0.朝(神崎綾)

 善は急げ。思い立ったが吉日。鉄は熱いうちに打て―――って、最後のはちょっと違うかも知れないけど。いつもより早く起床した私は、昨晩の覚悟が崩れてしまわないうちに一人で登校していた。

 兄さんと朝の挨拶もせずに、たった一人で登校するなんて、本当にいつ以来だろう。晴れ渡った朝の空気を、たった一人で吸い込みながら、私の頭にそんな思いがよぎった。去年までは中等部と高等部の違いはあったけれど、登校自体はいつも一緒にしていた。だから学年旅行の時などの年に数回在る例外を除けば、本当にいつも兄さんの隣にいたことになる。
 あの人の傍にいること。それは私にとって当たり前のことなんだなあ、って今更ながらに痛感する。極々当たり前で、そしてとても大切なこと。でも、その当たり前で大切なことを、今日、私は手放そうとして一人、道を歩いている。

『近すぎることが、女を感じさせない原因かも知れないよ』

 昨日の母さんの台詞が、頭の中で繰り返し響く。
 私にとって、そして兄さんにとっても、互いの傍にいることは当たり前すぎたから、胸に抱いた思いを伝える勇気が出なかった……のだろうか。もし、そうなら。本当にそれが二人の関係の進展を阻害していたとしたら……なんて皮肉なんだろう。

「運命って、残酷なんですね、兄さん」
 呟いた言葉に、胸が押しつぶされそうになる。本当に残酷だって、思う。母さんは「茨の道」だっていったけれど、本当にそうなのかも知れない。でも、だからって歩くのを躊躇うほど私の想いは弱くなんてない。
 だから、つらいけど。ものすごーく、辛いけど。というか、想像しただけで寂しさに目尻が熱くなってきたりもするけれど……っ!

「……兄さん。私、頑張りますね……っ!」
 そう、全ては私たちのバラ色の未来のために!
 茨の道を進んだ先には、きっと綺麗な花が咲いているはず。その覚悟を胸に、私は足早に魔法院への道を進むのだった。

 目指すは、高等部の生徒会室。金の校章が刻まれた、生徒達の憧れの場所に。


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  魔法使いたちの憂鬱

           第五話 兄離れと、妹離れ

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1.昼休み:前半戦(神崎良)

「綾ちゃんが生徒会に?」
「どうも、そうらしい」
 昼休み。いつものように中庭の一角で霧子と龍也と並んで弁当をつつきながら、俺は霧子の言葉に曖昧な表情で頷きを返した。
 話題になっているのは妹の綾のこと。俺が朝起きると既に綾の姿はなく、代わりにとばかりに「私、生徒会に入ります。探さないでください」なんて書き置きが朝の食卓に残されていたのだった。

 一体、昨晩の拒絶は何だったのか、……それに、探すなって言われても。お前が家に帰ったら兄は居るんですが、わかってるのか、妹よ。

「それとも生徒会に入ると寮に入らないといけないんだったか?」
「えーと、そんな規則は無かったと思うよ」
 龍也に確認すると、やっぱり否定の言葉が返ってくる。その返事に、自然と嫌な予感がむずむずと胸の中でわき起こった。
 優等生で通っている綾だけど、思い詰めると周りが見えなくなる嫌いがある。昨日の俺の言葉に反感を持っての、妙な暴走じゃなければ良いんだけど……置き手紙という行為といい、その文面と言い、どうにも妙なスイッチが入っている気がしてならない。
 そんな不安は顔に表れていたのか、ぽん、と俺の肩を叩いて、励ますように霧子が頷きながら口をひらいた。

「まあ、今日学校で止めに来るな、って事じゃないの? 変な心配しないでもいい、私のことは気にしないで……って」
「……そうかな」
 まあそう考えるのが妥当だろうか。霧子の言葉に頷きながらも、答えた声は我ながら今ひとつ歯切れが悪い。
 その俺の態度がなにかツボにはまったのか、龍也が笑いを堪えるように頬を引きつらせて口元を隠した。

「……なんだよ。何か面白かったか?」
「ご、ごめん。笑うつもりはなかったんだけどね。でも、良が綾ちゃんのこと気になって仕方ないみたいだから」
「そうそう。妹が心配で堪りませんって、顔に描いてあるよ。お兄ちゃん?」
「うるさい」
 龍也と霧子に二人そろって本心を見透かされたのが気恥ずかしくて、俺はふて腐れた声で二人から目を逸らす。そんな俺に二人は同時に溜息をついて、そして目を見合わせて笑いあったのが肩越しの気配でわかった。

「ホント仕方ないお兄ちゃんよね。自分で勧めておいて、いざその通りになろうとすると狼狽えるなんて」
「……う」
 痛いところを、付くなあ。
 いやいや、まさかこんなに綾が急に行動するとは思わなかった―――、というのはやっぱり言い訳に過ぎないんだろうか。勧めたのは俺だし、その勧め通りの結果になりそうだからと言って狼狽えるのは確かに情けない。

「まあ、良って昔からシスコンの傾向があるからね」
「……失礼な」
 言うに事欠いてシスコンとはなんだ、シスコンとは。
 霧子と龍也の呆れのこもった会話に、胸中で突っ込む声は我ながらちょっと勢いがない。シスコンと指さされれば違うと答えるのは常なのだが、「本当に違うのか?」と自問してしまうとちょっと自信が揺らいでしまうあたり、本当にどうにかしないといけないのかも知れない。

「せめて妹思いと言えよ、お前ら」
「妹思いねー。……うん、それは確かに良らしいかも」
 憮然としたまま振り向くと、霧子は愉しそうに俺の顔を覗き込んで笑った。その表情に邪気はなく、だから少しだけ毒気を抜かれて俺は肩をすくめて息をついた。

「まあ、狼狽えてるのは確かに情けないけどさ」
 しょうがないじゃないか。妹を心配するのは兄として当然の義務だろう。

「でも、良はどうするの?」
「どうするって、何が」
「だから、綾ちゃんのことだよ」
 放っておいていいの?、と訊きながら龍也は気遣わしげに少し表情を改めた。なんだかんだとからかいながら、それでも心配してくれる友人に、俺は小さく感謝しながら首を横に振った。

「放っておくも何も、本人の希望だからな」
 俺としては会長さんとの関係がもう少し改善してから、綾が生徒会に入る……みたいなステップが一番、無難かななんて思っていた。だけど、まあ、綾が本当に自分の意志で生徒会に入りたいと決めたんなら反対する理由は特にない。
 ……あくまで綾が「冷静に考えて」決めたのなら、だけど。

「それに、生徒会に入るのはあいつのためになると思うんだ」
「……ああ、なるほど」
 短い言葉だけで、俺の言いたいことを察したのか、龍也は感心したように頷いて手を打った。反面、「どういうこと?」と霧子は首をひねる。そんな彼女に説明するように龍也は指を振りながら言う。

「ほら、綾ちゃんって、今、良としか交換してないじゃないか。だから、会長さんみたいな……えーと、その……そう! 多少強引な人の傍にいるのは、意外と良いこと何じゃないのか、ってこと」
「ああ、そっか。なるほどねー」
 言葉を選びまくった龍也の説明に、霧子は納得しつつ手を打ち合わせた。
 そうなのだ。多少の不安があるものの、俺が綾に生徒会入りを勧めてみた最大の理由はそこにある。綾は俺に輪をかけて魔力交換の相手が少ない。というか、本当に俺一人としか魔力交換を行っていない。
 会長さんが昨日俺に食ってかかったように俺が綾を「独り占め」にしている、という訳じゃない。そんな制約をかけずとも、本当に今の綾は俺以外の魔法使いと魔力の交換ができないのだ。「しない」、のではなく、「できない」。魔法理論の理解、そしてその行使共に群を抜いているハズの綾が抱えた魔法使いとしての大きな、それは欠陥だった。
 その事情を知っている霧子は、うんうんと首を小さく振りながら腕を組む。

「なるほどねー。確かに会長さんなら、意外と上手く行くのかも……」
「そうなると良いんだけどな」
 綾が俺以外との魔力交換が出来ないのは体質的なものというよりも、性格的な原因が大きい、とレンさん以前が言っていたことがある。なら、きっかけさえあれば俺以外の誰かとも交換が出来るはずだし、そうなる方が生きていく上ではいろいろと好ましい。
 食事が出来ないときに点滴で栄養補給をするように、非常手段として、外部から魔力を強制的に摂取させる方法はある。あるにはあるのだが、あくまでも「非常手段」だ。その生活を一生続けていくことは、難しいとされている。
 ……縁起でもない考えだけど、もし俺に何かあったとき、綾を道連れにしてしまうようでは、向こうで父さんや母さんに顔向けができない。だから何とかしてやりたい、と考えるのは兄として当然だろう。

「確かに良としか交換「出来ない」んじゃ、いざというとき困るわよね」
「そうだね。うん、会長さんと上手くやれれば理想かも知れないね。あの人、魔力の扱いはとんでも無く上手いから」 
「そうね……って、あれ? そういえば」
 ふと何かを思いついたのか、霧子が小首を傾げて俺の顔を覗き見た。

「どうかしたか?」
「うん。綾ちゃんが良としか交換できないのは知ってたけど、そう言えば綾ちゃんと良が交換しているところって見たこと無いなーって」
「あ、僕もない」
「……えーと、そうだったっけ」
 二人の指摘に答えつつ、俺はなるべく自然に二人から逸らした。二人が見たことがない、というのは当たり前のことだ。……あんな体勢での魔力交換、人前で出来るわけ無いだろうが。
 普通、魔力交換は掌同士の接触、つまりは握手、という形で事足りる。が、当人同士の体質とか相性とかによっては、俺と綾みたいに変な姿勢での交換を余儀なくされるケースもあるのだ。そりゃ、あれは最早生活の一部であって、健康維持の為には必要な行為だから恥ずかしがるような事ではないとは理解はしている。しているののだけれど、流石に妹に首筋に口付けされる、なんて体勢を進んで人前でやろうなんて気は起こらない。

「まあ、家でしてるからな。わざわざ外でする必要もないからなあ」
「……」
「……」
 我ながら無難な返答で上手くお茶を濁した……と思ったのはつかの間。二人はなんだか不審げに目を細めた眼差しを俺の横顔に突き刺した。

「……なんだよ。その露骨な疑いの眼差しは」
「なんか誤魔化されてる気がするんだよね」
「うん。私もそう思う」
「今、露骨に目を逸らしたよね」
「うん。露骨に誤魔化そうとする雰囲気よね」
「……」
 こういう時は気があうな、お前ら。
 内心で突っ込みながら、さてどう答えた物か、と考えあぐねていると、ずい、と霧子が一歩踏み出して俺の顔を覗き見た。

「まさかとは思うけど、綾ちゃんに変な事してるんじゃないでしょうね」
「するか!」
 一瞬、どきり、と心臓がなったのを無視して俺は霧子に指を突きつける。

「さっきも言っただろ? これでも妹思いを心がけてるんだぞ?!」
「うん」
「知ってる」
 あっさりと俺の抗議を受け入れる霧子と龍也。が、未だに二人の視線からは疑いの色が消えていない。

「でも、やっぱりちょっとシスコン気味だからね。良は」
「というか、もうはっきりとシスコンじゃないの?」
「お前らな……」
 くそう、事実無根だと言い切れない自分が憎い。いや、感情としては事実無根なのだけど、変な体勢での魔力交換だという自覚があるので、やっぱり否定する言葉にどこか迫力が欠けるのだった。

「まあ、良を弄るのはこの変にしておくとして」
「お前な」
「良じゃないけど私もちょっと、心配かな」
 流石は会長に苦手意識を持つ女。俺の意図をくみ取っても、霧子はやはりどこか不安げに眉を曇らせた。

「ちょっと覗きにいこうか?」
「覗くって……、どうやって」
 まさか正面から生徒会に乗り込むとでも言うのか。そう言うと「違うわよ」笑った。

「正面から訪ねたら実態なんて分からないでしょ。そりゃ勿論、「透視」しかないじゃない」
「透視って、お前なあ」
 透視を実現する魔法はいくつかの種類がある。光の進み方をねじ曲げる方法、あるいは物の透過率を変えてしまう方法などなど。どの方法にしたって、なかなかに難易度は高く、思いっきり集中すればドア一枚を透視できるかどうか、と言ったところ。
 しかしながら、「できる」イコール「やっていい」訳では当然ながらないわけで。不用意な透視行為は歴とした犯罪になる。当然のことながら世の中には「透視」を防止する商品(マジックアイテム)が溢れているわけで、この学園の至る所にもその種の魔法行使に対する妨害装置は備えられているのだ。正直、成功する確率なんて万に一つもないだろう。
 そんな思考に俺が顔を顰めるのをみて、更に霧子は得意げに笑う。

「ふふん。まあ、良には無理でしょうねー」
「お前だって無理だろ? 基本、おおざっぱなんだから」
「失礼ね」
 不満げに眉を曇らせて、霧子は俺の額に軽く手刀で一撃を入れる。

「じゃあ、出来るのか?」
「できないけど」
「お前な」
「大丈夫。私たちには強い味方がいるじゃない。ね?」
「え?」
 言いながら霧子が向けた視線の先。そこにはキョトンと目を開いた龍也の顔があった。じっと固定された霧子の視線を浴びる内、呆けていた龍也の表情が次第に青ざめていく。

「ま、まさか、僕にやれって言ってるの?!」
「当然。あんた、その気になったら100メートル先まで覗けるって言ってたじゃない」
「や、やらないよ! そんなの犯罪じゃないか」
 霧子の指摘に、「できない」じゃなくて「やらない」と答える龍也を、俺は驚愕の思いで見つめた。というか100m先までって、それ既に上級魔法じゃないのか……? 常々、才能の差、と言う奴は実感していたけれど、こうまでレベルが違うとは。
 が、俺は友人の才能に、感嘆しているのを尻目に、もう一方の友人は、その才能の悪用を悪びれることなく求めていた。

「大丈夫、大丈夫。ばれなきゃ問題ないし」
「そういう問題じゃないじゃないよ!」
「いいじゃない。ちょっと見るだけだし」
「良くない」
 いくら押しに弱い龍也といえども、流石に犯罪まがいな行為は勘弁願いたいのか、霧子の言葉にも強硬に首を横に振る。

「むー。こんなに頼んでるのに」
「幾ら頼んでもだめだって。いくら霧子の頼みでも、やっちゃいけないことは―――」
「良の頼みなのに?」
「え?」
 龍也の台詞を遮ったのは、ぽつり、と呟くように零された霧子の言葉。その言葉に、龍也はぴたりと口を止め、途端、先程までの毅然とした口調から一転、狼狽えを含んだ口調になって口ごもる。

「だから、良の頼みなのに。それでも嫌?」
「え、う、それは……」
 霧子に指を突きつけられて、見事なまでに龍也は狼狽える。
 ……いや、本当。どこまで気が良いんだ、この男はと苦笑しながら俺は友人の肩を叩いた。

「いや、頼んでないから。しなくて良いぞ」
「そ、そう。良かった」
 ほっと安堵に胸をなで下ろす、龍也。どうやら頼みこんだら嫌々でもやってくれていたらしい。ああ、もう良い奴だな、こいつは。

「とにかくそういうのはダメだからな」
「ちえ。わかったわよ」
 流石に本気ではなかったのか、拗ねたように唇を尖らせながらも霧子の目元は笑っていた。
 まあ龍也の時だって、初日から強引に迫ったりしたわけではないらしいし、そんなに心配しなくても大丈夫……だろう、きっと。

「うん、僕も覗かなくても大丈夫だって思うよ」
 その龍也も、俺の考えに同調して、うんうん、と首を縦に振りたくった。

「会長さんもいきなり迫ったりしないだろうし。それに綾ちゃんなら大丈夫だよ。ほら、あの娘、僕と違って意志が強いから」
「あんたが流されやすいだけでしょ」
「うう、そういう言い方はないんじゃないかなあ……」
 透視の話はお仕舞い、とばかりに、龍也の気の弱さを弄り始めた霧子を横目に、俺は何となく中庭から空に向かって視線を投げた。
 視線の先、校舎を一つ突き抜けた先にあるのは、生徒会室のハズ。目に見えないその場所に、それでも視線を投げながら、何となくざわざわとする気持ちを抑えて、俺はこっそりと溜息をかみ殺していた。


2.昼休み:後半戦(速水龍也)

「ちょっとトイレ行ってくるから、先に行っててくれ」
 中庭から教室に戻る途中、僕と霧子に手を振ってから良は一人男子トイレの方へと足早に向かっていった。その背中を見送りってから、僕と霧子は自然と顔を見合わせて、軽い苦笑を交換した。

「……本当に綾ちゃんには弱いよね、あいつ」
「まあ……でも、それが良のいいところだよ。うん」
 強がってはいるけれど、綾ちゃんが気になってしかない。良の浮かない表情から、そんな気持ちがありありと読み取れたので、僕と霧子としては微笑まずには居られなかったのだ。
 良と知り合ったのが中等部の最初。思えば、その時からすでに綾ちゃんは良にべったりだったし、彼女を守らなくちゃ、という良の意識はその頃からずっと感じていたから、今日の良の反応は意外でも何でも無かったりする。正直、過保護だなあと思う部分もあるけれど、一人っ子の僕としては、正直ちょっと羨ましい。同じく、そんな綾ちゃんと良を見てきたハズの霧子は、苦笑を表情から消すと、今度はなんだか感慨深げに呟いた。

「でも、綾ちゃんの方はとうとう兄離れをするつもりになったのか。お姉さんは感慨深いなあ」
 うんうん、と頷きながら姉貴面をする霧子に、僕は苦笑を押し殺す。そんな僕の態度に気付いたのか、霧子はむっと表情を顰めた。

「何よ? おかしい」
「だって、綾ちゃんは中等部の頃から生徒会の手伝いとはちょくちょくやってたじゃないか。そんなに劇的な変化、って訳でもないんじゃない?」
「でも正式な役員じゃなかったでしょ? 部活だってそうだったし」
「まあね」
 確かに、それは霧子の指摘する通りだった。綾ちゃんの才能は一年生の中では突出しているし、お世辞無しに評価をするのなら魔法使いとしての実力は、良はもとより霧子より上だと思う。だから生徒会のみならず、魔法競技関連の部活からの勧誘も引く手数多だったはずだ。でも、彼女はいつだって手伝いはするけれど、正式な参加は避けていた。いつだってイレギュラー。それが綾ちゃんの立ち位置で、彼女がその立ち位置に身を置く理由はなんとなく分かってはいた。

「……ようするにあんたと似ているのよね、彼女も」
「う……それは言わないで欲しいなあ」
 僕の心を見透かしたように、霧子は軽い揶揄の表情を浮かべて肩をすくめる。
 綾ちゃんの理由。
 多分それは、行動の優先順位を良に置き続けたいからだろうって、そう思っている。そして、霧子が指摘したとおり、僕も又、綾ちゃんと同じように、親友の役に立ちたいから、特定の組織に縛られるようなことは極力避けるようにしてきたのだ。

「そう考えるとやっぱり兄離れするのかな。この時期に自分から行くってことは正メンバー志望だろうし……」
「ね? そう思うでしょ?」
 頷く霧子の声は、綾ちゃんの変化を喜ぶように弾む。でも、その中に少しだけ安堵めいた響きが聞き取れた、と思うのは僕の考えすぎだろうか。

「? どうかした?」
「あ、うん。ただ、あの様子だと良の方がまだまだ妹離れできていないかな、って」
「シスコンだしねー」
 苦笑する霧子に頷きながら、一つの疑問が頭の中に浮かぶ。
 やっぱり、綾ちゃんの行動は兄離れのための行動なんかじゃないんじゃないか、ってそういう疑問。正直、綾ちゃんとの付き合いは深い訳じゃない。良と行動を共にしている関係上、接触する機会は多いけど、それでも一対一で向き合ったことは数えるほども無いと思う。
 でも、なんとなく直感はあった。それは今回の行動が「良の気を引くための物じゃないのか」っていう直感。あるいはそう思ってしまうのは、僕の邪推なんだろうか。

「……よし」
 僕が考えにふけっていた間、同じく霧子も何かの思索にふけっていたらしい。不意に、ぱん、と手を打ち合わせると同時に、彼女は顔を上げ、その目に決意めいた感情をひらめかせていた。

「決めた。私、決めたわよ」
 ……一体何を決めたというのだろう。こういう時の霧子には近寄らない方が無難なんだけどなあ。
 良は綾ちゃんのことを「時々、暴走することがある」と揶揄することがあるけれど、暴走する度合いなら霧子だって負けては居ないんじゃないかなあ、って思う。面と向かって言うと殴られるから言わないけど。

「それで、何を決めたの?」
 出来れば関わらない方がいい、と思いながらも、話の文脈上、まず間違いなく良に関わることだろうと分かっていたので、僕はおそるおそると彼女に問いかけた。

「そんなの決まってるでしょ。良のシスコンを矯正するのよ」
 そう答えながら振り向いた霧子は、自信満面の笑顔を浮かべていた。
 いや、一体何が「決まっている」のか、僕には正直、訳が分からない。声には出さずとも、盛大な疑問符が僕の顔に浮かんでいたのか、霧子は軽く指を振りながら僕を諭すように語り出した。

「いい? せっかく綾ちゃんの方がブラコン脱出を試みても、兄の方がシスコンのままだと意味がないでしょう?」
「うーん、まあ、そうかな」
 綾ちゃんが本当に「ブラコン脱出」を目指しているのか、まだ判断は付きかねているけれど、それもでもはあ一般論としてはそうだろうと、僕は曖昧な表情のまま頷きを返す。

「じゃあ、良の友人であり、綾ちゃんの先輩である私としては協力しないわけにはいかないじゃない」
「なるほど」
 実に霧子らしい発想に、苦笑も忘れて僕は小さく拍手を送った。霧子が影で「姉御」と揶揄される理由が、こういった面倒見の良さだろう。さんざん僕や良を「お人好し」と揶揄する癖に、彼女も相当なお人好しなのだった。ある意味ではお節介とも言うけれど。

「いい考えでしょ?」
「まあ……確かに良も妹離れは必要かもね」
 他人が口を出すような問題じゃないかも知れない、と頭の片隅では思いつつ、それでも良が少しは綾ちゃんから距離を置いてくれるようになるなら、というのは僕にとっても魅力的だった。

「でも、矯正するってどうやって?」
 こういうと良は怒るのだろうけれど、彼は筋金入り……とまでは行かなくても重度のシスターコンプレックスだと思う。そう簡単に矯正できるものなら、とっくに出来ているのじゃないだろうか。
 そう疑問を呈すと、霧子も決定的なアイデアを持っては居ないのか、「うーん」と唸りながら首をひねり、しばらくしてから頷きと共にその答えを口にした。

「そうね。とりあえず、美術部に入れる」
「……」
 ……そう来たか。
 以前から、霧子は何度となく良を美術部に誘っている。まあ、本人が生徒会から逃げている関係上、あまり強くは言えないようだけど、本当に入って欲しそうにしているのは、傍から見ていて少し微笑ましい。
 でも、今度は「シスコン矯正」という大義名分がある。それなら再び良に勧誘をかけるいい口実になる、ということなんだろう。

「……駄目かな?」
 自分でもシスコン矯正への最適解である、という自信はないのか、黙り込んだ僕の顔を見る彼女の視線に僅かに不安が陰る。

「駄目だ、って断言するほどじゃないとは思うよ。でも、美術部に良を入れるの、随分こだわるね」
「だーって、あいつそこそこ絵心あるのにもったいないじゃない。帰宅部なんて青春時代の無駄遣いだと思うんだけどなー」
「……あの、僕も帰宅部なんですけど?」
「知ってる。それが何?」
「……いいけどさ、別に」
 諦観の息をつきながら、良と僕とで扱いが違うように成ってきたのはいつからだったかなあ、なんて軽い追憶を抱いて苦笑する。
 良を美術部に誘っていた理由。それが良の絵心に着目しての物だけじゃないって気付いていないのは、良と霧子、当の本人達ぐらいのものだろう。そして、今回のことにしてもおそらくはそうだろう。綺麗な善意で蓋をしてしまっているけれど、その根底にあるのは、きっととても単純な感情なんだろうって思う。
 
 でも、それを指摘することはせず、僕は軽く茶化すように彼女に笑いかけた。

「良が美術部に入ったら、僕も入ろうかな」
「えー」
「えー、って。そういう反応は流石にひどいと思う……」
 露骨に不満を返されて、流石にちょっと凹んだ声を漏らすと、冗談冗談、と笑って霧子は小さく舌を出す。

「冗談だってば。まあ、あんたが美術部に入ってくれると部員数倍増しそうだしね。でも覚悟はあるのよね?」
「か、覚悟……?」
 あまり穏便ではない単語に、少しひるみを見せると霧子は勢いよく頷いて、びしり、とその指先を僕に突きつける。

「勿論、芸術に身を捧げる覚悟よ!」
「み、身を捧げるって、その死にものぐるいで練習しろってこと?」
 そりゃ、デッサンとか基礎の基礎のことまるで分かっていないから、死にものぐるいで勉強しないといけないのかも知れないけれど。

「違うわよ。あんたはきっと文字通り身を捧げることになるの」
「どういうことさ……?」
「勿論、モデルとして」
「モデル……?」
「当然、全裸で」
「ぜ……っ?!」
「もしくはヌードで」
「ヌードって、同じじゃないかそれ!」
 一体、何を言い出すのか、と僕が驚きに目を開くと、霧子は両手を僕の肩において、諭すような視線で顔を覗き込んできた。

「大丈夫。恥ずかしいのは最初だけだから」
「き、霧子は経験あるの……?」
「あるわけ無いじゃない。そんなの恥ずかしいでしょ?」
「僕だって恥ずかしいよ!」
「だから、大丈夫だって。あんたには才能があるから」
「才能ってなんのさ!」
「さあ、全てをおねーさんに任せて服を脱いでごらん?」

「何を卑猥な話をしてるんだ、お前らは」
「あいた」
 いつの間に追いついたのか、良が呆れた表情で霧子の頭を小突いていた。叩かれた霧子は頭を抑えて、恨めしげな視線で良を睨んでいる。

「卑猥とは失礼ね。芸術への情熱を語っていただけじゃない」
「男に裸デッサンのモデルを迫るのが、お前にとっての情熱なのか」
「微妙に違うけど」
「全否定しろよ。頼むから。あと目をそらすな」
 霧子に突っ込みを入れる良は、いつもの面倒見のいい彼の表情に戻っている気がして、少し心が軽くなった気がした。やっぱり、友人には物憂げな表情をしていてほしくない。

「ほら、さっさと行くぞ。もうすぐ鐘が鳴りそうだ」
「はいはい」
「そうだね」
 良の声に率いられて、いつものように三人で歩く。

 いつものように。
 
「それが、不満なのかな。綾ちゃんは」
 良にも、霧子にも聞こえないように、そっと呟いて、僕はなんとなく生徒会室があるはずの方角に軽く視線を投げた。


3.放課後(神崎良)

 さて、今日は速水会の日である。

「はーい、順序よく並んでください! あーそこ、列を乱さない!」
 放課後の教室。先日の朝の光景と同じく、教壇の前に立つ龍也の前には、ずらりと人の列が出来ている。数にしておよそ……50人ぐらいか。同級生のみならず上級生に下級生、ちょっと根性のある中等部の学生までが龍也との魔力交換を求めて列を成していた。

「……今日もまた盛況だなあ」
「いつも思うんだけど、会費とったら絶対儲かるわよね」
「グッズ販売しても儲かりそうだよな」
 俺と霧子はそんな混雑を、いつものように教室の最後列から眺めてつつ、そんな雑談で時間をつぶしていた。

「はい、そこ割り込まない! あーっ、とあなた昨日の朝にも来ましたね? 駄目です、回数制限は守ってくださーい!」
 多少の混乱はあるものの、体外の人は腕章をつけた黒髪眼鏡の女の子のてきぱきとした声に従って、入れ替わり立ち替わり龍也と握手をしては、幸せそうに立ち去っていく。

「しかし、まあ……流石だよなあ」
 その様子を眺めながら、いつものようにため息が口をついた。いや、今回は、龍也の人気をやっかんでのぼやきではなく、その才能に対する感嘆のため息だった。

 長蛇の列を短時間でさばくため、龍也が一人にかける交換時間は平均30秒。会釈をし、握手をしてからほんの十数秒後には魔力交換は終わっている、という寸法だ。掌を起点としての魔力の接触、相手の魔力の解析と、魔力を送る経路の確保、そして魔力の送出と受容。魔力交換に必要ないくつかのステップをその短時間で行えるのは、龍也の魔力の扱いが突出しているが故になせる芸当だった。

 レンさんですら「嫌いな言葉だが、天才という奴だね」と嘯くほどに龍也の才能は高く、一人と魔力交換するだけで息切れするような俺みたいな凡人にはとうてい比較にならない。学生でこんな芸当ができるのは会長さんと龍也ぐらいじゃないかと言われている。

「ほんとにハーレム向きの才能よね」
 賞賛半分、呆れ半分、と言った面持ちで、教壇に視線を送る霧子の発言は、まさしく事実だろう。多分龍也ならハーレムを構成しても、あの小坂さんみたいに干からびずにやってけるのではないだろうか。

「まあ、あいつの場合はそういう性格じゃないけど」
「まあね」
 なにせあれだけの数の女の子から慕われていても、いまだ特定の誰かとつきあったことはないらしい。少なくとも俺たちが知り合った中等部の頃から、龍也が特定の彼女を作っていた、という事実はない。
 才能と性格は別。できることと、やりたいことは別、という奴だろうか。なかなか世の中上手く行かないものらしい。

「それより霧子」
「何?」
「何って、お前、部活行かなくていいのか?」
「行くけど待ってるのよ」
「龍也を?」
「ううん。良を」
 投げかけた問いに、しれっと答えながら霧子は俺にものすごい「いい笑顔」を向けた。その瞳に眩しいほどに光っているのは「私、何か企んでますっ!」という意思の光。そのあまりの眩しさ……というか露骨さに俺は思わず目をそらすが、霧子は、がし、と頭をつかんで俺の顔を自分の方に振り向かせる。

「いや、痛いんだけど」
「私、良を待ってるの」
「……何故に」
「……」
 再び目を逸らすが、そうはさせないとばかりに霧子は、がっしりと俺の顔を固定して放さない。逃がす気は毛頭無いらしい。それを悟って俺は溜息を殺して霧子に用件を問い正す。

「何の要件なんだ? まさか、また生徒会に用があるなんて言い出さないだろうな」
「そうじゃないわよ。って、そうだ」
 俺の問い掛けに答えた途端、霧子は何かを思い出したかのように呟くと、肩を掴んでいた手を放して俺の前に差し出した。

「良、手を出して」
「手?」
「昨日のお礼、まだだったから」
「……ああ、そう言えば」
 昨日、生徒会に付き合った礼に魔力をくれると言っていたっけ。帰りも綾が一緒だったから、ついつい忘れてしまっていた。

「もう疲れ抜けきってる?」
「大分。でも、くれるというのなら欲しい。というかくれ」
「了解。素直で宜しい」
 悪びれずに手を差し出すと、霧子はやれやれ、とでも言いたげに軽く苦笑しながら、でも何処か愉しそうに笑って、俺の手を取ってくれた。
 途端、掌に伝わるのは、少しひんやりとした霧子の手の感触。そして、瞬く間に掌の中心に生じる、魔力の揺らぎ。

「うっ」
「良は流さないでね? あとは受け入れて」
「……わかった」
 俺が魔力を受け取るのが下手、というのは霧子はよくわかってくれている。だから俺から流れ出す魔力量を最小限に閉ざして、かつ自分の魔力だけを効率よく俺の中に流し込んでくれる。
 ……本来、相互を補完するはずの行為をこうして一方通行にしてしまうのは、俺の未熟さが理由で。だから、申し訳ないって気持ちと、情けないって言う気持ちが疼く。でも、それ以上に、それを受け入れてくれる友人に、自然、心に暖かい物を感じてしまう。

「……どんな感じ?」
「ああ、うん。元気出た。ありがとな」
「変な気遣いはいらないの。良と違って、貰う当てならたくさんあるんだから」
 頭を下げる俺に、霧子はふふん、と威張るように胸を張る。そして再び、がっしりと俺の肩に手をかけた。

「よし。じゃあ、元気出たところで行こうか」
「…………何処に」
「勿論、美術部に」
「あのなあ……」
 せっかく胸中に芽生えた感謝の気持ちを台無しにする女だった。
 というか、なんだか今日の霧子は粘り強い。いつもは「嫌だよ」と冗談交じりに言えば、「しょうがないなあ」と揶揄するように引くはずなのに。霧子の態度に違和感を感じながら、俺はそれでもいつものごとく、美術部への苦手意識を口にした。

「だから、言ってるだろ? 美術部はトラウマなんだって」
 おきまりの言い訳の台詞。でも、その言葉にも霧子はいつものように諦める言葉を返さずに、じっと俺の眼を見つめて違う言葉を投げ掛ける。

「トラウマってさ」
「うん」
「克服するものだと私は思うのよね」
「俺は触れないようにするものだって思うぞ?」
「そんなことないわよ。そもそも、良にちょっかいだした食人画。アレを描いた部長さんなら無事に卒業したじゃない。もう恐れる物はないって」
「まあ、そうなんだろうけど……」
 確かに、永続的な魔力の付加は学生レベルでは、ほぼ不可能だ。だから描いた本人が卒業してしまえば……つまりその絵画に対する魔力供与を中止してしまえば、いわゆる「魔法の絵画」は「ただの水彩画」にその存在を変えてしまう。しまうのだが……。

「でも、あの人は特別じゃなかったっけ?」
 そう。この魔法院にあつまる人材の数は多く、その才能は多岐にわたる。ほとんどは俺みたいな平々凡々とした魔法使いの見習いだけど、中には常識を越える人もいるわけで。去年卒業したその部長さんは、「絵画」への魔力付与に関しては本当に天才だという噂は俺だって知っている。

「……ちっ、知っていたか」
 ……舌打ちしやがったな、この女。

「お前、その様子だと、あの絵、まだ動いてるんだろ!」
 肩を掴む霧子の手を払い除けながら、糾弾の声を突きつけると、霧子は少しばつが悪そうに目を逸らす。

「うーん、まあ、私は動いているところを見たことはないんだけど」
「無いんだけど?」
「時々、動いているっていう噂が……無きにしも非ずかな、と」
「…………噂って、どんな」
 聞かない方がいい気もしたが、今後の学生生活を安全に送るためにも聞いておこうと尋ねてみると、霧子は「あくまで噂よ?」と断った上で、こう言った。

「あの先輩の渾身の「食人戯画」は、自力で魔力を補給するために未だに夜な夜な獲物を求めて徘徊しているとか、なんとか」
「棄てろ! そんな怪奇作品は!」
 思わず叫んだ俺だったが、しかし、霧子はとんでも無いことを言うなとばかりに、目を開いて首を大きく横に振った。

「何言ってんのよ! 噂が本当だったら、魔法生物よ? 人工生命体なのよ?! 先端魔法企業も真っ青の完全自律型創生物(クリーチャー)よ?! 破棄なんて出来るわけ無いじゃない!」
「だったら、然るべき場所に引き取って貰えよ!」
「……う」
 当然すぎる俺の指摘に、やや冷静さを取り戻したのか、霧子は小さく呻くと声のトーンを落とし、しかし、それでもやっぱり首を横に振った。

「できないよ。そんなの……」
「なんで?」
「だって……誰も近づきたがらないし。というか、作成者の先輩自身も「喰われたら嫌だから」って、引き取り拒否してさっさと卒業しちゃったんだもん」
「燃やせ。そんな恐怖のクリーチャー」
 慄然とした想いに俺が背筋を寒くしていると、対する霧子は「まあ、それは置いておいて」と何事もなかったかのように表情を切り替えて、今度はがっしりと俺の掌を握りしめた。

「あの絵からは私がちゃんと守ってあげるからさ。ね? 美術部に入ろう?」
「……なんで、今日はそんなに粘るんだ?」
 強引な言葉に強引な態度。でも、その中に真摯な響きを感じ取って、俺は表情を少し改めた。
 いつもと違う霧子の態度。なら、そこにはいつもと違う何かの理由があるはずで。それが霧子を追い詰めている類の物なら、放ってはおけない。

「なんでって……そんなの、決まってるでしょ?」
「決まってる?」
「うん」
 頷きながら、霧子は真っ直ぐに俺の眼を見据える。少しだけ青みがかった瞳。いつもは快活な光に満ちたその眼を、ほんの僅かに揺らして、霧子は言った。

「だって……、綾ちゃんが生徒会はじめたから」
「……? それが、どうした?」
 綾が生徒会に入ったら、どうして俺が美術部に入ることになるのか。風が吹けば桶屋が儲かる、って位にちょっとつながりがわからない。
 思いっきり疑問符で答えを返すと、霧子は答えに迷うように、その目を少し目を泳がせた。

「だから、えーと……」
「うん」
「その、良、暇になるでしょ?」
「……あのな」
 俺はいつも放課後にアイツの相手で時間を潰してたわけじゃない。そう答えようとして、ふと声に詰まる。言われてみれば、放課後のかなりの時間を綾と過ごしてきた自覚はあるから。

「いや、……まあ、そうかもな」
「そうよねっ!」
「うお?!」
 不承不承と頷いた俺の手をつかみ取ると、勢い込んで霧子は俺の顔を覗き込むようにその顔を近づけた。

「……っ」
 いや、流石に顔が近いですよ、霧子さん……っ?! 突然の霧子の行為に、ついて行けずに俺の思考が暫し停止する。

「だから、美術部に入りなさい。入るよね? ほーら、入った」
「……って、いや、入ってないから!」
 瞬く間に既成事実を造り上げられそうになって、俺は慌てて我に返って首を横に振る。

「むー。なによ、往生際が悪いわね」
「往生際も何も、今日のお前強引すぎるぞ? ホントにどうしたんだ?」
 明らかにいつもと違うテンションに、俺は単刀直入に霧子に問いただすことにした。

「何か、美術部の中で困ってるのか? だったら協力するからちゃんと話をしてくれ」
「……」
「あまり他人に聞かせたくないことなら、場所変えるけど」
「…………だめ。それじゃ逆じゃない」
「……は?」
 いきなり憮然とした表情になって、霧子は机に頬杖を突いた。

「逆って何がだよ」
「だから、なんで良が私の心配をしてるのよ。今日の役割は逆なのに」
「……?」
 一体、霧子が何を言ってるのかさっぱりわからない。わからないまま、俺もまた霧子に合わせて頬杖を突く。

 役割は逆? 俺が霧子を心配すると……逆?
 拗ねたように……あるいはどこかバツが悪そうに視線を逸らす霧子の横顔を視界に入れながら、こいつの言葉を反芻する。そして、気付いた。

「あ、そうか」
「……なによ」
「いや……」
 素直に考えれば「俺が霧子を心配すると逆」なんだから、「霧子が俺を心配する」のが正解と言うことになる。要するに、俺のことを心配してくれていた、っていう事なのだろうか。
 
 『綾ちゃんが生徒会をはじめたらから―――』
 とは、ついさっき、霧子が零した言葉。ひょっとして、まさか、こいつは。

「……なあ、霧子」
「なによ」
「お前、俺のこと本気で重度のシスコンだと思ってるだろ」
「シスコンじゃない」
「お前なあ」
 まだ表情は憮然としたまま、でも、答える声には笑いを堪える響きが籠もっているような気がして、俺は内心で苦笑をかみ殺す。

 要するにこいつは「俺が綾に離れられて寂しいだろうから、美術部に誘ってくれている」のだろうか。
 そうだとしたら、なるほど、霧子らしいと思う。こういうお節介なところが、霧子の美点であり欠点でもあって……まあ、俺はそう言うところは嫌いじゃないわけだけど。

 それが当たっているかどうかはわからない。だけど、ようやく俺が、友人の意図に少しは気づき始めた時、ぴーっ、と短く鋭く鳴り響く笛の音が、考える時間は終わりだとばかりに勢いよく鳴り響いた。

「はーい。撤収ーっ! 撤収してくださーい」
 いつもの通り、腕章を付けた女の子が、テキパキと指示を出していくのを耳にして、

「じゃあ、行くか」
 と、俺は頬杖をつく霧子の頭に、軽く手刀を落とした。

「行くって、何処に?」
 その手刀を払い除けながら、霧子は笑いと、多分、期待の籠もった眼差しを俺に向ける。
 ……まあ、正直、気が進まないと言えば進まないんだけれど。お節介をやかれてそう悪い気はしていないから、まあ、いいかと頷いて決める。龍也もいっしょにつれていけば、危険も分散するだろうし。
 なんだか、いろいろと言い訳巻いた言葉がぐるぐると頭の中を何故かまわっているのを自覚しながら、俺は霧子の視線から目を逸らして席を立った。

「見学だけだからな」
 完全に霧子の思惑に流されるのは癪だとばかりに、やっぱりそんな言い訳めいた言葉を口にしながら。

 俺は、約一年ぶりに美術部の扉に足を向けることになったのだった。

続く

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