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  魔法使いたちの憂鬱

       第十四話 波紋

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1.早朝(速水龍也)

「それで、何があったのか説明して貰えないか」
 早朝。登校している生徒の数もまだ疎らな時間に、僕と霧子を生徒指導室に呼び出した良のお母さん……つまり神崎先生は、朝の挨拶もそこそこに神妙な口調でそう言った。
 そんな先生の問いかけに、僕と霧子は戸惑いながら目を見合わせる。先生が聞きたいのは、おそらく昨日のことだろう。つまり、遊園地「天国への門」での事だと思う。最後に起きた綾ちゃんの「転落事故」。綾ちゃんにも、そして一緒にいた良にも怪我らしい怪我はなかったものの、一応、二人とも病院で検査を受けることになったりして、昨日は本当に騒然とした雰囲気のまま幕を閉じた。その事故の顛末について先生は僕たちに聞きたいことがあるのだと思っていたのだけれど……。
 果たして、これは一体どういう事なのか。半ば呆然とした面持ちで僕は椅子に縛られた霧子と、そして自分自身の姿の間で何度も視線を往復させていた。

「……あの、先生」
「これは……、どういうことでしょう」
 そう。僕と霧子は指導室に招き入れられた瞬間に、問答無用で椅子にぐるぐる巻きにされたのだった。勿論、犯人は目の前の神崎先生。魔法で操られたロープは、全く体には圧迫感を与えないけれど、それでも身動き一つできない。流石は神崎先生……と褒めたいところ何だけど、今は流石にそんな場合じゃない。本当に、何のつもりなのか。先生の意図が掴めずに戸惑う僕たちに、当の先生は平然としたまま頷いた。

「いや、逃げられたら困るから縛ってみた」
「に、逃げる? 僕たちがですか?」
「わ、私たち、何かしましたか……?」
「それを聞き出すために呼んだんだ。あ、ちなみに良にも綾にも怪我はないよ。綾が軽い魔力欠乏を起こしていたようだけど、良が交換したらしい。良が不足した分は私の魔力を与えておいた」
「そうなんですか」
「……よかった」
 先生の台詞に動揺しながらも、「二人は無事」という言葉に、僕と霧子は視線を交わして交互に安堵の息をつく。そんな僕たちに、先生は表情を緩めてゆっくりと頭を下げてくれた。

「二人が心配を掛けたね。済まない」
「あ、いえ。そんな……私たちは何も」
「でも、二人が無事で良かったです」
 神崎先生の謝意に、僕と霧子は縛られたまま改めてほっと息をついた。昨日、神崎先生からは電話で「とりあえずは心配ない」とは聞かされたけれど、こうして呼び出しなんかを受けてしまうとやっぱり「ひょっとして」という不安はぬぐえなかったから。
 と、そんな想いに緊張を緩める僕たちに、神崎先生はまた表情を改めて言葉を続けた。

「しかし問題は、心の方でね。ああ、いや、違うか。頭の方といった方が正確かな」
「頭の方、ですか? そ、それってどういう……?」
 先生の言葉に、俄に霧子の顔が青ざめていく。その彼女の様子を横目に、僕も心臓が引きつるような感触を覚えた。
 綾ちゃんと良は事故のあと、直ぐに病院に運ばれたから、事故の詳しい状況は僕たちも教えて貰っていない。だけど魔法の使えない状況で、落下した、ということは聞いている。まさか、それがショックで、心に傷を……?
 不吉な予想に凍り付く僕たちに、神崎先生は陰鬱な表情で息をつくと、小さく肩をすくめながら、言った。

「綾がね……、お花畑なんだ」
「え?」
「へ?」
「だから、綾の頭がお花畑なんだ。花が咲いているんだよ。満開なんだよ、今のウチの娘はっ」
「えーと、あの……それはどういうことでしょう?」
 先生の言葉の内容がよく分らずに、僕は霧子と顔を見合わせてから、おずおずと先生に尋ねる。「頭に問題がある」と言われるとひどく深刻な気がするけれど、「頭がお花畑だ」と言われると、随分とニュアンスが変わる。……というか、深刻さがまるでないんだけど。

「わからないか? 綾はね、舞い上がってるんだ。浮かれてるんだよ。まったく、人に心配をさせて置いて……あの莫迦娘はっ」
「浮かれてる……って、綾ちゃんが、ですか? 事故の後なのにですか?」
「ああ、事故の後なのに、だ」
 訝しげに問いかける霧子に、苦々しげに答えて神崎先生は額を抑える。

「アレは事故にあった、という自覚があるのかも怪しいな。浮かれているを通り越して挙動不審だ」
「挙動不審って……具体的には、どんな様子なんですか?」
「時々、発作を起こしたように赤面しては、ばしばしとその辺の壁を乱打している」
「か、壁を乱打ですか?」
「ああ。しかも、にやけながらな。我が娘ながら端で見ていると気味が悪いことこの上ない」
 僕の質問に答えながら、先生は苦虫を噛み潰したような面持ちで首を振った。

「あげく、壁だのぬいぐるみだのに向かって「やだ、もう兄さんったら」とか言いながら、また乱打だ。本気でもう一度病院に連れて行こうかと思ったが、残念ながら薬の効く類の症状ではなさそうだったから思いとどまった。しかし、ベットにくくりつけるぐらいはして置いた方が良かったかな。その辺り、どう思う? 速水」
「いや、僕に聞かれましても」
 そう答えながら僕は嫌な予感が体をはい回るのを感じて、視線を動かして霧子の表情を伺う。視界に映るのは、さっきとは別の意味で青ざめた霧子の表情。どうやら霧子の方も僕と同じ予感を感じたらしい。その霧子は、一瞬、躊躇うような表情を見せてから、意を決したように先生に問いかける。

「あ、あの、先生! 良の方はどうなんですか?」
「良か」
 娘に続き息子の容体を尋ねられた先生の表情は更に苦みを増していった。

「残念ながら、兄の方もそれなりに重傷だ」
「じゅ、重傷?! あいつもなんですか?! にやけながら壁を乱打しているですか? あいつ?!」
「安心しろ、桐島。綾よりはマシだから。にやけてもいないし、壁も乱打していない」
「そ、そうなんですか」
「発作を起こしたように赤面して頭を抱えては、その辺の壁に頭を叩き付けているだけだからな」
「全然、安心できないじゃないですかっ! そっちの方がよっぽど重傷ですっ!」
 先生の説明に、ガタン、と椅子をならして霧子が叫んだ。不幸中の幸いなのか、未だ縛られたままで身動きが取れていないので、先生に詰め寄ったりすることは無かったけれど……霧子が狼狽する気持ちは僕にもよく分かる。
 これは非常にゆゆしき事態なのかもしれない。特に「赤面して」の辺りが非常によろしくない。

「あの、先生。良は本当に大丈夫なんですか?」
「朝の段階では、壁の方にも、頭の方にも穴は開いていなかったな。まあ、このまま放置しておけば遠からずリフォーム業者を手配する羽目になるかもしれない。あるいは綾の右手の骨折か、良の頭蓋骨陥没で医者を呼ぶ方が先かもしれないけどね」
「そ、それは、また」
「重傷ですね」
 苦り切った表情の神崎先生の説明に、僕と霧子は全く安心できないままに無言のうちに顔を見合わせる。お互い、胸に浮かんでいる答えらしきモノを言葉の形にしないのは……それを考えたくないからだろう。でも、そんな僕たちの内心をとっくに読み取っているのか、いないのか。神崎先生は縛られて身動きできない僕たちに優しく微笑みながら、言ったのだった。

「と、まあ、身内の恥をこうして晒したのは他でもない。二人がおかしくなった原因を……お前達なら、何か、知ってるんじゃないのかなと思ってね。こうしてわざわざ、早朝から来て貰ったんだ」
 あくまで優しく、穏やかに。

「ああ、一応言って置くけれど……隠し事は為にならないぞ?」
 でも、決して逃さないという意図をその笑みに浮かべながら。

 /

「……なるほど。お化け屋敷では暴走し、エア・コースターでは撃沈し、大観覧車では外れを引いていた、と。それなのに、今のあの有様ということは……」
 僕たちへの尋問、もとい事情聴取を終えると、神崎先生は悩ましげな表情で深々と息をついた。そして、じろり、と物言いたげな視線を僕たちに向けてその口元を危険な角度につり上げる。

「要するに、あの二人の奇行は、遊園地なんて言う場所で、しかも、「天国への塔」なんていう「如何にもな場所」で、わざわざあのシスコン兄とブラコン妹を二人っきりにしてくれたお前達のおかげ、という事になるのかな?」
「えーと、それは、その……どうなんでしょう」
「僕もそういうことに、なるのかと思ったりもしなくはないですが、そう判断するのは早計じゃないかなーとか思ったりもします」
 神崎先生の台詞にいい知れない迫力を感じながら、僕と霧子は目を見合わせつつ誤魔化すようにそう言った。しかし本音を言えば「天国の塔で何かがあった」ことは確かだろうとは思っている。それは僕と霧子が思っていて信じたくなかったことだけど、神崎先生の言うようにそれまでは二人の間に特に変わった様子は無かったし、むしろ綾ちゃんの熱意は空回りしていたとも言える。なら、やっぱり最後に「二人っきりになったこと」で何らかの出来事があったと考えるべきだし、その状況を作り上げたのは他でもない僕たち……というより僕だった。
 というわけで、神崎先生の立場で考えれば、二人の子供たちがおかしくなった原因は多分に僕にあることになる訳であり、そんな僕に恐ろしく優しい視線を投げかけていた先生は、やがてぽつり、と呟くように言った。

「……さて、どうしてくれようか」
「ご、ご免なさい、ご免なさい?!」
「済みません! 僕も悪気なんか無かったんです!」
 愛想笑いを消して僕たちを見下ろす先生の視線に、冗談では済まない何かを感じて僕と霧子は慌て首を振った。正直、神崎先生を怒らせてただですむ魔法使いは、この魔法院の中にも居ないと思う。生徒だけじゃなくて、研究員を含めても。
 そんな先生から向けられている怒りの視線に首を竦めていると、先生は表情を緩めて息をついた。

「冗談だよ。そう怯えるな。昨日のことは、お前達なりに二人を気遣ってくれての事だったわけだろう? ありがとう。済まないね、二人が迷惑ばかりかけて」
「あ、いえ」
「そんな、お礼なんて」
 ひとしきり僕たちを脅かして気が済んだのか、先生は一転して口調と態度を改めて、縄をほどきなら、お礼を言ってくれた。もっとも何処までが冗談なのかさっぱりわからないので、完全に安心するのも危険なのだけども。

「ああ、一応、確認しておくが、速水がウチの娘に手を出した、という訳ではないんだな」
「だ、出してませんよ!」
 いきなりとんでもないことを口走った先生に、僕は慌てて首を振る。

「本当か?」
「本当です!」
「なんで手を出さないんだ」
 先生の疑念を全力で否定する僕に、その先生は何故か非難するような目つきを返した。

「な、なんでって……?」
「お化け屋敷でも、観覧車でも綾と一緒だったんだろう? 二人っきりではなかったにしろ、ちょっかい出す機会はあっただろう? 私が言うのもなんだか、綾は可愛いし、将来有望だぞ? 今の内につばをつけて置いて損はない」
「あ、あのですね……」
 果たしてどう答えたものかと僕が困惑しているのを尻目に、神崎先生は咎めるような視線を傍らの霧子の方にも差し向けた。

「お前もだぞ、桐島」
「わ、私ですか?」
「お前も良に手を出してないんだろう?」
「だ、出してませんっ!」
「だから、何故だ。正真正銘、良と二人っきりだったんだろう? どうして押し倒さない」
「お、押し倒すって……先生っ?!」
 真っ赤になって慌てふためく霧子に、先生は「冗談だよ」と小さく笑って手を振った。が、今度はさっきの時みたいに、心底、目が笑っているようには感じないのは僕の気のせいだろうか。……気のせいだよね?
 そんな僕の疑念をよそに、先生はおもむろに腕を組み深々とため息をつく。

「しかし、お前達二人が原因ではないとなると……やっぱり、最後が原因か。あまり考えたくはないが、それしか考えようがないな。まったく、一体何をしでかしたのやら、あのばか娘は」
「あ、あの……先生」
 頭が痛い、と言わんばかりの表情の神崎先生に、縄を解かれた霧子が、おずおずと手を挙げた。その表情に浮かぶのは躊躇いと……そして、何かを覚悟するような表情で。
 その表情に霧子が何を言い出すのかを察して、僕がそれを制しようとしたときには、もう彼女は核心を神崎先生に向かって問いかけていた。

「先生は、その、二人の関係ってどう思ってるんですか?」
「綾が良に対してどんな感情を抱いているのか、ということか?」
「……はい」
「霧子」
 思い切った彼女の発言に、思わず驚きの声を上げた。でも、対する神崎先生は苦笑混じりに肩をすくめただけで、特に驚いた様子もない。驚き戸惑っている僕を、先生は軽く手を挙げて制してから、まっすぐに霧子を見つめて答えを返した。

「お前の想像通りだよ、桐島。もう分かっていると思うが、綾が良に抱いているのは恋愛感情だ。妹が兄に抱く感情としては一線を越えた感情だよ」
「……っ」
「……先生」
 ここ最近、ずっと僕と霧子が思い悩んできた疑問を、神崎先生はあっさりと肯定してしまった。淡々とした口調だったけれど、その分、冗談を言っていないことが伝わって、僕は思わず言葉に詰まる。

「ああ、お前達のことだから心配はしていないが、今の発言と、これからの発言。それらは口外しないで欲しい。いいかな?」
「は、はい」
「わかってます。勿論」
 先生の頼みに、僕も霧子も勢いよく首を縦に振る。流石に言いふらして良いような話題じゃない。

「ちなみにお前達はいつから分っていた?」
「……私は、その、確信はしてませんでした」
 先生の質問に、霧子は言いづらそうにそう答えた。つまり、彼女が確信を持ったのは今、ということになる。要するに先生の発言はやぶ蛇だった訳だけど、その事実に先生は特に取り乱す出もなく平然と頷いて、僕に視線を向けた。

「速水は?」
「僕は……先週ぐらいから。ほぼ確信したのは、昨日です」
「じゃあ、つい最近までわかってなかったのか」
「はい」
「そういうことになります」
「なるほど。綾の擬態がそれだけ上手かった、ってことか」
 先生の呆れたような声に、僕は浮かんでいた疑問を重ねた。

「あの、先生はどうして」
「そんなことをあっさりとばらしてしまうのか、か?」
「……はい」
 正直、娘さんが息子さんに恋愛感情を持っている、なんて話、他人にして良い話じゃない。いくら、僕と霧子が良の親友だからって、普通は言わないんじゃないだろうか。その僕の疑問に、先生はため息混じりに首を横に振った。

「隠せるものなら私も隠し通したい。でもね、今の綾の状況を見ていると隠すだけ無駄だと判断したんだよ。アレでは遠からずバレる。もうねじが外れかかってるしな」
「ね、ねじがですか……」
 先生の言葉に、戦くような表情で、霧子が小さく声を漏らす。

「流石に誰にでも一目瞭然とまでは言わない。でも、親しい人間なら気付くだろう。例えば、お前達ならね」
「……そうですか」
 先生の答えに、僕はなるほど、と頷いた。要するに綾ちゃんの態度を見て、僕たちが余計な混乱を来さないように、あらかじめ彼女の事情を教えてくれた、ということなんだろう。つまり先生なりの苦渋の決断だったのかもしれない。
 そう考えて、先生の表情を見つめる僕に、先生はまた表情を改めてから口を開いた。

「と言うわけでお前達に頼みがある」
「……なんでしょう」
「僕たちに出来ることなら」
 先生の頼み、というのはなんとなく想像は付いた。この状況から考えられるのは、「禁断の関係を阻止するために協力して欲しい」という所だろうし、それなら僕たちとしても断る理由はない。
 そう考えていたのだけど、しかし、先生の「お願い」は少し予想を外れた言葉の形をとっていた。

「どっちでもいいから、良を貰ってくれ」
「え?」
「へ?」
「そもそも良がいつまで経っても綾に構ってばかりだから、綾の方もその気になるんだ。あいつに特定の相手ができれば、綾だってあきらめがついて、真っ当な恋愛に目が覚めるかもしれない」
「はあ」
「まあ、そうかもしれませんけど」
 確かに。
 なんだかんだで良は綾ちゃんのことを優先してしまう。それはつまり綾ちゃんからしても「諦める切っ掛けが掴めない」ということに繋がるのかもしれない。だから、良を誰かとくっつける、という考えは分るのだけど……

「今のところ、良と近い関係にいるのはお前達二人だからな。どちらかが良を堕とせば、少しは綾も目が覚めるだろう」
「……あの、先生」
「なんだ?」
「僕、さっきから、気になってるんですけど……「貰う」って、どういう意味でしょう?」
「だからお前か、桐島が良と付き合えということなんだか」
 うん、まあ、それはそういう意味だとは思ってた。でも、だったら、余計に先生の言葉がおかしいと言うことになるわけで。

「先生。確認しなくても勿論わかっておられると信じてますが、一応確認しておきます」
「何をだ?」
「……僕は男ですよ?」
「言われなくても分かってる。いや、時々、言われないと分からなくなるが」
 僕の質問に、神崎先生は、至ってまじめな表情のまま答えて肩をすくめた。

「いいか、速水。お前は確かに男だが、法律上は近親婚より同性婚の方がハードルは低いんだ。なら……、背に腹は代えられない」
「ど、同性婚って、ぼ、僕と良が、ですか……っ?!」
「ちょ、ちょっと……先生、本気ですか?!」
 先生のあまりに直接的な発言に、僕と霧子は同時に悲鳴にも似た声を上げた。どうやら先生も落ち着いている用に見えて、かなりせっぱ詰まっているらしい。

「心配するな。今まで受け持った生徒の中には、その手のカップルは何組かいた。だから、それほど抵抗感は……まあ、無くはないが薄い」
「先生、そういう問題じゃないです! 落ち着いてくださいよ!」
「大丈夫だ、桐島。私は十分に落ち着いている。相手が速水なら、常時女装させておけば世間体もなんとかなるだろう」
「全然、落ち着いてないです! なんで、もう龍也と良がくっつくこと前提なんですか?!」
「だから、背に腹は代えられないだろう? 近親婚よりは、まだ同性婚の方が……っ」
「それ、どっちも「腹」です! 「背」に代えてないてないです! どっちも致命傷ですから、先生!」
 なんだか遠い目をして覚悟を語る先生の肩を、涙目になって霧子が揺すっている。まあ……こういうのを見ていると、神崎先生はやっぱりあの二人の親なんだなあ、とふと思ってしまったりした。が、どこか現実逃避気味になってしまった僕の思考は、神崎先生が零した言葉に急速に引き戻された。

「それに、まあ、性別反転の魔法なら、私に使えないこともないしね」
「ほ、ほんとうですか?!」
「って、なんであんたはそこで食いつくのよ!」
「いや、だって、ほら、大魔法だよ?!」
 性別反転の魔法。その言葉に、僕は思わず身を乗り出した。どくん、と興奮に心臓がなったのを自覚する。だって、無理もないだろう。性別反転、それは体の仕組み……より大げさにいうのなら「命の仕組み」を作り替える大魔法だ。加えて言うのならば、一般の魔法使いは使うことはおろか、その知識に触れることさえ制約のかかる「禁止目録」に属する魔法。そんな大魔法が使える人が身近にいて、その行使を仄めかしたのなら、興奮しないわけがない。

「勿論、私一人では無理だけどね。まあ、緑園と小坂あたりを引っ張ってくれば、成功確立は1割って所かな」
「い、一割ですか……?」
 随分と低い成功確率に、霧子は目に見えて眉をひそめた。僕の方も思っていたよりも低い確率に、興奮が少しさめたのを自覚する。でも、それでも10人に一人は成功するわけで、ある意味破格といえなくもないんだけど……。

「先生……ちなみに失敗した場合はどうなるんです?」
「それはもう、大変なことになる」
「…………え?」
「あまり聞かない方が良いとは思うぞ、速水。多分、夢に出るから」
「えーと。忘れることにします」
「それが良いな」
 先生の脅しとも取れる言葉に頷いて、僕はその事を頭の片隅にしまっておくことにした。確かに興味を引かれる魔法だけれど、流石に失敗したときのリスクを考えるのなら、おいそれと選べる選択肢じゃないだろう。
 ……でも、できるんだ。そんなこと。その事だけは、記憶に留めておこう。
 
「冗談はさておき。貰ってくれるのは綾の方でもいいぞ」
 仕切り直しだ、とばかりに「パン」と手を打ち合わせてから、先生は僕と霧子の顔を交互にのぞき込んだ。

「結局はお前達の好みの問題だから、勿論、無理強いするつもりはない。でも、その気になったら私に教えてくれ。協力は惜しまないし、今なら蓮香先生の授業の単位、卒業まで無条件で進呈するサービスもおまけに付けるぞ」
 とりあえず、ご自分のお子さんを在庫処分でたたき売るような物言いはやめましょう、先生。
 そう心の中で突っ込みながら、僕は先生の「協力」という事がが気になって、ついつい口を開いてしまう。

「協力って……具体的にはどんな?」
「『家に寄っていくか? 今、家に誰もいなんだけどさ……』という状況を、大サービス。もう公認するから、やっちゃってくれ」
 ……なんというか、もう神崎先生は本気で「背に腹は代えられない」状況になっているのかもしれない。まあ、確かに近親婚を本気でねらう娘さんがいたら、そういう心理になるのかもしれないけれど。
 そう思うと、先生の苦労が忍ばれて、先程からの無茶な提案の数々も仕方ないかなあと思ってしまう。が、そんな僕の同情を尻目に神崎先生は、更に物騒な言葉を口走るのだった。

「まあ、最悪、良は私が貰う手段もあるんだけどなあ」
「せ、先生?!」
「だ、駄目ですよ! そんなの!」
 今までで一番危険な手段を口走った先生に、僕と霧子は同時に声を上げて詰め寄った。そんな僕たちに、何故か先生は不思議そうに首を傾げて眉をしかめる。

「ん? いや、でも直接、血はつながってないしね。兄妹婚よりマシだと思わないか?」
「思いません! 思いっきりアウトです、ブラックです、真っ黒です!」
「そうかなあ」
「そうです!」
「そこで迷わないでください! お願いですから!」
 僕と霧子の交互の猛反対に、神崎先生はなぜだか、ちょっと残念そうに表情を曇らせた。って、何故にそこで迷うのか。

「あのですね、先生。そもそも近親婚なんてする方法って、ないでしょう?」
「あるにはある」
「え?」
「あるんですか?!」
 僕の言葉に返された予想外の神崎先生の台詞。それに、僕と霧子は驚愕のあまり目を剥いた。まさか、肯定の返事が返ってくるとは思っていなかったからだ。

「え? え? ほ、ほんとに?!」
「本当に、出来るんですか?」
「どこまでを「近親」と考えるかにも依るんだけどね。一等親、つまり実の親と子の近親婚は、例外なく禁止だ。同様に二等親間の婚姻も原則禁止」
「原則、禁止……?」
「え? それってつまり……」
 良と綾ちゃんは結婚できると言うことなのか? 降って沸いた話に面食らう僕と霧子に、先生は苦笑しながら「慌てるな」と首を横に振った。

「原則禁止は、あくまで禁止ということだよ。認められる可能性はほとんどない。例外となるケースは、他方の存在が、他方の生命維持に不可欠な事だけだ」
「え? それって、つまり、綾ちゃんに対する良みたいな関係ってことですか」
「そういうことになるね」
「ちょ、ちょっと待って下さい?!」
「じゃあ、やっぱり二人は?!」
「だから、慌てるな。その条件は、双方に対して成立することが絶対条件だから、あの二人には該当しない」
 僕と霧子を宥めながら、神崎先生は、そう説明してくれた。現状では、綾ちゃんは条件に該当しても、良は条件に該当しない。良は、綾ちゃんが居なくても僕や霧子、そして先生や佐奈ちゃんと魔力交換することで生命維持ができるし、いざとなれば、投薬や強制的な魔力注入といった手段も使えるからだ。

「……そういうわけで法的にあの二人の婚姻が認められる可能性はない」
 神崎先生は、そう説明してから、なんだかひどく物憂げな表情で深くため息をついた。

「しかしなあ。結婚が出来ないからと行って、あのブラコン娘があきらめるとは思えないんだよ。私は」
「……」
「……」
 頭を掻きながら零した蓮香先生の台詞は、なんというか、嫌になるぐらいの説得力に充ち満ちていたのだった。
 結局の所、綾ちゃんの諦めない気持ち、それが一番の根幹なのだと言うことに、僕も霧子も分ってしまったからかもしれない。


/2.朝(神崎良)

「……いないか」
 朝、俺は教室に入ると霧子と龍也の姿を探した。今日はどういう訳か、綾だけじゃなくて、龍也も霧子も先に登校してしまっていた。昨日の遊園地では、俺と綾が病院に担ぎ込まれたせいで、例の事故の説明も満足にできていないままだったから、二人と佐奈ちゃんにはきちんと事情の説明と心配をかけたお詫びを言わないといけないのだけど……。
 そんな義務感とは裏腹に、教室に二人の姿がないことが分ると、俺の口から漏れたのは軽い安堵の息だった。正直なところ、今、二人と会っても、落ち着いて話せる自信がない。なにせ、自分でも挙動不審だって思うほど、気持ちが落ち着いていないから。

「はあ」
 口からこぼれた溜息は、朝目覚めてから通算で何度目なのか、最早、見当も付いていない。我ながら辛気くさいと思うのだけど、それでもつい溜息が零れてしまうのは……多分、「自己嫌悪」の所為だろう。

「……はあ」
 言っている側から、また一つため息を零して、俺は教室の隅の席に腰を下ろした。始業前の教室。そこにざわめきがあるのは当然だけど、なんだか、いつもより騒々しいような気がする。それは……やっぱり俺の気持ちが高ぶって、落ち着いていないからだろうか。
 まだ始業の時間には十分な余裕がある。せめて、授業が始まるまでには気持ちを落ち着かせようと、俺は大きく息を吸い込んで、目を閉じた。思い返せば、本当に昨日は色々とあって、最後なんて空から落ちるなんて羽目にもなった訳だから、気持ちが落ち着かないのも仕様がないのかもしれない。そう言い訳するように考えながら、閉じた瞼の裏、そこに思い描かれる情景は、たった一つのことだった。それは、つまり。

 ……綾とキスをした、あの時のこと。

「……っ!」
 脳裏に浮かんだ光景を、俺は慌てて頭を振って追い出した。もとい、追い出そうとした。だけど、あの時の記憶は瞼の裏に縫い止められてしまってでもいるのか、一向に俺の思考からは離れていってくれない。
 妹と、キスをした。つまりはその事実が、俺にとってあんまりにも衝撃的だった、ということなんだろうか。

「って、いや違う、いや違うっ!」
 あれは、そもそもキスじゃない。意識がもうろうとした綾がうっかり唇と首筋を間違えたことによる事故。そう、事故なのだ。大体、俺たちは兄妹なんだから、キスの真似事だってしたことはある。うん、多分、小さかった頃にしたことがあるような気はする。

「ああ、うん。兄妹なんだから気にするようなことじゃない」
 そう、気にするようなことじゃなく、そして必要以上に「気にしてはいけないこと」のはずなのだ。……それなのに。
 あの時、唇に触れた、柔らかな感触と。あの後、『……間違えちゃった』って言いながらはにかんだ綾の笑顔が、目に焼き付いて離れないのはどうしてなんだ。

「うあああ……っ」
 頭を巡る思いに呻いて、俺は、ごん、と机に頭を落とす。
 どうかしている。本気でどうかしている。妹と唇が触れただけで、こんなに意識してしまうなんて、兄として駄目すぎる。そりゃあ、今まで散々、シスコンだの、変態兄貴だのと言われてきたけれど。それは冗談交じりに笑い飛ばしてこれていた。だけど、今、霧子や龍也に冗談半分にその言葉を投げかけられて、ちゃんと笑い飛ばせるんだろうか、俺。

「う、うう……」
 実は本当に、俺って、実の血を分けた妹を意識してしまうような言い訳のきかない変態シスコン兄貴なんだろうか……? いや、でも、待て。ちょっとは仕方ない部分もあるんじゃないのだろうか。
 落ち込んでいくばかりの思考に、俺は精一杯の待ったをかけて考える。
 自慢ではないが(本当に自慢ではないけれど)、小さい頃を除外すれば、女の子とキスした事なんて無いのだ。だから、相手が妹とは言え、同年代の女の子とキスしてしまって動揺してしまっているのは、仕方ないんじゃないだろうか。

 ……相手が妹とは言え。

「うああ、やっぱりそれは駄目だ……っ」
「か、神崎君?」
「え?」
 堂々巡りの思考に身もだえする俺に、不意に、横合いから声がかけられた。その声に顔を上げると、心配そうに、というか怪訝そうに俺を見つめる女の子と眼鏡越しに目があった。

「あ……、鐘木さん。お、おはよう」
「おはよう」
 鐘木セフィナ(かねき・せふぃな)。黒く艶のあるセミロングの黒髪と、仄かに褐色色の肌が印象的なその女の子は、俺のクラスメートであり、そして「速水会」会長さんだった。当然のことながら龍也の熱心なファンであるのだけれど、他の子たちの龍也への熱意が暴走しないように上手く手綱を握ってくれている非常にありがたい人物だった。その彼女は俺の挨拶に軽く答えながら、少し眉を潜めて俺の顔をのぞき込んできた。

「大丈夫なの? 神崎君」
「だ、大丈夫って、何がっ?」
「いや、声裏返ってるし。それに、さっきからなんだか、一人で身悶えしてたじゃない。病院行く?」
「あ、いや、まだ大丈夫」
「ま、まだなんだ」
 俺の答えに、鐘木さんが少し引きつったように笑う。が、あまり深く追求する気はないのか、彼女は少し声を改めてから別のことを口にした。

「まあ、大丈夫ならいいんだけど。それより、ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いい?」
「聞きたいこと?」
「うん」
「いいけど、何の話?」
 そう聞きながらも、話題は龍也のことだろうとは分っていた。正直なところ、俺と鐘木さんの共通の話題と言えば龍也に関することぐらいだ。そして、そんな予想に違わず、俺に促されて口を開いた鐘木さんの口からは龍也の名前が転がり出た。

「あのさ、速水君が昨日デートしてたって噂があるんだけど、何か知ってる?」
「デート?」
「うん。昨日、「天国への門」で速水君が女の子と歩いているの見たって言う子がいるんだけど」
「ああ、それか」
 つまり昨日、「速水会」の誰かが、遊園地で遊んでいる俺たちを見た、という事なんだろう。そう事情を理解して、俺は「違うよ」と鐘木さんに笑いかける。

「昨日の件はデートじゃないよ。龍也は俺たちと一緒に遊んでただけだから」
「神崎君も一緒に?」
「そうだよ。俺と龍也。それから霧子と、ウチの妹と、その友達の五人で遊びに行ってたんだ」
「ふーん。じゃあ、神崎君が誰かと二人っきりでデートしていた、という訳じゃないのね?」
「違う違う。あと人数的にもダブルデートって訳でもないから、安心して」
「そう。そういう訳だったんだ」
 そんな俺の返事に、鐘木さんはほっとしたように息をつき、そしてそれと同時にざわめくような安堵の息が周囲から一斉に漏れた。そのざわめきに周囲を見渡せば、速水会の女の子とおぼしき娘たちが方々から俺と鐘木さんに視線を注いでいた。
 ……ああ、そうか。教室が少し騒がしい気がしたのは、その噂を心配して速水会のメンバーが集まっていたことが原因だったのか。そう俺が納得して頷いていると、鐘木さんは小さく苦笑して肩をすくめた。

「速水会の誰かが抜け駆けしたんじゃないのかって、みんな殺気立っててさ」
「なるほど」
「でも、いやー、よかったわ。魔女狩りなんてしたくないしね、私」
「……会長職も大変だな」
「まあ、多少はね。好きでやってることだからいいんだけど、速水君、人気ありすぎるからねー」
 基本的に学内での龍也との魔力交換は速水会に入っていることが前提になる。そして、速水会に入った以上、交換できる回数も会からの割り当てに従わなければならないという制約があるわけで……熱心なファンの中にはそれを破ろうとする者も当然出てくる。勿論、制約は学内のことに限定されるわけだけど、会に入っているメンバーの中では「抜け駆け禁止」、というのがある種、暗黙の了解になっているらしい。
 だけど、やっぱり中には抜け駆けを試みる女の子(時には男の子も)居るわけで。そういった人物に注意を与えるのが、鐘木さんたち速水会の運営メンバーの仕事になっているのだった。
 ……なんだか大げさな話だけど、去年、龍也との魔力交換を独占しようとした危険人物がいたから、こういう慣習が産まれたのだった。

「ということで、みんな聞いての通りよー。特に非常事態は発生していないから、臨戦態勢に入っていた人は警戒レベルを下げるようにー」
「はーい」
 鐘木さんが教室、そして廊下にいる会のメンバーに振り向きながら呼びかけると、安堵混じりの素直な返事と共に、ぞろぞろとみんな散会していった。未だに龍也が教室に来ていないためか名残惜しそうな表情をする子もいたけれど、流石にそろそろ始業時間が近いので、結局は自分の教室へと去っていくようだった。

「で、神崎君は何があった訳?」
「え?!」
 そんな会のメンバー達に笑顔で手を振ったまま、鐘木さんはぽつり、と囁くように問いかけた。まるで俺の抱えている悩みを見透かすような鐘木さんの口調に、引きつった声が口から零れて落ちる。

「な、何があってって、何が?」
「だから、何か進展があってのかなーって。主にほら、桐島さんとかと」
「あのね。だから昨日のはそんなのじゃないんだって。そんなの何もないよ」
「ふーん、じゃあ、なんでそんなに錯乱してるわけ?」
「うっ」
 錯乱している、という指摘に思わず言葉が詰まる。確かに今の自分の精神状態を表現するのなら、「錯乱」という言葉があてはまるから。

「……そんなに錯乱しているように見えるのかな」
「うん。凄く変。だから、ひょっとして速水君と妹さんが付き合っちゃったりして、そのショックで神崎君が壊れちゃったのかな、とも思ったんだけど。違う?」
「違う」
 龍也と綾が付き合う。それはそれで、ある意味でショックを受けるかもしれないけれど、そっちの方が全然マシな事態だと思う。少なくとも今の俺の悩みなんかより全然まっとうで健全な悩みだから。

「じゃあ、何に悩んでるの? よかったら相談に乗るけど」
「……いや、いいよ」
 せっかくの鐘木さんの好意だけど、俺はしばらく躊躇ってから首を横に振った。正直、相談に乗ってくれるという申し出はありがたかったけれど……流石に「妹にキスされちゃったんだけど、どう思う?」なんて相談を持ちかける気にはならない。

「そ。ならいいけど」
「うん。心配してくれてありがとう」
「お礼なんて良いわよ。ちょっと気になっただけだしね。でも、悩みがあるなら言ってよね。こういう会を作ってくれたのは、神崎君なんだからさ。その辺、ちゃんと感謝はしてるんだから」
 せっかくの申し出を断った俺に、鐘木さんはそう言うと、小さく手を振りながら背を向けた。基本、龍也以外には淡泊な性格の女の子だから、気にかけて貰ったことは嬉しい。でも、同時にそんな彼女に心配させてしまうほどに挙動不審な自分に気付いて、俺はまた深々と溜息を零すのだった。

「……本当、何やってんだろ。俺」

/3.放課後

 /(神崎綾)

 兄さんとキスをした。
 昨日の晩から、そして今日一日、その事実が私の中を駆け巡って離れない。放課後に生徒会にやってきて、そして書庫の中で資料を整理している間も、頭の中を駆けめぐるのはそのことばかりだった。

「……兄さん、吃驚してたな」
 あの時の兄さんの顔を思い出すと、胸に小さく罪悪感が渦を巻く。でも、それ以上に高ぶる気持ちに胸が満たされていた。あの時、ほとんど衝動に突き動かされるまま行為に及んでしまってけど、それがもたらしてくれた感触と、感情と、そして成果は、甚大だった。そう、成果はあったのだ。

 だって、兄さんったら、恥ずかしがってちゃんと顔を合わせてくれないんだから。
 病院から一緒に帰るときも、そして晩ご飯を一緒に食べて、「お休みなさい」を言うまで、目が合うとどちらからともなく目をそらして、そして目をそらすとまたどちらとも無く視線を投げかける。昨晩、兄さんと私はそんな行為を繰り返していたのだ。
 つまり、私だけじゃなくて、兄さんもちゃんと私を意識してくれているってこと。そう、それはもう意識しまくってくれている、ということなんだ。これが喜ばずに居られようか。いや、居られるわけはない。

「え、えへへ」
 こみ上げる思いに、堪えきれない笑みが口元からこぼれ落ちる。だって、だって、無理もないと思う。今までは抱きついても、胸を背中に押しつけてみても、返ってくるのは微笑ましい「兄妹としての感情」だったし、時には「邪魔」とばかりにあしらわれる時さえあったのだ。
 それなのに、その兄さんが目を合わせるだけで、ちょっと赤くなって目をそらしたりなんかしてくれるなんて……

「やー、もう、兄さんたら、照れ屋なんだからっ」
 そんな昨日の兄さんの態度を思い起こして、私は、ばしばしと右手で机を乱打する。我ながら挙動不審だとは思うけれど、高揚する気持ちが自分が抑えきれない。

「よーし、早く仕事終わらせないとね」
 兄さんに早く会いたい、というのもあるけれど、それ以上に佐奈にちゃんと報告したい。勿論、お昼休みには、佐奈には報告したけれど、まだまだ全然しゃべりたりないのだ。だから、早く仕事を終わらせて思う存分、佐奈とおしゃべりしたかった。

「あ、そうだ。母さんにも報告しないと」
 母さんだって、兄さんとキスなんてしたことはないはずだし。ふふふ、自慢してやる。

 そんな感情に、鼻歌を歌いながら、私は常にないほどの幸福感に包まれながら、資料を手に作業を始めるのだった。

 /(紅坂セリア)

「……か、会長」
「鏡花さん?」
 呼びかける声に顔を上げれば、なんだか泣きそうな表情で私に訴えかける卯月鏡花の顔があった。一年生であり会計補佐を務める彼女は、同じく一年生で会計補佐を務める神崎綾と一緒に書庫で作業をして貰っていたはずだった。その彼女が奥の書庫から抜け出してきたのは、私に陳情したいことがあるからだろう。……まあ、大体察しは付くけれど。

「どうしたの? 何かあった」
「あの、その……綾ちゃんが」
「綾さんがどうしたの?」
「え、えーと」
 私の問いかけに、どう答えたものかと彼女は褐色の瞳を曇らせてしばし言葉を詰まらせる。そして、考えあぐねたあげく、ひどく簡潔な言葉を選んで口にした。

「あ、綾ちゃんが変なんです」
「……そうね、変ね」
 確かに今の彼女の様子を表現するのに、「変」という言葉はふさわしいだろう。今日、生徒会にやってきた時から神崎綾の様子はいつもと違っていた。夢見心地、とでも言えばいいのだろうか。手際良く仕事をこなしているかと思えば、不意に、中空に視線を投げては頬をゆるませて、身もだえしていたりした。どうやらその行動は、鏡花と二人で書庫に放り込んでも変化はなかったらしい。
 あまりにいつもと違う彼女の様子に、鏡花はおびえつつも心配になったらしく、僅かに目に涙をためて困り果てた様子で私を見つめた。

「ど、どうしたらいいんでしょう。保健室に連れて行った方がいいんでしょうか……?」
「その必要はないでしょう」
 泣きそうになっている鏡花を安心させるように、私は軽く微笑んでから首を横に振った。

「寧ろ、保健室で手に負える類の話じゃないと思うし、ね」
「え? そ、そうなんですか」
「貴方もそう思うでしょう? 鈴」
「そうですね。急を要する病ではないと私も思います」
 私の背後で書類を片手に調べ物をしていた鈴は、普段通りさほど表情を変えないままに、私に頷いた。

「はあ」
 そんな私と鈴の返事に、鏡花は今ひとつ釈然としない表情を浮かべる。その彼女に、私は少し意地悪っぽく目を細めて笑った。

「鏡花さん。切っ掛けさえあれば、あなたもああいう風になるわよ。きっと」
「え? わ、私もですか?」
「ええ、そうよ」
 例えば、私がここで彼女に口づけをしたりすれば、きっとあんな風に……ふわふわと夢見心地な振る舞いを見せてくれるんじゃないだろうか。つまり、神崎綾の行動がおかしいのはその手のことが原因なんだろう。

「恋は人を狂わせる、というのはあながち本当なのかしらね」
「あ……そうか。綾ちゃん、ひょっとして」
「あまり詮索しちゃ駄目よ? 今は、しばらく浸らせておいてあげなさい。誰かに話したくなったのなら、こちらが耳を塞いでいても話してくるでしょうし」
「は、はい」
「じゃあ、綾さんがミスしないように、フォローしてきてあげて」
「はい!」
 綾の異変は要するに恋愛関係が原因だ、ということを鏡花も察したのだろう。心配の滲んだ表情から一転して、なんだか、好奇に目を輝かせて彼女は書庫の方へと小走りに戻っていった。そんな鏡花の後ろ姿に私は小さく苦笑してから、傍らの鈴に視線を向けた。

「さて、鈴。相手は誰だと思う?」
「詮索はしないのではないのですか? セリア」
「詮索じゃないわよ。先輩として後輩の異常を把握しておくことは義務でしょう?」
「素直には同意しかねる物言いですね」
「ふふーん。でも、あなたも気になるでしょう」
「……多少は」
 鈴は手にしたファイルを私の前に置きながら、小さく首を縦に振った。そして、眼鏡越しに気遣わしげな視線を私の顔と後輩達のいる書庫の間で往復させる。

「綾さん、先週は明るく装っては居ましたが、時折、鬱々とした感情のようなものが見えましたから」
「それが週を開けてみれば、あの浮かれようだものね。誰だって心配になるわよね」
「それでセリア。彼女の相手は誰なんです?」
「あら、私が知っていると思うの?」
「ええ。そういう顔をしていますから」
 しれ、と特に表情も変えずに頷く鈴に、私は「つまらないなあ」と嘯きながら小さく肩をすくめた。

「ま、鈴に隠し事はできないか。いいわ、教えてあげる」
「ええ、是非」
「速水会……速水龍也のファンクラブのこと。知ってるでしょ?」
「ええ。もちろん去年の事もありますから」
「余計なことは言わないの。それよりその速水会の子達が朝に少し騒いでいたのよ。彼が女の子と「天国への門」に遊びに行ったらしい、って」
「……なるほど」
 私の言いたいことがわかったのか、鈴は納得したように頷いた。

「つまり綾さんと速水君が週末にデートしていた、ということですか」
「その可能性はあるわね。ま、二人っきりじゃなかった、ていう情報もあるんだけど」
「なるほど」
「どう思う?」
「……そうですね。その情報だけで判断を求められるのなら、二人の間に何かの進展があったと見るべきでしょうね」
「ふふ。慎重な物言いね」
 恐らく鈴は、私がまだ情報を出し惜しみしている、ということを見抜いているのだろう。

「あなたは綾さんの相手が速水君ではないと考えているのですか?」
「ふふ。私もそう考えるのが普通だって思うわよ」
 速水龍也と神崎綾。共に容姿端麗で、成績優秀。もし二人が付き合っているのだとしたら絵に描いたような美男美女カップルの出来上がりな訳だけど。

「でも、それだと面白く無いでしょう?」
「……人の恋愛は面白いかどうかで決まるわけではないと思いますよ。セリア」
「そう?」
「そうです。それより、綾さんと遊園地に行った男性は、速水君だけではないのですね?」
「流石に察しが良いわね。そうよ。お兄さんも一緒だったらしいわ」
「……? 彼だけですか?」
「ええ」
 頷く私に鈴の表情が怪訝に曇る。私が何を言いたいのかを察してなお、同意しかねる、と言った表情だろうか。

「セリア。遊園地に一緒に行った同姓が神崎君と速水君なら、当然、綾さんの意中の相手は速水君と考えるべきではないでしょうか」
 確かに鈴の言うとおり。私だって、普通ならそう考える。だけど……

「兄と妹の禁断の愛の方が話として面白いでしょう?」
「面白くありません。不謹慎です」
 私の言葉をばっさりと否定して、鈴は呆れたように深々と息をつく。

「セリア。神崎君を気にかけるのは構いませんけれど、無理矢理、話題に絡ませようとしないでください」
「む。そんなつもりで言ったんじゃないわよ。それに無理矢理でもないわ」
「無理矢理も良いところです。兄妹での恋愛なんて、何の証拠も無しに言って良い物じゃないでしょう?」
「そうかしら」
「そうです」
「でも、証拠がないって訳じゃないわよ?」
「……え?」
「ま、状況証拠、って事ぐらいにしかならないけれど……聞きたい?」
「教えてください」
 素直に頷く鈴に、私は「いいわよ」と微笑んでから、昨晩小耳に挟んでいたことを彼女に伝えた。

「天国への塔、は知ってるわよね? あそこの目玉アトラクション」
「ええ、勿論」
「それ当分の間、操業停止になったの。知らない?」
「そういえば……、今朝の放送で、そんなニュースを聞いた気がします」
 私の言葉に、鈴は記憶をたぐるように軽くあごに手を当てながら頷いた。

「まさか、何か事故が?」
「けが人は出ていないようだけどね。でも、落下事故が起きたんだって。原因は「翼」の機能不全。でも、「翼」が機能不全に陥った理由は、未だ原因不明」
「……それは」
 大変なことですね、と鈴は僅かに表情を青くして呟いた。
 実は「天国への門」は、紅坂の魔法使いが何人か携わって建設されたテーマパークだ。あそこに変質的なまでに空間を意識したアトラクションが存在するのは、私の兄が設計に関与したことが大きな要因をしめる。だから、鈴は兄の責任問題などを心配してくれているのだろう。
 でも、まあその心配は不要だとは思う。確かに、紅坂の魔法使いたちが携わったテーマパークで「原因不明の事故」が起きるなんていうことは、彼らの名誉からすれば信じがたいことだろうし、責任問題は大きいのだろう。しかし、責任を感じるより、好奇心を煽られている馬鹿者が居たりするので鈴が心配する必要はない。具体的に言えば、私の兄のことけど。
 心配してくれている鈴には悪いけど、あの兄は二、三年、懲役でも受けた方が人格が矯正されるんじゃないかと思う。とまあ、兄のことなんてどうでも良いことだった。閑話休題。

「それで、その不幸な事故の犠牲者なんだけどね。誰だと思う?」
「まさか、その落下事故の被害者が……綾さんだと?」
「そう。そして、その彼女を救った……正確には救おうとした勇敢な男性が一人いるらしいの。女の子なら、その人と恋に落ちるのは当たり前だと思わない?」
「……セリア。まさか、その男性というのは」
「そう、それが彼女のお兄さん」
 あくま昨晩、電話口で騒いでいた兄の会話から得た断片的な情報からの推測だけど。でも、もし……私の推測が正しければ。

「昨日。妹さんはお兄さんに命を救われて、そして心を奪われた。私はそう思うのよね」
 そういって、私は自分の想像が、根拠のないモノではないと鈴に告げて、その反応を楽しんだのだった。

 /

 ……もっとも、このとき、私が口にした推測は鈴をからかうための「冗談」の域を出ないモノであり、まさか、それが「真実」に触れていたなんて事は欠片も思っていなかったのだけれど。

続く

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