/0.妹さんは不機嫌(泉佐奈)

 誰しも機嫌の悪い時あるとは思う。それでも、限度というものはあるんじゃないだろうか。

 時々、漫画なんかでは、機嫌の悪い人の周りの空気が黒く淀んでしまって、そのあまりの禍々しさに周囲の人たちや、鳥や獣までもが逃げ去ってしまう、なんていう表現があるけれど……まさか、それに近いものを、こうして目の当たりにするとは思っていなかった。

「あれって、フィクションじゃなかったんだね」
「……何の話? 佐奈」
「綾の機嫌が悪いっていう話だよ」
 学校からの帰り道。口や鼻からもうもうと黒い「もや」を吐きだしている、なんてことは流石に無いけれど、それでもピリピリと肌で感じられるほどの不機嫌さを全身から吹き出している綾に、私は小さく息をつきながらそう答えた。そう、本当に周囲の空気を黒く染めているんじゃないかと錯覚してしまえるほどに機嫌の悪い人物とは、他でもない、私の親友である神崎綾その人なのだった。

「そんなに機嫌、悪そうに見える?」
「うん。負のオーラが凄いよ、綾?」
「そんなこと……ないもん」
「そんなことあります」
 私の指摘に、綾は不服そうに小さく口をとがらせる。そんな親友に首を振って、私は背後を振り返って指さしてみせた。

「ほら、あの犬なんて震えちゃってるし。さっき、カラスと雀の集団も一斉に逃げ去ったし」
「それは……偶然でしょ?」
「町を歩くと人の波が割れるし、そもそも人が近づいてこないよ? ほら校門を出るとき、周囲に人がいなかったの気づかなかった?」
「そ、それは言い過ぎじゃない? そこまではひどくないよ」
「いえ、ひどいです。綾が自分で気づいていないだけだよ?」
「そうかな」
「うん」
「……そっか」
 私の指摘にそれ以上は反論せずに、綾は内心からそれこそ黒いものをはき出すかのように深々と大きく息をついた。それは私に言われるまでもなく、綾自身も自分の不機嫌さを自覚していたということなんだろう。
 まあ、今日のお昼からずっと私以外の誰とも口をきいていないし、そもそも口を開こうともしていなかったんだから、流石に自覚ぐらいはしてくれていないと困ってしまう。あるいは自覚しているのに、それを認めたくないほど、心がささくれ立っているのかもしれないけれど。

「……ふう」
 そんな私の内心はともかく、無言のままに歩を進める綾は、またまた黒い感情をはき出すように、何度目かの溜息をこぼす。その内に、動物が逃げるだけじゃなくて、周りの草花までも枯れ果ててしまうんじゃないかってちょっと心配になってくる。それほどまでに綾の機嫌が悪い理由。それは多分、二つある。

 一つは、会長さんのことだと思う。
 あの出来事……つまりは会長さんが自分のミスを認めて「良先輩に何でも一つ言うことをきいてもらえる」という夢のような権利を自ら放棄するに至ったあの出来事の後、会長さんと良先輩の関係は変化してしまった。正確に言えば、良先輩の方はあまり変わらないのだけど、会長さんの良先輩に対する態度が変わってしまったのだ。そのことが綾の機嫌を大いに損ねていることは想像に難くない。
 良先輩としては、会長さんが自分への呼び方が「神崎さん」から「良さん」へと変わっただけ、と思っているのかもしれないけれど、私や綾、そして桐島先輩や速水先輩、さらに言えば、会長さんの周囲に居る人たちにとっては大きな変化だ。だって、それは親近感が明らかに変わったことの証なのだから。それを裏付けるように、会長さんが良先輩を見る視線もはっきりと変わっている。今まで、会長さんが良先輩に向ける視線はあくまで「好奇」の範疇に収まっていたはずなのに。今では、その視線に明らかな「好意」が籠もっている。
 さらに言うならば、会長さんの行動にも変化の兆しがみられるのだ。今までのような強引さは影を潜めて、無理矢理に良先輩にひっついている訳でもなく、試験を控えて先輩の邪魔にならないように、配慮している節もある。そんな気遣いを、あの会長さんが良先輩に向けていることだけでも、今までとの違いは明らかだった。

 そんな会長さんが良先輩に向ける「好意」がどんな種類なのかは、まだわからない。「友情」なのか、「愛情」なのか。「好き」、なのか、「愛している」のか。まだ私には判断がつかないのだけれど……綾はかなり深刻な事態だと考えているのだと思う。

「……ふう」
 そして、綾の口から漏れるため息がとっても重くて、とっても黒いことのもう一つの理由。それは良先輩の中間試験の結果だった。実は今日、中間試験の成績が返されたのだけど……あろうことか。

「どうして、こうなるのかなあ」
 そう、あろうことか、良先輩の成績はあがらなかったのだった。『成績が上がれば、良先輩が言うことをきいてくれる』、そのそもそもの大前提は、もろくも崩れ去ってしまったのだった。

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  魔法使いたちの憂鬱

       第二十九話 試験を終えて。

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/1.放課後の職員室(セリアと蓮香)

「今朝、成績は本人に伝えたよ」
「そうですか」
 放課後の職員室。生徒会活動の報告書類紅坂セリアから受け取りながら、神崎蓮香は良の試験結果を伝えていた。その言葉に頷いてから、セリアは少し気遣わしげに視線を揺らす。

「あの、先生」
「うん」
「その……、良さんの様子はどうなんですか?」
「流石に落ち込んでたな」
「そうですか。落ち込んでいましたか」
「まあ、あれだけ何人にも教えてもらっていて成績が変わらなかったんだから、そりゃあ、ね」
 寧ろ、落ち込まない方が問題がある。そう言葉を続ける蓮香に、セリアは少し眉をしかめた。

「先生は、平気なんですね。良さんが落ち込んでいても」
「ん? ああ、そうだな」
「そうだなってっ」
「声が大きいよ、紅坂。場所をわきまえなさい」
「え? あ……」
 職員室という場所で俄に声を荒げかけたセリアを、蓮香が落ち着いた口調でいさめた。少なくとも職員室で騒ぐのは、紅坂セリアにとってマイナスにしかならない。その蓮香の意図を悟って、セリアは即座に表情を改めて平静を取り戻す。

「失礼しました」
「構わないよ。原因はウチの息子だしね。まあ、私としては良相手に感情的になってくれるのはうれしい限りだ」
 本音なのか冗談なのか、判然としない口調で笑いながらそう言うと、蓮香はやや表情を改めてセリアの顔を覗いた。

「しかし、この結果はお前なら予想はできていただろう?」
「……はい」
 蓮香の問いにセリアは僅かに口ごもってから、やがて首を縦に振る。

「もちろん、最初からそう思っていた訳じゃありません。良さんは頑張っていましたけど、ただ……」
「ただ?」
「ただ、そうですね、タイミングが悪かったんです」
「タイミングか。そうなんだろうね」
 セリアの答えに、蓮香は同意を示すように頷きを返した。
 試験直前の神崎良の魔力の状態が普段とは異なることに、蓮香は気がついていた。おそらくは紅坂セリアとの魔力交換を切っ掛けにして、神崎良の魔力の質に変化が起きている。それが蓮香の考えだった。

「紅坂。お前は良の状態をどう思う?」
「少なくとも魔力変調ではない、と思っています」
「ああ、似ているが違うね。少なくとも魔力の劣化は見られない」
 魔力変調とは、ほとんどの場合、元々の魔力からの劣化を意味する言葉だ。しかし蓮香が見る限り、今の神崎良は魔力自体は寧ろ向上している。今回の試験で神崎良は結果を残せなかったことに、蓮香がさほど落胆を感じていないのは、そのあたりが原因でもある。

「なら、消化不良という奴かな」
「そう思います。良さんは、力を持てあましているじゃないでしょうか」
「あるいは……言い方は悪いが、びびってる、という所かな」
 それぞれ言い方は異なるが、セリアと蓮香はほぼ同じ考えを示して頷きを交わす。要は、神崎良が変質した自分の魔力の使い方がわかっていない、というのが二人の結論だった。
 肉体を例に出すのなら、子供と大人では力の使い方が違う。筋力が増えたのなら、その分繊細な加減が必要になる。魔力もそれと同じく、力の強さが変わったのなら、扱う方法も変わってくる。だから、それにまだ慣れていないだけだろう。そうセリアに言いながら、蓮香はくるり、と指を回した。

「ああ、一応言っておくが、紅坂。今回のことで、お前が罪悪感を覚える必要はないよ」
「ええ、それはもちろん感じていませんけれど」
「……あのな。そこは嘘でも「感じています」と答えておけ」
「それは失礼しました」
 少し調子が戻ってきたかな、と苦笑して、セリアは改めて周囲に目を配る。放課後の職員室ということもあり、教員や生徒の姿は散見されるが、少なくとも今、蓮香とセリアの話に聞き耳を立てている魔法使いはいない。それを確認してから、蓮香は少し身を乗り出して、セリアに問いかける。

「ところで、紅坂」
「はい。なんでしょうか」
「良の嫁になる気はあるのか」
「神崎先生は、時々よく分からないことをおっしゃいますね」
「至極単純なことしか口にしていないつもりだが」
「言葉の内容は単純でも、言葉の意図は単純には思えませんけど」
「この場合、言葉通りの意図だよ」
「そうですか」
 すました蓮香の言葉に、セリアは軽く息をついてから小さな微笑をたたえて答えた。

「私は紅坂を継ぐつもりでいますから。ですから、神崎さんの嫁になるのは難しいでしょうね」
「ふむ」
「神崎さんが婿に来るのなら考えておきます」
「そうなると、紅坂良か。ふむ。言葉の響きとしては……うーん、どうなんだろうな」
 なにやら真剣に悩み始めた蓮香に、セリアは「失礼します」と苦笑混じりの会釈を残して職員室から姿を消したのだった。

/2.放課後の教室(神崎良)

「本当に、ごめん」
 試験結果が返された放課後、教室に残った霧子と龍也の二人に俺は改めて頭を下げていた。

「もう。そう何回も謝らないでもいいわよ」
「そうだよ、良。そんなに落ち込むこと無いと思うよ」
 深々と、というか、教室の机に頭を擦りつけつつ謝る俺に、霧子と龍也はなんとも複雑な表情で、そう答えてくれた。そんな二人が時折視線を向けるのは、机に置かれた俺の成績表。そこに示されている数値は、平均してみれば平均点少し上。要するに今までとあまり変わらないわけで、別段、成績が落ちた訳じゃないともいえる。……あくまで、全体を平均した点数で見るのならば。

「でも、まさか実技の成績が下がるなんてねー。流石にこういうオチを付けてくれるとは思わなかったわ」
「うう、重ね重ね、ごめん」
「で、でもさ、成績はちゃんとあがってるよ?」
「……いいんだ。龍也、無理にフォローしてくれなくていいんだ」
 気遣ってくれる龍也に感謝しつつも、俺はため息を殺しながら成績表に並んだ数字に目を落とし、そしてそこに並んだ数字に目眩を覚えて、結局ため息をついてしまう。
 長所であった理論の点数は大きく上がったのにも関わらず、肝心の克服すべき実技の点数は大きく落ちたのだった。具体的な点数はあまり言いたくはないのだけど、赤点をぎりぎり間一髪で回避できるぐらいの点数だったりする。試験終了後の手応えから、実技の点数については予想というか覚悟はできていたつもりだったのだけれど、やはり残念なものは残念な訳で。

「あんなに、みんなに教えて貰って、これじゃあなあ」
 申し訳ない気持ちと、自分へのふがいなさで胸が一杯になってしまうのだった。そんな俺の落胆を見かねて、龍也は励ましの言葉を口にしてくれる。

「そ、そんなに落ち込まないでよ。良はちゃんと頑張ってたしね。ね、霧子」
「そうね。確かに頑張ってたわよね」
「うん。そうだよ! だから……」
「まあ、一緒に勉強して私はちゃんと成績あがったけど」
「き、霧子!」
「ご免なさい、反省してます。産まれてきて済みません……」
「良?! 気を確かにね?!」
 そして龍也に対して霧子の反応は、流石に怒り混じりだった。まあ、それは当たり前の反応だと思う。昼休みに成績を聞きに来ていた綾も、俺の不甲斐ない成績に大いに憤慨して、帰っていってしまったし。

「……会長さんには、なんて言われるかなあ」
 霧子と綾の態度から、ある意味一番、怖い人の反応を予想して俺はひときわ大きな溜息をこぼす。そして「会長」という言葉に、霧子と龍也もどこか哀れむような表情を浮かべて、小さく息を吐いた。

「会長さんの反応ね。あまり考えたくはないわよね……ご愁傷様。殺されないようにね」
「怖いこと言わないでくれ、頼むから」
 というか、あまり冗談に聞こえないあたりが恐ろしい。

「会長さんには、結果はまだ言ってないんだよね?」
「ああ」
 昼休みに結果を報告したのは、霧子と龍也、それに綾と佐奈ちゃんの四人。会長さんと篠宮先輩は、生徒会の用事があるとかで、会えなかった。綾と二人で同時に怒られなかっただけましだと思うべきなのか、あるいは、一番の恐怖が先延ばしになっただけだとおののくべきなのか、どっちなんだろうか。
 そんな恐怖に震える俺を横目に、霧子は肩を竦めながらふと意外なことを言い始めた。

「でも、今の会長さんならそんなに怒らないんじゃない?」
「……ああ、それはそうかも」
 霧子のそんな言葉に、なぜか龍也も少し考えてから頷いた。

「そうか? まあ、会長さんは、俺の様子なんて見抜いてたみたいだから、あまり怒らないかもしれないけどな」
「あのね、そういう事を言ってるんじゃないわよ」
「まあ、良がわかってないのなら、そっちの方がいいんだけどね。僕は」
「そうね。私もそう思うわ」
「?」
 なんとなく呆れたような、あるいは安心したような表情で頷きを交わす霧子と龍也。そんな二人の意図がわからずに、俺は疑問符を浮かべて首をかしげてしまう。まあ、会長さんが本当に怒らないとしても、彼女に怒られなければよいという問題ではないのだけど……でも、どういうことだろうか。そんな疑問に首をかしげる俺に、龍也は小さく咳払いをしてから不意に話題を変えた。

「それより、良。やっぱり、まだ調子がおかしいの?」
「うーん。正直、自分でもよくわからない」
 龍也の問いかけに、俺は正直に首を横に振った。
 調子がおかしい、とは俺の魔力の調子だった。言い訳になるかもしれないけれど、ここ最近、ずっと俺の中にはある種の違和感がまとわりついていて上手く魔法が使えない、という状態が続いている。その不調の原因はわからないのだけど、少なくとも切っ掛けについては予想がついている。俺が魔法を使う際に違和感を覚え始めたのは、会長さんとの魔力交換の後からなのだから。

「魔力変調じゃないのよね?」
「ああ、うん。レンさんはそう言ってる」
 魔法を使うときの違和感については、当然、レンさんに相談はしたし、診察のようなこともしてもらった。
 そのレンさんの見るところでは、龍也と同じように魔力変調を起こした……という訳じゃないらしい。「魔力を扱う感覚が少し変わったんだろう」というのがレンさんの弁。分かりやすく言うのなら、今は筋肉痛で直りさえすれば今までより力が出せる、ということらしいのだけど。その説明に霧子が不思議そうな面持ちで小首をかしげた。

「魔力を扱う感覚が変わるって、実際に、そんな事ってあるの?」
「うーん。神崎先生が言うのなら間違いないんだろうけど……」
 霧子の疑問に龍也もまた首をひねる。そしてそのまま考え込むように一瞬の沈黙を挟むけれど、結局、龍也にも明確な答えは出せないようだった。龍也は大きく首を横に振ってから、感心したような面持ちで小さく笑った。

「ごめん、わからない。やっぱり、会長さんが絡む事は僕にはわからないみたい」
「そっか。まあ、レンさんが心配ないって言っているんだから、気にしすぎない方がいいんだろうけどな」
「うん。そうかも。調子が戻らない内はあんまり悩まない方がいいかもしれないね」
「そう? 結構、長い時間続いているわけだし、もっと気にした方がいい気もするけれど」
「でも、考えすぎると負の連鎖に落ち込むこともあるしね」
「うーん」
 そういうものだろうか、と、俺が軽く腕を組むと、龍也は何かに気づいたように小さく声を上げて、教室にかけられた時計を見た。

「あ、もう行かないと」
「あれ? 今日も速水会だっけ?」
「あ、ううん、違う違う。少し研究棟の方に用があって」
「研究棟?!」
「研究棟?!」
 龍也の口から出た意外な単語に、俺と霧子は同時に声をあげて顔を見合わせた。勿論、研究棟のことを知らなかったから驚いた訳じゃない。教育機関としてではなく、研究機関としての東ユグドラシル魔法院を代表する建物が研究棟だから、当然、魔法院に在籍するものならその存在は知っている。でも、高等部の学生にとっては、まだまだ縁遠い場所で、軽々しく足を運べるような場所じゃない。実際、レンさんは研究棟に席を持っているけれど、俺や綾はそこに訪れたことはない。だから思わず驚いてしまった俺たちに、龍也は少し照れたようにはにかんで続けた。

「ちょっと知りたい事があるんだ。まあ良を見てて触発されたって所かな。僕も頑張らないといけないなって」
「だからって、研究棟に行くわけ? 言いたくないけど、レベルが違うわね……」
「というか、凄すぎる。お前がそれ以上頑張るとどうなるんだよ」
「大丈夫」
 呆れつつも感心する俺と霧子に、なぜだか龍也は「大丈夫」と笑いかける。

「大丈夫って、何のことよ」
「だから、僕は良と霧子から離れて、遠くに行ったりなんかしないから」
「あのな、そんな心配なんかしてないよ」
「うん。だけど、一応、言っておきたくて」
 どこまでも人の良い、そんな言葉を口にしながら、でも目をそらさずに俺と霧子に告げると、龍也は少し小走りで教室の外へと姿を消した。そんな龍也の小さな背中を見送りながら、霧子はぽつり、と呟くような声で疑問を零す。

「ねえ、良」
「うん」
「龍也の知りたい事って何かな」
「さあ……なあ」
 あの龍也が、わざわざ研究棟に顔を出してまで知りたいこと。そんなのはっきり言って、俺と霧子、つまりは学生レベルの魔法使いの想像を超えている。

「正直、想像もつかないけどな。でも、龍也のことだから心配ないだろ」
「そうね。今のあいつなら心配ないか」
 別段、思い詰めた様子でもなかったし、寧ろ、楽しそうにも見えた。なら、敢えて詮索しなくても、いつか教えてくれるだろう。そう結論づけて、俺と霧子は教室の席から腰をあげた。

「じゃあ、俺たちも帰るか。霧子、部活は明日からだろ?」
「あ、そうなんだけど、わたし、部長に呼ばれてるから行かないと駄目なんだ」
「そっか」
 じゃあ、待つよ。そう言いかけて、俺は寸前でその言葉を飲み込んだ。

「じゃあ、今日は先に帰るな」
「何よ。待ってくれないの?」
「悪い。ちょっと用事を思いついたから、先に行くよ」
「……ん。わかった。気をつけてね」
 俺の考えをなんとなく、察してくれたのだろう。少しの沈黙を挟んで霧子は頷いてくれた。

「気にするのはわかるけど、あんまり変に無理するんじゃないわよ。お兄ちゃん」
「……わかってるよ」
 やっぱり、考えていることは見抜かれているらしい。まあ、昼休みのあいつの憤慨っぷりは、霧子も目の当たりにしているから割と簡単に感づかれてしまったのかもしれないけど。

「あ、それから」
「ん?」
 じゃあね、と言って背を向けかけていた霧子だったけど、何か思うことがあったのか不意に動きを止めた。そして少しだけ言葉を選ぶような素振りを見せてから、やがて小さく笑って、こう言ってくれた。

「お疲れ様。いろいろ言ったけど、頑張ってたよ、良。だから」
「わかってる」
 続く言葉を遮って、俺は強く頷いて、笑った。今回は結果は出なかったけど、積み上げたものはゼロじゃない。だから、次こそは……きっと。

「次は、ちゃんと見返すよ」
「うん。期待してる。じゃあね」
「……ありがとな」
 笑って去っていった霧子の背中に、聞こえないように俺はそう小さく呟いた。
 去り際に貰った励ましの言葉、それにさっきまでくれていたきつ目の言葉だって、発破をかけてくれてのことだって思うから。

「よし」
 そして、俺は、ぱしん、と頬を張って気合いを入れる。実技の成績は落ちてしまったことを開き直るのは論外だけど、落ち込み続けていてもしかたない。ここからまた気合いを入れて頑張ろう……とそう思うのだけど。
 まずはちゃんとお詫びとお礼の言葉を言って回るのが筋だろう。そう考える俺の脳裏には、昼休み、怒り心頭だった妹の姿が思い浮かんでいたのだった。


/3.綾の部屋(神崎綾)

「なんで、こうなるのかなぁ」
 学校から帰った私は制服を着替えもせずにベッドに倒れ込むと、枕に顔を埋めて身もだえた。

「上手く、行かないなあ」
 くぐもった声で呟きながら、最近の出来事を思い返してみる。考えてみれば、生徒会入りの件から、なんだかやることなすこと裏目に出てるような気がする。
 兄さんから敢えて距離を置くことで、兄さんの気持ちをこちらに向けさせるはずだったのに。兄さんは、霧子さんに誘われるままに美術部に入ろうとするし、会長さんに誘われるままに家庭教師をお願いしたりするし。そりゃ、もちろん遊園地の時みたいに良いことはあったんだけど……でも、それだって会長さんに兄さんへの興味を抱かせてしまうことになったわけで。
 そして今回の中間試験。兄さんにつきっきりで勉強を教えてあげられて、そして成績の上がった暁には、言うことを何でも聞いてもらえるという夢のような計画だったのに、結果は惨憺たるものに終わってしまった。

「どうしてだろ」
 枕を胸に抱きしめて、私はゴロン、と寝返りをうちながら自問した。
 魔法に関しては速水先輩や会長さんにだって、負けないつもりだったのに。ううん、魔法に関して、じゃなくて、兄さんに関わることで、他の誰かに負けたりするつもりなんて、絶対になかったのに。それなのに、私の求めた結果は出なかった。

「もう。兄さんの、ばか」
 胸に抱いた枕を兄さんに見立てて、ぎゅう、と思いっきり胸に抱きしめてみた。八つ当たりだってわかっているけれど、もし兄さんの実技の成績があがってくれていたら、お互いに言うことを聞く、っていうあの約束を実行に移せたかもしれないのに。もし、そうなっていたら……こうして枕を代用しなくてすむようになっていたかもしれないのに。
 
「才能無いのかなあ、私」
 人に何かを教えるという才能が乏しいのかな。
 自問自答して、私は自己嫌悪がわき上がるのを自覚した。最近、兄さんの調子が悪そうなのはわかってた。それでも私は兄さんには無理をさせてしまったのだと思う。自分の気持ちばかりが先走って、兄さんにそれを押しつけるなんて駄目だってわかってたのに。あげくに昼休みには成績が落ちたこと、怒ってしまった。兄さんがちゃんと頑張ってこと、わかってたのに。
 落ち着いて考えてみれば、とても身勝手な感情で、身勝手な行動を私はしてしまっていたのかもしれない。

「でも……そんなの仕方、ないじゃない」
 霧子さんと兄さんの距離が、会長さんと兄さんの関係が変わっていくのを目の前にして、自制が効かなかったんだって、思う。

「こんなんじゃ、いつか、嫌われちゃうかなあ」
 こんなに自分のことばっかりじゃ、いつか嫌われる。そんな恐れが胸をきしませるけれど、「でも」という気持ちが抑えられない。だって、悠長に構えていられる時間はもうないと思うから。
 家庭教師の時、私が部屋に乱入しなければ、兄さんと霧子さんの関係はどうなっていただろう。会長さんから滲みでている好意に兄さんが気づいてしまったら、あの二人の関係はどうなってしまうんだろうか。
 それを考えてしまうと、いてもたってもいられない。兄さんを困らせてしまうってわかってるけど、でも、それでも、私は兄さんへの気持ちを変えられたりできないんだから……

「もういっそのこと、一度嫌われちゃった方がいいのかな」
 嫌われるなんて、嫌だけど。物凄く、嫌だけど。でも、そうでもしないと私と兄さんの関係は変わってくれないのかもしれない。だって霧子さんや会長さんとの関係は、いろんな形に変わっているのに、私と兄さんとの関係は、ずっと変わらない。ずっと、どこまでいっても「家族」のままで。それはとっても大切で、失っちゃいけない関係だってわかっているのに、でも、それだけじゃ、私は我慢できない訳で。

「うう……もう、こうなったら、思い切って寝込みを襲うしか……」
「おーい、綾? 居るか?」
「は、はい?!」
 枕を抱えて、半ば自暴自棄に、ぶつぶつと我ながら不穏な計画を描き始めた矢先、ドア越しにかけられた声に、文字通り私はベッドの上で飛び上がった。

「に、兄さん?」
「そうだけど……って、悪い、ひょっとして寝てたか?」
「ううん! 全然、起きてたよ?! 今、開けるねっ」
 悶々とした気持ちに眠気なんか感じていなかったけれど、例え微かな眠気があったとしても一気に吹き飛んでしまった。鬱々とした気分もどこへやら、私は大急ぎでドアへと駆け寄って、鍵を開ける。そして、そこには今まで考えていた人の顔があった。

「今、ちょっといいか?」
「う、うん。いいよ、勿論!」
 頷いてから、私は慌てて部屋の中に戻って、兄さん用のクッション(残念ながら利用頻度は高くないのだけど)を用意する。そして、兄さんにそれを渡しながら、私は努めて平静を装いながら兄さんに問いかけた。

「そ、それでどうしたの?」
 兄さんから、私の部屋に来てくれる事ってあまりない。だから少しの不安とそれ以上の期待を胸に尋ねると、兄さんは少し気恥ずかしそうに鼻の頭をかいた。

「あー、いや、なんだ。その試験のことなんだけどな」
「あ……ごめん、なさい」
「え?」
 言いづらそうに「試験」と口にする兄さんに、昼休みのことを思い出して、私は思わず頭を下げる。

「いやいや、なんでもお前が謝るんだ?」
「だって、ほら、その……お昼休み。私、一人で勝手に怒っちゃって」
「いや、それは当たり前だろ?」
 謝る私に、兄さんは首を横に振って、怒るどころか微笑んでくれた。

「怒ってくれたのは、期待してくれてたからだろ? だから、俺の方こそごめんな。期待に応えられなくて」
「あ……」
「ありがとな、綾。期末試験こそは頑張るから。まあ、我ながら頼りないと思うけど、でも、今度こそ頑張るからさ」
「……うん」
 本当に兄さんは怒っていなくて、それどころか「ありがとう」って言ってくれて。そして、くじけて無くて。さっきまで、私の胸の中をグルグルと嵐の雲のように渦巻いていた暗い感情は、ぱあ、と日が差したように薄れて消えていく。少しのことで一喜一憂してしまうのは、我ながら単純だって思うけれど、でも、でもでも。嬉しいものは嬉しいんだから、仕方ないって思う。うん。

「じゃあ、次こそは期待してるね、兄さん」
「頑張るよ。あ、それから例の約束のことなんだけど」
「約束って?」
「あのな、なんでそこで疑問系なんだ。お前から言い出したことだろ。ほら、なんでも一つ、言うことをきくって奴」
「え……ええ?!」
 諦めたはずの事が、目の前に転がり出てきた。その事に私の思考は、しばし混乱を来してしまう。思わず目を白黒させる私に、兄さんの方も驚いたように目をぱちくりさせていた。

「いや、だから、なんでそんなに驚くんだよ」
「だ、だって……その、どうして? あの約束は」
「実技は落ちたけど、まあ、平均してみれば成績自体は上がったわけだしさ。……ほんの少しだけ」
 苦笑しながらそう言うと、兄さんはぽん、と私の頭に手を置いて、優しくなでてくれた。

「だから流石に何のお礼もなしだと落ち着かないよ。一番、時間を割いてくれたのは綾だしな」
「あ……」
「それで、なにか欲しいものってあるか?」
「ほ、欲しいもの?」
 自分で口に出した言葉に、どきり、と心臓が鳴る。その高鳴りを顔に出さないように意識しながら、私は兄さんの表情を伺った。

「本当に、本当に何でも良いの?」
「いいぞ。予算の許す限りのものであれば」
「そう、なんだ」
 本当に欲しいものは、お金なんて関係ない。寧ろ、お金なんかで買えたりしない。

「じゃ、じゃあ」
 今、頭に置いてくれている手の温もりを、私の胸にも置いて下さい。そういったら、軽蔑されるだろうか。
 今、微笑んでくれている唇で、私の唇を塞いで下さい。そう願ったら、嫌われるだろうか。それともただの冗談だと思われて、笑って済まされるだけだろうか。

「決まったか?」
「えーと、ね。じゃあ……うう」
 私と兄さんの関係。それを変えたいって言う願いを口にしようとして、でも、できない。
 だって、多分、冗談だって、思われるだろうから。でも、ひょっとしたら、本気に受け取ってもらえるかもしれない。でも、やっぱり、その可能性は低いだろうけど。でもでもでも、やっぱり、ひょっとしたら……っ。

「うううーっ」
「えーと、綾? 今、思いつかないのなら、後でもいいぞ? 別に時間制限をつけたりはしないからさ」
「ま、待ってっ」
 諭すように優しく言って、そして立ち上がろうとする兄さんを、私は咄嗟に服の袖をつかんで引き止めた。

「綾?」
「で、デートっ」
「え?」
「だから、その、あの、デート! して、欲しいな、なんて」
 願いたかったこととは違うけど、でも、ここで何も願わないなんてこと、出来そうになくて。だから、私の口から飛び出したのは、そんな中途半端な願いのカタチになってしまっていた。うう、佐奈がここに居たら「押し倒してくださいぐらいはいいなさい」って怒られるかもしれない。けど、今はこれで一杯一杯な私だった。
 一方の兄さんはといえば、私のお願いに、またも驚いたみたいに、少し目を見開いていた。

「で、デート?」
「うん。だめ、かな?」
「……いや」
 迷うような一瞬の間。だけど、結局は兄さんはすぐに首を縦に振ってくれた

「うん。そのぐらいなら、いいぞ」
「いいの?!」
「うお?!」
 あっさりと肯定の返事をくれた兄さんに、私は勢い込んで、さらに兄さんの服の袖を強く引っ張る。

「こら、綾! お前、何でそんなに驚いてるんだ?」
「だ、だって……っ」
 これが驚かずにいられるだろうか。まさか「デート」という言葉で提案して、それを兄さんが受けてくれるなんて思っていなかったから。ひょっとして。ひょっとしたら! 兄さんも、その私に対して、少しぐらいはそういう気持ちを……

「あのなデートってどこか遊びに行くって事だろ? そのぐらいなら全然大丈夫だぞ」
「え?」
「ほら、この間も遊園地いったところじゃないか」
「あれは……違うもん」
「違う?」
 不思議そうな表情を浮かべる兄さんに、喜びにあふれていた私の中にふつふつと怒りの感情がわき上がっていく。いや、ぐつぐつ、と言うべきかもしれない。グラグラと形容すべきかもしれない。佐奈の言葉を借りるなら、「黒い負のオーラ」という奴が、放課後の時と同じように、一気に私の中に吹き荒れたのだった。

「ふ、ふふふ……」
「あ、綾?」
 そうか、そうなんだ。「私とのデート」は「仲良く遊びに行く」程度の認識なんだ。ふーん、そうなんだ。

「ふ……ふふふ、ふふふ……」
「綾? 綾?! おい、どうした?」
「どうもしてませんっ」
「どうもしてないって、いや、お前、なんだか空気が……」
「ど・う・も・し・て・ま・せ・ん!」
「はい。どうもしてません」
 こうなったら、こうなったら! 絶対に、何が何でも、そういう認識を改めさせてやるんだから。私と二人っきりで「デートする」っていう事が、どういう事なのか、いやって言うほどわからせてやるんだからっ!
 嬉しさと、怒りの入り交じった感情をかみしめながら、私はそんな決意に堅く拳を握るのだった。と同時に、私は確認しておくべき事に気づいた。このノリだと霧子さんや会長さんとデートの約束ぐらいしちゃいそうだし。それは断固阻止しなければ……っ

「そうだ。兄さん」
「うん?」
「その……他の人とも、デートの約束、してる?」
「してないよ。なんでそうなる」
「だって、どうせ全員にお礼して回るつもりなんでしょ?」
「まあな」
「やっぱり……」
「でも、綾が最初だからな。他の連中からどんな要求がでるのかはまだわかってないよ」
「私が……最初」
「うん」
「えへへ」
 我ながら、本当に単純だとは思うけれど、そんな兄さんの言葉に、また自然と相好が崩れてしまう私なのだった。


/4.明くる日の屋上(神崎綾)

「喜んでるんじゃありません」
「痛い?」
 兄さんと約束を交わした翌朝。屋上で、その時の事を報告した私の頭を、ぺしり、と佐奈は軽く叩いた。

「もう。単純にも程があるよ? 綾」
「そ、そうかな。でも、いいじゃない。喜ぶぐらい〜」
「もう、「デート」を「遊びに行く」っていうのと同じだって思われていたって泣きそうになってたのに」
「それは、そうなんだけどね」
 でも、嬉しいものは嬉しいのだ。ちょっとぐらいのろけたっていいじゃないか。そう訴える私に、しかし、佐奈は冷たく首を横に振った。

「危機感が足りません」
「危機感?」
「確かに綾に一番最初だけど、この後、桐島先輩や、会長さんやデートする可能性だってあるんだよ?」
「う。そうか」
 確かに兄さんは、「私が最初」と言ったけれど他の人にもお礼をするとは言っていた。それを思い起こして、言葉に詰まる私に、佐奈はさらに縁起の悪い言葉を続ける。

「それに速水先輩とだって、どうなるか気をつけないと」
「速水先輩って……それは単に男同士で遊びに行くっていうことじゃない」
「そこにも危機感が足りません。速水先輩は、何気に一番の強敵かもしれないのに」
「お、脅かさないでよう」
「脅しじゃないよ」
 おびえる私に、佐奈はどことなく沈痛な表情を浮かべてため息をついた。

「最近、速水先輩は緑園のおねーさんの所に、ちょくちょく顔を出しているらしいよ?」
「緑園さんって、母さんと同じ研究員の?」
「うん」
「速水先輩って、そこに何しに行っている?」
「そこまでは教えてくれなかったけど」
「というか、学生が研究室に入って良いの?」
「おねーさんは、「可愛い子なら許す」って言ってたから」
「……ああ、そう」
 確かに、緑園さんはそういうノリの人だった。母さんも「あいつには気をつけろよ。というか、なるべくなら生涯かかわるな」なんて真顔で言ったことがある。

「そもそも緑園さんはなんの研究をしてるんだっけ」
「いくつかテーマを持っているっていってたけど。昔、性転換の魔法の実験をしたことがあるって、言ってた」
「……」
「……」
「……」
「……」
 長い、とてつもなく長い、沈黙の果て。

「あ、あはは、まさかね」
 そんな乾いた笑みを浮かべる私に。

「綾。顔が引きつってるよ?」
 佐奈はいつものように「冗談だよ」とは返してはくれなかったのだった。

「ほ、本当なの?」
「速水先輩がどういうつもりなのかは、わからないけど、でも、笑い飛ばせないのは事実だよね」
「う」
「だから、頑張ろうね。このチャンスは絶対にものにしよう」
 相変わらず表情の変化がわかりにくい佐奈だったけれど、今は、多分、本気で忠告してくれている。どうやら、佐奈は本当に速水先輩を要注意人物として認識し始めているらしい。


/5.魔法院研究棟(蓮香と緑園)

「レン。あなた速水君に何を吹き込んだの?」
「ん?」
 同僚の緑園久遠に声をかけられて、蓮香は手元の資料に集中させていた意識を同僚へと向けた。

「速水って、高等部の速水龍也のことか?」
「勿論。彼、あなたの生徒でしょ」
「そうだが、お前、あいつと面識があったのか?」
「面識ができたのよ、つい最近ね」
「おかしなちょっかい出したんじゃないだろうな。倫理委員会からの呼び出し回数の最高記録をまだ更新したいのか?」
「あのねえ。言っておきますけど、私が声をかけたんじゃなくて、彼の方から声をかけてくれたのよ」
「はっはっは、それは無いな」
「何が無いのよ! っていうか、何を大笑いしてるのよ、あんた。喧嘩売ってるの?!」
「いや、だって今のは笑うところだろう?」
「真顔で言ってるんじゃないわよ! もうっ……とにかく、本当に何を吹き込んだのよ」
 蓮香のあしらいに憤慨しつつも、緑園は同じ問いかけを繰り返した。そんな彼女の問いかけに、蓮香は腕を組みしばし思考を巡らせた。

「うーん? さて、何を吹き込んだ、と言われてもなあ……」
「なによ、心当たりはないの?」
「思い当たることが多すぎて、どれのことなのか判断がつかない」
「呆れた。あなた、一応、教育者よね?」
「教育者だからこそだよ。生徒には色々と発破をかけないといけないだろう?」
「ものは言い様ね」
 緑園と軽口を交換しながら、しかし蓮香は記憶の頁を手繰っていた。速水龍也が緑園に興味を示す理由。果たしてそんなものがあったのかと考えれば、蓮香に思い当たることはいくつかあった。しかし、どれなのかは判断がつかなかった。

「それで、速水はお前に何の用があったんだ?」
「そんなの決まってるじゃない。私の」
「お前の体が目当て、などとほざいたら、今この場で倫理委員会に招集をかけるからな」
「ちっ、読まれてたか」
「それで速水の用事は?」
「内緒。本人からは他言無用って口止めされてるしね。ま、成果が出てからのお楽しみよ」
「……ふーん」
 冗談交じりの緑園の言葉に、蓮香はしばし腕を組み、思案に耽る。

「久遠。問題を起こすつもりはないんでしょうね?」
「当たり前よ。これ以上、始末書を提出すると流石に減俸処分になっちゃうしね」
「そう。なら、いいわ。ただ、私の生徒に関わる以上は責任は持ちなさい」
「はいはい。わかってますよ、先生」
 緑園の返事に頷いて、蓮香は彼女と速水の行動を黙認しようと決める。本来、高等部の学生が研究棟に出入りすることは好まれないが、緑園が責任をもつのなら蓮香としては反対する理由は特にない。態度でそう告げる蓮香に、緑園は満足したように何度も小さく頷いた。

「ところでレン」
「なんだ」
「良くんのことなんだけど」
「速水が何か言ったのか?」
「んー。それとは別件かな。無関係ではないけれど、主にあなたから聞いた話のこと」
 くるくると人差し指を回し、緑園は蓮香の表情を伺いながら、彼女はゆっくりと蓮香に尋ねた。

「ねえ、レン」
「何?」
「私が良君と結婚したら、貴方を何と呼べばいいのかしら。お母さん? それともレンのままでいい?」
「私の呼び方に悩むぐらいなら、辞世の句でも用意しておきなさい。葬儀は盛大にあげてあげるから」
「レンー。目が笑ってないわよー」
「当たり前。本気で言っているから」
「ごめん、ごめん。冗談だってば」
 全く笑っていない表情で口元だけを歪める蓮香に、緑園は肩をすくめて話題を戻す。

「良君の例の夢の話なんだけどね」
「世界樹の夢のことか」
「うん。その話でちょっと気になることがあるのよ」
「気になること?」
「そう。あの時、良君は紅坂さんとの魔力交換の最中だったのよね?」
「ああ、そうだね」
「でも、彼の話によれば、夢の中で一番、最初に意識したのは紅坂さんのことじゃなくて、綾ちゃんのこと。そうなのよね?」
「本人からはそう聞いたよ」
「それっておかしくない? 紅坂セリアを探しに行ったはずのその場所で、どうして彼は綾ちゃんのことを探さないといけないって思ったのかしらね。それも一番最初に」
「それはあいつが重度のシスコンだからだ」
「……何の迷いもなく言い切ったわね、あんた」
 蓮香の断言に、緑園は笑いとも呆れとも感心とも形容しがたい表情を浮かべながら、肩をすくめた。だが、呆れた表情を浮かべながら、緑園の目は、その実、笑っては居なかった。

「ねえ、レン。前から聞きたかったんだけどね、綾ちゃんが世界樹の雨を嫌うのはどうして?」
「幼児体験」
「……そう」
 短く簡潔に、そしてあまりに平坦な口調で紡ぎ出された蓮香の答え。その短い言葉だけで緑園は事情を悟り、そして彼女にしては珍しく、とても素直に頭を下げた。

「ごめんなさい」
「私に謝ることでもないだろう」
「そうね。あなた「だけ」に謝る事じゃないわね。だから、ごめんね」
「ん。わかった。じゃあ、気を取り直して仕事しようか」
「はいはい」
 仕切り直しだ、と両手を打ち合わせる蓮香の姿を横目に、緑園は苦笑を浮かべながら、蓮香に気付かれないようにこっそりと息を吐いた。

 結局の所、あなたが一番、大変なのかしらね。頑張ってね、『お母さん』。
 本人に向かっては、決して口にしないねぎらいの言葉を、そっと胸の中で手向けながら。

続く

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