0.

「あのさ、綾ちゃん。よかったら、一緒に遊びに行かないかな」
「駄目です」
「え?」
「ごめんなさい。ちょっと忙しいので」
「あ、いや、その」
「失礼します」
 締めて、十秒。
 速水龍也が神崎綾に声をかけてから、彼女が立ち去るまでの時間である。

「いやあ、とりつく島もないって、ああいうことを言うんだね。あはは」
「何を暢気に感心してんのよ、あんたはっ!」
 締めて、三秒。
 速水龍也が霧島霧子に経過報告をしてから、彼女が殴るまでの時間であった。

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  魔法使いたちの憂鬱

           第九話 それぞれの試行錯誤

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1.美術部(桐島霧子)

「そうそう。筆は自分の手の一部ってイメージするの。指先の延長と思えばいいかな。絵の具は、その指先からにじみ出る魔力の一部って思うとやりやすいよ」
「わかった」
 私の声に頷きながら、良は目を閉じてその手に意識を集中させた。彼の手に握られているのは一本の絵筆。その筆先が「魔法の絵の具」に触れてゆっくりと円を描くように動き、その動きに従って絵の具のほうも淡い光を放ちながら虹のようにその色合いを変えていく。使用者の魔力によって、その質量、粘度、色合いなどなど、さまざまな要素が変化するのが「魔法の絵の具」の特徴。だから良が筆を動かす事に、絵の具がその色や質感を変えていく様子は、言うなれば良の個性の具現。

「よし、と。霧子、これ、どうかな?」
「どれどれ」
 待つことしばし。良の声に促されて、私は彼が手元のパレットでこねていた絵の具をのぞき込んだ。そこにできあがっていたのは淡い青の光を放つ絵の具。水よりも空を連想させるその色合いは、その中に風を閉じこめているかのように、わずかに揺らぎ続けている。

「うん。結構うまくできてる。初心者にしては上出来かな」
「そ、そうか?」
 私の賛辞に、良の目にはっきりと喜色が浮かぶ。

「これ、空をイメージしたんだよね?」
「そういうの、わかるのか?」
「うん。ちゃんと魔力も混ぜられてるし。ほんとに上出来。最初はなんの反応も起きないこと多いのよ」
 つんつんと、良の練った絵の具を指先でつつきながら、私はお世辞ではなくそう言った。
 正直、ちょっとだけ驚いている。いつもの授業ではなかなか良は自分の魔力を形に出来ないのに、この絵の具は想像していたよりもずっと、良の魔力に従ってその形を変えていたから。
 ……うん。やっぱり、良は美樹部に向いているんだ。その確信に、私は自分の口元がほころぶのを自覚した。

「ふふ」
「? なんか、失敗したか? 俺」
「あ、別に、そうじゃないよ。ちょっと嬉しかっただけ」
「嬉しい?」
「うん。自分が勧誘した人が、才能あったら嬉しいじゃない。やっぱり」
 それに良を美術部に勧誘したのは割と無理矢理だったけれど、でも、結果として良が楽しそうに絵の具をいじってくれているのを見ると、やっぱり嬉しくて。そんな私の表情に、良は少し照れくさそうに頬を掻いて視線を逸らした。

「あー、うん。まあ、俺も楽しいし、そう言ってくれると嬉しいよ」
「あ、照れてる」
「照れてない。それより、この絵の具って必ず使うのか?」
 露骨な話題転換だったけど、部活動中という事を思い出して、私は少し表情を改めて良の言葉に首を横に振る。

「そう言う訳じゃないわよ。魔法を使うことで、表現の幅を広げることができるのは確かだけどね。必要なら使い、必要でないのなら使わない。『芸術とは自己表現。自己を表現する手段は、自己で選択し、決定するべきだ』というのが我が部のモットーです」
「なるほど」
 魔法院の美樹部であるからには、当然のごとく、その作品の多くには作成には魔法が用いられるけれど、それはあくまで選択肢の一つに過ぎないし、魔法を使うから絵がうまく描ける、という訳ではない。この辺は、毎年新入部員に注意する事であり、良もなんだか感心したように頷いて納得してくれたようだった。

「でも、実際には魔法の絵の具の使い方は、必須スキルだけどね」
 だから、こうして新入部員や見学者には、部長や副部長(つまりは私)がこうしてその使い方を指導している訳だった。ちなみに、年度が替わってもう五月の中旬に成ろうとしている今では、大体の人は部活動は決めてしまっている時期なわけで、現状、美術部の見学者は良一人。だから、私は良を自分の席の隣に座らせて、この一週間ほとんどつきっきりであれこれと道具の使い方や簡単な技法を教えている。おかげで自分の作品作成はあまり進んでいないけど……ちょっと、楽しい。

「ねえ、良。魔法の絵の具の欠点はなんだと思う?」
「値段が高いこと?」
「確かにそれはあるわねー。良もバイトしないと苦しくなるかもよ?」
「げ」
「まあ、その辺は神崎先生とお小遣い交渉してね」
「き、厳しいなあ」
「それはともかく、答えは「すぐに色あせてしまうこと」よ」
「ああ、そっか」
 魔法の永続化は難しい。そのため、中途半端な技法で使用した魔法の絵の具はあっさりと、込められた魔力を失って制作者の意図しない色合いに変化してしまうのだ。……一部、例外はあるけれど。

「でも、それを逆手にとるような人もいるけどね。故意に色あせた色合いを出したりとか」
「なるほど」
 私の説明に、良は練った絵の具を練習用の白紙に塗りつけて、その変化を確かめながら頷いている。空の色をした絵の具が、何もない白の空間に吹き抜ける風を作り上げるような色合いが、次第に色あせて、力を失っていく様子に、良はおもちゃを与えられた子供のように楽しげに目を輝かせている。

 ……うん。やっぱり、良はこういうのに向いているのだと思う。
 再度浮かんだその想いに、私は小さく手を握る。今まで、例のトラウマ(食人絵画捕食未遂事件)のおかげで、美術部を敬遠していた良だけど、教えたことを割と器用にこなしていくし、おかげでこっちも教え甲斐がある。だから、誘って良かったな、っていう想いと、これなら良も一緒に美術部にいてくれるかなっていう想いに、どうしても頬がゆるんでしまう。

 ……まあ、今は暢気に、そんな感慨にばかり浸ってはいられないんだけど。
 暖かさに緩みそうになっていた思考を引き締めて、こねこね、と筆の先で絵の具を混ぜる良に問い掛けた。

「あのさ、良」
「うん?」
「あの後、何か変わったこと、あった?」
「ん?」
「だから、えーと、綾ちゃんと喧嘩した後」
「あー、まあ、とりあえずは、小康状態かな」
 苦笑混じりに笑いながら、良は最近の綾ちゃんのことを話してくれた。
 それによると綾ちゃんと良の喧嘩から、一週間。綾ちゃんは、また生徒会が忙しくなったようで、あまり事態は変化していないらしい。

「まあ、夕飯は一緒に食べてるし、魔力交換も一回したよ。まあ、自然消滅的に仲直りした、って感じかな。強いて言えば、時々、なんとなく態度が硬い様な気もするけど……そのぐらいだよ」
「そう」
 綾ちゃんの態度が硬いのは、彼女の罪悪感が原因なのか、それともまた「良の気を引く作戦」に出ているのかどちらなのだろうか。それははっきりとは分からないけれど、少なくとも、再び良に迫った……ということは無い様で私はそっと安堵の息をかみ殺す。

「……って、やっぱり俺からきっちりと言った方が良いかなあ? 一応、ちゃんと謝ってくるのを待ってるんだけどさ」
「駄目。今は余計なことしちゃ駄目なの……いろんな意味で」
「そうかなあ」
「妹離れするんでしょう?」
「……そうでした」
 私にピシャリ、と否定されて、良は少し肩を落とす。そんな彼を目にして、私は内心でため息を零した。
 普通なら、良がきっちりと注意して、兄妹間の微妙な「しこり」とか違和感とかは早々に取っ払った方が良いに決まっている。そう、普通なら。

(……ああ、本当に「綾ちゃんの思いが普通じゃないのかどうか」を早く確かめたいのに)
 胸に浮かんだ苛立ちを押殺すように、私はこっそりと息をつく。何せ、あれから一週間、事態はほとんど進展していないのだから、そりゃため息ぐらいは漏れたって仕方ないって思う。

『折を見て綾ちゃんを誘ってみる』と言っていた龍也は、その「折」を探すのに昨日までかかったあげく、わずか数秒で、あっさりと断られたらしい。『話も聞いてもらえなかった』と、流石にへこんでいたけれど、いつまでもの凹んでいてもらっては困るのだ。私だって、焦燥感をぐっと我慢し続けているんだから。

(あいつめ。本当に押しが弱いんだから)
 気弱な友人の笑顔を思い出して、私は軽く頭を振った。
 龍也の代わりに、私が綾ちゃんに話をしに行っても良いのだけど、なぜか龍也は「それだけは」と頑なに止める。私としても綾ちゃんを変な方向に刺激するのは本意ではないので、今のところ龍也の指示には従っているのだけど……どうするつもりなのかな、あいつ。龍也は『ま、まだ策はあるんだって。大丈夫、ここは僕に任せてよ!』なんて、柄にもなく積極的な台詞を口にしたけれど。

「……十秒で玉砕したのに。策も何もあるのかな?」
「え?」
「あ、ごめん。独り言」
 思わず漏れたつぶやきをあはは、と我ながらわざとらしい笑みでごまかして、私は慌てて話題を変える。

「えーと、じゃあ、ちょっと教えたところまでやってみてくれる?」
「わかった」
 私の指示に素直に頷いて、良はまぶたを閉じた。そしてこの一週間で教えた通りに、脳内に展開するイメージを魔力を使って絵の具に注ぎ込むための作業を開始する。まだまだぎこちなく、それでも手順通りに進むその作業を見つめながら、私は思考の片隅で綾ちゃんのことに思いを巡らせてしまう。
 
 ……綾ちゃん、良のどこが好きなのかな。

 その疑問が、視界の中の良に重なるように浮かんで、消えない。
 好きになるのに、理由なんか無いって言うけれど……理由もなしに、実の兄を好きになっちゃうものなんだろうか。兄妹の垣根を越えずにいられないほどに、好きになる理由なんて、あるんだろうか。
 それは綾ちゃんと良の関係を危ぶみ始めてから、私の中に渦を巻く疑問で、そしてまだこれといった解答を、私は見つけられてはいなかった。

 一番、単純に考えるのなら、それだけの魅力が良にある、ってことなんだろうけれど……そこまで魅力、あるのかな? そんな疑問を口の中で小さく呟いて、私はまじまじと良の横顔に視線を注ぐ。

 顔がいいから、っていうのは、良には悪いけれど理由にはならないような気がする。別に格好悪い、という気なんて無いけれど、顔の造形が飛び抜けているとは思えない。正直、綾ちゃんに言い寄る男の中になら、良よりはっきりと格好良い奴もいるだろうし。身近なところで言うのなら、龍也とか。まあ、あいつのは場合か、かなり顔の作りが中性的というか、女っぽいから、その辺は綾ちゃんの好みかどうかわからないけれど。

(まあ、顔で人を好きなるような娘じゃないかな)
 そう思って、視線を良の指先へと移す。魔法使いとしての才能が高いから……、っていうのも、違うと思う。だって、そもそも才能も実力も綾ちゃんの方がはっきりと上だし。まあ、多分、綾ちゃんの魔法使いとしての実力は私よりも上だと思うから、これに関して良のことをどうこういう資格は私にはないけど。

(じゃあ、性格?)
 呟きを押し殺しながら、また視線を指先から良の横顔に戻す。そりゃ、良の性格が悪いなんて言うつもりは無いけれど……それでも、そんなに性格、そんなにいいかな……? 軽くほおづえをつきながら、私は良に関して思いつく形容詞を、頭の中で羅列してみた。
 割と短気。結構頑固。実は内向的かも。魔法に関してコンプレックスあり。変にお人好し。友達思い。あと、やっぱり重度のシスコン。割とケチ。この前ジュース奢ってくれなかったし。

(って、あれ?)
 つらつらと浮かべた良への感想を総合すると、なんだかマイナス評価になりそうな気がする。面倒見が良い、といえば聞こえはいいけど、去年の会長さんとの一件を見ると、ともすれば当事者を置いてけぼりにして周りが見えなくなることもある。あげく熱くなりすぎて自分のこと、顧みなくなることだってあるぐらいだし。

 ……うん。やっぱり、欠点ばっかりが目についてしまう。綾ちゃんの立場からしたら、「困ったお兄ちゃん」と思ってもしかないぐらいだ。だから。

 だから、綾ちゃんは別に。
 よりにもよって、良を……好きにならなくても、良いんじゃないのかな……?

「霧子?」
「え?」
「どうかしたか?」
「あ、ごめん。何でもない。何でもないよ」
 よほど私は自分の思索に沈んでしまっていたのか、良が私を見つめていることにしばらく気づいていなかったようだった。「どうかしたか?」との問いに、まさか「あんたのあら探しをしてました」なんて答えるわけにも行かずに、私はまた少し笑ってごまかそうとして……

 そこで気づいた。

(あれ? なんで、私。良の粗探しなんて、してたんだろ……?)
 友達の、親友のあら探し。そんな真似をしていた自分に、浮かべようとしていた笑いは、引きつったように止まる。

「霧子」
「あ、ごめん。また、ちょっと考え事して」
「ありがとな」
「え」
 自分の思考に青ざめる私に、良は、どこか気遣うような、申し訳ないような視線を向けながら小さくそう言った。

「ありがとう……って、なにが?」
 戸惑いを押殺して良に問い掛けると、彼は照れくさそうに軽く頭を掻いて、小さく笑う。

「その、まあ……、いろいろと」
「だから、いろいろって?」
「だから、この間からいろいろ心配してくれてるだろ?」
「あ……うん」
 だから、ありがとう。そう言いながら、同時にその相手を気遣うような、いたわるような目を良は私に向けていた。そんな良の視線に気づいて、私は少し、息をつく。

(なんで、いつもこうなってるのかなあ)
 こういうところ、良は生意気だと思う。なんで、心配しているはずの私が、いつの間にか心配される側に回っているのか。調子が狂ってしまうじゃないか。
 沸々と沸き上がる良への不満。我ながら八つ当たりだと分かっているそんな思考に……こわばった心がハラリと解れたような、そんな気がした。

「霧子?」
「まあ、感謝するのは良い事よね。いずれ形で返しなさい」
「お前なあ」
 内心で抱えた動揺と戸惑いと、安堵。それを悟られないように、軽い揶揄の言葉を向けて私は肩をすくめて見せる。そんな私の態度に、軽く苦笑する良を見つめながら、私はほとんど無意識に彼に向かって問い掛けていた。

「あのさ。良」
「うん?」
「良は、綾ちゃんのこと……」
「綾のこと?」
「……」
「……霧子?」
「あー、やっぱりなんでもない」
「何でもないって、何が」
「いいから、ほら。絵に集中しなさい。集中」
「痛い痛いって、おい。分かったから、無理矢理、他人の首を回すな!」
 良の頭を無理矢理絵の具の方へと向けさせるなんていう強引な方法で話題を打ち切りながら、私はこっそりと何度目かのため息をついた。

 ……なんとなく、分かっていたことだけど。綾ちゃんの行動を聞いてから、私もちょっと思考にまとまりが無くなっているのかもしれない。ひょっとしたら、龍也はそのことに気づいていて、私を関わらせないようにしてるのかな。

 調子が狂っている、っていう言葉を脳裏に浮かべながら、私はどこか揺れて落ち着かない思考に、また一つため息を零すのだった。

2.一年生たち(神崎綾)

「ふう……」
「綾。まだ落ち込んでるの?」
「うう、当たり前でしょ」
 お昼休みの屋上。比較的、人の少ない一角でお弁当を広げながら、私は親友の佐奈の問い掛けに呻くようにそう答えた。胸の中をぐるぐると巡るのはぬぐいきれない自己嫌悪で、私はそれを押し出すように深くため息をつく。

 自己嫌悪の元凶は、当然のことながら一週間前のあの夜の出来事。いくら頭に血が上ったからって、兄さんにあそこまでやるのは我ながらどうかしているとしか思えない。いきなりわめき散らしたり、倒れるまで(というか、身動きできなくなるまで)魔力を吸い上げたり。我ながら、八つ当たりにも程がある。
 そんな後悔の念に項垂れる私の顔をまじまじとのぞき込んで、佐奈は小首をかしげる。

「良先輩、まだ怒ってるの?」
「……どうなのかな」
 あれから、一週間。正直なところ、兄さんはあまり怒っているようには思えなかった。勿論、あの後、母さんには「やり過ぎだ」とお説教をくらったし、兄さんからも、ため息混じりに頭を小突かれた。でも、言ってみればそれだけ。それ以上お説教することもないし、会話だってあるし、魔力交換だってしてる。時々、何かを言いたそうな表情を見せるときもあるけれど、それもほんの一瞬だし……

「多分、そんなに怒ってはいないって思う。ほとんど、いつもと同じ、かな」
「そうなんだ」
 そう、いつもと同じ。その事実を反芻して、私は先ほどとは少し違う感情に、またため息を零す。そんな私の顔をのぞき込みながら、佐奈は淡々とした口調で呟くように言った。

「いつも通り。だから、綾は不満なんだね」
「……うん」
 佐奈の指摘に、私は少しだけ躊躇いを挟んで、それでも素直に頷いた。私の中にわだかまっているのは罪悪感と……そして同じくらいの、失望感だったから。
 そう。「やってしまった」という後悔、兄さんを困らせた罪悪感は強いんだけど、同時に「あそこまでやったんだから」という期待感も同時にあったのだった。ひょっとしたら、少しは私の気持ちに気づいてくれて。そして二人の関係が少しずつでも変化してくれるんじゃないのかな、っていうそんな期待。我ながら自分勝手だと思うけれど、それでもどうしても捨てきれなかったそんな期待は……現在のところ、見事なまでに裏切られて、そして大きな失望感へと成り果ててしまっているのだった。

「うう……なんで、いつも通りなのよぅ。兄さんの、ばか」
 思わず、そんな言葉が口から漏れる。だって、あそこまでしたに。ひょっとして、あそこまでやっても、兄さんは私が何をしようとしたのか、気づいてないのだろうか。

 あそこまで……したのに。

「綾、顔赤い」
「言わないで」
 佐奈に指摘されたとおり、あの時の自分の行為を思い出して、私は頬が熱を持つのを自覚した。
 あのとき、兄さんに何をしようとしたのか。はっきりと分かっているし、覚えている。自分でも、思い起こして赤面するぐらい、よくあそこまで出来たなって、感心してるぐらいなのに。なのに……っ。

「うう、兄さんの馬鹿。兄さんの馬鹿。兄さんの馬鹿」
 なんで、何の変化も起こらないのかっ。
 ほとんど八つ当たりの感情。それを持てあまして、私はぶつぶつと呪詛のような言葉を繰り返して項垂れる。

「大丈夫。綾は頑張ってるから」
 そんな私の頭を、佐奈が小さな手で「よしよし」と優しく撫でつけてくれた。

「ちゃんと報いはあるよ。きっと」
「うう……ありがと、佐奈」
 慰めに顔を上げながら、私は親友の顔を見つめた。

 泉佐奈(いずみ・さな)。私のクラスメートで、私が「親友」と呼べる唯一の友達だった。
 かなり小柄な女の子で、私より頭一つぐらい小さい。肩まで伸ばした絹糸みたいな白銀の髪と、ほのかに赤みがかかった瞳。あまり表情を変えずに、淡々と話すのが特徴で、私の彼女への第一印象は「妖精みたいな女の子」だった。遠目、かなり儚げで、触れたら透けてしまいそうに思えたから。

 とはいえ、今の佐奈に、「儚げ」なんていう印象は最早抱いてはいない。表情を変えずに淡々と話す、というのは親しくなっても変わらなかったけれど、佐奈はその口調と表情そのままに、時々、ものすごく直球で現実的な台詞を口にするから。

『綾は、良先輩を好きなんだね。異性として』
 なんて台詞を、表情一つ変えない佐奈の口から聞いたときには、流石に聞き間違いかと自分の耳を疑ったっけ。だって学校からの帰り道に、何気ない雑談の一つの話題のようにあまりに平然と言われたものだから、反応に困るどころの話じゃなかった。
 ……だから、まあ。あまりに狼狽してしまって、結局、私の気持ちはきっちりと佐奈にバレてしまって。でも、それがきっかけになって佐奈とは何でも相談できる間柄になれたんだけど。だって、あの時も佐奈は平然と私の思いを受け止めて、少しも否定することはしなかったから。

『だって、綾は好きなんでしょう? なら、私は応援するよ』
 なんて、また顔色一つ変えないままに佐奈は頷いてくれたのだった。ということで、私の兄さんへの想いを知っているのは、母さんの他には佐奈だけで、こうして兄さんに関する悩みや愚痴をこぼして、相談できる相手も彼女と母さんだけなのだ。

「でも、基本的に、綾は駆け引きには向いてない」
「そうかなぁ、やっぱり」
 母さんの提案を元に実践中の「兄さんと少し距離を置いて嫉妬心を煽ってみるぞ作戦」の現状は芳しくなく、だから、佐奈の言葉に私はため息混じりに頷いてしまう。

「でも……どうすればいいかな」
「直球勝負が良いと思う」
「……それで失敗したんだけど」
 なにせキスしようとしたぐらいなんだけど。と、不満げに唇をとがらせると、佐奈はフルフルと小さく首を横に振る。

「それは綾が未遂で止めたから」
「う」
 未遂で止めた、と言われると言葉に詰まる。確かに、ちゃんと出来ていたら……何かは変わっていたとは思うけれど。口ごもる私に尻目に、なおも佐奈は淡々と更なる提案を投げかける。

「キスで終わらないで、ほんとに最後までしちゃえたらなお良し、だね」
「さ、最後までっ?!」
 思わず声をうわずらせた私に、佐奈は表情を変えないまま、少しだけ首を斜めに傾ける。

「嫌なの?」
「い、嫌って訳じゃないけど」
「いずれはやるつもりでしょう?」
「そ、そりゃそうだけど……っ、こういうのは順番が大事でしょ。こう、お互いの気持ちを確かめながら……」
「違うよ」
 またバサリ、と私の言葉を遮って、佐奈は真顔のまま告げてくる。

「一番大切なのは既成事実」
「……一回聞きたかったんだけど、でも、怖くて聞けなかったんだけど、佐奈の恋愛観はどうなってるの?」
「聞きたい?」
「聞きたいような聞きたくないような」
「お母さん直伝の恋愛観だから間違いないよ。先手必勝。即断即決。あと見敵必殺」
「……聴かなかった方がよかったかも」
 とくに一番最後とか。
 とはいえ、佐奈が私をからかっている訳じゃなく、本当に私のためを思って言ってくれているのはわかってる。発言内容の妥当性はともかくとして、彼女の気遣いには感謝しながら、でもやっぱり首を横に振ってしまう。

「でも、しばらくは勇気でないよ」
「……うん。それでもいいと思うよ。綾のペースで頑張ろう」
「うん。ありがと」
 過激な提案を率直にしてくる佐奈だけど、無理強いなんかしない。だから、私の弱気な発言にも気を悪くした様子も見せずに、首を縦に振って同意を示してくれれた。けど、次の瞬間、ふと何かを思い出したように彼女は動きを止めて、そして私の顔をのぞき込む。

「でも、綾」
「何?」
「良先輩に、謝った?」
「……一応」
「ちゃんと、謝った?」
「う、それは、まだ」
 小突かれたときに、小声で「ごめん」とは呟いたけど。でも、自分から謝った訳じゃない。だから、「ちゃんと」謝ったか、と言われれば、その答えは否、になる。尻すぼみになる私の返事に、佐奈は淡々とした声のまま、諭す言葉を投げかけてくれた。

「じゃあ、一度、ちゃんと謝るべき」
「そうかな」
「そう。綾もそう思ってるよね?」
「…………うん」
 佐奈の指摘は正しい。ちゃんと謝るべきだって、自分でも分かってる。分かってるけど……。

「でもでもでも、なんて言って謝ろう?」
「ごめんなさい、って言えばいいと思う」
「そうだけど、そうなんだけど……その前段階というか、舞台準備というか」
「いらない」
 狼狽える私の言葉を、表情も変えずに佐奈がばっさりと切って落とす。

「単刀直入に」
「うう、そうかな」
「できれば土下座」
「ひ、引かれないかな?!」
「それは冗談」
「佐ー奈ー」
 顔色も口調も変えないので、彼女の冗談は非常に分かりづらいのだった。つきあいが長いから多少は分かるようになっているけれどこういう切羽詰まった感情の時にはなかなか判別している余裕はない。

「でも、誠意は大事だよ。綾が必要と思うなら土下座しても良いと思う」
「誠意かあ」
 それは分かってる。わかってるけど、そう簡単にできないから一週間もこうして自己嫌悪を引きずっているわけで。我ながら煮え切らない口調でそう呻くと、佐奈はまっすぐに私の目をのぞき込んだ。

「綾。謝らないなら」
「謝らないのなら?」
「私が、先輩もらうけど、良い?」
「良いわけ無いでしょ!」
 再びの唐突な佐奈の言葉に、私は思わず声を高くして首を横に振る。

「駄目?」
「絶対、駄目」
「大丈夫。分けてあげるから」
「そう言う問題じゃないの!」
「二号さんは嫌?」
「嫌。当たり前でしょ」
「私は二号さんでもいいのに」
「とにかく駄目。ぜーったい駄目」
「綾のけち」
「けちだもん、私」
 平然と「二号さん」なんて口にする佐奈に、私は全身で「だめ」をアピールしてみせた。
 実は佐奈には、お母さんが一人に、お父さんが二人いる。だから、「そういうの」には抵抗がないらしいけれど……、私はまだまだそこまで割り切れていないのだ。
 そんな私の拒絶に、佐奈はほんの一瞬だけわずかに眉を曇らせて見せたけど、すぐに何事もなかったかのように表情を戻してうそぶいた。

「綾。今のは冗談だよ?」
「嘘。わかるもん」
 繰り返しになるけれど、表情も口調も変えないので佐奈の冗談はわかりにくい。でも、切羽詰まった感情の中でも、今の佐奈の発言は「冗談じゃない」、っていうのはなんとなくわかってしまった。

「さっきの佐奈は冗談の目をしてなかったよ」
「……ばれたか」
 指摘する私に、悪びれる様子もなく、それどころか佐奈は少しだけ口元をほころばせた。無表情、無感動、と言われることが多い佐奈は、こうして本心を読まれると喜んだりする。そういう所は、無邪気でかわいいんだけど……、言っている台詞の方は無邪気でもなくかわいくもないのはどうにかして欲しい。ほんとに。

「でも、私が先に先輩を陥落させて、「綾も一緒に」とか言った方が効率良いと思わない?」
「思わない」
「そっか。綾がそういうなら止める」
「うん」
 とりあえず兄さんに迫るのは思いとどまってくれたようで、私はほっと安堵の息をつく。
 実のどころ、佐奈が兄さんのことを本当に好きなのか、よくわからなかったりするけれど……「佐奈ならやりかねない」という不安はあったりするので、こうして釘を刺して置くに越したことはないのだった。

「あ、そうだ。綾」
「今度は、どうしたの?」
「他の人にも、変化ないの?」
「え?」
「たとえば、桐島先輩とか」
「……会ってないから、しらない」
 不意に出された霧子先輩の名前に、胸がちくり、と痛みを訴えた。言ってみれば、一週間前に兄さんに襲い掛かる羽目になった原因だし、目下の所、兄さんをたぶらかす最大の障壁として間違いない人だから。
 霧子さんが「いい人」というのは知っているし、実感もしているけれど、だからこそ「驚異」な訳で、自然、彼女の話題になると私の声はどこか不機嫌さを増す。でも、佐奈はそんな私の声に含まれた小さなトゲには表情を変えず、別の人の名前を口に出した。

「じゃあ、速水先輩にも会ってない?」
「うん……」
 再び不意に出された速水先輩の名前に、胸がちくりと、痛みを訴えた。……たぶん、霧子先輩の時とは違う危惧のせいで。
 というか、目下の所、霧子先輩とは全然別の意味で兄さんをたぶらかす……というか、兄さんを遠い世界に連れて行ってしまう可能性を秘めた最大の障壁として間違いない人だから。
 ………………いや、本当は速水先輩がいい人、っていうのは知っているんだけれど。どうもにも速水先輩には、本能めいた危機感を感じてしまって仕方ない私だった。

「って、あれ、そういえば会ったような」
 そんな速水先輩本人には口が裂けても言えない危惧を、私が頭に浮かべた刹那、ふと昨日の記憶がおぼろげに頭をよぎった。

「会ったの?」
「多分」
 佐奈の問いかけに頷きながら、私は記憶を掘り起こす。昨日の放課後。生徒会室に向かう途中で、速水先輩に呼び止められて何か言われた……ような、気がするけれど。

「何を言われたんだっけ」
「……私に聞かれても困るよ」
「うーん。そうだけど」
 本当に、何を言われたんだっけ。
 昨日の放課後は「美術部にいるであろう兄さんと霧子さん」を思い浮かべてしまって、他人に意識を裂いている余裕がない精神状態だったので、ひどくぞんざいな受け答えをしてしまったかもしれない。今度会ったときには謝らないと。

「綾って、速水先輩に興味ないの?」
「ないよ」
「……愚問だったね」
 言いながら佐奈は、くるり、と周囲に視線を回した。昼休みの屋上、ということで私たち以外にもぽつりぽつりと人影はあるけれど、それでも声の届く範囲には人の姿はない。それを佐奈も確認したのか、小さく首を縦に振りながら口を開いた。

「速水先輩に声をかけられてあしらうなんて、あの会の人たちに知られたら大変だよ」
「そうかな」
 速水先輩の「速水会」というのが存在することは知っているし、私たち一年生の間でも人気沸騰しているのは知っているけれど。やっぱり、異性としての興味なんか持てないし、そして、それ以上に速水会の人たちからどう思われるかなんて興味はなかった。

 だって、『あの時』から。私は兄さんしか見えなくなったんだから。


3.ただいま作戦変更中(速水龍也)

 ―――最早、後がない。

 放課後。ある意味で悲壮感にも似た決意を胸に、僕は高等部一年生の下駄箱の近くまでやってきていた。
 目的は、勿論、綾ちゃん―――ではない。いや、最終的な目的は綾ちゃんなんだけど、昨日、あそこまで見事にあしらわれてしまっては、流石に声がかけづらい。昨日は「眼中にない」というのは、こういうことなのか、と変な感心をしてしまったぐらいだったけれど、二日連続であの態度をとられてしまうと、しばらく立ち直れないかもしれない。

「……ひょっとして、僕。綾ちゃんに嫌われてるのかなあ」
 昨日の出来事を思い出して、そんな不安が頭に浮かぶ。とはいえ、綾ちゃんの良に対する行動を知ってから、早一週間。凹んでばかりいるわけにはいかないし、あまり暢気に構えてもいられない。なにせ、そろそろ進展を見せないと、霧子の我慢が限界に達してしまいそうだ。いや、既に限界点を超えているのかもしれない。今朝、霧子に小突かれた額をさすりながら、僕は小さくため息を零す。

「でも、暴力はよくないと思うんだけどなあ」
 まあ、確かに「僕に任せておいて」みたいな態度をとっておいて、何の進展も見せられていないのは、我ながら不甲斐ないと思うけれど。ともあれ、霧子への失敗報告はあまり回数を重ねるわけにも行かない。小突かれるぐらいならともかく、回し蹴り辺りにグレードアップされたりすると、体が持ちそうにないから。
 ということで、良のためだけではなく、僕自身の安全のためにも。今日こそはなんらかの進展を引き出そうと、僕は計画の変更を行い、そして、そのために協力を仰ぎたい人物をこうして捜しているわけだった。

 あまり不審に思われないように下駄箱からは距離を置いて、目的の人の姿を探す。終業の鐘が鳴ってから、30分。確か「彼女」は帰宅部だったから、そろそろ下駄箱に来てもおかしくはないんだけど……。

「あ……」
 見過ごしてしまったかな、と焦燥が胸に沸いた頃、僕は目的の人物の姿を視界にとらえて、慌てて声をかけた。

「佐奈ちゃん」
「……速水先輩」
 僕の呼びかけに振り向いたのは、小柄な僕よりもさらに小さい女の子。
 泉佐奈ちゃん。綾ちゃんの友達で、良が魔力交換をしている数少ない魔法使いの一人だ。僕も何度か良達と一緒に遊んだこともある。良曰く「面白い子」なのだそうだけど、僕といるときには、あまりしゃべらない子なので、それほど親しいという自覚はない。

 その佐奈ちゃんは、小走りに駆け寄る僕に、ぺこり、と丁寧にお辞儀してくれた。

「こんにちは。今、お帰りですか?」
「うん。佐奈ちゃんも今帰り?」
「はい」
 言いながらあたりに綾ちゃんの姿が側に無いことを確認する。今日はもうは生徒会に行っている、と分かってはいたけれど、念のため。

「ちょっと話、いいかな」
「? 私に、ですか?」
「うん」
 と、彼女に頷いた瞬間、ざわり、と周囲の空気が揺らいだのを感じた。その空気に視線を巡らせると、例の速水会で魔力交換をしてくれている娘たちが、何人か目についた。
 ……流石に一年生の下駄箱の前で、呼び止めたのは目立ったか。

「場所、変えた方が良いですよね」
「……そうだね」
 その空気を察したのか、佐奈ちゃんも彼女たちの方へ視線だけを動かしながら呟くように言った。


/****/


「ごめんね、時間取らせて」
「いいえ。私も先輩にお聞きしたいことがあったので」
 そして、佐奈ちゃんの提案に頷いてから、歩くこと数分。僕と佐奈ちゃんは、あまり人目につかない中庭の一角に移動していた。

「僕に?」
「はい。でも、先輩の方からどうぞ」
 そう言って佐奈ちゃんは、ちょこんとベンチに腰を下ろして、そのまま僕の顔を見上げて話を促すように黙り込む。淡々とした口調に、変化の乏しい(というと失礼かも知れないけれど)表情からは、彼女の意図は掴みにくくて、多少、戸惑いを感じたけれど、戸惑ってばかりもいられない。

「えーと、隣。いいかな」
「どうぞ」
 上から目線もなんなので、一言断ってから、彼女の横に腰掛けると、僕は間を置かずに用件を切り出した。

「あのね、佐奈ちゃん」
「はい」
「週末、どこかに遊びに行かないかな」
「私と速水先輩だけで……、じゃありませんよね?」
 表情を変えないまま、佐奈ちゃんが小首をかしげた。ほんの少し、不思議そうな表情に見えたのは気のせいではないのだろう。綾ちゃんと良つながりで面識はあるけれど、僕と彼女は直接それほど親しい、という訳でもないから。

「うん。綾ちゃんと、良と、多分、霧子も一緒に。みんなで遊びに行けないかな、って」
 そう。これが僕の修正した計画だった。綾ちゃんにまるで相手にされなかった僕としては、周りから攻めていくしかない、と判断したわけで。……まあ、我ながらちょっと情けないかなあと思わなくもないけれど。ともかく話を進めないと、それこそ話にならないのだ。
 そう判断して、僕は綾ちゃんの親友である佐奈ちゃんに協力を仰ぐことにしたのだった。佐奈ちゃんと綾ちゃんは相当に親しいってことは知っているから、僕の時みたいに綾ちゃんもあっさりと受け流すとは思えない。それに、もし僕と霧子と良と綾ちゃんの四人で遊びに行った場合、綾ちゃんと僕がペアになることが想定できるわけで。昨日の態度が延々と繰り返された場合、胃に穴があく自信があった。……いや、自信とは言わないのかもしれないけど。この場合。

「みんなで、ですか」
「うん。だめかな? 今週、予定ある?」
「……私はかまいませんけど」
 呟くように言いながら、少し考えるように佐奈ちゃんはわずかに目を細めた気がした。

「綾ちゃんは駄目そう?」
「忙しそうですから……いろいろと」
 佐奈ちゃんはそこで言葉を切ると、表情を伺うように僕の目を見つめる。

「先輩は、その辺の事情はご存じなんですか?」
「え?」
 その辺り、とはどの辺りのことなのか。淡々とした佐奈ちゃんの表情と声から、その意図が読み取れない。
 まさか、「良と綾ちゃんの事情」という意味じゃないとは思うんだけど……ひょっとしたら、佐奈ちゃんは綾ちゃんから何か聞いているのだろうか。とはいえ、彼女が事情を知らなかった場合「綾ちゃんと良の関係を知っているの?」なんていう言葉は、それこそやぶ蛇以外の何物でもない。

「えーと、綾ちゃんが生徒会に入ったことかな? だったら知ってるけれど」
「それもありますけど、それだけじゃないです」
「えーと……どういう意味かな?」
「多分、先輩が想像された通りの意味だと思います」
「えっ」
 ともすれば素っ気なく響く口調で投げかけられた佐奈ちゃんの言葉は、まるで僕の心を見透かすようで。僕は一瞬、心臓がはねて、血の気が引くのを感じた。

 佐奈ちゃんは、一体、何を何処まで知っているんだろう……?
 軽い驚きに彼女の顔を見つめるけれど、佐奈ちゃんの表情はやっぱり動いておらず、その意図は読み取れない。……うう。ど、どういう意味なんだろう。

「すみません」
「え?」
 そんな僕の戸惑いに気づいたのか、彼女は唐突に、ぺこり、と頭を下げた。

「変なこと言いました。気にしないでください」
「いや、でも」
 気にするな、という方が正直無理だと思う。そう口ごもる僕を尻目に、淡々と彼女は言葉を続けた。

「変なこと口走るのが癖なんです」
「へ、変なこと?」
「はい。おかげで、いつも綾に怒られます」
「そ、そう、なんだ」
 果たしてどこまで本気なんだろうか。本当に表情が変わらないので、やりにくいことこの上ない。一瞬、「読心」の魔法詠唱が頭をよぎりかけたけど、危険な発想に僕は慌て頭を振って自戒する。
 と、ともかく会話の主導権は戻さないと……。

「あ、えーと。ともかく、遊びに行く話なんだけどね。佐奈ちゃんはOKなんだよね?」
「ちょっと、待っていただいて良いですか?」
「え? あ、うん」
 僕の問いかけを制してから、彼女はおもむろに腕を組んで考える姿勢をとった。そして、彼女に言われるまま黙ってその様子を見守っていると、彼女は目を閉じて、そしてなにやらぶつぶつと呟き始める。

「ポクポクポク……」
「……佐奈ちゃん?」
「気にしないでください。我が家に伝わる考えるときの擬音ですから」
「ぎ、擬音?」
「はい。先祖代々、変なんです。うち。ですから、くれぐれも気にしないでください」
「そ、そう」
 つっこみどころ満載な発言だったけど、あえて突っ込むことは避けておく。突っ込んだら、突っ込んだで、まだややこしいことになりそうな確信めいた予感があったから。

(……って、この子、こういう娘だったのか……?)
 いつも綾ちゃんの陰に控えめにたたずんでいる娘だったから、あまり深く話したことはなかったけれど、こんな娘だったとはちょっと思わなかった。なるほど良が「おもしろい娘」と評する理由がよくわかった。いや、このタイミングでわかりたくなかったんだけど。
 
「ポクポクポク……、ちーん。出来ました」
 僕の当惑をよそに続けられていた謎の擬音を伴った思索。その結果に納得したのか、佐奈ちゃんはhうんうん、という風に何度か口を縦に振った。

「も、もういいの?」
「はい、お待たせしました。先輩がお誘いくださっている目的は、綾と良先輩の仲直りですよね?」
「あ……うん。まあ、そうかな」
 なるほど。綾ちゃんと良が喧嘩した……というか、綾ちゃんが一方的に良に絡んだ一件のことは聞いているらしい。でも、その事を知っているのなら、こちらとしてもやりやすい。

「ちょっと二人の関係がこじれてるっぽくてね。何とかしてあげたいんだ」
「そうですか」
「それで……ごめんね。佐奈ちゃんを利用するようなことになるんだけど」
「綾のためだったらいいです。利用してください」
 僕の謝罪に首を振って、佐奈ちゃんは平然とそう言い放った。

「私は綾を誘えば良いんですね?」
「うん。頼めるかな。僕も誘ってみたんだけど……失敗しちゃってね」
「昨日の綾は機嫌が悪かったですから、気にしないでください」
「あ、そうなんだ」
「はい。ですから、私で良ければ、出来る限り協力します」
「ありがとう、助かるよ」
 佐奈ちゃんの色よい返事に、僕は心底、安堵の息をついた。これで、霧子にも面目が立つし、遊びに行く際にもいろいろと協力してもらえるのなら助かる。
 ようやく見えてきた希望の光に僕が胸をなで下ろしていると、佐奈ちゃんがわずかに身を乗り出して僕の顔をのぞき込んだ。

「先輩」
「え?」
「私、先輩に協力します」
「あ、うん。ありがとう。本当に―――」
「ですから」
 助かる、と続けかけた言葉。それを遮って。

「ですから、先輩も協力してくださいね」
 少しだけ、語気強く、彼女は念を押すような口調でそう言った。

「え?」
「綾と良先輩の『仲が良くなること』に、です」
「あ、うん。勿論」
「良かったです」
 頷くと、そこで彼女は初めて表情を、ほのかな微笑みに変えた。ほんの少しだけど、確かに口元をゆるめて。 
 それはうっすらと咲く、花みたいな、そんな笑顔で。正直、かなりかわいい。いつも、こんな笑顔でいたら、多分、ものすごくもてるんじゃないのかな、ってくらいに。

 だから、僕はうかつにも気づかなかった。そんな見とれてしまいそうな可憐な笑顔に隠れてしまった、彼女の意図に。

「頑張りましょうね」
「うん」
「綾と良先輩が「もっと仲良くなれるように」、お互いがんばりましょうね」
「うん」
 良と綾ちゃんの「仲直り」ではなくて、二人の「仲が良くなるように」って、彼女が言っていた理由に、最後まで僕が気づくことはなかったのだった。

(続く)

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