兄さんにも飲ませてあげるね」
「期待してるよ」
「期待されました」
 なるほど。卯月さんと、篠宮さんとはそういう話やお願い事ができそうなほどに良い関係らしい。
 なら……残るは、「あの人」の事だけど。

「綾」
「うん」
「えーと、その、あれだ」
「? 何?」
 さて、なんと聞いたものか。「会長さんに変なことされてないか」というのは、流石に誤解を招く表現だろうし。しばし言葉を探すうち、当の綾は俺の言いたいことを察してくれたのか、軽く笑いのこもった視線で俺を見て言った。

「ひょっとして、会長さんのこと?」
「ああ、うん。そう。えーとさ、うまいことやれてるか?」
「うまいことって?」
 分かってて聞いてるよな。こいつ。
 さっきから「うまいことやれているか」とは繰り返し聞いているいるが、会長さんに関しては多少ニュアンスが違うことがぐらいはわかっている癖に。

「だから、だな。要するに、会長さんに変な要求されてないか?」
「…………気になる?」
 俺の問いかけに、意味ありげな間をとってから、何故か綾は嬉しそうに微笑んだ。

「そりゃ、気になる」
 綾の笑みの意味はわからなかったが、俺は素直に首を縦に振った。おそらく生徒会で一番頼りになる人であり、そして一番注意すべき人物が彼女だと思う。それに、綾には「基本的に会長さんはいい人だと思う」なんて言った手前、おかしな事になっていたりしたら、責任問題だし、ここはきっちりと確認しておく必要がある。
 そういう俺の態度を果たしてどう受け取ったのか、綾ははにかむような笑みを浮かべ、それを隠すように両手で口元を隠した。

「ふーん、気になるんだ」
「だから、気になるって。ってか、なんで楽しそうなんだ、お前は」
「別に嬉しそうじゃありませんー」
 なんて軽口で答えながら、ベットの上で身じろぎする綾の声は、やっぱりどこか弾んでいる。いや、本当に何がそんなに嬉しいんだ、こいつ。

「ね、ね、兄さん」
「なんだよ」
 軽い困惑を覚えていた俺に、当の綾はベットから身を乗り出すと、眼差しに何かを期待するような色を込めた……気がした。

「それって……、焼き餅?」
「…………はい?」
 いったい何を聞かれたのか。
 瞬時に理解できなくて我ながら間の抜けた声が口から漏れた。いや、だって、なんで「焼き餅」なんて言葉が出てくるのか、さっぱりわからなかったから。

「焼き餅って……なんでそうなる?」
「ち、違うの?」
「違います」
「ほ、ほんとに? 嘘言わなくて良いんだよ?」
「だから、違うというのに」
「ほんとのほんとのほんとに? 別に照れなくてもいいんだよ?」
「誰も照れてない」
「そ、そんな……」
 本当に、いったい何が言いたいんだ、こいつは。俺の返事に打ちひしがれたような声を上げる綾を見つめながら、俺は腕を組んだ。焼き餅を焼いていない、という返事にショックを受けるということは、俺が焼き餅を焼くことを期待していた、って言うことなのか? つまり、女の綾と女の会長さんの魔力交換に、兄である俺が焼き餅を焼く、と予想していた、と。

「……むー」
 その綾は大いに不満げに眉根を潜めて、まだ俺の返答が信じられないように探る眼差しを俺に向けている。

 ……ひょっとして。
 俺ってやっぱり綾にも重度のシスコンだと確信されているんだろうか。女の子同士の、しかも魔力交換にまで焼き餅を焼くような、ものすごいヘビーなシスコン野郎だ、と。

 いや。それは流石にまずいんじゃなかろうか?
 思い至った仮説に、俺は脂汗が浮かぶのを自覚した。霧子や龍也にはさんざんシスコン呼ばわりされていたけれど、実の妹にまで重症患者(ヘビーシスターコンプレックス)だと認識されて居るとは思ってなかった。正直、笑い事じゃないのかもしれない、これは。
 だって、綾にまでシスコンと思われているのなら家庭の外から見ても内から見ても本気で重度のシスコンということになるじゃないか。

「いやいやいや、違う、違うぞ。俺は少しだけ」
「兄さん?」
「あ、いや、うん。何でもない。何でもないぞ」
 綾の声に、思わず「少しだけ妹思いな兄なだけだ」などと口走りそうになっていた自分に気づいて、冷や汗とともにその言葉を飲み込んだ。もし、綾の俺に対する認識が俺の想像通りだとしたら、この文脈でそんな発言したら、きっといろいろ崩れてしまう。主に兄の威厳とか家族としての信頼とか、そんな辺りが、こうガラガラと。

「と、ともかく! 会長さん相手に焼き餅なんて焼くわけないだろ。いくら俺でも女の子同士の交換に文句つけるほど狭量じゃないぞ。交換に制約つけるとかならともかく」
「むー」
 もはや手遅れなのかもしれないが、少しでも兄としての立場を示そうと、疑いに目を細める綾にそう言い放つ。対して綾は相変わらず訝しむ……というか、どちらかといえば不服そうな表情を浮かべて、しばし黙り込み。

「……なによ。兄さんのいじわる」
 そんな意図のつかめない言葉を、拗ねた口調で呟いたのだった。

「意地悪って。お前は何を言いたいんだ?」
「いいよ、もう。今日の所は勘弁してあげるから」
 一体何が不服なのか。不満げな妹の表情に、意図がつかめずに俺はしばし困惑した。どうして兄が妹に焼き餅を焼いていないと、綾が怒ることになるのか。ひょっとして四日前の喧嘩がまだ尾を引いてるんじゃないだろうな……?
 ぱたぱたと綾がベッドの縁で足をばたつかせるのを視界の端にとらえながら、ぐるぐると巡る思考に、しばし時間を忘れそうになる。だけど、考え込むより先に肝心なことを確認していないことに気づいて、俺は思考を頭の中から外へと引き戻す。

「綾」
「……何?」
「肝心なこと教えてもらってないぞ。本当に会長さんと交換したのか?」
 そう。まずはそこを確かめないことには始まらない。俺が綾に生徒会入りを勧めたのも、そこに動機があるわけだし。その思いに問いを繰り返すと、綾は少しだけ機嫌を直したように表情をゆるめて、頷いて見せた。

「大丈夫、まだ交換してないし、変な制限もかけられてないよ」
「そっか」
 がっかりしたような、そして同時にほっとしたような、そんな感情が胸にわく。
 って、いやいや! ほっとしてはいない、断じてしていない。誓って「がっかり」しただけだっ!

「あ、今、ほっとしたでしょ」
「う」
 大慌てで否定した俺の内心を、しかし、目聡い妹は気づいてしまったようで、「見つけた」とばかりに目を輝かせた。

「いや、そんなことないぞ」
「いーえ。してました。兄さんの表情はわかりやすいもん。間違えませんよー」
「う、この……」
「えへへ、そうなんだ」
 実際、自分でも自覚してしまった感情だけに返す言葉に詰まってしまった。が、そんな俺を見る綾は、その表情に花のような喜色をはっきりと咲かせた。あげく「やった。やったよ」なんて小声で呟きながら、ガッツポーズまでしている。

「だから、なんでそんなに嬉しそうなんだ、お前」
「いいじゃない。嬉しいんだから」
「答えになってない。なんで嬉しいのかを聞いてるんだ」
「教えない。なーいしょ」
「お前な」
 先ほどまでの不機嫌さは何処へやら。一転して浮かれた口調で笑いながら、綾は俺の枕を胸に抱きかかえて、ゆらゆらと左右に揺れ始めた。……どうにも挙動不審だ。何でこうもいきなりテンションがあがるんだ、こいつ。

「あのな。俺はこれでも、まじめにお前の心配をしてるんだぞ」
「うん。ありがと」
 諭す口調で告げた言葉を、綾は今度は意外なほど素直に受け取って、そして心底嬉しそうに微笑みながら頷いた。まっすぐな、澄んだ笑顔。数日ぶりに見るその笑顔に、毒気が抜かれてしばし俺は言葉を失って。だから、数瞬の沈黙の後、俺は諦めたようなため息と共に、手を伸ばして妹の頭を軽く叩いた。

「……まったく。ちょっと今日は変だぞ、お前は」
「ご、ごめん」
 急に落ち着いた声を出した俺に、ようやく気分が落ち着いたのか、綾は少し気まずそうに俺を見上げる。

「あのね、兄さんを困らす気はないんだよ?」
「いいよ。それだけ、生徒会でいろいろあったって事だと思うし」
「あ、うん……」
「とりあえず、会長さんに虐められてもいないみたいだし」
「あはは。うん、まだ大丈夫だよ。とりあえず今の会長さんの標的は卯月さんだから」
「じゃあ、卯月さんにお礼を言っておいてくれ」
「うん」
 なるほど卯月さんとは生徒会におけるいじられキャラなのか。綾の言葉にそう苦笑しながら、少し胸をなで下ろす。綾の言い方から、会長さんとの関係はうまくいっていないまでも、悪くはないらしいってことぐらいはわかったし。
 まあ、心配するまでもなかったのかな―――、と安堵の息をつきかけて、

「あ」
 そこで、まだ。大事なことを綾に確認していないことに気づいて、知らず小さな声が漏れた。

「? どうしたの?」
「ああ、いや。ちょっとな」
 多分、一番最初に聞いておくべき事だったのに、後回しにしてしまった自分の馬鹿さに嫌気がさした。綾の言葉と態度に振り回されていたとはいえ、こんな事確認しておかないなんて、シスコンどころか兄貴としても失格かもしれない。

「あのな、綾」
「うん」
「大事なことをまだ聞いてなかった」
「大事なことって……、何?」
 居住まいを正した俺に、綾が向けるのは期待と不安。反する二つの感情を瞳に漂わせて身構える綾を見据えて、俺はゆっくりと確認するように問いかけた。

「楽しいか? 生徒会」
「え……」
 それが多分、今回の件で、一番大切なこと……だと思う。
 最初は、綾の体質のことを思って勧めた生徒会入り。多分、今、そこには俺の思惑以外に、綾自身の思惑とか、多分、レンさんの思惑とか、あるいは会長さんの思惑とか、絡んでしまっている気がするけれど。
 やっぱり、一番、大切なことは綾が高等部での居場所に選んだその場所を、彼女自身が楽しいって思えるかどうかって事だと思うから。だから、もし会長さんが綾と魔力交換ができる、という可能性が高くて、あるいは仮に魔力交換ができているとしても、その場所が綾にとって苦痛でしかないのなら、例え「シスコン」って言われようが、「甘い」って誹られようが、俺は綾をその場所に置いておくことは出来ない。

「……」
 その問いかけに、綾は言葉に詰まったように答えを返さない。その戸惑い混じりの綾の様子に、「そんなに変なことを聞いたかな」と自問して、自分の問いかけが些か早急に過ぎることに気づく。

「あ、違うか。まだ四日だし、楽しいって断言できないか。えーと、じゃあ、楽しく、やれそうか?」
「………………うん」
 重ねた問いに、やっぱり綾は言葉に詰まりながら、それでも肯定の答えを返す。どこか躊躇いの滲む返事。でも、目をそらさずに返してくれた答えだから、今はそれで良いような気がした。

「そっか。そうだな、会長さんたちとの話、楽しそうだったしな」
「うん……。会長さんは……いい人なのか、まだよく分からないけど。篠宮先輩も卯月さんもいい人だから」
「そっか」
「仕事も、やりがいありそうだし」
「そっか」
「だから、多分、大丈夫」
「そっか」
「…………うん」
 今までの会話を再確認するような内容。あるいは、綾の言葉をちゃんと頭の中で理解して組み立てておけば、わざわざ問いかけるまでもなかったのかもしれない。
 でも……やっぱり、ちゃんと自分の言葉で問いかけることは、大事なような気がして。だから、綾が肯定の返事を返してくれたことに、俺は安堵の息をついて、そして笑った。

「なら、良かった」
「…………」
 まあ、本音を言うのなら。やっぱり、少し寂しい気もするけれど。なにせ生徒会なんて、おそらく俺には縁のない場所だ。でも、そういう場所でも綾が「楽しい」って言えるなら、やっぱり喜ぶことだって思う。
 そうして、一人頷くと、綾が再びベットから身を乗り出して俺の顔をのぞき込んだ。

「あ、あのね、兄さん!」
「うん?」
「わたしも……訊いて、良い?」
「いいよ」
 先ほどとは反対の構図。どこか神妙に表情を改めた綾に、何を聞かれるのか想像できなくて、今度は俺が身構える。そんな二人の間に落ちる一掴みの沈黙は、言いようもない緊張をはらんで、そして綾の意を決したような声に破られた。

「あのね」
「うん」
「兄さんは……その、寂しく、ない?」
「え?」
 なんだか、内心を見透かされているのかと思う問いかけに、俺は目を開く。ひょっとしてさっき「少し寂しい」と思ったのが顔に出ていたのだろうか。思わず手を顔に当てて表情を探ると、綾が不思議そうに眉を顰めた。

「兄さん? どうしたの?」
「あー、いや、なんでもない。なんでもない」
 訝しむ声に誤魔化すように笑ってから、俺はしばし腕を組む。内心は既に見抜かれている……のかどうかは、わからないけれど。さて、どう答えたモノだろう。一瞬、誤魔化すべきか、との想いが頭をよぎったけれど、即座にその考えを頭を振って、捨てた。

「そうだな……まあ、やっぱりちょっと寂しかったよ」
「ほ、本当?」
「うん、まあ」
 どうしようもない照れくささと気まずさを感じながらも、努めてそれを表情に出さないように意識しながら、俺は素直に頷いた。
 だらしない兄と思われたかも知れないけれど。さっき、綾が本音で答えてくれたとするのなら、ここはやっぱり俺も本音を告げるべきじゃないかな、って思ったから。
 そんな俺の返事に、対する綾は目を伏せて。

「……そっか。そうなんだ」
 なんで小さく呟きながら、抱えた枕をつぶしてしまいかねないほどに強く抱きしめた。
 ……って、いや、そんなに形が変わるほどに力を込めるのは、何故なんだ。俯く妹の表情は読めないけれど、わずかに肩が震えているのに気づいて、俺は「ミスったか」とわずかに冷や汗が背中を伝ったのを感じた。
 
 いくらなんでも率直すぎただろうか。
 霧子や龍也は綾の行動を指して「兄離れ」と言っていた。なら、ここで俺が弱音めいた本音をこぼすのは、綾の行動に枷をはめることにしかならないのか? いくらなんでも考え過ぎかもしれないけれど、綾が「兄さんが寂しいのなら生徒会やめる」なんて、言い出したらそれこそ妹の足を引っ張るだけの兄に成り下がってしまう。

「あ、あのね! わたし、兄さんが寂しいんだったら!」
「ああ、でもそんなに心配しなくていいぞ!」
 沈黙を破る声は同時だった。兄妹揃って意を決したような口調の声に、お互いが顔を見合わせて、またしばし俺たちは硬直する。
 いや、硬直している場合じゃない! いくら何でもそれはない……、と否定したばかりの選択を、あろうことか綾は口に仕掛けたんじゃないのか、今。
 『兄さんが寂しいんだったら』。その台詞に続きそうな言葉は、『止める』かもしれない。さっきの綾の言葉の内容を反芻して、俺はあわてて綾より先に言葉を継いでいった。

「いや、いくら何でも、寂しいからって妹がやりたいことを邪魔するつもりはないからな。俺は」
「え?」
「だから、間違っても「俺が寂しそうだから生徒会やめる」なんて言わないでくれよ? そこまで情けない兄になりたくないからな」
「え……あ、うん」
 少し早口でそう告げると、綾は機先をくじかれたように戸惑いを浮かべながら、小さく首を縦に振った。しかし、頷いたのは一瞬で、次の瞬間には慌ててそれを取り消すように今度は首を小さく横に振った。

「で、でも。私はね」
「あのな、綾。俺のこと心配してくれるのは嬉しいけどさ、俺だって少しは頑張れるんだぞ?」
「そ、そう? あ、でも……」
 俺の台詞に、一応頷きはするものの、なかなか綾は引き下がる様子を見せない。いや、俺への気遣いを見せてくれるのは、本当に嬉しかったりするけれど、流石に、妹にそこまで気遣われるのは兄としての沽券に関わる。
 ならば。

「あのな」
「うん、あのね。兄さん」
「実は俺、美術部に入ろうかなって思ってるんだ」
 少しは妹の不安を取り除こうと、俺も少しは変化があるんだぞ、と綾に告げた。

「………………え?」
 流石に予想していなかったのか、綾は惚けたような表情を浮かべて、驚きの欠片みたいな声をその口元から零す。
 まあ、美術部に入る、っていうと別の心配を抱かせるかもしれないけれど。でも、少なくともこれで「放課後に兄が一人でさびそうだから、生徒会辞めます」なんて台詞を綾に言わせなくてすむだろう。
 そう俺が考えて頷いていると、驚きに飛んでいた綾の思考が戻ってきたのか、綾は目を開いて俺を見つめて問いかけた。

「び、美術部?」
「そう。美術部」
「それって、霧子さんと同じ……?」
「そうそう。あいつにしつこく勧誘されてさ」
「……霧子さんに?」
「いや、最初は抵抗あったんだけどな。綾を見習って、少しは活動的になってみようと思ってさ」
「……な」
 事の顛末を端折りながら語る。しかし、綾にとってはそんなに意外だったのか、その顔から戸惑いめいた表情がなかなか消えない。
「な、なんで? 兄さん、絵は苦手だって」
 確かに他人様を捕食するような絵は、苦手きわまりないけれど。

「まあ、もともと絵を描くのはそんなに嫌いじゃないしさ。苦手克服っていう意味でも、悪くはないかなって」
 答えながら霧子に誘われるままに、見学した美術部の事を思い起こす。筋骨逞しい体が印象的な部長のアルフレッドさんは、俺の見学を快く了解してくれたし、「向いているんじゃないか」とまで言ってくれた。
 まあ、向いている、とか軽く褒められただけで乗り気になるなんて、我ながら単純だなあとは思うけれど。

「だから、俺に変に気を遣わなくて良いからさ。お前は自分のやりたいことを……」
「な…………な」
「綾?」
「な…………な…………な」
「な?」
 口をぱくぱくとさせながら、綾はただ「な」という音だけを漏らす。その表情は既に戸惑いの表情ではなくて、あえて言うのなら……怒り?

「あ、綾?!」
 そこで俺はようやく妹の感情の変化に気づいて、どうした……と問いかけようと、身を乗り出した。その瞬間。

「何よ、それ―――っ!!」
 突如、声を震わせながら、綾が怒りに爆発したのだった。

2.妹さん大爆発(神崎良)

「あ、綾?!」
「何よ、それ、何よ、それ、それって何なのよ?!」
「いや、ちょっと落ち付けって……、綾?! お前?!」
 いきなり激高した妹に、なだめる言葉をかけようとして。俺に向けられた綾の瞳にともる光の色に気づいて、俺は即座に、絶句した。
 紅い。
 いつもの魔力欠乏を示す「うっすら」とした紅じゃない。それは宝石を思わせるほどに、深く、強い赤の色。ここ数年は見た記憶がない、その瞳ははっきりと「激怒」しているときの綾の目だ。

「ちょ、ちょっと待て! 落ち着け」
「一体、どういうつもりなのよ! 兄さんは!」
 いったい何に怒っているのか。全然理解できなかったが、何とか落ち着かせようと俺は言葉をつづる。

「どういうつもりって、だから、お前を見習ってだな」
「違うでしょ!」
「ち、違うって何がだよ?」
「だから、見習うポイントがずれてるの! なんでそんなことになるのよっ!」
 フォローする言葉に、綾はなんだか半泣きになりつつ首を振り、そしてますます瞳の赤を色濃くしていく。

「兄さんは……兄さんは! わたしが、どんな気持ちで四日を過ごしてきたか、なんて全然、全っ、然っ、わかってないんだね……?!」
「あ、綾の気持ち?」
 だから、綾は兄離れをしようとしていて。そして、今は俺のことが気にかかって、生徒会も遠慮しようとしてたんじゃないのか?

「不正解です。違います。全然、わかってまーせーんっ!」
「待て待て、不正解もなにも何も言ってないぞ、俺は!」
「いーえ、不正解です。その顔みてれば、どんなこと考えてるかなんかわかるもん」
 にべもなく俺の言葉を切り捨てながら、綾はベットからふらり、と体を揺らして立ち上がる。妹の背後の景色が、陽炎のように揺らいでいるのは気のせいだろうか。気のせいだろう。気のせいに違いない。いや、だって、気のせいじゃなかったら、俺、死ぬかもしない。呪文詠唱なしで空気が揺らぐほどの魔力が脈動しているなんて、尋常な事じゃないのだ。

「と、とりあえず、落ち着け! 話せばわかるから」
「いーえ、わかりません。今だって、兄さんは全然わかってくれてないもん。だから」
「だ、だから……?」
「お仕置きです」
「お、お仕置き?!」
「ええ、だって兄さん、全然、わかってくれないんだもん。だから、もう、ものすごいことお仕置きするしかないじゃない」
「いやいやいや、待て! 綾、とにかく落ち付けってば!」
 一体何を罪状にしたお仕置きなのか、とか、お仕置きするしか選択肢が無いなんて言うのはどういう状況なんだとか、そもそもやっぱりお前は何に怒っているんだとか、突っ込み所がありすぎるわけだけど、その理不尽さ云々以前に、目の前の妹の剣幕に命の危険を感じて、椅子を揺らして後ずさった。だけど。

「駄目」
 その動きを察したのか、綾は、小さく笑ってその手を俺に伸ばし―――そして、口を開く。

「その身を巡る力は流れを絶て」
「げっ?!」
 魔法。
 まさかいきなりそんな強行手段に出るとは思わなかったので、驚きに僅かに身がすくみ。その時間が、俺から逃げる時間を完全に奪い取ってしまう。

「鉛の体つなぎ止めるは戒めの鎖。以て、その四肢を大地に縫い止めよ」 
「マジか、おい!」
 綾の唇が紡ぐのは正真正銘の「対人捕獲用」の呪文。他人の体に干渉してその動きを操るなんていう、正真正銘の高等呪文だ。あげく、通常、四文節から構成される呪文を、三文節でまとめ上げるなんて、こいつ何時の間にそんな技術を……なんて、感心している場合じゃない!

「ぐおっ?!」
 しかし「何とかしないと」なんて気持ちだけが焦る間に、綾の魔法はその法則を現実に敷き、結果、俺の手足からは力が抜け、俺は為す術もなく椅子に座り込んでしまった。
 まるで、椅子に貼り付けにされたまま、刑の執行を待つ死刑囚のように。

「……お仕置きするったら、するんだから。だから、逃がさないよ?」
 身動きのとれなくなった俺に、綾はそれはもう凄絶な微笑みを浮かべて、歩み寄る。

「ちょっと、待て! だから、落ち付けって、きっと話せば分かるから!」
「話してわかり合えるのなら、戦争なんか起きません」
「兄妹喧嘩に、そんな壮大な例えを持ち出すな!」
 俺の制止の言葉は、立て板に水とばかりに聞き流されて。綾は俺の両頬に手を当てて、俺の顔を真正面からのぞき込む。

「う」
 思わずうめきたくなるほどに、真っ赤な目。そこに迸る感情の起伏に、紅い光が縦横に舞い踊っているような気がしたのは、錯覚なのか。
 これから妹が何をするつもりなのか。それを想像して体を硬くする俺に「……言ったのに」と、綾は呟くようにそんな言葉を漏らして落とす。

「え?」
「泣くって言ったのに」
「はい?!」
「兄さんが、ちゃんとしてくれてなかったら、ものすごいこと泣いてやるって言ったじゃない」
「え、え?!」
 泣くって言った? 綾が、俺に? いつ、どんな文脈でそんなことを。

「ってか、本当に初耳だぞ?! そんな台詞は!」
「言ったもん!」
「だから、いつ! 少なくとも俺は聞いてないぞ?」
「言ったの! 昨日、私の脳内の兄さんに!」
「勝手な約束を脳内の俺に背負わせるな!」
 聞いたこともないほどに理不尽な契約の形態を、兄に強いる妹だった。

「そ、そもそも何に怒ってるのかわからないし、流石に魔法はやり過ぎだろう?!」
「だって、兄さんがわかってくれないからじゃない!」
 諭す言葉に綾は聞く耳を持たず、俺の頬に当てた手で、ぐいぐいと俺のほっぺたをつねる。

「いたいいたい」
「痛いのは私の方なんです!」
「なにを無茶な」
 どこの世界に、被害者に向けて「私の方が痛い」なんてのたまう加害者がいるのか。思わず呻く俺だったが、しかし、綾も負けじとばかりに呻くように唇をとがらせた。

「うう……さっきまで、ちょっと良い雰囲気だと思ったのにっ」
「よ、よい雰囲気?」
「うん……『楽しいか?』って聞いてくれた辺りとか、『寂しい』って言ってくれた辺りとか! ああ、報われたんだなって思ったのに……思ったのにっ!」
「いや、訳がわからないんだけど……って、だから痛いって」
「なんでわからないのよ、馬鹿ぁ! しかも、よりによって、霧子さんの話題で閉めようとするなんて……ふ、ふふ……堪忍袋の緒がキレる、とはこのことよね」
 ふふふ、と昏い笑みを浮かべる綾に、「今日のお前が、一体、いつ「堪忍」していたのか、言ってみなさい」なんて危険な台詞が脳裏に浮かんだが、本当に危険すぎる台詞だったので頭を振って棄却した。

「綾。だから、落ち着けって。俺が何か気に障ることしたんだったら、ちゃんと言ってくれたら謝るからさ」
「そんなの、言えるわけないじゃない」
「な、なんで」
「なんでって……とにかく、まだ言えないの。言いたいけど。凄く言いたいけど」
 ものすごく言いたいけど言えない。そんな矛盾した内容の台詞を、繰り返しながら綾は困ったように息をついた。

「だって、兄さんは悪くなくて、悪いのは多分私で……ああ、でもやっぱり兄さんも悪いんだから!」
「……綾」
 やっぱり今日の綾は様子がおかしい。喜んだり、怒ったり、笑ったり、興奮したり。綾が俺の前で、喜怒哀楽の感情をころころと変えることは珍しいとまでは言えないけれど、やっぱりその感情の示し方が極端で、落ち着きがなさ過ぎる。
 だから、俺は大きく一度息を吸って。

「綾。落ち着いて」
 努めて冷静に。なるだけ、優しい口調で呼びかけた。
 綾はさんざん「わかってくれない」って言ってたから、今日の綾の様子がおかしい原因は、やっぱり俺が気づくべき事に気づけていないからなのかもしれない。元々、察しは良くない方だと思う。だから、その点を攻められると反論できないけれど。
 でも、だからこそ言ってくれないと、わからないし、わからないまま、今の綾を放っておくことも出来ないから。

「ちゃんと話そう。今日のお前、ちょっと変だぞ」
「……うん。そうだね」
 なるべく押さえた俺の声に、多少は落ち着いたのか。瞳の色はまだ紅いままだったけれど、それでも綾は高ぶっていた声を抑えて、そう頷きを返した。
 なら、これでようやく落ち着いて話ができる……と、思ったのはやっぱり俺が「わかってない」からなのかもしれない。

「変だよ、私」
「え?」
「今日だけじゃなくて、もともと、変なんだから。私」
「……綾?」
 静かな口調。でも、そこに何か真摯な響きを感じて、俺は綾の目を見つめ返した。紅い瞳。宝石みたいな輝きが、どこか熱を帯びて俺の目を映している。

「ずっと、変で。多分、これからも変なんだから」
「……」
 開き直ったような言葉に、でも自棄するような響きは感じない。代わりに感じるのは、素直な言葉の響きだけ。なのに、何故か、ひどく張り詰めたようにも聞こえた。

「でも、今日はいつもよりちょっと変なだけ。うん、だから……」
 だから。
 その言葉を契機に、頬に添えられた手の感触が、少し強さを増した。

「だから、私」
「綾……?」
 綾の顔が少しずつ大きくなる。要するに、顔が近づいてきている訳で。
 吐息がかかる距離にまで、迫った妹の顔。その瞳に飲まれて、かける言葉が出てこない。

 ……このままじゃ、まずい。

 何がまずいのか、よくわからないまま、その直感だけが胸を打つ。だけど、力を奪われた俺は……というか、綾の目に飲まれかかっている俺は、身動ぎも出来なかった。

「……兄さん」
 綾の顔は文字通り目と鼻の先。彼女の呼吸が乱れているのが、顔にかかる吐息でわかる距離で止まったまま。そして、俺もまた動けないままに、ただ妹の瞳を見つめ返して。
 そんなひどく現実味のない状況に、思考が停止に逃げている最中。

 俺を映す紅い瞳が、涙に揺らいでいることに、そこでようやく、気がついた。

 いったい俺の何が、妹の機嫌を損ねているのか。それは本当に、わからない。
 だけど。それでも、目の前で妹が泣いていて。それをただ呆然と見つめているだけの兄なんて、情けないにも、ほどがある。

「……綾」
 だから、俺は止まった思考のまま。

「え? ……あれ?」
「ああ、ほら、泣くな」
 動かないはずの腕を動かして、妹を胸の中に引き寄せて、その頭をぽんぽんと叩いてやった。

「あ、あれ……、あれ……? どうして? 私、魔法……」
「ふふふ、あまり兄をなめてもらっては困るな」
 信じられない、そんな感情が滲む妹の言葉に、俺は「自分でも驚いている」ことを隠しながら、そんな軽口で応じて見せた。

 ……いや、本当。なんで動けているのか。自分でもわからない。
 が、すぐにそんな複雑な事情でもないのか、と思い当たって頷いた。そもそも人体に干渉する魔法は、難しい。あげく三文節詠唱なんて高等技法を使うのならその難易度は跳ね上がる。いくら綾が成績優秀だからといっても、まだ高等部の1年生だし、そもそも、こんな高ぶった感情のままに行使した魔法で完全に他人の体の支配なんてできない……のだと思う。
 だからまあ、成績優秀とは言い難い俺でも、根性出せば……死ぬほど魔力を動かして、「元々の俺の体の規則」を取り戻しさえすれば、綾の魔法に対抗できたのだと、思う。……断言できない辺りが、俺の限界でもあるけれど。

 でも、まあ。そんな理屈は放っておくとしても。魔法なんか解けなくたって、少しぐらい……泣きそうな妹の頭に手を回すぐらい、根性でなんとかなしないと、だめだから。

「時々、信じられないことするよね。兄さんって」
 対して綾はどう判断したのかはわからない。だけど、俺の胸の中、綾がなぜかあきれ果てた、という口調でそう呟いた。

「信じられないって、それはひどいと思うんだけどなあ」
「そういう意味じゃないよ。……やっぱり、そういう意味かも、だけど」
 答える綾の声が、からかうような口調に変わる。少なくとも張り詰めていた声じゃない。

「やっと落ち着いてくれたか」
「……どうかなぁ。まだ落ち着いてないかも」
「あのな」
 俺の胸に顔を埋めながら、小さく綾が笑った。

「生徒会にストレスを感じている、って訳じゃないよな?」
「うん」
「じゃあ、やっぱり俺の所為か?」
「…………本当に、兄さんの、馬鹿」
「はい?」
「なんか、無理矢理にできなく、なっちゃったじゃない……馬鹿」
 また俺を非難する言葉を呟きながら、綾はようやく俺の胸から顔を上げる。やっぱり、まだ瞳は紅い。でも、それは「うっすら:としたほのかな赤の色。少なくとも激情に揺さぶられていたあの危うい光は、既にない。
 だから、本当に落ち着いてくれたのだ、と俺は胸中で安堵したけれど、相変わらず綾の言葉の真意がつかめない。一体、今度は何に対して「馬鹿」と言われているのだろうか、俺は。
 そんな俺の戸惑いに、綾はくすり、とほほえんで小さく舌を出した。

「ごめんね、兄さん」
「え?」
「変に絡んじゃって。四日ぶりだったから、兄さんのこといじめたくなっちゃったんだ」
「あのなあ……」
 果たしてどこまで本当なのか。はぐらかす口調の台詞に、俺はなんと答えたものかと思考を巡らせる。だけど、そんな俺にゆっくりと考える時間を綾は与えてくれなくて。

「だから、意地悪ついでに、もう少しわがまま言うね」
「え?」
 にやり、といたずらっぽく、笑って。腕を伸ばして俺の首に手を当てた。
 って、この姿勢は……。

「そもそも美術部に入るとか、魔法に抵抗するとか」
「え? え?
「そんなに力が有り余って居るんなら」
「ちょ、ちょっと、待て。お前、まさか」
 気づけばまた綾の瞳が「うっすら」からやや濃い赤色に輝きを増している。激怒の感情ではないけれど、それでも強い感情を示す瞳。そして、綾自身もその感情を隠すそぶりを見せずに―――笑って。

「遠慮なんてしないんだから!」
「ぎゃああ?!」
 綾は吸血鬼よろしく俺の首下にかみついて、そして信じられない勢いで俺の魔力を吸い上げ始めたのだった。


続く

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