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  魔法使いたちの憂鬱

       幕間 研究者達の追憶

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/1.緑園久遠

「私が良君と綾ちゃんの二人にちゃんと知り合ったのは、二人がレンに引き取られてからね。まだ二人ともちっちゃかったなー」
 東ユグドラシル魔法院の研究室。整理中の資料が積まれた机に腰掛けながら、緑園久遠はどこか懐かしむような響きの言葉を紡ぐ。
 良と綾が仲良くなった切欠。あるいは綾が良を好きになった理由は何なのか。それを尋ねる龍也に答えるため、彼女は遠い記憶を探っていた。久遠の脳裏に思い浮かぶのは、まだ良と綾が初等部にはいる前のことであり……そして彼女の友人である神崎蓮香の子育てが始まったばかりの頃の記憶だった。様々な意味で変わらざるを得なかった親友の姿を思い出して、久遠は僅かに目を細めて笑う。

「子育てを始めた頃には、レンからお守りを頼まれたりしたわね。うんうん、これでも二人にご飯とか作ってあげたりしたのよ?」
「昔から、久遠先生は二人と仲よかったんですね」
「そうね。うん、昔はそうだったかな」
「最近は違うんですか?」
「私としてはもっと二人に会いたいんだけどねー」
 不思議そうに尋ねる龍也に、久遠は大げさに肩をすくめて嘆息してみせた。

「レンが会わせてくれないのよねー。最近」
「神崎先生がですか?」
「そうなの。『お前はあの二人の教育上よろしくないから、極力近づくな』とか言われちゃってさ。ひどいと思わない?」
「そ、それは流石にちょっと……」
「やっぱ、あれかしら。レンを押しのけて二人と一緒に寝ようとしたり、綾ちゃんに「ハーレム」の事とか教え込んだりしたのが不味かったのかしらね」
「……神崎先生が正しいのかも知れませんね」
「えー。何でー」
 引きつった笑顔で指摘する龍也に、久遠は不満げに頬をふくらませた。が、すぐに気を取り直したように頷いて言葉を続ける。

「まあ、だからあの二人は私のことをレンの仕事仲間のお姉さんぐらいにしか思ってないかもねー」
 実際会うのは、年に1,2回だし、いつも「緑園さん」と呼ばれているから、久遠という下の名前をあの二人が覚えているかも怪しいものだ。言ってみれば、久遠と神崎兄妹の直接の関わりはその程度という事になる。ともあれ、良と綾の二人との距離が遠くなったのは久遠自身の意思でもあった。久遠は自身の性癖を自覚していたし、あまり魔法院の研究者が幼い子供に関わるべきだとは思わなかったのだ。

「それで肝心の二人が仲良くなった理由なんだけどね」
「は、はい」
 いよいよ本題とばかりに声を潜める久遠に、龍也が緊張に表情を引き締めた。そんな真摯な瞳に向かって、久遠は頷いて、告げる。

「よくよく思い出してみれば、実は、その頃にはもう綾ちゃんは良君にべったりだったのよ」
「え?」
「だから正直に言うとね、綾ちゃんが良君を好きになった直接の原因が何かは私にもわからないの」
「ええ?」
「ごめんね?」
「ええええ?! 本当にご存じないんですか?」
「……えへ」
「そ、そうなんですか……」
 よほど久遠の回答に期待していたのか気の毒なほどに肩を落とす龍也に、「期待に添えなくて御免ね」と謝りながら、久遠は感情を悟られないように表情を作り、そして目の前の少年の意図について思案を巡らせる。今、龍也が久遠から聞き出したかったこと、それを含めて久遠の研究室に足を運ぶ速水龍也が知りたいことは、おそらくは三つある。そう久遠は見当をつけていた。

 一つ目は、綾が良の事を好きになってしまった理由。これは今、彼が直接言葉で聞き出そうとした事だ。二つ目は、綾が良としか魔力交換ができない理由。これは今、こうして龍也が彼女の研究室を訪れている理由の一つでもある。そして三つ目は、良が綾に対して過保護と言える責任感を抱いている理由。このことに関しては龍也が口にしたわけではないが、彼がこの点を気にしていることは、その態度や言動の節々から久遠には窺い知れた。現在、緑園久遠はそのいずれの問に対しても、明確な解答を用意できない。しかし、紅坂セリアと並んで「天才」と称されるこの少年は果たしてどんな答えを見つけようとしていて、そして現在、どんな仮説を抱いているのだろうか。それが久遠の興味をそそる。

 そもそも、この三つの事柄を別々の事象と見るのか、それとも互いに関連性のある事柄と見るべきなのか。意見は分かれるかも知れないが、久遠自身は後者だと考えている。つまりこの三つの事柄は根っこの部分は、繋がっているのではないか。それが現時点での彼女が抱いている感触だった。

 勿論、三つを別々の事柄だと見ることもできる。
 例えば、良が綾に過剰な責任感を抱くに至った理由として二人の境遇が原因とも考えられる。良と綾は両親を二人とも、事故で同時に失ってしまっている。なら、残された妹に対して、兄が責任感を抱くのは自然なことの様にも思える。そして、その逆もまた然り、だ。つまりこの場合、二つ目の綾の魔力交換不全症は、一つ目と三つ目の事柄とは本質的には無関係と考えることができる。
 この場合でも、二つ目の問題が問題をややこしくしている事には変わりはない。魔力交換の件がなければ、良が綾の思いを受け入れないという可能性は上がるだろうし、良の綾に対する責任感も多少は薄らぐだろう。そういう意味では、綾の魔力交換不全は神崎兄妹にとって大きな問題になっている。ただし、繰り返しになるが、この場合には綾の魔力交換の問題は、あくまで状況を複雑化させている要因ではあるが、神崎兄妹を巡る問題の本質ではない、という考え方になる。つまるところ、綾の魔力交換不全症が完治しても、神崎兄妹の問題は解決されない、ということだ。

 しかし、果たしてそうなのだろうか。そう自問する久遠には、やはり三つの事柄の根本が繋がっているように思えてならなかった。
 そもそも魔法使いの精神状態と、魔力の状態は深い相関性があるとされている。なら、綾が良としか魔力交換が出来ないという事実は、二人の精神が固く繋がっていることを示唆している。つまり、綾と良の魔力・精神のつながりが先にあって、二人の心情の変化はそれに伴って生じているものだ、という考え方もできるのだ。この場合、神崎兄妹の問題の本質は良と綾の魔力交換の関係であり、それさえ解決してしまえば結果として他の問題も解決できるという事になる。
 つまり、良と綾の互いを思う感情が、魔力の状態によって付随的に引き起こされているという考え方だ。この場合、綾の魔力交換不全症さえ完治してしまえば……二人の兄妹の間に横たわる問題は自ずと解決される。魔力の状態が人の心の形を定義しているというこの考え方はレンや龍也は嫌うだろう。しかし、久遠は最近、こちらの考え方の方が可能性を捨てきれないでいる。魔力的な疾患が、精神的な疾患を引き起こすという事例は過去に幾度も報告されているのだから。つまり、最優先で考えるべきは、二番目の問題……綾の魔力不全症の原因ということになる。

(そうなると、やっぱり、あの時に何かが起こったのかが問題だと思うんだけどねー)
 あの時、とは良と綾の二人が両親を失った事故のことだった。それが綾の症状に関係があるのではないかという思いが久遠にはある。
 そう考えるようになった切っ掛けは、先日の蓮香との会話にあった。先日、レンは綾が世界樹の雨を嫌う理由を「幼児体験」と答えた。あの時、蓮香はそれ以上の台詞を言わなかったし、久遠もそれ以上の説明を求めなかったが、久遠には「幼児体験」という言葉だけで綾が世界樹の雨を嫌う理由を察することができた。おそらく、神崎誠司と美弥の二人、良と綾の両親が事故で死んだあの日、空には世界樹の雨が舞っていたのだろうと。
 ならば、その時に起こった「何か」に今の綾の状況を引き起こしているのではないか。久遠には、そう思えてならない。もっとも根拠としてはまだ薄く、ただの直感と言われればそれまでだが。

「……やっぱり、少し思考が飛躍しているかしらね」
「久遠先生?」
「あ、何でもないわよ」
 龍也の声に、思考に沈んでいた意識を引き戻して久遠は微笑んで見せた。そして考えを隠すように明るい口調で言葉を紡ぐ。

「こんなことなら良君にもっと早く会っておけばよかったなあ、って、そう思ってただけ。美弥とももう少し仲良くしとくんだったわねー。反省反省」
「美弥……さんって、良のお母さんの名前ですよね?」
「そうよ。良君からは聞いてない?」
「……はい」
「そう。ま、普通は親の名前を友達に話したりはしないわよね」
 一瞬、龍也が寂しげに視線をふせたのに気付かないふりをして、久遠は笑って言葉を続けた。

「神崎美弥っていうのは良君と綾ちゃんの母親で、レンの妹。そして、二人のお父さんの名前が神埼誠司」
「美弥さんと、誠司さん、ですね」
「そうそう。ついでにいえば誠司は、美弥とレンの幼なじみ。レンに言わせれば、バカップルだったらしいわよ」
 苦笑に肩をすくめてから、久遠は過去を手繰るように視線を宙に向ける。

「二人とも東ユグドラシル魔法院の卒業生。で、二人して生徒会役員なんてやっていた優等生よ」
「生徒会ですか」
「そういえば綾ちゃんも生徒会に入っているのよね?」
「はい。親子続けてってことですよね」
 なんだか龍也は納得したように頷いている。確かに綾の優等生的な一面は、遠い日の美弥を思い出させる。そういう点においては、綾は少なくとも蓮香より、実の母親に似ているのだろうと久遠も頷いた。

「まあ、ともかく、そういう訳だから、その二人とはあまり関わりが無かったのよねー、私」
「? どうしてですか?」
「だって、「魔女」なんて呼ばれていた蓮香とつるんでたんだもの。生徒会だの風紀委員だのとは、お近づきにならないようにしてたのよ」
 そう言ってから、久遠は少し肩をすくめて笑った。そんな彼女の笑顔に、龍也はやや不思議そうに小首を傾げて問い掛ける。

「あの……神崎先生が「魔女」って呼ばれて居たのって本当なんですか」
「うん、本当。東ユグドラシルの魔女、っていうのが学生自体の蓮香のあだ名よ。ま、実際はそんな仰々しいあだ名じゃなくて、単に「悪い方の神崎」って言う方が多かったけどね」
「悪い方の神崎って……あんまり悪く聞こえませんね」
 久遠の言葉に、龍也は優しく微笑むように笑った。彼にとって見れば、神崎蓮香という魔法使いは「良い教師」なのである。その前提が頭にあるのなら、「魔女」と言われても悪戯が好きな魔法使い、ぐらいの印象しか抱かないのかもしれない。そんな龍也の様子に、久遠は「ふふん」と鼻を鳴らして肩をすくめた。

「龍也君。君に良い言葉を教えてあげる」
「な、なんでしょう」
「若気の至りって言葉よ。いつか、振り返ってみて頭を抱えたくなるような過去が誰にだってある訳よ」
「それは……そうかもしれませんけど」
 少し歯切れの悪い返事。龍也の過去にもあるいは何かあったのかもしれない。そんなことを感じ取った久遠だったが、彼女がその点に突っ込むよりも早く、龍也が口を開いた。

「あの、じゃあ、良のお母さんは、「良い方の神崎」って呼ばれてたんですか?」
「そうよ。魔女に対する聖女。悪い方に対して良い方。まあ蓮香への当てつけの意味があったことを差し引いても、実際に良い子だったわよ……多分、ね」
「多分、ですか?」
「まあ、そこはやっぱり蓮香の妹だから。きつい所もあったしね。私も随分と目をつけられてたから、あはは」
「きつい所もって……ひょっとして、今の会長さんみたいな人だったんでしょうか」
「んー。セリアちゃんとはちょっと違うわね。もうちょっと雰囲気を丸くした感じかなー。例えるならそうね。大福みたいな感じ」
「だ、大福……?」
「あ、違った。それは悪口だった」
 思わず学生自体の悪態が口を付いちゃったと、久遠は小さく舌を出して笑った。

「正しくはマシュマロ」
「それなら……大分、かわいい印象ですね」
「そうでしょ? おっぱいもおっきかったしねー」
「おっ……、って、せ、先生?!」
「あはは。まあ、私と蓮香は、鉄球入りマシュマロとか、マシュマロただし激辛味とか言ってたけども」
「あの……それも悪口ですよね?」
「まあ、私と彼女はそういう関係だったってこと。あ、でも別に嫌いだったわけじゃないわよ?」
「それは、なんとなくわかります。でも、神崎先生と、良のお母さんはいつも喧嘩してたんですね」
「喧嘩していたというか、じゃれていたというか。間に入っている誠司君が苦労していたみたいよ」
 神崎誠司。蓮香と美弥の幼なじみであり、神崎家に婿入りした魔法使い。その名前を聞いて、不意に龍也が表情を変えた。

「あの、お二人は……」
「うん?」
「……」
 躊躇うような沈黙。その沈黙を振り払うように、一度、首を振ってから龍也は意を決したように久遠の目を見つめ、聞いた。

「お二人は……、良のご両親は、どうして亡くなったんですか?」
「……蓮香や良君は、その時の事、話してはくれていないのよね?」
「はい」
「あなたの方から尋ねたこともないのね?」
「はい。僕の方から聞くべきじゃないとは思ったので」
「そう」
 軽く頷いて久遠は、龍也の顔に浮かぶ感情を見る。聞くべきじゃない、と判断したその過去に、今こうして触れようとしているのは、どういう心境の変化だろうか、と。あるいは彼も―――久遠と同じように、今の良と綾の状況を生みだしている原因を、その過去に求めようとしているのだろうか。
 そんな考えを巡らせながら、久遠は答えではなく、別の問いかけを投げかける。

「怖くない?」
「何が、ですか?」
「そういう話を嗅ぎまわっていたら、ひょっとしたら良君に嫌われてしまうかもしれないって」
「……それは」
 わざわざ言葉にするまでもなく、そんなことは龍也は自覚しているだろう。それを殊更に言葉にしたのは、久遠自身もあまりその話題には触れたくなかったからなのかもしれない。
 だけど、そんな久遠の意図を、龍也は十二分にくみ取って。

「少し、怖いです。でも―――、知りたいんです」
 それでも頷く瞳には、言葉通りの恐れと、そしてそれ以上の決意が滲んでいるように見えた。

「そう」
 そこにあるのは、友情なのか、それともそれ以上の感情なのか。
 久遠自身は本当に同性愛に対して抵抗を持っていないので、龍也が良に性差を超えた感情を持っていても別段、偏見はもたないが、果たして龍也の抱く感情はなんなのだろうか。
 その疑問に答えを持たないまま、それでも久遠は龍也の視線に応じるように頷いて、口を開いた。

「事故自体は、特別なものじゃなかったのよ」
 嫌われるかもしれない。そんなことを覚悟してまで踏み込もうとしている彼に、応えるために。


/2.紅坂カウル

「主幹。今度はなにやらかしたんですか」
「うん?」
「これ警察から書類でしょう? いよいよお縄ですか」
「いきなり失礼だねえ、君は」
 紅坂カウルの研究室。書類と機材の中に埋もれるように作業に没頭していたカウルは、部下の挨拶代わりの暴言に、大きく伸びをしながら振り向いた。

「何の躊躇もなく上司を犯罪者のような目でみるもんじゃないよ」
「じゃあ、なにもやましいことはないんですか?」
「そんなのあるに決まってるじゃないか。足が着くようなことはやっていないって事だよ」
「相変わらずぎりぎりの発言を……」
 いったいどこまでが本気なのか。全く悪びれる様子もなく問題発言を繰り出す上司にため息をつきつつ、助手はカウルの机にお変えれている資料を指さして尋ねた。

「それで、何の資料なんですか、それ」
「んー? 事故の記録だよ。えーと何年前になるのかな。まあ、ともかく東第二展望台の事故の記録」
「東第二展望台って……どこにあるんです? それ」
「知らない? ああ、今は東ユグドラシル第二観測所って名前になってたかな、確か」
「あ、そこなら知ってます。昔は展望台だったんですね、あそこ」
「そうだよ。随分前に経営に行き詰まって、紅坂が買い取ったんだよ。市民の憩いの場所が、今じゃ紅坂の怪しい研究所に成り果てたってことだね。いやはや、金持ちのすることは浅ましいねえ」
「またそうやって悪態をつく……って、ひょっとして、これは紅坂傘下の研究所の古傷って奴ですか」
「古傷か。上手いこと言うね」
「別に上手いこといったつもりはないです。ただ、主幹」
「んー?」
「またキナ臭いことをやろうとしているんじゃないでしょうね」
「ははは、そんな訳ないじゃないか。この事故自体は紅坂が絡む前に起きたものだしね。助手君が心配しているようなことはないって」
 紅坂本家の魔法使いでありながら、本家に楯突くような真似を平然と、かつ再三にわたってやってきたカウルである。当然のことながら、彼を見る助手の視線には不信の念が充ち満ちていた。

「本当でしょうね」
「本当だってば」
「今度、何かやらかしたら予算止められますよ? 本気で」
「だから、なにもしないってば。きな臭い事なんて本当にないんだから」
「主幹がきな臭くないというほどに、きな臭く感じるんですけど」
「信用されてるなあ、僕」
「逆ですよ、逆!」
 諌める言葉に全く悪びれないカウルに、助手は諦めたようにため息をついて首を振る。

「それで、どんな事故があったんです?」
「気になる?」
「そりゃ、なりますよ。あの場所で起こったのなら、どちらにせよ、世界樹絡みですよね」
「うーん。まあね」
 東ユグドラシル第二観測所。世界樹に「近い場所」として、現在、紅坂の魔術師たちに利用されることが多い。その場所に関する事故と言えば、興味をそそられて当然だろう。少し失敗したな、と内心で息をつくカウルだったが、上司のそんな内心には気付かないまま助手の意識は事故の資料へと向いていた。

「見ても良いでしょうか」
「そんなに興味ある?」
「ええ」
「でも、駄目」
「……」
 殴りたい。その衝動を沈黙で押し殺す助手に、カウルは小さく笑いながら軽く手を振った。

「それ蓮香さんに頼まれた奴だからね。個人情報が絡むし、勝手に開けると後が怖いよ?」
「え? ひょっとして蓮香さん、今日、来られるんですか?!」
「来ないよ」
「何で来ないんですか!」
「何でって、君ねえ。わざわざご足労を願うまでもないでしょうが。もう資料の複製を送っちゃったよ」
「なんて余計なことを……っ!」
「……君は、割と気が多いねえ」
「だって、蓮香さんって素敵じゃないですか」
「まあ、綺麗な人ではあるけどね」
 熱っぽい息を吐く助手に、やや冷ややかな笑みを投げかけながら、カウルはやや意地の悪い質問を投げかける。

「それより君はセリアちゃんの信者じゃなかったの?」
「勿論です。ですが、蓮香さんも素敵です」
「臆面もなく言い切るなあ。まあ、そういうのは嫌いじゃないけどね」
 肩をすくめるカウルだったが、ふと何かに気づいたように「ああ」と大きく頷いた。

「なるほど。そうなのか」
「何を一人で納得してるんですか?」
「いやいや。要するに、君はきついの女性が好きなんだね」
「きつい?」
「サドっけのある女の子が好きなのかってこと」
「そんなことありませんよ」
「セリアちゃんや蓮香さんに、踏まれてみたいとは思う性癖なんだね。いやあ、知らなかったなあ」
「あのですね」
「なんなら頼んでみてあげても良いんだけど」
「……本当ですか?」
「嘘だよ」
 一瞬、助手の目に覗いた「本気」の光に、苦笑しつつ、カウルは手にした書類を軽く叩いた。

「ま、観測機器……ようするに望遠鏡の暴走の記録だよ。あまり気にすることもないさ」
「望遠鏡の?」
 拍子抜けした、と声の調子で示しながら、助手は軽く首を傾げる。

「なんだか思ったより地味な事故ですね」
「そうかなあ」
「主幹がわざわざ掘り返しているんだから、てっきり、もっとえげつない事故だと」
「……君は本当に遠慮がなくなってきたね。本当に蓮香さんに踏んでもらおうかなあ」
 冗談とも本音ともつかない口調でため息をつくと、話は終わり、とばかりにカウルは助手に向かって手を振った。

「ほらほら、いつまでも無駄話してないで仕事仕事。論文の締切りが近いんだから」
「そうですけど。でも、あとは実験機のデータを流しこめば大体終りますから―――」
「ちなみに実験室の魔力成形機が、警報音だしてたよ?」
「マジですか?!」
「ああ、そう言えば火を吹いてたかもしれないね。あれ、耐熱性だっけ? 中身はどうなってるのかなあ」
「ええええ?! さらっと、とんでもないことを言わないでくださいよ!?」
 悲鳴を上げながら、部屋を飛び出していく助手を視界の端にとらえて、カウルは「若いって良いなあ」などと嘯きながら肩をすくめた。
 実際、実験装置は異常停止しただけで、火など吹いてはいない。大方、入力変数の設定ミスでもしたのだろう。あまり慌てるような事態ではないのだが、殊更、大げさに不安を煽ってやったのは、ただ人払いをしたかったからだ。

「……思ったよりも地味な事故、か」
 助手が口にした何気ない一言。事情を知らない彼には悪気など何もなかったのだとわかっている。それでも、その言葉を繰り返すカウルの表情には、隠しきれ無い苦い感情が浮かぶ。

「まあ、実際、そうなんだけども」
 実際、視覚的な意味で言えば確かに地味な事故ではあったのだろう。施設が全体が吹き飛ぶような大規模な事故だったわけでもなし、爆発が生じたという記録も残ってはいない。ただ……それでも、その事故において二人が命を落としていた。
 世界樹を観測するための望遠鏡。そこに込められた魔力が暴走し、まさに望遠鏡を使用していた見学者たちに流れ込み、その魔力構造をズタズタに破壊したのだ。魔力、という観点だけでみるのならば、それこそ爆発事故と言っても間違いではない。ある意味、凄惨な事故とも言えた。
 普段のカウルなら、それでも「お気の毒だね。運が悪かったね」と飄々と嘯いていたかもしれない。ただ、その事故の記録に記されている犠牲者の名前が、彼にそんな軽口を叩かせてはくれなかった。

「誠司君と、美弥さん……まさか、死んじゃってたなんてねえ」
 つぶやきと共に、過ぎ去った学生時代の記憶がカウルの脳裏に浮かび上がる。
 色あせた記録と、色褪せない記憶。事故の犠牲者である神崎誠司と、神崎美弥の二人の名前は、色褪せない記憶の中にあった。

 紅坂カウルは、友人と言える友人は作らない。
 それは今も昔も変わらない。けれど、それでも神崎姉妹と、そして神崎誠司だけは、カウルが本心を垣間見せることができた数少ない人間だったのだ。

「誠司君。いい奴だったんだけどなあ……」
 出会う人に鮮烈な印象を残した蓮香と美弥の神崎姉妹。いつも、その側に居たおかげで、目立たないという評価を受ける青年だったけれども、カウルは彼の印象を忘れられなかった。控えめな笑顔が似合う、誠実で、そして公正であろうと心がけていた青年。好青年、という形容がもっとも彼に似つかわしいようにも思う。
 魔法使いとしての才能は神崎姉妹や紅坂カウルには及ばなかったものの、それでも、その人柄にはカウルですら好ましいものを抱いていた。
 
 友達だったというつもりはない。
 事実、卒業後は連絡をとるどころか、その消息さえ知ろうとはしていなかった。遊園地での転落事故をきっかけに蓮香と再会しなければ、ひょっとしたら、カウルは生涯、二人の死を知らずに過ごしていたかもしれない。それでも……過去の記憶を辿るカウルの目元に、隠しきれない寂寥がはっきりとした滲む。

「まさか展望台で死んだなんてね」
 どんな場所であれ事故や災害はつきものだ。生きている限り、災厄に出会う可能性は零にはならない。勿論、その可能性を下げることはできるが、それでも零にはならない。そんなことは百も承知だが、それでもカウルのように実験設備に挟まれて生きている人間よりも先に、平和でのどかなはずの娯楽施設で、あの二人が命を落としたことに、不条理を感じずには居られなかった。当たり前の幸せ、なんていう陳腐な言葉は好きではなかったが、あの青年は、きっと当たり前の幸せを気づいて生きているのだとばかり、カウルは思い込んでいたのだから。

「まあ誠司君らしいと言えば、らしいのかもなあ」
 少なくとも、紅坂の研究所のような、きな臭い場所で埋もれて死ぬよりも、見晴らし良い展望台で空に召される方があの穏やかな青年には似合っているだろう。
 胸にうずくそんな感傷的な想いを振り切るように、カウルは軽く頭を振って、殊更、飄々とした口調でそう笑って見せた。どこかまだ引きつった笑顔。そのことを自覚しながら、カウルは意識を感傷の沼から引き上げて、思索の海へと放り投げる。

「しかし、まあ、我ながら不注意だね。あの観測所には何度も行っていたのに」
 あの観測所、とカウルが口にしたのは、東ユグドラシル第二観測所のことであり、彼が助手に教えたように、かつては。東第二展望台と呼ばれていた場所である。
 展望台として機能していた時代には、単に見晴らしの良さ故に選ばれた。その場所が世界樹の魔力の影響をうけやすい場所だと知られるようになったのは、紅坂の買収が行われた後のことになる。より正確に言うのならば、「ある事故」が起きたおかげて、その展望台が世界樹の観測所として適していると判断された。ある事故、とは今更言うまでもない。東第二展望台で、神崎夫妻が命を落とした事故のことだ。

 東第二展望台での望遠鏡暴走事故。その事故原因の特定は難航し、事故の発生から一年を超える時間が費やされた。
 結論から言うのならば、事故の原因は、その立地と世界樹の相関性を測定できなかったことにある。元々、世界樹の姿を視認しやすい、という理由で展望台として選ばれた場所ではあったが、その場所は特定の条件下で世界樹からの魔力を異常増幅することが、研究の結果判明したのだ。
 件の望遠鏡暴走事故も、その異常増幅が招いたものだ。雲の彼方に浮かぶ世界樹の姿を捉えて拡大する望遠鏡。当時としては最先端に近い技術と術式を導入してはいたものの、その装置が含有していた魔力の量は決して多くはない。少なくとも、装置の魔力が周辺の魔法使いに流れ込んで、その人達の魔力構造をバラバラにするような事態を引き起こすなんてことは誰も予想できなかったほどに。
 故に「異常増幅」の現象が実際に確認されるまで、事故原因の追求は迷走を繰り返していた。カウルが手にした事故資料からも、当時の調査委員たちの混迷具合を読み取ることができた。

「まあ、望遠鏡が爆発するなんて思わないよねえ、普通は」
 世界樹からの魔力が異常増幅を引き起こす場所。現在では異常点、特異点あるいは接点(世界樹との接点との意味合いだろう)とも呼ばれる土地は、東ユグドラシル市には、二箇所あることが現在では確認されている。最も肝心の「特定の条件」は未だ、はっきりとは定義されていない。少なくとも世界樹の雨が条件の一つだろうと、思われている程度だ。だが世界樹の影響を受けやすい異常点を予測し、実際に世界樹の雨の際に、その場所での魔力増幅の有無を測定する技術は確立され、そして実用化されている。故に、望遠鏡暴走のような、安全と思われている装置が突如として魔力暴走を起こす、危険性は格段に減少したとされている。

 なお、異常点測定に関する基幹技術の確立を行ったのは「中央」に属する魔法使いだとされている。望遠鏡暴走事故の事故原因調査委員にも名前を連ねている人物だ。しかし、どうやら事実は異なるらしい。事故報告書から読み取れる調査委の迷走ぶりを見て、その魔法使いが異常点測定技術の確立をしたとは俄に信じがたかったカウルは、中央の知り合いに手を回してそのあたりの事情を探った。そして判明した事実といえば、実際に、その技術の殆どの部分を創り上げたのは中央ではなく東ユグドラシル魔法院の魔法使いであったらしい。それも事故後、中央から東ユグドラシルに移った魔法使い……つまり、東ユグドラシルの魔女、神崎蓮香その人が異常点測定に関する本当の功績者だというのだ。しかも、そのことは、中央の一部においてはほぼ公然の事実であるようだった。
 神崎蓮香が世界樹の異常点についてがいつから研究を行っていたのか。そして彼女はどうして自分の名前で研究成果を公表しなかったのか。そこまではカウルは知らない。あるいは、調べればわかることなのかもしれないが、そこまでカウルは踏むこむことをしなかった。本来、自身の興味のためならば、他人の都合を無視する傾向にあるカウルだが、やはりこの件に関しては、そこまで無遠慮にはなれなかった。

「なんとなくは想像付くけどね。蓮香さん、あれで感傷家だからなあ」
 蓮香本人の前では口が裂けても言えないような感想を口にして、カウルは小さく笑った。おそらくは、それが彼女なりの供養だったのだろう。妹夫妻が命を落とした事故が二度と繰り返されないようにと願い、作り上げた技術。そこに自分の名前を刻まなかったことに、それは自分のものじゃなくて、二人に捧げたものだ、という意図があるように思えてならなかった。ただの想像にしか過ぎないその考えが果たして当たっているのか、外れているのか。それを確かめる機会は生涯無いだろうな、と肩をすくめてカウルは表情を引き締めた。

「しかし、事故の原因はそれで良いとしても……色々と積み残しがあるなあ、この報告書」
 事故の原因は報告されている。それが正しいのかはともかく、ある程度、納得できる報告書ではあると、カウルにも思えた。確かに、異常点における魔力の異常増幅を引き起こした条件は、未だ研究途中であるものの、しかし、この事故自体が世界樹の魔力が引き起こしたある種の天災であったという結論には、カウルも納得するところではある。実際、望遠鏡のような装置に含まれている魔力が暴走するほどに増幅する理由として現状では、異常点に設置されていたということ以外の理由がない。しかし、この報告書が見落としている点がある。それは事故が起きた理由ではなく、二人の子供が生き残ることが出来た理由だった。

 勿論、その点について報告書に記載がないわけではない。報告書では、両親がとっさに二人の子供をかばったことが、その子の命を救ったと記載されている。事実、誠司と美弥の二人が子供をかばった痕跡は残っており、本来、子供達の魔力構造を破壊してしまうはずだった魔力の相当数が両親の体に流れ込んだことが事実として確認されている。両親の献身的な行為。それこそが子供たちの命を救った。そう言われれば、誰もが素直に納得してしまいそうだが、しかし、カウルは素直でも純粋でもない。
 誰もが予想もしていなかった、望遠鏡という安全なはずの装置の暴走。そんな事故が起きた瞬間に、本当に神崎誠司と美弥の二人は、咄嗟に子供を救うことなどで来たのだろうか。

「蓮香さんは、納得しているのかな」
 自身のその呟きに、しかし、カウルは「いや」と首を振った。この件に関して、神崎蓮香が冷静な判断をできていたという保証はない。
 最愛とも呼べる妹と、幼なじみでもあった義兄を同時に失った。その後には、残された子供たちを引きとって、慣れない母としての生活が始め、そして、その傍らでは望遠鏡の暴走原因をつきとめることまで行っていたのだ。いくらユグドラシルの魔女とは言え、当時、この件に対して果たしてどこまで冷静だったのかは疑問だった。
 あるいは本当に、彼女も二人の子どもが助かったのは、両親の決死の行為のおかげだ、と思っているのかもしれない。そう思うことは、感傷的ではあるのだろうが、少なくとも遺された人達の心にほんの少しの救いを生むだろう。それを理解しながら、しかし、カウルは「それでも」と首を横に振った。

「僕としては、この子が生きているのが信じられないんだけどねえ……」
 深い息を付きながら、カウルは報告書の内容を頭の中に展開する。確認するのは、事故が発生した際の被害者と望遠鏡の位置関係だ。二人の子供のうち、一人が望遠鏡を覗き込み、両親がその両脇になっている。最後の一人は、三人の背後で、次の順番を待っている、という体制だ。これが事故が発生したときの被害者たちの位置関係である。この状況で事故が起きて、子どもが助かったという結果を、やはりカウルは俄には信じられないでいた。
 実際に物理的な爆発事故が発生したわけではない。ただ、先にも述べたように魔力言う観点からみれば、爆発に等しいことが発生したのだ。これを爆弾などの爆発事故に置き換えて考えてみる。確かに、事故の瞬間、両親が異常に気づいて子供を身を呈して守ることはあり得るし、可能とも考えられる。しかし、それは「望遠鏡を覗いていない子」に対してのみだ。その時、望遠鏡を覗いていたもう一人の子供は、いわば、爆心地にいたのだ。爆発の瞬間、いくら両親が庇おうとしたところで、助けることなどできるのだろうか。いくら、東ユグドラシルの聖女といわれた神崎美弥であっても、それは不可能だというのがカウルの見解である。

 そう。何度考えても、何度検証しても。
 事故が起きた、その瞬間。まさにその望遠鏡を覗き込んでいた「神崎綾」という少女が、その生命を落とさずに済んだ理由は、紅坂の魔法使いの理解を越えて、未だ届かない。

 そして、その「届かない」という事実が、紅坂カウルにひとつの仮説を生み出させていた、


/3.神崎蓮香

 ピシリ。不意にそんな乾いた音が蓮香の耳に届いた。その音に視線を向けると、コーヒーカップが真っ二つに割れて倒れている。

「ん?」
 その不自然さと唐突さに、蓮香は眉をしかめて辺りを見回したが、特に不審なものは見あたらない。幸いにして中身は空だったので、机や書類が汚れることはなかったが、怪訝さに首を傾げながら蓮香は割れた欠片に手を伸ばした。

「……ああ、随分と古くなっていたから、寿命なのかな」
 そう言いながら、彼女は少し淋しげに目を細めた。白い陶器のコーヒーカップ。彼女の妹が、いつかの誕生日に送ってくれたものだった。中等部に入る前の話だから、もう随分と昔のことになる。子供のお小遣いで買ったものだから安物でもあったが、蓮香がずっと好んで使い続けている品だった。

「うん、大丈夫。この程度なら」
 直せる、と割れた断面を見ながら蓮香は安堵の息を付く。粉々に砕けたのならともかく、綺麗に割れたものならば魔法で修理することはそれほど難しくない。実際、過去に不注意で落としてしまった時にも、蓮香は魔法で直したことがあった。あとで修理しておこうと頷いてから、蓮香は割れた陶器を一所に重ねた。
 カチャリ、と乾いた音が、人気のない研究室の中で響いて消える。そんな音に、一瞬だけ目を伏せてから蓮香は小さく笑ってみせた。

「しかし、美弥のカップがいきなり割れるとは何かの予兆かな。不吉な知らせじゃなければいいが」
 綾の奴、また良を困らせてるんじゃないだろうなあ、と、蓮香が冗談交じりにつぶやいたその言葉は、しかし、そう大きくは外れていなかった。なにしろ同時刻、綾は良に、つまりは実の兄に思いを告げている真っ最中だったのだから。
 しかし、まさか本当に、そんな「不吉な」事態になっているとは知らない蓮香は、良と綾から離れた場所、つまり久遠達と同様に東ユグドラシル魔法院にいた。場所は彼女自身に与えられている研究室の一室。魔法の明かりで照らされた室内で、魔法によって記録された膨大な量の記述を読み取りながら、彼女は思索を巡らせていたのだった。

「……さて」
 意識を切り替えるように呟いてから、彼女は手にした書類に意識を戻す。
 彼女が目を通しているのは、旧知の仲である紅坂カウルから送られてきた二種類の報告書だった。ひとつは、件の遊園地での事故に関する報告書。紅坂研究所が綾を診察した際のデータと、カウルなりに綾の魔力交換不全症の原因について解析した結果が記されている。そしてもう一つは、彼女がカウルに取り寄せるように頼んでいた展望台事故の記録だった。

 一つ目の報告書で、カウルが綾の病状について考察した結果は、結論から言えば「原因不明」。それは今まで、蓮香や魔法院の研究者達が下した結論と変わりない。ただ一点異なるのは、ある仮説を記述している点だろう。最も、その仮説についてはカウル自身が「現時点ではただの推測の域、あるいは空想の域を出ないものではあるが」と前置きした上で記載されている。

「空想ね」
 確かに彼自身が言うように、彼の仮説は学会に提出したのなら一笑に付される類のものに思えた。事実、蓮香自身も考察に値しないものとして読み捨てただろう。そう、もし彼女が仮説に示されている「世界樹に連なる魔法使い」が、実在すると言うことを知らなければ。
 実際の所、蓮香自身、カウルの言うように、紅坂セリアが本当に「世界樹に連なる魔法使い」と呼ばれる存在なのかどうか、確証を得てはいない。しかし、カウル自身がセリアをその類の存在だと見なしていることは知っている。だから、カウルの仮説を考察に値しないと、笑い飛ばすことは出来なかった。
 紅坂カウル。人間としてはかなりいい加減で、素直に信用することは難しい人物ではあるが、魔法使いとしての才能は突出しており、その見識を無視することは蓮香には難しかったのだ。加えて、カウルは綾の病状は、例の望遠鏡暴走事故に起因しているのではないかと推測している。この点は、実のところ蓮香が最近考え始めていた仮説と類似性があった。

「類似性、か。紅坂先輩と同じ結論にいたって光栄です、とでも言わないといけないのかな」
 そう嘯きながら、蓮香は今度はもう一つの報告書を手に取った。かつて何度も何度も読み直したはずの、彼女が最愛の妹と幼なじみを失った事故の記録。だが、今手にしている資料は、その後判明した事実、事故現場の現状など新たに判明している情報も記載されているものだった。
 魔力によって情報が記載された報告書は、厚みも重さも殆ど無い。なのに手にした感触はひどく重く、蓮香は知らず陰鬱な息をこぼす。

「……今更、またこの事故に触れることになるは思わなかったけどな」
 本音を言うのなら、蓮香はもうこの件には触れたくないと思っていた。
 神崎美弥と神崎誠司。その二人が命を落とした事故は、蓮香の心に拭いようのない傷跡を残したが、しかし、それでも蓮香の中ではその事故はもう終わったものだったからだ。

 事故が起きた理由は掴んだ。もう二度と、あの事故を起させないための仕組みも組み立てた。
 だから、もう、それで良かった。だから、もう、それで良いと自分自身を納得させた。喪った悲しみが癒えた訳じゃない。不条理への怒りが消えた訳じゃない。だけど、いつまでも、それに浸っていられなかった。あの時、奇跡的に助かった二つの命に。誠司と美弥の二人が自身を省みずに守りきった子供たちに、悲しみと怒りに溺れている姿なんて見せるわけにはいかなかったから。だから、蓮香は前を向いた。あるいは……二人の子どもがいたからこそ、前を向くことができたのかもしれない。

 そう。だから、これは終わったはずの過去。もう目にすることはないと、手を引いたはずの過去。
 なのに、蓮香が自らこの事件に関する情報を集め始めたのは、神崎良と紅坂セリアが魔力交換を行った際の出来事が切っ掛けだった。正確には、その際に良とセリアが見たという夢の光景が原因だと言うべきなのかもしれない。
 良とセリアが魔力交換の際に見たという世界樹の葉が舞い散る光景。それは世界樹の雨の光景そのものだ。この世界に住む魔法使いであるのならば、何度となく目にする光景であり、それを夢で見ることは不思議でも何でもない。だが、それが「良とセリア」との魔力交換で生じた夢だという点が蓮香にはひどく気にかかり、そして蓮香の心の端に引っかかっていた疑問を思い起こさせたのだ。

 その疑問とは、カウルと同じく二人の子供が助かった理由……では、なかった。
 確かに、あの事件にまつわる大きな疑問の一つではあったが、『死んだ二人が身を挺して二人の子供をかばったおかげ』という結論に、蓮香は異を唱えるつもりは毛頭なかった。例え感傷的と誹られても、大切なものを喪った彼女には、その説明が最も真実に近い物と思えたのだ。だからこそ、彼女は事故の発生理由の特定に全力を上げたのだ。

 故に、彼女が気に止めていたのは別の疑問だった。それは綾が世界樹の雨に対して恐怖感を抱くようになった理由についてだ。
 綾が両親を失うことになった望遠鏡暴走事故は、世界樹の雨が降った日に起こった。その事実が綾の心にトラウマとして刻まれたものだと、蓮香も綾を診断した医師も考えていた。両親を失った事故で、気を失うまでの僅かな間に世界樹の雨を目にしたからこそ、トラウマとして綾の心にその風景が刻まれたのだろう、と。だが、その考えが正しいのかどうか。実は、昔から蓮香にはひっかかる点があった。わざわざカウルから事故に関する最新の情報を取り寄せたのは、まず、その疑問を確認するためだったのだが。

「やっぱり、世界樹の雨が観測されたのは、事故の後、か」
 重い声と同時に、蓮香は深く息をついた。彼女が確認したのは、事故の当日、世界樹の雨が観測された時刻だ。
 わずか数分の差ではあるが、世界樹の雨の観測時刻は、望遠鏡事故の発生時刻よりもわずかに「遅い」。事故当時は、観測誤差の範疇だろうと考えられていたが、現在の紅坂研究所の分析技術を使用してもなお、世界樹の雨の観測は、事故よりも後だと結論づけられている。
 最も、この情報自体は、異常点における魔力の異常増幅の条件に世界樹の雨が絡んでいることに矛盾はしない。世界樹の魔力の影響が「世界樹の雨」という形で結晶化され、周囲の魔法使いに視認されるより、異常点に対して作用する方が僅かに早いためだ。故に、事故の発生に関して言えば矛盾は生じない。だが、綾のトラウマに関しては話が違ってくる。綾はあの事故の直後から、二日間の無意識状態にあった。つまり、あの事故の時、綾は世界樹の雨を実際には目にしていないことになる。事故後の聞き取りでも、綾は「世界樹の雨を見た」と証言しており、その証言とも矛盾する。

 なら、綾は「どこで」世界樹の葉を見たことになるのか。その事実を突きつけられて、蓮香は再びため息を零す。

「気にし過ぎなのかもしれないが……」
 あるいは、それは気に止める必要のないことなのかもしれない。事故の瞬間に意識はなくとも、視力だけがその光景を捉えていたのかもしれない。あるいは、世界樹の雨の魔力自体を感じ取ってしまっていたのかもしれない。後に事故が世界樹の雨の日に起きたという事実を知って苦手意識を抱くようになったという可能性もある。綾の証言についても、記憶の混乱によって引き起こされたものだと考えることはできる。実際に当時は、そのように判断されたのだ。
 だから、理由はいくらでも付けられる。だけど、もし、と蓮香は思考を巡らせた。

 もし、本当に事故の時、綾が世界樹の雨を見ていたのなら―――。

「……世界樹のある光景か」
 呟く蓮香の脳裏には、良がセリアと魔力交換した際に見たという景色が重なっていた。

 /

 神崎夫妻が命を落とした望遠鏡の暴走事故。
 魔力交換の果てに世界樹のある風景を見たという魔力交換。
 そして、そもそも「世界樹に連なる魔法使い」であるセリアに興味を抱かさせる原因となった天国への門での事故。

 そのいずれにも、一人の魔法使いが絡んでいると言うことに、神崎蓮香はもう気がついていた。

続く

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